ケイケイの映画日記
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2007年07月29日(日) 「私たちの幸せな時間」



韓国のベストセラー小説をあの蓮池薫さんが翻訳、その映画化作品だと、だいぶ前に聞き、是非観たいと興味を引いた作品です。公開間近になり、監督は私の大好きな「パイラン」「力道山」のソン・ヘソンと知りました。細かいところで出したカードの説明がなかったり、映画的策儀が過ぎたりと、作り込み不足のところがあって、もうちょっとで傑作だったのになぁと残念ですが、これでも充分深々と感動させてもらいました。監督との相性は大切だぁ。

裕福な家庭に育ったユジョン(イ・ナヨン)は、つい最近人生で三回目の自殺未遂をしています。かつては成功した歌手でもあるユジョン。そんな彼女を心配する伯母のシスター・モニカ(ユン・ヨジョン)は、ユジョンを彼女に会いたいというある死刑囚の慰問に連れて行きます。その死刑囚ユンス(カン・ドンウォン)は、強盗殺人で三人を殺害していました。最初最悪の対面であった二人ですが、成り行きで毎週木曜日ユジョンのユンスへの慰問が始まります。

死刑囚と交流を深めていく女性が題材というと、「デッドマン・ウォーキング」が連想されますが、あちらも素晴らしい作品でしたが、テーマは死刑制度の是非を問うものでした。この作品も確かに死刑制度についても考えさせられますが、それ以上に人を支えるということ、愛を与えるということの意味や意義を感じさせる作品です。

最初頑なに早く死刑をと望み、シスターモニカやイ主任(カン・シニル)の善意も受け入れないユンス。乱暴者でふてぶてしく観えた彼が、殺した遺族に罵倒され涙を流し謝る姿は、いやに素直に謝るなぁとも思えましたが、何かその奥に理由があるのだと感じさせ、生来のワルではないユンスの人柄を垣間見せます。これ以降母親に反抗し続けるユジョンの姿や、何故彼女が何度も自殺しようとするのか、ユンスが何故ユジョンに会いたかったのか、謎が明らかにされていきます。。その説明の挿入の仕方やタイミングが的確で、素直に心を揺さぶります。

シスターモニカは、二人は似ていると言います。誰にも打ち明けられない辛い秘密を持ち、孤独と孤立を噛みしめる日々を送る二人。経済的には大変な落差を持つ二人の苦悩は、人生の苦さはお金だけでは解消されないとも、控えめに教えてくれます。

ユンスの心を理解出来るようになったユジョンは、彼の信頼を得たいため、人生で一番哀しく屈辱的な出来事を、ユンスに告白します。このエピソードは大変心を打たれます。心に傷を持つ人を癒すには、やはり腹を割り自分の傷を告白することではないかと思うのです。心を裸にした時、人は必ずその相手を受け入れるはずです。お互い違う苦しさですが、壮絶な傷は人生を絶望するのに充分で、二人は急速に接近します。

こうして毎週木曜日の10時から1時まで、「私たちの幸せな時間」が繰り返され、段々人間らしい豊かな感情を取り戻すユンス。塀の外に行けないユンスのため、代わりに彼の行きたい場所の写真を撮り、毎回見せるユジョン。それまでのささくれだった彼女からは想像も出来ない生き生きした表情は、ユンスを思う心が、いつしか彼女の心を癒しているのだと感じさせます。

娘の反抗に手を焼くユジョンの母は、娘に見合いを勧めます。「女は愛されて暮らすのが幸せよ」と言いますが、そうでしょうか?愛されることを望むのは、相手に求めることです。ユジョンは愛されたかった母に愛されず自殺未遂を繰り返しました。愛するということは、心や時間を相手に与えることだと、私は思います。愛されることに裏切られたユジョンを救ったのは、自分と似ているユンスの心を救いたいという「愛する」行為にあったはずです。愛すると言う感情は、自分を裏切りません。私も愛されるより愛する方が幸せだと思います。

この作品には「赦す」という言葉も重要なキーワードです。二人の人が喉の奥が焼けつくような気持ちを振り絞りながら、心の底から憎い相手に「赦す」と伝えます。「赦す」という言葉は相手のためではなく、自分を慰める癒す言葉なのだと感じるのです。

「この作品の刑法上の表現は、フィクションです」と、エンディングに出てきますが、死刑囚が独房ではなく雑居房にいたり、囚人たちのあまりのいい人ぶりには、ちょっと疑問が残ります。ユンスの彼女も、あれからどうしちゃったの?刑務所の中で、やすりを使ったのがばれたのに、何故怒られないのか?ユジョンの母の扱いも、あれではただのモンスターめいた、娘を支配するだけの人に観えます。もう少しこの母の背景を語り、母親への作り手の弁護があれば、ユジョンの変貌がもっと感動的になり、作品にぐ〜んと深みが増したと思うので、残念です。

カン・ドンウォンは初めて観ました。青春スターのイメージしかなかったのですが、なかなかの好演で良かったです。案外任侠ものなんかも似合うかも。イ・ナヨンは、ちょっとキツメの美貌の持ち主で、ユジョンの複雑な心の変遷を、こちらも好演でした。「恋愛睡眠のすすめ」でも感じましたが、主役の相性はとても大切です。

シスターモニカの、「私は伝道に来たのではないの。宗教なんかわからなくてもいいの。あなたが安らいだ心にさえなれば」という言葉が、とても印象的です。教義に振り回されず、相手のためをまず第一に考える立派なシスターに巡り合えたのも、それもユンスの運命だったのでしょうね。「安らかに逝く」、ということの意味を深く考えさせられました。


2007年07月27日(金) 「レッスン!」



きゃー、素敵〜!素晴らしい!
最初は愛しのバンちゃん(アントニオ・バンデラス)がダンス教師役として主演ということで、ダンディなバンちゃんさえ観られたら、それで満足しようと思っていました。だがしかし!内容も青春モノとして爽やかで、すんごく楽しめました。少々説明不足の感もありますが、今回珍しくエレガントで知的なバンちゃんに免じて、全て許す!

