ケイケイの映画日記
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2007年09月29日(土) 「プラネット・テラー in  グラインドハウス」




今週木曜日に観てきました!↑のローズ・マッゴーワン嬢の雄姿を観た日から、ず〜〜〜〜と!心待ちにしていた作品なのだな(現在うちのパソコンの壁紙)。だって義足がマシンガンだよ?こんなビジュアルは、だいたい男性と相場は決まってたもんですが、これを美女にさせるとは、なんと素敵な。
なので、もう一丁おまけ↓




しかし観るのに苦労しました。なんばTOHOで上映と聞き、それならレディースデーでも楽勝だなと思っていましたが、何と1時代から3時代までが上映してない。平日は門限が夕方5時前後という小学生並のワタクシ(本業は飯炊き女)、仕方なくネットで安いチケットを落札して休みに行くか、梅田のナビオTOHOに行くしかないなぁと思っておったのですね。

しかしここで問題が勃発。最近84歳の姑さんの体調が不調に。まぁ今すぐどうのこうのではないのですが、私も結婚して25年、実母も早く亡くなり、私や息子たちが母やおばあちゃんと呼べるのは、姑さんだけなのですね。なのでこう言う時はきちんとお世話したいわけ。だから今は隙あらば観るという状態なのです。オークションは落札まで時間がかかるので、チケットはチケット屋で1500円でゲット、勇んでなんばTOHOの初回に間に合うべく、朝10時に劇場のカウンターに出向いたところ、「『プラネット・テラー』は、木曜日だけ初回はやっておりません」。はぁ?はい?そんなことどこに書いてあったん?これ以外、ここで観たい映画なんかないのだ。

渋々買い物でもして帰ろうかと思ったんですが、でも一枚1500円のチケットって、これどうするべ?一本単価800円ちょいの私からしたら、これはもうプラチナチケットでしょう?う〜ん・・・。はたと文明の利器・携帯でナビオでの上映時間を検索するのを思いついた私。そしたら11時半からだって!あぁ〜ん、三年ぶりに機種変して良かった!ナビオのカウンターで「プラネット・テラー」と言ったら、「はい、11時半からの上映でよろしいですね?」のお姉さんの声を聞いた瞬間、どわわわわわんと、一気に力が抜けました。しかし同時に、これでしょうもなかったらどうしよう?という不安も胸に渦巻きまくり。でも上映開始直後から、その不安はどこかに飛んでいってしまいました。しかしこんないい嫁の私が(自分で言うか?)、こんなおバカ映画を観るために血眼になっているなんて姑さんが知ったら、私の株が下がるかしらん?

テキサスの田舎町。得体の知れないものに次々感染していく街の人々は、みんなゾンビになって行きます。まだ感染していない、ゴーゴーダンサーのチェリー(ローズ・マッゴーワン)、元彼でいわくありげなレイ(フレディ・ロドリゲス)、保安官(マイケル・ビーン)とその兄のJT(ジェフ・フェイヒー)、医師のダコタ(マーリー・シェルトン)やその他の人々は、無事に街を脱出出来るのでしょうか?

のっけから科学者と軍人ブルース・ウィリスの攻防で、怪しさ満開。その後まだ足が両方あった時の、チェリーの素敵なゴーゴーダンスを楽しんで、ゾンビが出てくるまで、ひとしきり登場人物たちをサクサク紹介してくれて、テンポがいいです。ここまでのユーモアやお下劣さは、軽いジャブを出したくらいです。

ゾンビ登場からはフル回転で、内蔵ドバドバ、能天破裂、銃撃戦で血まみれなど、スクリーンはぐっちょぐっちょ。その間にブラウンへアのチェリー&ブロンドのダコタの正統派美女から、ラテンの陽気な美女のお色気もふんだんに出てくるしで、一見ハチャメチャに見えて、この手のお話のセオリーはきちんと踏んでいるところなど、監督のロバート・ロドリゲスは、かなり手堅く、観客がこの手の作品に期待するものを披露してくれます。

私はロドリゲスがハリウッドで認められた「エル・マリアッチ」も観ています。彼の作品は全てにおいて、バイオレンスが炸裂する中のユーモアの間合いや、緊張走る場面の妙な脱力感に独特の個性があり、何と言うか、日本のラテン・大阪人の私には、非常にチャーミングに感じるのですね。これはラテン繋がりか?ファミリー向けの「スパイ・キッズ」シリーズもヒットさせているし、結構器用な人でもあると思います。

出演者は女性陣の奮闘が光ります。マッゴーワンは、劇中タランティーノに「エヴァ・ガードナーに似ている」と言われますが(ちょっと藤あや子にも似ている)、このクラシックな美貌が意外と片足マシンガンにはまるのだなぁ。ゴーゴーーシーン、ひょこひょこ義足(マシンガンの前はただの木の棒)で頑張って歩いたり、レイプしようとする奴をぶっ飛ばしたり、可憐で切ない女心の涙を流したり、ムーディなエッチシーンも見せた後での片足のヒロインのマシンガンぶりは、最高にクールでした。私は一生この人を贔屓にしたいと思います。

ちょっとへザー・グラハムに似たマーリー・シェルトンもなかなか健闘していました。(↓)アイメイクが崩れて、目の周りも真黒にしながらも、キュートでお色気のあるところが、最大限に生かされていたと思います。手首の骨折した時の演技が楽しく、コメディも向いているかも。



