無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年08月10日(水) 14万ヒット御礼/DVD『英国戀物語 エマ』1、2巻

 この日記も更新遅れを繰り返しながら、ついに14万ヒット。
 しょっちゅう休んでるのに、忘れもしないで覗きに来てくださる方がいらっしゃるのは自分でもフシギで仕方がないのですが、アクセス解析を見ると、しっかりブックマークして下さってたり、いつの間にかリンク張ってたりしてくださってる方もいて、いちいち挨拶はしていないけれども、心から感謝の念を抱いております。
 もちろん、常連さんでいらっしゃっても、毎度毎度これだけ好き勝手なことばかり書いてますから、お怒りの方もいらっしゃるでしょうし、ご批判したい方もたくさんいらっしゃると思います。時間と体力と気力が許す限り、誠実に対応させて頂きますので、いくらでもメールを下さって構いません。
 いや、実際に批判メールを頂いて、意見交換しているうちに、「やっとられんわ」と嫌われてそっぽ向かれちゃうこともよくあるのですが(苦笑)。たいていの人はそういうやり取りも面倒くさくて、「なんだこいつは?」と、覗きに来ることもやめるのが普通だと思います。それなのに、名も知らぬ常連さんがいつの間にか増えているのは、一応、私の駄文にもそれなりの道理があると思って頂けているということなのでしょうか(思い上がりかな)。
 なかなか信じて頂けませんが、私は私と意見が異なる人であっても、嫌いになるということがありません。つか「嫌いになる」という感情がよく分からないのです。言葉が通じなくて途方に暮れたり、トンチンカンなことを言われてムッとしたりすることはあります。けれど、それは相手を嫌いになったということではありません。
 よく日記に悲惨な犯罪事件のことを書いて、犯人のことを嗤ったり罵倒したりしてますが、こういう場合ですら私は犯人のことを憎んだり嫌ったりはしていないのです。たとえどんな極悪人の犯罪者であっても、「人間、一皮向けばみな同じホネ」ってのが持論で、仮に「死ねばいい、あんなやつ」とか言ったりしてたとしてもそれは言葉だけのことです。基本的に私の人間認識は「環境次第でどんな人間だって犯罪者になっちゃうもんだ」ってことなんですよ。まあ、「他人を嫌うことに何の意味があるか」と思ってるって言った方が正しいでしょうか。
 だもんで、仮に私が誰かから悪し様にののしられたとしても、ココロの中は愛でいっぱいですので、決して怒ったりはしません(笑)。
 つか、人から馬鹿にされて怒る人間は、もともと誰かを馬鹿にしたがってる傲慢な人間なんですけどね。怒っていいのは下らない映画を見せられたときだけで充分(笑)。 


 WOWOWで映画『映画女優』。
 劇場公開時に見たときにも、脚本は説明ばかりでセリフが皆無に等しいし、役者は森光子以外大根ばかりだし(特に吉永小百合と菅原文太が学芸会レベルである)、そのあまりの駄作ぶりに閉口してしまったものだが、久しぶりに見返してみるとやっぱりつまらなかった。つか、以前にもまして欠陥をいくらでも指摘することができる。これと『竹取物語』の二本しか市川崑作品を見たことがない人は、この監督はマイケル・ベイ以下の糞監督であると弾劾するに吝かではないだろう。……いや、この二本は市川さんがどうかしちゃった映画なんで、あまり責めないでほしい。あと『鶴』も。
 原作・脚本は『小説田中絹代』の新藤兼人なんだが、田中絹代の長い人生を松竹入社から『西鶴一代女』まで絞ったのは慧眼のように見えて実は中途半端である。これはもう、『西鶴一代女』のバックステージものとして、そこだけに物語を絞った方が散漫な印象を与えずにすんだはずである。もっともそれでも主演二人の大根ぶりは変わるわけでもなかろうから、結局はそこそこにつまんない映画にしかならなかったとは思うが。世のサユリストには悪いけど、田中絹代を吉永小百合に演じさせるってのがそもそもの間違いなんである。「映画はキャストで決まる」ってのは市川さんの持論じゃなかったのかなあ。
 ついこないだ、古川薫の『花も嵐も』を読んだばかりだったので、比較して気付いたのだが、映画では田中絹代と城戸四郎の男女関係については一切触れていない。松竹社長の城戸四郎は、単に田中絹代のよき保護者ということだけの存在ではなかったのだが、そこを描かないと、物語は表面の上澄みだけを掬い取ったような、キレイゴトの世界にしかならなくなる。徴兵忌避をして失踪した絹代の長兄の存在にも一切触れない。この兄の存在が、田中絹代の人生にどれだけ大きな影となってその道を縛ってきたか。それもこの映画は一切描かない。
 実在人物を扱っているのせいで何か差し障りがあったのかもしれないが、だったらもう田中絹代の名前を使わないで映画化した方がよかったのではないか。溝口健二、五所平之助、清水宏、城戸四郎などは名前を変えて登場しているのに、小津安二郎や鈴木伝明、大日向伝、牛原虚彦などは実名のままというアンバランスさが、この映画の居心地の悪さをそのまま象徴しているのである。随所に映画史に残る傑作のスチールやフィルムが挿入されるが、これがまた物語の流れを阻害して鬱陶しくて仕方がなかった。
 この映画だけを見て田中絹代という稀代の女優を判断されてしまうと本気で困る。こんな中身スッカラカンの伝記映画を見るよりは、オリジナルの田中絹代の映画に当たってもらいたい。日本映画専門チャンネルとかで時々放映してるから、まめにチェックしてくださいな。代表作の『愛染かつら』は今の若い人には少々辛いかもしれないけれど、感性が磨耗してなければ見所はたくさん発見できると思う。『伊豆の踊子』『お琴と佐助』あたりは文芸好きな方には必見だし、『西鶴一代女』『雨月物語』は日本映画黄金期の映画が世界に与えた影響の大きさをその画面から如実に感じ取ることができる。『サンダカン八番娼館 望郷』はもう役者の演技ってここまでの表現ができるものなのかって驚きに魂が震えるほどだ。