ニューヨークのスラム街のとある高校。生徒の更生にやっきになっている校長(アルフレ・ウッダート)の元に、ダンス教師にピエール・デュレイン(アントニオ・バンデラス)が訪れます。社交ダンスを通じて、彼らの更生に役立ちたいとの申し入れに、札付きの生徒ばかりを集めた居残り組の監督を、誰もしたがらないことから、彼らを教えてくれるなら、との条件で、校長はデュレインを受け入れます。

とにかく練習を含めて数々のダンスシーンが素晴らしい!社交ダンスというと、上流社会での社交界がまず頭に浮かび、優雅なワルツを思い起こす方も多いと思います。自己流のヒップホップダンスに夢中の彼らは、それは上手にリズミカルに踊り、相入れるものは何もないと拒否します。しかし情熱的なタンゴやサルサも立派な社交ダンス。デュレインと彼の教室のモーガン(カティア・ヴァーシラス)の、アダルトなそして優雅で情熱的なタンゴを見せられ、社交ダンスへの彼らの評価が一変します。ちょっと札付きにしては素直過ぎるけど、元々彼らは踊りが大好き。見たこともなかった世界に飛び込みたい気持は、充分に伝わります。それほど二人のタンゴは、素人の私には絶品に見えました。

大会までの素人の生徒たちの道のりも、山あり谷ありですが、予定調和でどうなるのかな?のスリルはありません。しかし数々のエピソードは盛り上げるのには充分でした。そして大会でのダンスは圧巻!ラストに生徒が魅せるタンゴは見たこともないもので、本当に終わってしまうのが残念だったほど。曲も誰もが知っている「ラ・クンパルシータ」だったのが、大衆目線で生徒たちに合っていました。

社交ダンスとは男性がリードするものだとばかり思っていましたが、デュレインによれば、「男性は提案するのみ。それを受け入れるかどうかは、女性次第。決して男性の下に女性を置くものではない」そう。うんうん、なかなかフェムニズムですな。そして自分を信じパートナーを信頼し、お互い敬意を払うのが、上手く踊る秘訣だとか。礼節を重んじ自分の尊厳を守り、相手に敬意を払える子は、悪い道には走らないときっぱり言い切るデュレイン。まるで日本の武道のような社交ダンスの理念に、そんなことは「シャル・ウィ・ダンス」も教えてくれなかったわ、と素直に感心しました。

デュレインが彼らを指導したいと思ったきっかけは、居残り組のロック(ルブ・ブラウン)の野蛮な行為を見たからでしょう。それくらいの事では、ちょいとこの子たちにのめり込み過ぎでは?と、感じてしまいます。ピエール・デュレインは実は実在の人物で、かのブラック・プールでも4度優勝したというお方。実際に小学校で社交ダンスを教えて、生徒たちの情操教育に役立てている人です。この作品は実在の人物にインスパイアされて生まれたフィクションなのですが、なまじ本当の名前を借りてしまったため、映画的にいくらでも膨らませて描けたはずの、デュレインの背景について説明不足になり、「社交ダンスは私の命」だけで生徒たちへの無償の愛情を表わすのは、ちょっと辛い気がします。

それを補うのが、バンデラスです。実際のデュレインはアイルランド系とフランス系の混血です。映画のデュレインはスペイン系とフランス系の混血。五ヶ国語は話せるが全てスペイン訛り。生徒たちは白人・黒人・アジア系。そしてヒスパニッシュ。ヒスパニッシュの言語はスペイン語です。バンデラスのエレガントな紳士だけど、上流のエリートとは一味違う温かみは、目標になる大人が周りにいない彼らには、格好のお手本です。「成りたい自分になれるかも?」と、夢や希望を持ち難い、今の境遇から脱したい気持ちにさせたのだと思います。

この子たちは、本当は今のままじゃダメなんだと思っています。素直に居残り組に残っているのは、それが卒業の条件だから。ほとんどの子は万引きやかっぱらいくらいで、そんなにひどいか?と思う子ばかりですが、本当に更生し難い子たちは、とっくに学校を辞めているんでしょうね。なので簡単にデュレインの手練手管にはまってしまう可愛さも、納得でした。監督のリズ・フリードランダーは、女性らしい細やかな表現で、デュレインに負けず劣らず子供たちを愛して撮っていて、とても好感が持てました。

ハイティーンが主役なので、あちこち恋いのさや当てがあります。格差恋あり、甘酸っぱい恋あり、三角関係あり、ロミオとジュリエット、いやトニーとマリア(「ウェストサイド物語」)かな?の恋あり。そのどれもが微笑ましくみずみずしいです。こういうのを観ると、やっぱり若いっていいなぁ。

今回バンちゃんは情熱の全てはダンスに捧げているので、フェロモンは画像のタンゴシーンのみで、他は封印。ラテンの名残を優雅に女性をエスコートする場面に残し、若い生徒たちを引き立てる受けの演技です。まぁバンちゃんたら、頭も良かったのね!(←監督と脚本のおかげ)でも本来のバンデラスの魅力は、こういう誠実で真面目な一面を持つ人だと、観る人に感じさせるところだと思うんです、私は。だからマドンナとか、現嫁のメラニー・グリフィスとかダリル・ハンナとか、百戦錬磨の女優たちがモーションかけるのよね。きちんと仕事をこなし、一見派手だが根は真面目で家庭的、おまけにエッチも強そうなんて、夫としては申し分なしではございませんか。

校長は、「この子たちは明日の糧を得るのに精いっぱいなのよ。ダンスを教えても何にもならないわ」と、当初語ります。黒人で女性でもある校長の、それは生きていきた哲学かも知れません。しかし母親は自宅で売春、その隣で幼い弟たちの面倒を看るといういう、劣悪な環境にいるラレッタ(ヤヤ・ダコスタ)が、屈辱的な行為に傷ついて、それを癒しに来た場所は、ダンスのレッスンをする居残り部屋でした。そこで無心に踊り平静な心を取り戻そうとするラレッタ。人はパンのみでは干からびてしまうのですね。どんな環境でも、心を潤わすバラは必要なのです。