男性陣もみんな良かったですけどね、私はこの作品の前にフェイクの予告編「マチェーテ」の主演の、ロドリゲスの従兄・ダニー・トレホが一番カッコ良かったです。久し振りに観るマイケル・ビーンは、年齢からするとちょっと老けてたかなぁ。ブルース・グリーンウッドと同年代だと思うのですが、私の中では割とこの二人は被るのです。現在はグリーンウッドに先を越されていますが、こういうB級作品で活路を見出せば、案外もっと年齢が行ってから再評価されるような気がしました。

すごーくすごーくすごーく楽しかったし上出来だけど、期待値以上かと言えばそうでもないかな?満足感は充分あったけど、とてつもなく面白かった、観たこともない映画だった、というのではありません。おめーなんか、早く死んじまえ!という人間はちゃんと死に、この人は死んだらホロっとくるぞ、と思う人はその通りに。エロ・グロ・バイオレンス・ユーモアに、わかりやすい軽いドラマも取りこんでおり、その辺も「グラインハウス」のコンセプトなんでしょうね。ガハガハすごく喜んで観ましたが、一番印象に残ったのは、肩の力を抜いて作った、ロドリゲスの監督としての技量でした。


2007年09月26日(水) 「酔いどれ詩人になるまえに」




チャールズ・ブコウスキーが主人公チナスキーに自分を投影して書いた、自伝的小説「勝手に生きろ!」が原作です。恥ずかしながらブコウウスキー作品は何も読んだことがないので、この作品を観る前に何か読もうと古本屋に立ち寄りましたが、ブコウスキー作はなし。出来れば「町で一番の美女」が読みたかったのですが。代わりに目についた中村うさぎの本を買ったのですが、これが面白くて数冊読むほどはまってしまいました。何やらこの作品の試写会では「日本の最後の無頼派作家」として、うさぎ氏が招かれたらしく、縁があったのかな?中村うさぎは破滅の道を行く自分自身の分析がしっかりと出来た、かなり聡明な人で(わかっちゃいるけど止められない、というところも人間臭くていい)、やはり共通項があるのか、彼女の作品を読んだおかげで、普通は通り過ぎるような箇所に新鮮な発見があり、この無頼なろくでもない男を、最高に好きになってしまいました。

自称詩人・作家のヘンリー・チナスキー(マット・ディロン)。生活のために仕事は見つけるのですが、せっかく就いた仕事なのに無断欠勤したり、途中で呑んだくれたりして、すぐクビに。そんな時知り合った、同じような飲んだくれ女のジャン(リリ・テイラー)と意気投合したヘンリーは、すぐに彼女のアパートに転がり込みます。職を転々としながら、酒・女・煙草を手放さず、そして時々ギャンブルのチナスキーなのですが、書くことだけは辞めませんでした。

そのしまりのない体は不節制のせいなのですが、見方を変えれば少々のたくましさもあり。今度の仕事は続きそうだと思うと、やっぱり酒が祟り失職。「チナスキー君、クビだ」。この言葉が、何度劇中出てきたことか。しかしチナスキーは、誰が認めていなくても、詩人であり作家なのです。何故なら自分で決めたから。決めたからには毎日書くことだけは続けます。

その姿は自堕落すぎるし、「カポーティ」のような、書くことへの狂気でも熱意でもありません。孤高なんてとんでもない。あるのはいつか世間を認めさせてやるという気概と、「自称詩人」としての意地なのです。これがだらしないチナスキーを、一種清々しくさえ見せるのです。その意地が人としてのチナスキーの崖っぷちのプライドなのだと思いました。とは言え、立派な身なりの本当の作家に会うと途端に弱気になり、競馬で儲けた金で、スーツをオーダーして見てくれだけ「作家」にするのですが、これも一歩間違えば卑屈で屈折した描写になるのでしょうが、この作品ではチナスキーのペーソスたっぷりの愛嬌として描いています。

マット・ディロンがもう最高!普通はただのぐうたら男にしか見えないはずのチナスキーを、熱演ではなく飄々と演じて素晴らしいです。この不精髭で汚ならしい男の、束縛されない内面の自由自在さを、余裕綽々で演じていました。

まさに腐れ縁という言葉がぴったりのチナスキーとジャン。二人とも好きものであるとは感じますが、酒には溺れてもセックスには溺れているようには見えません。求めてはいるのですが、そこには肉欲はなく、「愛」という言葉を使うけど、まるで分身を求めているようなのです。この二人はとっても「肌が合う」のでしょうね。「肌が合う」というのは、単に上級の体の快感を得る相手だというより、セックスした後に、共に満足感を感じる相手なんじゃないでしょうか?それは肉体的なものだけではなく、心も暖められる相手のはずです。刹那的な明日の見えにくい生き方をしている、それも若くもない二人だからこそ、セックスに心の拠り所を求めていたと思います。二人とも何人もの異性が人生を通り過ぎていったはず。山ほど相手の欠点も知っているはずなのに、これが理屈ではない、男と女なんだなぁと感じます。

