-A VAGRANT LIFE IN NEW YORK-
飯沼省



 クリエイトする

今日はクリスマス。全く関係ねぇです、とばかりに徹夜明けです。

イベント関係、他を全てストップして久々に絵を描きまくった。2月に予定しているバレンタイン・ショウへ向けてだ。急遽、年内中に書き上げなくてはいけなくなったので。

俺は絵描きだけれども、何かを創る立場から言うと「物をつくる」=「クリエイト」するとも言えなくも無い。このクリエイトって言葉は文字通り言うなら「創造」という意味で、神様などか何も無いところから突然ものを創り出すことを指すのだが、近年では「クリエーター」という職業も耳にする通り、非常に幅広く使われている単語だ。

この情報社会において、真の意味でクリエイトすることは不可能で、どっかから借りてきたアイデアを上手く作り変えたり、無意識に影響を受けているにもかかわらずそれに気付かずに放出してる場合がほとんどだ。

あらゆる意味という点では「言葉」だって世代によって次々に新しい言葉が作られ、普遍化していくという点ではクリエイトだ。お母さんが新しい料理のレパートリーを思いつく事だってクリエイトになる。という事は誰だってクリエーターだということにもなるね。

何が言いたいかっていうと、クリエーターなんて職業は成り立たないってこと。そもそもそんな肩書きを頂戴してるアホがいるから間違っているんだけどさ。

絵の世界なんて小さいものだから、常に何かを焼き直したり、理屈を変換させることで成り立っているもの。絵を描いててどーしようもないジレンマに陥ることも多い。これは決定的に新しいものなんて生み出せるわけがない、と思うことに起伏する。

では、何をどうすれば自己の表現として世に送り出せるのか?要は「絵を描く」っていう作業は2の次で、ほとんどの時間は頭の中で過ごすことになる。それがイメージとなって固まったときに初めて筆が持てるんだ。
そして現代的に”クリエイト”された作品(とでも呼ぼうか)は作者の責任という名のサインをすることで世に出される。ここが一般の人がおこなうクリエイト作業と違うところだ。普通の人が新しい造語をつくったからといって、それを商標登録する必要はないが、我々の場合それに付随して責任というものが付いてくる。

例えば、世間を騒がすような問題を提起した作品の場合、その制作意図や注釈を要求される。それが仮にも大して意図をもった作品でなくてもだ。だからクリエイトした作品を造語と同じように垂れ流しするということは許されない。

過去に、あるアーティストが個展で実弾を展示し、それを観客一人一人に持ち帰ってもらうということをやった。結果、その展示を許可したギャラリーのオーナーは銃刀法違反で逮捕されてしまうのだが、ここで重要なのは責任の所在ではなく、芸術の存在意義そのものだ。

オノ・ヨーコはこれを「芸術とは何かを新しく生み出すものではなく、今あるものの価値観を変えるためのもの」と言い切った。分かりやすく言えば、今ここにいると思っているが、本当はあそこにいるのかもしれない。とか、天井だと思っていたが、実は床だった。という風に、今までの価値観を変える切っ掛けとなるものが芸術の役目だと。

これを踏まえて前出の事件をみると、逮捕した警察側はあくまでも「実弾」を使った。という極現実的な見解によって権力を使っていることが分かる。これは一般の方からみても当然の逮捕だと思うだろうが、芸術の存在意義からみれば制限ということになる。

「価値観を変えること」が芸術に託されてるとしたら、その表現手段を現代の社会によってコントロールされているとも言える。社会は時代と共に移ろい、よって法律や倫理も変わってくる。それに対抗するのが芸術か?そんな流行歌のようなものではない。世の中の都合で隠されている本質を暴く。というか、問題として提起していくのが芸術の一端である。それを真面目にやったら「芸」にはならなくて、多少のユーモアと美によって親しみやすく提示するから人々が共感するんだ。

本質を暴く。なんて多少大げさな事を書いたが、常識だと思ってる物を、全く反対からも見る事ができる?出来たら面白いよ。というくらいに取ってもらって構わない。そういう意味でジョン・レノンの「Imagine」を聞くと面白い。あれってすごくアートな歌なんだって思うから。

ってことで、取り止めが無くなってきたのでこの辺で・・・

2001年12月25日(火)
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