情操を養うのが大切なのは、大人もいっしょ。劇場には、もしかしたら社交ダンスを習っていらっしゃるのでしょうか、年配のご婦人がいっぱい。鑑賞後くちぐちに、「本当に観て良かったわね」と仰る姿は、生徒たちと同じくらい輝いていました。この作品を観て良かったと言える感受性を、私も死ぬまで持ち続けていられたら嬉しいです。


2007年07月25日(水) 「ハリウッドランド」

観たのは「不死鳥の騎士団」の前の、先週の木曜日でした。それなりに名の売れた人たちの出演ですが、地味な実力派が多いキャスティングのせいか、ひっそりと公開中です。ハリウッドの内幕ものとして、秀逸とまでは行きませんが、サスペンスタッチでなかなか面白く観ました。

1959年、テレビの「スーパーマン」で主役を演じていたジョージ・リーブス(ベン・アフレックス)が、ハリウッドの自宅で自殺します。息子の自殺を信じられない彼の母は、私立探偵のシモ(エイドリアン・ブロディ)に、捜査を依頼します。シモの捜査が進むにつれ、「スーパーマン」という当たり役に恵まれた故の、ジョージの苦悩が浮かび上がります。

ジョージは自殺なのか、婚約者に殺されたのか、不倫相手トニー(ダイアン・レイン)の夫(ボブ・ホスキンス)に殺されたのか?その時々のシモの心境の変化とともに、真相も藪の中へひた走ります。

私はクラーク・ケントに抜擢されたジョージは、さぞ喜色満面だったろうと想像していたのですが、彼はいやだったんですね。今でこそ仮面ライダー出身のオダギリジョーや、戦隊モノのイケメンヒーローがもてはやされていますが、子供だましのドラマの主役は、当時では本格派俳優への道を断たれたに近かったのでしょう。彼の焦燥とは裏腹に、子供たちから人気絶大になるにつれ、ますます葛藤が深まる様子が丁寧に描かれています。「スーパーマン」ショーの舞台裏で飲んだくれている様子など、情けなく不甲斐無いのですが、ジョージの気持もわかるのです。皆さん仰っていますが、演じるのがキャリアがジリ貧のアフレックスなんで、妙にジョージに同情してしまうのです。

シモだけが架空の人物でしょう。うらぶれた、でもちょっと女心もくすぐるシモを、ブロディが好演。妻子と別居し、妻には男の影も見え、愛人には心から寄り添うことはないシモ。そんな自分の境遇を、段々ジョージの苦悩に重ねて行く姿を丁寧に描き込んでいて、この辺が作品に深みを与えています。この人、鼻が高すぎて横顔になると気持ちが萎えるのですが、今回はそんなこともなく、胡散臭いけど根は善人の私立探偵の雰囲気をよく出して、すごく魅力的でした。フィリップ・マーローなんか似合うかもなぁ。

年上の愛人役のダイアン・レインが皺々でびっくり!彼女はまだ40そこそこですから、あの皺はメイクかな?「運命の女」でも、間男の浮気相手をぼこぼこにしていましたが、今回も似たような嫉妬を燃やします。演じる年齢は、「華麗なる恋の舞台で」でのジュリアと同じくらいでしょうが、堂々と若いツバメに一泡吹かせるジュリアと違い、セレブでも素人の女性のトニーの、年齢からくる遠慮やひがみなどを表しているようでした。

ジョージが自分の全財産を、自分に関係する女たちの中で一番お金持ちだろトニーに譲るのが印象的。食いものとまではいかないでしょうが、ジョージの母も、息子が有名になって金の生る木だと思っていると、ジョージには思えたのでしょう。婚約者はもちろん。少しでもショービズの世界で成功すると、こういう孤独が待ち受けているのですね。この辺も印象的でした。

善良なジョージのマネージャーは、身の丈に合った自分で満足すれば良かったのだと、と語ります。でもそれではハリウッドで役者をする意味がないと私は思います。彼の死は、こうやって映画にもなり、ある種伝説なったのが皮肉です。50年代のハリウッドの裏側を、雰囲気満点で描いている作品です。こんなのを観ると、現代の人は精神的にタフになったのだなぁと思います。それとも鈍感になったんでしょうか?


2007年07月22日(日) 「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」(吹き替え版)




日本全国夏休みに突入、お母様方におかれましては、地獄の42日の始まりですね(今年は2日多いぞ。知ってた?)。うちも末っ子が中三でして、クラブ活動のラグビーは秋まで引退はなく、塾は6万5千円も払って夏期講習があり(多分元は取れず)、母の私も仕事の他に洗濯女・飯炊き女としてフル回転ですじゃ。なので映画も普段より綿密に予定を立てないと、落してばっかりになります。金曜日は後輩の試合の応援に出かけた息子、帰宅は7時半というので、夕食の支度をして4時15分からの吹き替え版でしたが観てきました。初作から5作目、三人ともすっかりティーンエイジャーでしょ?今回子供らしい可愛さは大幅に減って、成長した三人に相応しい少し苦く大人っぽい内容でした。

ボグワーツ魔法学校の五年生に進級したハリー(ダニエル・ラドクリフ)。復活したヴォルデモート卿(レイフ・ファインズ)の差し向けた敵から身を守るため、人間の前で魔法を使ってしまったハリーは、退学の危機に陥ります。ダンブルドア校長(マイケル・ガンボン)の弁護により事なきを終え、晴れてロン(ルパート・グリント)やハーマイオニー(エマ・ワトソン)と共にボグワーツに戻って来ました。しかしヴォルデモート卿の復活を恐れるあまり、復活を証言するダンブルドアが魔法省を乗っ取るつもりだと信じている長官は、監視役として腹心のアンブリッジ(イメルダ・スタウントン)を教師として送り込みます。ボグワーツを乗っ取ろうとするアンブリッジは、闘うための魔法を教えてはくれません。ヴォルデモートの復活を危惧するハリーたちは、有志の生徒を集めて「ダンブルドア軍団」を作ります。