ディロンも素晴らしいですが、ジャンを演じるリリ・テイラーがまたもう素晴らしい。彼女はメジャーからインディーズ作品まで幅広く出演していますが、光り輝くのは断然インディーズ作品の方。決して美人ではなく若くもない彼女が、この作品では何と愛らしいことか。ろくろく家事もせず、身なりは年も考えず常にノーブラのタンクトップ姿でミニスカート、考えることはセックスと飲むことだけ。どこから見てもロークラスの女なのですが、決して下品ではないのです。チナスキーが迎えに来た時の幼女のような無心で純粋な笑顔、チナスキーに日銭が入るのを宛てにして、彼女なりに精一杯お洒落する様子など、女の私でも可愛いと思うのですから、男性ならイチコロでしょう。

お金がなく無人の車から煙草を失敬して、嬉しそうにふかす二人。本当にバカなんですが、女としては、覚ありたいなぁとも思うのです。惚れた男が泥棒したのを咎めるのは、チナスキーみたいな男の女としては、失格ですよね。だって男は自分で変わりたいと思ってないんですから。もう一つ好きだったシーンは、ハイヒールが痛くて足を投げ出すジャンに、チナスキーが自分の履いていた靴を脱ぎ履かせ、自分は裸足で並んで歩くシーンです。私はこんな優しい男を観たことがありません。

下品に見えないのはチナスキーもいっしょ。ディロンのなりきった役作りと監督ベント・ハーメルのチナスキーへの愛もあるでしょうが、演出でそこかしこ工夫していました。まず家が古くても片付いている。普通ああいう人の家は、足の踏み場もないほど汚いはずです。チナスキーもジャンも、酒や煙草には際限がありませんが、決してドラッグには手を出しません。ジャンもチナスキーと上手くいかない時、人肌恋しくて他の男と寝ますが、体を売るわけではありません。車から煙草を失敬しても、お金には手を出さない。そういうギリギリのところで尊厳を守っているので、二日酔いの朝、二人で代わる代わるトイレで吐いても、ユーモラスに思えるのです。

チナスキーの両親が出てきますが、厳格な父、優しい母です。こんなろくでなしで理解不能な息子に育つなど、実直な彼らの人生の汚点かも。しかしこんなしっかりした親を持つからこそ、息子は安心して破天荒に、「勝手に生きて」これたのだと思います。久しぶりに顔を見せる放蕩息子に、何も言わず笑顔で手料理をふるまうお母さんが、印象的でした。この母あっては、息子は警察沙汰は起こせませんよね

そして何より飲んだくれている時のチナスキーは、本当にまったりと幸せそうなのだなぁ。私は全くお酒が飲めず、いつも宴会ではつまらないのですが、この作品を観て、やっぱりこれは人生の痛恨の極みかもと感じました。
愛すべきろくでなし男を、シニカルやクールにではなく、悪臭ではない人間臭さを散りばめながら、暖かいユーモアとペーソスを滲ませて描いた秀作でした。私は大好きな作品です。これがブコウスキーの世界なら、絶対何か読まなくちゃ。マリサ・トメイもすっかり老けちゃったけど、とってもいい味で出演しています。


2007年09月22日(土) 「オフサイド・ガールズ」




予告編がガーリーではない、お転婆な若い女の子の可愛らしさとユーモアがいっぱいで、これは楽しそうと思いましたが、見込み通り素朴で爽やかな良質の作品でした。

2005年のイランのテヘラン。来年のワールドカップの出場を賭けて、今まさに決勝戦が行われようとしています。国をあげて興奮する中、男装の女の子が一人。イランでは女性がスタジアムに入ることは許されず、そこかしこで警備の軍人が見張っています。スタジアムで一緒に応援したい少女たちの、あの手この手の奮闘が描かれます。

初め女性がスタジアムに入れないのは、男尊女卑の思想からくるものかと思っていました。しかしバスで可愛い男装の少女を見つけた男性は、「見逃してやれ」と言い、兵士たちはスタジアムで口汚い言葉で応援する男性たちから、女性を守るためと言います。なるほど、私はいささか誤解していた模様。女人禁制は、手荒い男性たちから女性を保護するという意味合いもあるようです。そう言えば全身をクルドで包むのも、男性をいたずらに刺激せず身を守るためというのも読んだ記憶が。確かに尼僧姿よりも、格段に色気ないっすよね。

次々男装がばれて一カ所に集められる少女たち。どこから見ても可愛いい女の子にしか見えない子から、劇中一番のイケメンに見える少女までが数人。そこは箸が転んでも笑うような年代です。高圧的な兵士たちを、次々困らせる姿がユーモラスで、本当に和やかに笑わせます。

この兵士たちにしても、元は田舎の純朴な男性です。トイレに行きたがる少女のため(男性用しかないのです)、必死でトイレの中に他の男性を入れないようにする兵隊さんは、まるでその子のお兄さんのようです。自分を困らせる少女たちなのにと、この男性らしい女性を守るナイトぶりに、私はちょっぴり感激しました。

自分の娘を連れ戻しに一人の父親が登場します。捕まった中には娘の友人が。「お前たちは大学で何を勉強しているんだ!」と怒る姿が印象的です。一生懸命働いて、娘の将来のためにお金を捻出している身としては、娘たちのはねっかえりぶりは怒り心頭ですよね。

でも「学ぶ」ということは、そういうことではないでしょうか?知識・教養を深め、見識が広がると、今自分の暮らしている環境の、様々な矛盾を感じるのだと思います。世の中に何故がいっぱい謎がいっぱいの彼女たち。男装でスタジアムに侵入も、抵抗の表れでしょう。

男子用トイレでもいいから使いたいと言ったり、自分も兵士になりたいと言う少女たちに、純朴で協議に忠実な兵士は、「テヘランの少女は悪魔に魂を売ったのか!」と嘆きます。いえいえ、悪魔に魂を売ったのではなく、自我自立の芽生えなのですよ。保護されるだけでは、息苦しさを覚え始めているのでしょう。私はそこに、若さと未来を感じるのです。

ラストにちょっと蛇足的な箇所がありますが、全体を会話とシチュエーションだけで十分楽しませてくれ、尚且つ少々虐げられているというイメージのあるイラン女性は案外強くて、少女たちに翻弄される兵士を描くことで、伝統的なイラン男性の男らしさと優しさも浮かび上がらせる、お見事な作品でした。これからイランもどんどん変貌していくのでしょうね。少女たちよ、大志を抱け!


2007年09月17日(月) 「スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」




全編英語で日本語字幕、時代劇をミックスした和風ウェスタンを描き、巷では賛否両論のこの作品、早速観てきました。私は普通に楽しめました。まぁ諸々疑問の箇所はあるでしょうけど、それは感受性と言うか感覚と言うか、そういうもんの相異だと思います。某評論家ががめちゃめちゃ貶しているそうですが、私は結構好きな作品です。

壇ノ浦の戦いから数百年。平氏の末裔たちが集落を作った村「湯田」では、村民たちが平穏に暮らしていました。しかし村にまつわる埋蔵金を目当てに、平清盛(佐藤浩市)率いる平家軍(赤)と、源義経(伊勢谷夕介)率いる源氏軍(白)が、村民を巻き込み対立を激化させている時、一人のスゴ腕ガンマン(伊藤英明)が現れます。

冒頭タランティーノが出てきて、ちょこっとお芝居してくれるんですが、私的には、つかみはOKなノリでした。香取慎吾も出てくるんですが、変にロン毛の金髪が似合い、ムードはビリー・ドラコみたいで、お芝居は下手でしたが、怪しいムードがあってちょっと見直しました。

さて本編の方なんですが、対立する二方の様子を、ユーモアもふんだんに交えてバイオレンスタッチで描いています。今回血しぶきは控えめかな?三池崇史監督のユーモアというのは、笑えない人は多いみたいなんですが、私はだいぶくすくす笑えて楽しかったです。ストーリー的には別に大して面白みがあるわけではなく、演出を楽しむ作品だと思います。なので合わない人は退屈だとは思いました。

主役は一応伊藤英明なんでしょうが、↑以外にも、桃井かおり、香川照之、石橋貴明、安藤政信、木村佳乃、松重豊、堺雅人、小栗旬、塩見三省など、いずれ劣らぬ芸達者が、熱演・好演・怪演を見せてくれ、これが一番見どころでしょうか?

平家・源氏をはじめ、保安官の香川も含め、いずれも鬼畜・外道の集まりなんですが、みんなみんなキャラが立っていて、描き分けがきちんとできているところがいいです。ずるくて小心、チキンなハートと、一見キャラが被っている清盛佐藤と保安官香川も全然違う人。二人ともおふざけが過ぎるぎりぎりで寸止め、さすが腕のある役者は安心して観ていられます。



そんな中同じ下道でも、冷酷にしてひたすらカッコイイ伊勢谷夕介。刀も銃もかっこよく扱い、泥まみれで汚い顔した演技陣の中、彼だけずーっと美しいまま。この「特別扱い」の期待に応えた、抜群の存在感でした。ほんと、すんごくカッコいいのよ!今年の大河(今年のは近年では出色の出来だと思う)でガクトが上杉謙信を演じているんですが、出てくる度そこだけ画面がCGのようになり、表情もセリフ回しも超一本調子で、何故伊勢谷夕介をキャスティングしなかったのかと?と、毎回思うのですが、今回の義経役を観て、改めて同じことを思いました。

桃井かおりも、ジーナ・ローランズかと思うカッコ良さ。こういうカッコイイ婆さんの役は、夏木マリが演じることが多いですが、ちょっと走る姿がドタドタするものの、颯爽とした熟年女性を観る機会は映画では滅多にないので、私的には大満足でした。

木村佳乃も黒いガーター姿を披露したり、泥まみれになってレイプシーンを演じたりと大熱演。女優さんが一皮むけるには、ヌードのなるのが多いですが、今回あれだけの芸達者たちが好き勝手楽しんで演じている中、脱いでも印象に残らず脱ぎ損だと思うし、あれくらいで止めておいた方が、静(役名)の情念がより濃く残ると思うので、私は良かったと思います。充分エロかったしね。

お陰でそれなりにソツなく演じていた、主役のはずの伊藤英明が一番印象薄いという結果に。彼は誠実な好青年役が似合う人なので、もっと陰りがあったり凶暴だったり、個性の強烈な人が演じた方が似合ったかも。彼が悪くはなかっただけに、残念でした。

途中で趣が変わり、ストーリー的には更に弱くなります。でもこじつけというほどでもありません。こういうふざけたノリの作品で二時間はちょっと長いので、20分ほど削っては欲しかったんですが、観た後ちょっと珍妙だけど、あぁ面白かった!というくらいにの出来ではあります。


2007年09月14日(金) 「座頭市物語」(布施ラインシネマ ワンコインセレクション)