三作目からは息子とは別々に観ていて、三作目と四作目は字幕でしたが、今回は久しぶりの吹き替えでした。「ハリポタ」は吹き替えの方が案外しっくりくるなぁと感じたのは意外でした。

今回は大人たちと命がけで闘うハリーたちが全面に押し出ていますので、今までの校内での大会のような、ファンタジックな魔法はあまり出てきません。今までになく存在感のある、ロンの双子のお兄ちゃんが見せてくれる魔法くらいかな?設定では15歳になったので、私はこれも彼らの大人への段階と取りましたが、子供向けとして鑑賞すると、少し殺伐としているかもわかりません。

魔法界に置いては特別の存在のハリー。その立場ゆえの孤独が今回くっきり浮かび上がります。辛いダースリー家での生活も、仲間との楽しいボグワーツでの生活が支えであった彼ですが、今回はどこにも居場所のないハリーの苦悩が描かれて、現実の思春期の子供たちを見ているようです。

しかしそれを救うのは、やはりロンやハーマイオニーたちの友情です。ハリーが自分が一人ぼっちではないと感じるようになるまでの、ロンやハーマイオニーのアプローチは大人さながらの粘り強さ。くちゲンカもせず時には見守り、時には説教。ほんと、大きくなったよねぇ。遊びで徒党を組むのではなく、正義のために自分たち自ら行動を起こすというのも、成長した証しです。




もう一人新たな登場人物のルーナ(イヴァナ・リンチ)(↑)が、ハリーの心をほぐすのを助けます。ただの不思議ちゃんではない彼女の思慮深さは、早くに母を亡くし、人の死を目の当たりにした辛さを糧に生きているからだと思います。子供たちにそういう正しい感情や教えを導くのは、やはり大人の仕事だとしっかり認識させてくれるのが、今回の作品の特徴でもあります。

ハリーを守ろうと、あえて彼に冷たくするダンブルドアしかり。子供たちの危機に、身を呈して守ろうとするムーディ先生を始めとする教師たち。親友だったハリーの父ジェームズに代わり、父のように接しハリーを支えるシリウス(ゲイリー・オールドマン)。両親のいないハリーに家庭の愛情を教えたいロンの両親など、ハリーが孤独を感じる時も、観客には彼は決して一人ではないのだとわかります。敵ではなく、子供に信じてもらえるのが正しい大人、そんな思いが湧きました。

今回は何とハリーとチョウ(ケイティ・リューイング)のキスシーンもあり。それをロンとハーマイオニーに報告する姿は、何となく昔の日活や東宝の青春モノのようで微笑ましいです。ずっとチョウが泣いていたというハリーに、「ハリーのキスが下手だからじゃないの?」というロンに対し、「バカね。チョウはまだセドリックが死んだのが悲しいのよ。それなのにハリーを好きになるのは悪いと思っているからよ」と、切ない女心を解説するハーマイオニー。う〜ん、お見事!他には小ぶりでぽちゃぽちゃしていて、ちょっと愚鈍な雰囲気だったネビルが、すんごく背が高くなって大人っぽく成長していたのも嬉しかったです。

英国演技派大集合のこのシリーズ、新たに加わったのはイメルダ・スタウントンとヘレナ・ボナム・カーターで、二人とも超敵役です。スタウントンは存在感たっぷりの名演技ですが、演じるアンブリッジと言う人は、徐々にモンスターめいて見えなくてはいけないと思うのですが、その辺がちょっと物足りなかったように感じました。彼女の演技ではなく、演出のせいと言う気がします。まぁ原作は膨大ですから、この辺は難しかったかも。ヘレナは問題なし。少ない場面でしたが印象的でした。

ラストにダンブルドアの大立ち回りがあるのですが、これはなかなかの見せ物でした。ちょっと「指輪シリーズ」の、イアン・マッケランみたいでしたが、白髪のロンゲと髭のせいかな?でも校長先生はあれくらいの技がなくては!現実の校長先生方は魔法が使えませんが、教師としての技量は学校随一であって欲しいと、今回のダンブルドアを観て思いました。

華やかさやファンタジックさを求めて観た方には、少々物足らない作品だったと思います。そういった面白みには欠けるでしょう。しかし私のように、このシリーズが大好きで観ている、特に大人の人には、感慨深い思いが色々湧いてくる作品でした。正直いうと、私はファンタジーものはあんまり好きではありません。息子が観たいというので、いっしょに観ただけの作品も多いですが、このシリーズだけは別。私は本当にこの子たち三人が大好きです。多分ロンのママのような気持ちなのでしょう。あと二作残っていますが、先頃完結された原作では、主要人物が亡くなっているとか。どんな悲しく寂しい最後でも、しっかり見守りたいと思っています。


2007年07月18日(水) 「ダーウィンの悪夢」(布施ラインシネマ・ワンコインセレクション)

ロードショーで見逃した作品でしたが、布施ラインシネマのワンコインフェスティバルで観ることが出来ました(会員は無料だぜい!)。結構周りの評判もよく期待していましたが、私の思っていたような内容ではなく、上滑りにしか持っていない私のアフリカへの知識を、上滑りに見せてくれただけ、と言う感じでイマイチした。こんな感想を書いたら、また辛辣って言われるかなぁ〜。

タンザニアのヴィクトリア湖。この巨大湖はかつて「ダーウィンの箱庭」と呼ばれ、様々な生物が生息していました。しかし約半世紀前、この湖に肉食のナイルバーチという魚が放たれてから、状況は一変。他の魚を食いつぶすナイルバーチのため、生態系は破壊され、湖はナイルバーチだらけになります。ナイルバーチが白身で食用に適していたため、EU諸国や日本への一大輸出産業が生まれます。湖畔付近の人々も、輸出産業に携われた人とそうでない人との間に、貧困・売春・暴力・ストリート・チルドレンなど、生活の格差が広がっていきます。果ては武器密輸の噂やエイズの蔓延も。