二ヶ月に渡り楽しませてもらった、我がラインシネマ・ワンコインセレクションの大ラス作品です。座頭市シリーズは、私が子供の頃も全盛でしたが、幼い女子がこんな人相の悪い、小汚い男性を好むはずはなく、もちろん無視しておりました。当時私が萌えていたのは、「0011ナポレオン・ソロ」のイリヤこと金髪碧眼のデヴィッド・マッカラムでして、乙女未満の少女としては、誠に正しい選択でございました。

きちんと観たのは、勝新が監督した最後の「座頭市」くらいでした。それが数年前、一作くらい観てみようと、九条のシネ・ヌーヴォの勝新特集で「血笑旅」を観て、あまりの楽しさに驚愕!笑いあり涙あり、そして豪快な殺陣ありで市さんに惚れてしまったわけですが、この初作、そういうエンタメ的派手さは控えめで、ぐっとヒューマンな作りになっています。

座頭市(勝新太郎)は、盲目の侠客。飯岡助五郎の元にわらじを脱ぐことになった市は、対立する笹川繁蔵の用心棒・平手造酒(天地茂)と知り合い、交流を深めていきます。

まずオープニングで狭い橋を渡る市の様子を、少しユーモラスながら盲目であると印象付けます。壺ふり賭博の場面では、まんまと目の見える三下やくざたちをひっかけて、金をせしめるのですが、この時やくざたちの卑怯さを罵ります。盲目である市は、「めくら」と言われるのは平気なのですが、「めくらのくせに」や「めくらごとき」など、盲目であることで見下されるのや、そのことに付け込む卑怯さを憎んでいます。、それが一貫して作品の中で主張され、私には座頭市=特別なスゴ腕の剣客というすり込みがあり、盲目と言うのは個性だと認識していたのですが、この作品では意外なほど障害者である点に力点が置かれており、障害者だけではなく、社会的弱者にも通じる視点で市が描かれています。

表面では市を持ち上げながら、彼の腕を大道芸くらいに思ったり、出入りで利用したい飯岡の親分。盲目と言う当時では想像以上のハンデを背負った市は、ズル賢く腹黒い親分を相手に、その上を行く狡猾さで立ち回り、舌を巻きます。市の度量と頭の良さを印象付ます。

平手との交流が静かに深まる描き方が秀逸。按摩の腕を磨いて検校という高い位を目指さす、ドスの使いが命のやくざものになった市と、深酒が祟り、剣豪であるのに、今は浪々の身でやくざの用心棒になり果てた平手は、世間的には半端ものでしょう。しかし二人の会話や様子から、人品卑しからぬ風情が漂います。この魅力的な二人の交流に時間を割いているのが、作品の格を上げているように思いました。

美しく気丈なおたね(万理昌代)と市の仄かな恋も素敵。月夜の道連れは、上手くセットを使って演出しており、ロマンチックでした。おたねはやくざ者の兄、夫を持ち、両方に愛想を尽かしています。金に困らなくても人の倫理をはずれたやくざより、盲目の誇り高い市を愛するおたねを描くことは、作り手の、そのまま弱者への暖かい視線のように感じます。

チャンバラ部分は思いの外少なく、派手なやくざ同志の出入り場面が一か所ありますが、それくらいです。市は居合い抜きのようなものを一か所、平手との対決が一か所と、ちょっと拍子抜けでした。バッタバッタ相手を斬りまくる市は、どうもその後シリーズが進むにつれて造形されたようです。

勝新太郎ももちろん素敵だったんですが、私は「血笑旅」以降の、愛嬌があり小太りの彼の方が色っぽく好みかな?今回は相変わらずニヒルながら、哀愁を漂わせた天地茂の方が素敵でした。

私の「座頭市」のイメージを覆すシリーズ初作でした。人さまより相当たくさん映画を観ていますが、知らないことはまだまだあるんだと知った次第。これからも精進しなくっちゃ。


2007年09月11日(火) 「人が人を愛することのどうしようもなさ」




昨日千日前国際シネマで観てきました。この作品は石井隆監督久々の「土屋名美」ものということで、興味が湧いていました。が、主演が喜多嶋舞ということで、少々二の足を踏んでいました。どうも女優としてもタレントとしても中途半端で、美少女タレントのなれの果てという思いを抱いていたからです。大竹しのぶや余貴美子が演じた役を彼女では、少々荷が重いと思ったからです。しかしこの喜多嶋舞が予想を覆す大熱演で、裸はおろか、心や内臓までさらけだそうかというほどの勢いで、大変感心しました。430席と、古いけど老舗劇場は平日2時だというのに、彼女のエロ見たさの(多分)男性客で、驚くなかれ6割ほど埋まっていました。女性なんて20人もいたかなぁ?しかしこの作品は、卑猥なシーンが満載なのに、まぎれもない女性向け映画だと私は思います。

元アイドルで人気女優の土屋名美(喜多嶋)。夫で15歳年上の俳優洋介(永島敏行)は、順風満帆な妻とは反対にキャリアはジリ貧で、若い女優(美景)と浮気し、夫婦は破局寸前。そんな二人は、実生活を彷彿させるような内容の「レフトアローン」という作品で、共演しています。浮気相手の若い女優までがその作品に出演し、立ちゆかぬ夫婦の間柄にストレスを感じた名美は、しだいに神経を病んで行きます。そんな彼女が自分を解放しようとした行動は、街角に立って客を引く娼婦となることでした。

お話は葛城(竹中直人)という記者が、名美に「レフトアローン」についてインタビューするという形式で進んでいきます。

冒頭幸せだった夫婦の営みが出てくる以外は、セックスシーンはあらん限りの痴態が繰り広げられます。映画の半分は名美は裸でしょうか?どんなに男の精を貪り尽くしても満足出来ない名美。それは愛する人から与えられたものではなかったからです。

その狂態は最初大変卑猥で、その後気分が悪くなるほどグロテスクです。髪を振り乱し、唇から真っ赤なルージュがはみ出し、アイメイクが流れて、一筋黒いアイラインが頬に流れる名美の顔は、まるでピエロのよう。しかし愛する人に愛されない、その名美の心を受け止めると、グロテスクの奥の壮絶な哀しみに心が揺さぶられます。

名美の愛する人は夫です。それも結婚10年、今はやさぐれて不甲斐無い、浮気相手の女を夫婦のベッドに引きずり込み、その姿をビデオで撮ってやるせなさを発散させるような、げすな男です。しかしこんな夫の愛を乞いたいという、女として真っ当でシンプルな、そしてこみ上げるような切なさが直球で胸に沁み込むと、いくら股間を広げようが、狂態をさらそうが、私は名美が淫売には見えません。これが不倫相手と言うなら、私はこんなに名美に感情移入出来なかったと思います。

この夫婦が何故不仲になったかは、語られません。役者として格差が出てきたことが原因と匂わせますが、そんなことはどうでもいいのでしょう。要はこんな男でも、名美が愛して愛してやまないということが大切なのだと思います。こういう人を愛する女、男はいるでしょう。お金をむしられ、暴力を振るわれ、口でも罵倒され。そんな相手とは付き合うなと忠告されても、やっぱり好きだ。やがて人からは謗られ馬鹿だと言われても、愛する事がやめられない。そんな「どうしようもなさ」が、「愛する」と言う感情なんだと思います。私はそんな人たちを馬鹿だと思わない。私がそんな経験がないのは、そういう人を好きになったことがない、ただそれだけなんだと思います。愛と言う感情は、計算ずくなものでは決してないはずです。

「キサラギ」で、ユースケ扮するマネージャーが、「ミキを愛していたんだ」と吐露する場面で、ジーンとした方は多いでしょう。名美のマネージャー岡野(津田寛治)もまた、名美を「どうしようもなく」愛していました。それも見返りの一切ない、無償の愛で。

冒頭のインタビューで、新しい時代の女性像を語る名美は、その話と裏腹に、古典的な男に守られ愛される自分を追いかけて迷路に入ってしまいます。彼女が迷路から抜け出せなかったのは、女優だったから。彼女は芯からの女優だったのだと、虚実ない交ぜの姿の中に滲ませます。辞めてしまえば別の人生があったろうに。女優だったが故に、迷路に入った彼女を岡部は救い出せず、いっしょに迷路でもがくことになったのかも知れません。

アイドル時代の自分を観て、名美が当時の振付をして狂ったように歌い踊るシーンがあるのですが、居た堪れない心地になります。アイドル時代の若き日に、夫の愛が欲しくて路頭を彷徨い、抱かれる男を探す自分を、彼女は想像したことはないでしょう。頑張って芸能界で花開き大衆に愛されながらも、一番愛して欲しい人は、彼女を素通りしていくのです。

「花蛇」の杉本彩の体当たり演技には感心したものの、作品の内容が薄くあまり印象に残っていません。それに勝る芝居を見せた喜多嶋舞。彼女の量感のあるバストは、子供に乳を含ませた人のそれだと、画面に出る度私は感じました。離婚し子どもは夫の元の置いてきたという彼女。どういう経緯かはわかりませんが、売れっ子というほどではなくても、彼女くらい仕事をこなしていれば、子どもは育てられたと思います。この役は、家に帰れば子供のいる環境では、絶対無理な作品です。子供を手放しその痛みに耐えて、このような大熱演を見せる彼女は、まさに女優の本懐を遂げた心地なのではないでしょうか?

彼女の母内藤洋子は、「私は主婦が天職だ」という家庭的な人だと聞きます。離婚し子供を手放し、このような役を演じる娘には、さぞ複雑な気持ちでしょう。しかし輝くばかりの頃に引退した母といつも比較される娘は、さぞ辛かったのではないでしょうか?どうぞ女優の先輩として母として、この娘を見守って欲しいと思います。

それは監督だって同じこと。杉本彩や喜多嶋舞が「丸裸」になったのは、監督が「石井隆」だったから。この監督ならば、決して世間は自分の事を「裸女優」とは呼ばないと、全幅の信頼を寄せていたからだと思います。そんな彼女たちの監督を「愛する」心に応えるような作品を作り続けて欲しいと、同じ女性の映画ファンとして、節に望みます。

この作品を観て、あの東電OLや桐野夏生の「グロテスク」の和江を思い起こした人も多いと思います。私は女として名美のような飢餓感は持ったことがありません。思えば夫が私を粗略に扱ったとしても、この人は心の底では私を愛しているのだという自負がありました。それは私の勘違いだったとしても、夫にはそう妻に感じさせるだけのものがありました。よくも私のような租雑な女をと思うと、夫には本当に感謝したい気持ちになります。何故なら女性ならみんな、名美に陥る可能性があると思うからです。


2007年09月07日(金) 「荒野の七人」(布施ラインシネマ ワンコインセレクション)