まず何が肩透かしだったかというと、私は生態系が破壊されるのがどんなに恐ろしいか、環境保護を訴えるのが一番の目的の作品だと、ずーと思っていたのですね。ナイルバーチのせいで、水質を良好に保つために活躍してくれた魚や藻などが全滅となり、近年のヴィクトリア湖は、水質が著しく低下して、濁って何も見えないそうです。しかしこの説明は本当にチョロっと。数字で説明してくるわけでもなく、ただただナイルバーチの繁殖のせいで、押し通します。その割には「誰かによって放たれた」そうなんですが、その誰かって、とても重要なことだと思うのですが、これも最後まで「誰か」。「誰か」が欧米諸国の人間で、現在の様相を予見していた上でなら、それはとっても問題だと思うんですが。

この作品の真意は、湖畔で生活する人々の悲惨な状況を訴えることにありました。衛生に気を配った工場で加工された切り身は、欧米諸国や日本へ。不衛生に放り出されたウジ虫の湧く粗や頭は、そのまま干して油で揚げたものがタンザニアの人々の食卓に上るのです。切り身は値段が高く、現地の人では口に出来ないのです。江戸時代にお百姓さんが白米を口に出来なかったのを連想する私。

他にも貧困からストリートチルドレンになった子供たちが、加工工場から拾い上げてきた発砲スチロール(かな?)の箱を燃やし、ドラッグのように吸う様子、炊きあげたほんの一握りの食物を奪いあい喧嘩する様子など、子供持ちには、観ていて辛い衝撃的な場面が続きます。

ただどうも、ドキュメンタリーとして、作りが散漫なのです。子供たちを紹介する仲介役の青年は、今は働いて自立していると言いますが、その脱出の糸口を語ってくれるわけでありません。いかに悲惨かという点に力点を置いて映しているだけで、だたそれだけ。監督フーベルト・ザウバーの思いはわかりません。それは観客に考えて欲しいという風には見えません。

この作品の描いていることは、全て本当だと思います。しかし視点が少し偏っているように感じるのです。虚実ない交ぜではなく、「『やらせ』ない交ぜ」に私は感じるとことが多々ありました。例えばこの画像のおじさん。↓




加工工場の夜警さんなんですが、夜に褐色の肌・白目の赤い目は不気味で、語り口も小々芝居がかり怪しさ満点。地獄の道先案内風で、新東宝の「地獄」での、沼田耀一を思わすと言えばお分かり頂けるでしょうか?このおじさんは、「この貧しさから逃れるため、若い者は戦争を望んでいる」と語ります。これだけ聞けばズシンとお腹にきますが、語るのはおじさんだけ。ドキュメントなら、他の人の声も拾わなきゃ。「フランドル」でも、何も無い田舎での生活に飽き飽きした若者が、戦争に刺激を求めますが、「フランドル」はフィクションで、テーマは暴力と性についての観念を描き少し哲学的なものです。対してこの作品はノンフィクションです。このおじさんは脚本付きの映画だったら、助演賞ものの印象深さなんですが、ちょっと素人には見えませんでした。

他にも欧米からナイルバーチを運ぶためやってくるパイロットたちに売春している若い女性が出てきてインタビューに答えますが、ここも自然な感じには受けませんでした。彼女はそののち客のオーストラリア人に殺されたと、同僚の娼婦たちから語られます。本当か?ならどうして「弔いに行った」と語る女性がいるのに、その様子を映さないのか?本当ならドキュメントとして詰めが甘いし、やらせなら演出が雑です。加工工場の社長は現地の人と顔つきが違い、中東の人にように見えました。私の感じる通りなら、掘り下げることはたくさんあると思います。

他にも何やら怪しげなものを嗅ぎながら煙草を吸う、年端の行かない子どもを映すのですが、それも悲惨さを煽るだけ。だから監督はどうしたいの?観客はどうすればいいの?かなり監督の意図の入った演出の割にはアフリカの悲惨な状況が垣間見えるだけで(それも以前から知っている)、その先の明確な作り手の意図は伝わってはきません。

テレビのドキュメントで、世界中の学校に行けない子どもたちを定期的に映す番組があります。ある子は5歳でカカオ取り、ある子は10歳で鉱山で穴掘り。もちろん学校へは行けません。幼いので母の喜ぶ顔が見たい一心というのが本当のところなんでしょうが、番組は彼らが自分の手で稼いだ金で家族を養っているという、子どもなりの誇りと自負を認めています。あるストリートチルドレンの少女は13歳で出産。翌年も父親の違う子を産みます。この状況で絶望する気持ちを必死で抑え、「今まで家族がなかったんだもの。私はもう一人じゃないわ。私はお母さんなんだもの。頑張るわ。」と語る幼い母を映すとき、作り手の彼女へのエールが感じられます。

この番組はお涙ちょうだいかも知れません。しかし作り手の彼らへの「何とか子供たちの役に立ちたい」と言う感情を感じるのです。それは映される側にも通じるものではないでしょうか?そういう「何とかしたい」という気持ちが、この作品からはあまり伝わってはこないのです。センセーショナルな事実を羅列しているだけでは、ジャーナリズムとしての役割には、少し物足らない気がします。

それにしても「ナイロビの蜂」「ブラッド・ダイヤモンド」などで、盛んに描かれる欧米諸国や他の国の食い物のようにされているアフリカ。自分は何をどすればいいのかわからない時、本当に無力を感じます。上に書いた番組などでは(他の番組かも)、確か案内の番号へ電話すれば、それだけで少額の寄付になる制度を設けていました。何もしないよりまし、偽善者かも知れませんが、それしか思い浮かばないダメな私です。


2007年07月12日(木) 「傷だらけの男たち」




センスのないタイトルだなと思いつつ、昨日観てきました。「インファナル・アフェア」の制作陣が集結(監督はアンドリュー・ラウ)、それに主演がトニー・レオンと言うことで、取りあえず押さえておこうと劇場へ。そんなに期待はしていなかったですが、それ以上に期待はずれ。映像的に面白い箇所や美しい場面はありますが、内容が二時間ドラマっぽい薄さでした。