御存じ黒澤明の「七人の侍」のリメイクにして、傑作西部劇。もちろんテレビ放送時に観ていますが、子供の時なので全然覚えておりません。忙しくて時間が取れるかヒヤヒヤだったんですが、本当に観て良かったです。ユル・ブリンナーとイーライ・ウォラック以外、当時はまだ駆け出しだったはずですが、本当にすごいキャスティングです。再現しようにも、絶対無理。だってキャストほとんど死んでるし(←意味違う)。娯楽映画はこうでなくっちゃ!というお手本のような作品でした。なお元作「七人の侍」も全然覚えておりません。そのため今回比較は出来ませんので、あしからず。

メキシコのとある村。農民たちは毎年収穫時になると、カブレラ(イーライ・ウォラック)を首領とする盗賊一味に、収穫物や女性を貢物として差し出さねばならないことに、業を煮やしていました。村の長老に相談すると、「戦え」と言われる農民たち。武器も策もない彼らは、取りあえず銃を調達しに町に出かけます。そこでクリス(ユル・ブリンナー)という一匹狼に出会います。彼に用心棒になってくれと頼む農民たち。もっと数が必要だというクリスは、後6人(スティーブ・マックィーン、ブラッド・デクスター、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ボーン、ホルスト・ブッフホルツ)を集めます。

超ーーーーーーカッコイイ!!!!!
エルマー・バーンスタインのお馴染みの音楽が聞こえはじめるや、一気に心は西部劇。ブリンナーたちが初めて登場する棺を運ぶシーンからして、佇まいだけで格の違う男っぷりなのです。七人のうち、リーダー格のブリンナーが当時40代後半だった以外は、キャストはほとんどが30前後。ちょうど青年から大人の男性に移行する感じでしょうか?この男としての強さ、包容力、華やかさ、、ガンさばき、そして意地とプライド。どれをとっても「ザ・大人の男」の世界なのですね。あの名優だけど美男とは聞いたことがないチャールズ・ブロンソンだって、若い時はこんなに男前だったのか!と唖然とするほど。そう、みんなハンサムと言う感じじゃない、「男前」なんです。

農民とガンマン、成熟した大人(ブリンナー)と若造(ブッフホルツ)、老人(長老)と働き盛り、大人(ブロンソン)と子供、男と女、親と子。臆病な農民を嫌い勇敢なガンマンになりたい若造のチコに、他のガンマンたちが聞かせるアウトローの厳しさと孤独。ブロンソンが子供たちに言い聞かせる親の尊さ。女性のもてなしに安息を覚える男性。くっきりと対比してあります。あぁそうだった、私の子供の頃には差別もあったけど、それぞれきちんとボーダーがあり、必要な上下関係、住み分けがあったのだと思い出しました。今はそういうボーダーがなくなりつつあり、対等という言葉を得た代わりに、失ったものも多いなぁと感じます。

正直言うと、前半のテンポの良さから考えると、後半は脚本の弱さも感じます。その最もたるのが、捕まえた七人に銃を返すカブレラでしょう。しかし演じるウォラックの好演があり、憎々しいけど憎み切れない隙や愛嬌を残すカブレラですから、「武士の情け」も納得だし、まさか同じ穴の狢だと思っていた彼らが、男のプライドを賭けて一銭にもならない仕事に、命を賭けるとは思わなかったのでしょう。と好意的に解釈出来る、したくなる力が、この作品にはありました。これって娯楽作(特に大作)には、とっても大事なことだと思います。

ラストの銃撃戦は、昨今至近戦を描く戦争映画が流行っているので、そんなに刺激的ではありませんが、とにかくかっこいいです。ブリンナーはガンさばきが下手くそらしいのですが、もちろん若輩者のワタクシ、そんなことは一切わからず萌えてしまいました。でもやっぱ一番かっこよかったのはマックィーンかな?でも憂いを浮かべるボーンも捨てがたく、飄々としたコバーンも捨てがたく。やっぱり貫禄のブリンナーかしらん?おほほほほほ。こういう大人の男の渋さがわかるのにはね、やっぱり女もそれなりに年を取らにゃー。更年期なんか怖くない!とか思っちゃう。デクスターとブリンナーのラストの会話なんか、若年男子では、あの深みは出せませんことよ。

そう言えば最近、お若い男性は「次に生まれるとしたら、男女どちらがいい?」という質問に、「女!」と答えるパーセントが多いのだとか。私が若い頃は考えられなかったことです。確かに今は女性の社会進出で、伝統的な生き方、新しい生き方が両方認められ選択肢の広がった女性に比べ、男性は古典的な生き方考え方を押しつけられ、生き辛いのでしょうね。しかしこの作品を見よ。ここでは男の美学というものが溢れ、どんなに世の中が変わっても、女性には決して立ち入れない境界があるのだなぁと教えてくれます。
場内は平日のモーニングということでオールドファンばっかりでしたが、若い世代の人にも是非観て欲しい作品だなと、改めて感じました。


2007年09月05日(水) 「ショートバス」




刺激的なシーン満載の作品ですが、セックスを通して描いている内容は、普遍的な人と人との繋がりや孤独、そして愛でした。監督はゲイをカミングアウトしているジョン・キャメロン・ミッチェル。ちょっと疑問に思う箇所もありますが、悩みを抱える善良なる、だけどちょっと変わった人々を、わかるわ〜と愛しく思える作品です。