刑事のポン(金城武)と上司のラウ(トニー・レオン)。ポンはラウを「ボス」と呼び慕っています。ある連続殺人事件を解決した夜、自宅に戻ったポンは、長年の恋人レイチェルが自殺している姿を見つけます。三年後、心の傷が癒えぬままボンは警察を退職。今は私立探偵をしながら、まだ何故レイチェルが自殺したのかに囚われています。そんな時プライべートでまだ親しい付き合いのあるラウが、富豪令嬢スクツァン(シュー・シンレイ)と結婚。祝福するポンでしたが、ほどなくしてスクツァンの父と執事が強盗によって殺害されます。犯人はすぐ逮捕されますが、真犯人は他にいると信じるスクツァンは、捜査をポンに依頼します。

今回ややネタバレです。というか、先に映画の方で犯人を見せちゃうのです。ラウが犯人なのですが、設定だけでまず怪しいと、観客にピンとさせるお安さを逆手に取ったのかと、観ながら思っていました。でもその安さがずっと続くのです。

まずは警察が処理済の事件なので、スクツァンがポンに頼むのは納得できます。しかし今は私立探偵という一般人がずけずけと、警察しか立ち入れないはずの場所に入ったり、証拠となるような資料を持ってこさせたり、構わないの?コメディリリーフ的なチャップマン・トー演じる刑事の存在自体は良いんですが、このネタくらいで昔の同僚に捜査のネタを明かすのはありえません。ポンに単純な捜査不足を指摘されたり、ちょっと警察をアホに描き過ぎです。ラウは部署を異動しているので、捜査には直接かかわれない設定にしている意味がない。

ラウの復讐の動機というのも、どこかで見た既視感のあるもの。それはそれでいいのですが、もっと憂いをもってラウを描かねばならないところを、本当に平凡に描いているので、ラウの壮絶なはずの痛みが伝わってきません。特に家庭を知らなかったラウが妻を得て安らぎを知り、復讐に妻を巻き込むことの罪悪感や自責の念、復讐と妻への愛に揺れ動く心をきちんと描けば、最初に犯人を見せた甲斐もありましょうが、これもラストにちょっと描くだけ。レオンの演技力に頼るのも限界があり、やはりもっと脚本がしっかりすべきではないかと感じました。

ポンがいつまでも女々しく自殺した恋人の影を追う姿は、金城武の甘い雰囲気に合っていて、良かったです。モノクロで何度も恋人の幻影を見たり、ポンが最初怪しいと睨んだラウが犯行に及ぶ様子が、彼の目を通じて描かれている場面は面白い手法だと感じ、作品に陰影をつけていたと思います。他には香港の夜景が美しかったです。

しかしこのレイチェルの死の真相なんですが、これも取ってつけたようなのですね。せっかく出だしでポンが恋人を愛しているのだが、長年の付き合いで合わない相手だとわかった、それで悩んでいるということをラウに相談しているのですから、それをもっと膨らませる真相の告げ方はなかったのでしょうか?レイチェルも悩んでいたのはわかりますが、あの落とし方では、「復讐は虚しい、赦すことが大切」の方が浮かびます。もちろんラウに向けての状況でしょうが、そんな当たり前のことより、長い春から破局に至った恋人たちの苦い心を掘り下げて描いた方が、観客の心に残ると思います。

トニー・レオンは今回は役に恵まれなかったせいか、生彩を感じませんでした。シンレイは私は初めて観ましたが、硬質ですが冷たくない雰囲気で良かったです。もう少し早くに夫を疑う様子を描けば、彼女ももっと演じ甲斐があったかも。スー・チーも新しいボンの恋人となる女性で出演しています。私は彼女が好きなんですが、あまり魅力はなかったような。だいたいスー・チーのような年齢で名の売れた人がやる役ではないです。新進の女優さんが良かったように思います。ついでですが、レイチェル役の人も、もうちっと別嬪さんが良かったような。ごめんね、失礼なこと書いて。




何でこのような失礼なことを書くかというと、今回私的には金城武の二枚目ぶりがあまりに良かったからです。トニー・レオンと並んだり、捜査している時より、この人は女性と並ぶと、本当に10倍くらい輝きが違うのですね。それが恋人であれ、スー・チーであれ、恋愛関係のないスクツァンであれそうなのです。酔いどれ演技はちょっと臭かったけど、今までの「大根ぶり」からみれば、全然OK。すこぶるつきの美男子で、清潔感もあって、ちゃんと生身の雄の魅力もあるんですから、向かうところ敵なしじゃございませんか。これで演技力もあったら厭味というものです。人間は何か欠けている方が、愛嬌があってよろしい。もう30半ばくらいにはなるだろうと思うのですが、この現実感のある星の王子様的スウィートさは、それだけで充分存在価値があろうかというもの。「ウィンターソング」は見逃したけど、金城武で「華麗なるギャツビー」みたいな作品が観たいなぁと、思った私でありました。


2007年07月10日(火) 「ボルベール<帰郷>」




日曜日になんばTOHOで観てきました。ぼちぼち短縮授業&夏休みで映画の予定立ちづらく、少々高めでしたがオークションでチケット買っておいて良かった!アルモドバル作品の中では一番の傑作と前評判高く、すごーく期待しまくったので、ちょい期待値には届きませんでしたが、充分秀作だと思います。期待値に届かなかったのは、多分私の個人的な理由でしょう。女・女・女、それもラテンの濃〜い女性ばっかり出てくるのですが、暑苦しさではなく母性の暖かさがとっても心地よい作品です。

ライムンダ(ぺネロぺ・クルス)は失業中の夫、15歳の娘パウラ(ヨハンナ・コボ)を養うため、毎日朝から晩まで働く日々です。姉ソーレ(ロラ・ドゥエニャス)と共に、火事で亡くなった両親の墓を掃除して、その足で伯母のパウラの元へ顔を見せます。歩くこともままならず、老人特有の症状を見せる伯母に、ライムンダの悩みは尽きません。しかし娘パウラが性的暴行を加えようとした父親を、誤まって殺してしまった時から、ライムンダの生活は一変してしまいます。間が悪く伯母は亡くなり、隠ぺい工作に奔走するライムンダは、葬儀の全てをソーレに任せます。しかしそこでソーレは、幽霊になった彼女たちの母イレーネ(カルメン・マウラ)が、生前のパウラの世話をしていたというのです。

冒頭集団で墓掃除をする女性たちの賑やかなスペイン語が飛び交う様子で、私が何故ラテン映画が、とりわけスペインが好きなのかがわかりました。けたたましくたくましく、そして明るく。近隣の人との濃密な付き合い、目上の老齢の親せきを敬い心配する様子は、私が育った頃の在日社会とそっくりなのです。今じゃ在日は良くも悪くもマイルドになっていますから、濃さの軍配はスペインかな?

ぺネロぺがとにかく素晴らしい!ハリウッドに渡ってからは、何だかお飾り人形のような扱われ方で精彩がなかったですが、気が強くてたくましく、生活力に溢れるライムンダを演じて、見違えるような輝きです。彼女からボンボン投げ出される剛速球の母性は、思春期の娘に口答えひとつさせません。その一見がさつな様は、お母さんでもママでも、ママンでもない。母ちゃん、いやオカンそのもの。それなのに「母親のお尻はもっと大きくなくてはいけない」との監督の指令で、パットを入れたちょっと大きなお尻と豊かなバストからは、母性だけではなく女盛りのエロスも香っていて、とにかく絶品の女っぷりです。

そして母と言えば料理!成り行きで毎日撮影クルーの食事を30人分用意することになったライムンダが、夫の死体の処理もそっちのけ、お金もないのにあの手この手で毎日食事を振舞うにしたがって、世帯やつれが激しかった彼女が、段々と生き生きしてく様子は壮観です。

ライムンダと母イレーネには根深い確執がありました。イレーネはライムンダに許しを乞いたいと言います。それを聞く姉のソーレは、びっくりしながらも生きていた母を受け入れます。夜中にそっと母の寝床に添い寝するソーレからは、嬉しさが津々伝わってきます。同じ母から生まれた姉妹であれ兄弟であれ、一人一人には微妙に違う母親像なのだろうと感じます。

一目我が娘と孫を見たいイレーネが、ライムンダのレストランに近づくと、ライムンダは母の教えた歌を歌っています。そのタイトルが「ボルベール」。秘かな母への思いがほとばしるこの歌をぺネロぺが熱唱(多分吹き替えだけど)し始めると、私の目からは熱い涙が。それほど盛り上げようとする場面ではなかったと思いますが、本当に魔法にかかったように泣いてしまうのです。隠れて聞いていたイレーネももちろん涙。このときのイレーネの微笑みは本当に豊かで、娘を慈しむ心を感じます。

根深い二人の確執の秘密は、驚愕の出来事でした。まさに歴史は繰り返すを地で行くような母と娘。絶望的な展開になるところを救ったのが、伯母パウラに何くれとなくよくしていた隣のアグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)です。彼女はイレーネが何故生きていたのか、多分知っていたのです。それを自分の命と引き換えに暴露することなく、周囲の人々の名誉と愛を守ったのです。この人としての品格は、この作品の品格に通じるのだと思うのです。

母の懐かしい匂いが香水ではなくオナラだったり、定職もなく身を売るしかない女性が出てきたり、ライムンダは家主に内緒でレストランを始めるし、ソーレは闇で自宅で美容院をやっているので、多分国家資格がないのでしょう。それに殺人。下世話なユーモアや活気があるけれど底辺丸出しの人々を描くこの作品から、一本筋の通った品を感じるのは、人間の格は社会的地位ではなく、どれほど人を思いやれるか、愛せるか、そして赦せるかだと教えているようです。

さてさて、何故期待値は割ったかというと、実は私の実母と祖母が長く確執がありまして。こんな驚愕の理由ではなかったんですが、とにかくプライドが高く気がきつい性格で似たもの同士なのに、自分たちだけがわからない。とあることが原因で、母が亡くなる15年ほど前から、一切母の実家の親戚とは行き来がなくなりました。当時父とも不仲の母の口癖は、「私は親運も男運もない」「私らの周りは敵ばっかりやで。あんたらを守れるのはお母ちゃんだけや」と呪文のように幼い時から繰り返し私たち姉妹に言い聞かせる母。母の敵であっても、私と妹の敵であるとは限らないと悟ったのは、私が大人になってからでした。

そんな母を私は内心疎ましく思っていましたが、思いと肉親の情とは別物だということもわかっていた私。若かったのに。今じゃその辺のおばちゃんの私ですが、環境とは人間を成長させるものですね。母の死が近くなり、祖母とは古い知り合いだった姑から、「このままではあんたのお母ちゃんが成仏でけへん。この世に心残りがないように、親兄弟と合わせる段取りをしぃ」と言われ、死ぬ一週間前から叔母たちに連絡を取り、頭を下げ、私の奮闘が始まります。

当時東京に叔父と暮らしていた祖母と、大阪住まいの三人の叔母たちの到着で、涙のご対面!と言う場面なのですが、「アイゴ〜、アイゴ〜」と号泣する祖母と、「誰?あぁ、お母さん・・・」と薄ら涙を流す母は、どう見ても芝居がかっているのです。だいたい「お母さん」なんて、言ったことないやん。いや人前では「お母さん」やったな。内輪では「お母ちゃん」でした(その後クソ婆となる)。それも他人さんではわからないという名演技で。横で観ていた私と叔母三人ですが、叔母の一人が「どうみても芝居やな」という言葉に、堪え切れず陰で皆クスクス。別の叔母の「お母ちゃんと姉ちゃんなら、こんな時でもやりかねんわ」で、またクスクス。振り回されていたのは、私だけじゃなかったんやわ。母は当時ガン細胞が頭に飛んでいたので、変なこともいっぱい言ってたのに、主治医や看護師さんたちの目をはばかり、芝居は出来たのよね。まーねー、「羅生門」では死んだ人間でも嘘つくんですから、いまわの際の人間が、まだ浅ましく生臭いのは当然なのかも。