ここはニューヨーク。ジェイムズ(ポール・ドーソン)とジェイミー(P・J・デボーイ)のゲイのカップルは、最近心がすれ違い気味。そこでカップルカウンセラーのソフィア(スックイン・リー)の元を二人で訪れます。しかしひょんなことからソフィアは、夫とのセックスでオーガズムを迎えたことがないと、彼らに吐露します。そんなソフィアに彼らが教えてくれた「ショートバス」というアンダーグランウンドのサロンは、様々な嗜好をもつ人々が、愛を求めてセックスに身を委ねるところでした。そこにはジェイムズたちに憧れる美青年セスや、SMの女王を生業とするセヴェリンもいました。

冒頭かなり長く全裸やセックスシーンが出てきます。R18指定作品であっても、普通のミニシアターに上映する作品ということで、刺激的と表現しましたが、45歳夫も子もありという私には、さほどすごいとは思いませんでした。アクロバットのようなジェイムズの自慰シーンも、だいぶ以前、体が柔らかく自分でフェラ出来るという男性の話を読んだことがあるのですが、(注・エロ雑誌にはあらず。真面目な男性向け雑誌)「とってもコンビニエントですが、あまり楽しくはありません」という、そりゃそうだろうという感想を読んでいたので、さほどはびっくりしませんでした。しかし彼がその様子をビデオに撮ったり、行為の後に流す涙に、私は変態チックなものより、もの哀しい感情を抱きます。その他ソフィア夫婦やその後繰り広げられるセックスシーンは、全ていわゆる本番らしいのですが、淫蕩だったり倒錯的だったりする雰囲気は皆無で、官能的でもありません。

お話はオーガズムを求めて試行錯誤を繰り返すソフィア、本当の気持ちをジェイミーに打ち明けられないジェームズを軸に話は進められますが、ゲイである自分を、隠居後やっとカミングアウト出来た老人、お金のための女王様なんか、もういやだ!という心優しきセヴェリン、ジェイムズとジェイミーのカップルが好きで好きで堪らない、やはりゲイの青年カレブの心情など、みんなまとめて抱きしめてあげたくなるような、切なさがいっぱいです。人には恥ずかしくて、または偏見の目が怖くて言えないようなことも、ここではみんな言えるのです。ショートバスの中では、文字通り「裸になる」ので、心もいっしょに解放されて、本当の自分の気持ちを打ち明けられるのでしょうね。

私が特に印象に残ったのはジェームズです。セヴェリンとの会話で感じたのですが、繊細で哀しげな雰囲気を漂わせる彼は、田舎町でゲイであるということで、ずっと後ろ指をさされて傷ついていたのでしょう。彼が売春をしていたのは、お金のためではなく相手を探したかったからだと思います。ジェイミーの愛が重いと言いうジェームズ。重すぎて皮膚まで浸透しない。物凄くわかるなぁ。ジェイミーはずっと父性というか母性というか、保護者みたいだったもん。長年ジェイミーと暮らしながら、体は許していないと語る彼。これが私にはわからなかったのですが、よく女郎が体は売ってもキスはしないと言いますが、それと間逆の意味だったのかと想像しました。底辺から引き揚げてもらった感謝する愛ではなく、本当に対等に愛していると確信を持ってから、ジェイミーに抱かれたかったのかと思いました。この辺は男女間なら、ソフィアのオーガズム以上の問題だと思います。

ただ苦言を呈せば、男×男のセックスシーンの方が際立って美しいのは何故?イケメン男子三人の3Pシーンも、ユーモラスな感じこそあれ、嫌悪感はありません。なのに男女間の方や、ソフィアの自慰シーンなど滑稽で少々グロテスクです。「エマニエル夫人」のようなファンタジックなエロシーンは、ふりつけありで美しく撮っているもので、本来のセックスなんて、やっている方は楽しいけど、観ている方はこんなもんだと思うのです。私には想像でしかありませんが、男同士だって滑稽でグロテスクなもんじゃないんでしょうか?

ソフィアのヒモ夫だって、無職で嫁に食わせてもらっていながら、セックスで絶頂感も与えられないとあっちゃ、もっと自分の男としての存在価値の無さに悶々となり、卑屈になるもんじゃないかと思います。ちょっと悩んでいますどころの騒ぎじゃないと思うけど。

ソフィアの焦る気持ちは充分同情出来るよう作ってありますが、彼女がどんどんブスになっていくのはいかがなものか。それとソフィアの場合は夫だからオーガズムを感じないのではなく、今まで一度もオーガズムを感じていないと言うのが問題の争点なわけです。その辺の描き方が曖昧な気がします。ちょろっと厳しかった両親を匂わして、彼女の精神的な背景は終わりというのでは、バイブや大人のおもちゃを本当に挿入してまでソフィアを熱演していたリーが気の毒な気がしました。ゲイの男性陣が、一を描けば十わかる的を射た演出だったのに比べたら、ちょっと物足りません。これは監督の特性を考えたら仕方ないんでしょうか?

とは言え、ノーマルな性から少々外れた人々を、暖かく包み込むその様子に、最後はジーンときて涙まで流した私でした。考えてみればセックスは一人では出来ないもの。一人ぼっちではない自分を確認するのは、人としてとても大切なことなのだと、セックスシーンではなく服を着た彼らから教えてもらいました。誰彼なしに勧められる作品ではありませんが、テーマは決してキワモノでもイロモノでもありませんので、ご安心を。


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