こんなカタルシスのないブラックな経験があるので、ライムンダ母娘の確執の氷解も、セリフだけでちょっと物足らなかったですが、「普通のお母さんと祖母」をお持ちの方々は、あれで充分感動的だったと思います。母娘の歴史は繰り返す、を身をもって体験している私ですが、「息子三人やて、大変やね。一人でも女の子がいてたら良かったのにね」と、人さまは親切なお声かけをして下さいます。「そうですねん。女の子欲しかったんですけどね〜」と、いちいち説明するのも面倒だし、説明しても理解してもらうのに数日かかると思うので、こう答えてはいますが、こんなわけで私は娘が欲しかったことは一度もありません。

ラストの「ママに話したいことがいっぱいあるの」というライムンダの言葉は、自分と娘が、母と自分のようにならない秘密の鍵なのだと示唆しているようです。ママが隠れていた時間は、この二人には必要だったのでしょう。「私らの周りは敵ばかり」と言い聞かせていた母は愚かな人だったと怒っていた私は、今はそれも子供を独占したいという、母の愛情の表現だったと思っています(でも力量のない人はしないように。子供が迷惑します)。私は時の流れが一番人を癒すと思っています。


2007年07月01日(日) 「ダイ・ハード 4.0」

めっちゃ面白かった!先週の金曜日の初日に観てきました。実は夫も観たがっているのですが、先に一人で観ました。だって「300」も「アポカリプト」も旦那が観たいと言うので、じ〜と待っていたら、もう終わっちゃうじゃねーか。この二作品のようなボーダーラインの作品ならいざ知らず、「ダイ・ハード」は全部観ていて大好きな私は、世間の何で今さらという風評もものともせず、制作が本決まりになってから、ずっと楽しみにしていました。なので「しんどいから今日は映画は止めや」などとほざく軟弱な夫は、置いていくしかないのです(一人で観たのは内緒だが)。アホやなぁ〜、お父さん。これはしんどい人が観てスカッとする映画なのに。

ニューヨーク市警のジョン・マクレーン刑事(ブルース・ウィリス)は、FBI本部のシステムが何者かにハッキングされたとして、リストアップされたハッカーの一人ファレル(ジャスティン・ロング)を本部まで連行することに。しかし何者かにファレルは命を狙われます。以降またまたマクレーンは、「世界一運の悪い男」の本領を発揮するはめに・・・。

もうね、たたみかけるような豪華絢爛のアクションが超満載。ヘリを○○○で仕留めたり、高速○○でジェット機を××させたり、あり得ないことだらけなんですが、観ていてツッコムのも忘れ、わ〜すんごーい、と目をぱちくり。皆さまにちょこっとだけお見せしますね。ちょっとだけよん。



最初ロバに似ているファレルが、ラジオに流れるCCRをカビ臭いだの、マイケルは色が白くなってから聞いたことがあるか?だの、教育的指導をしなければならない坊主だったんだですが、「大人げない50過ぎの英雄」マクレーンとともに行動するうち、サイバー的頭脳だけ長けている自分の、人として欠けている部分を悟り、男としての勇気を学んでいくのが脇のストーリーです。それほど深みはないのですが、頭の中はパソコンのデーターだらけだったファレルが、年長のマクレーンを慕い敬意を払い始めるその様子は爽やかで、ロバ君がだんだんハンサムに見えてきます。

しかし一番の見どころは、懲りない大人げない、でも男気いっぱいのマクレーン=ウィリスの魅力でしょう。娘の彼氏に説教して娘に嫌われたり、何か作戦はあるのか?とファレルに聞かれ、「○を助け、相手を殺す」と、そんなん作戦でもなんでもないやん!と身も蓋もなく答えたり、マクレーンに口答えするサイバーオタクのファレルの友達に、「お前の家の中でぶっ殺されたいか?」と一言で済ます姿は、痛快な頑固親父そのものです。そして自分の肉体の限り命を張って敵に向かっていく姿は、何があっても大切なものは守る、理想としたい強い父親像にも繋がるかと思います。

ところでロバ君によるサイバー部分の蘊蓄は、ワタクシほとんどわかりませんでした。でもマクレーンもわからなかったと思うので、全然OKかと思います。ハイテク武装満載の敵に、裸一貫、自分の肉体のみで臨むマクレーンの男気が素晴らしいのですよね!

なのでいくらなんでもこれは骨折しているだろう、ここでは片肺くらいいかれたかも?の場面でも、かすり傷だけで蘇る、ジェームズ・ボンド以上に不死身のマクレーンでも、問題なしでした。傷跡もちゃんと時間の経過とともに薄くなっていくのが、芸が細かくて良かったです(いやほんまに)。

特筆すべきは今回血も涙もない悪役のマギー・Q。ブルースとの格闘シーンではぼこるわぼこられるわ、毛は引っこ抜かれるわ(!)、とにかく大奮闘です。今まで女性相手でこれほど大の男が本気で向かったことがあったであろうか?という大格闘でした。金曜日に放送された「ターミネーター3」でも、クリスタナ・ローケンがシュワちゃんに散々ぼこられていましたが、あっちはロボットですから。女性悪役キャラもついにここまで来たのかと、ちょっと感慨深かったです。

先週観た四作は全部とても気に入りましたが、たまに映画を観る方、スカッとしたい方は、文句なくこの作品をお勧めします。だって映画館で観るという醍醐味が、とっても楽しく味わえる作品だから。ちょっと脚本が雑ですけど、それを補ってあまりあるパワーを、50過ぎのウィリスから感じさせてもらえます。男はひげが白髪だらけになってからが男盛り。大事なのは頭の毛にあらず。


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