 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 靖國論』(幻冬舎)。
靖国神社をどう考えるかってことについての私の意見というかスタンスは特にない(笑)。誰が何を信仰しようとそりゃ当人の自由なんだから、知ったこっちゃないって言った方がいいかもしれない。私には右も左も関係ないし、カミサマとか英霊も信じてないから、基本的に靖国に対する思いは何もないのである。
 だからと言うわけではないが、靖国問題に関して私は、右とか左とかに左右されずに、比較的客観的に状況を見られているほうだと思う。つまり私は別に小林よしのり信者ではないということで(笑)。このことを先に明言しておかないと、やたら「てめえ、右だろう」と勘違いされてしまうので、面倒くさいのである。
 基本的に小林さんの靖国神社についての歴史認識と判断は普通に正しい。「靖国の存在自体がかの侵略戦争を肯定している」というアチラさんの主張が難癖に過ぎないことは、「靖国に祀られているのはペリー来航以来の英霊」という事実だけで簡単に証明できる。それなのにいつまで経ってもアチラさんが難癖を付けるのを止めないのは、アチラさんが「反日」を国家統合のためのスローガンとして利用しているからだ。
 日本人にとって神社とは宗教というよりは「習俗」なのであって、政治にも信仰にも関係なく、これを拝む。初詣をするクリスチャンがいてまるでおかしくないのは、日本においては宗教が常に習俗化される文化が存在しているからだ。「食事の前に手を合わせる」のも何かに対して拝んでいるわけではない(ご先祖様だったりお天道様だったりするが、極めて曖昧である)。
 外国人は日本人の宗教ちゃんぽん行為に首を傾げるが、こういった習慣・文化を知らなければいつまで経っても疑問は消えないだろう。お隣さんたちは自分たちが日本の文化のルーツだと信じていて、宗教観も似たようなもんだと思い込んでいるから、なおのこと理解が難しくなってしまっている。日本人の宗教観はかなりの部分で他国と隔絶しているのだ。
 だから私も、カミサマなんぞ信じちゃいないが、神社に行けば手を合わせる。靖国で手を合わせても、これは「あなたたちの無念を晴らすためにいつかあの国とかあの国とかあの国をぶっ潰してやりますから」という意味にはならない。
 しかしアチラの国については、宗教は即政治である。「英霊を祀る」行為は、復讐を誓っているとしか受け取られまいし、そして政府は国民にそう喧伝している。そうすることで、国内政治の混沌を隠蔽し、恨みつらみを国外に転化しているわけだ。
 歴史の捏造はどの国でも自国に都合よく行っていることだが、ありがたいことに、アチラさんには実に簡単に洗脳されるアタマのお弱い方がいっぱいいらっしゃって、政府のプロパガンダをいとも簡単に信じて支持してくれているのである。ちょっとネットを開けば世界各国の情報も入手できるのだから自国の情報ばかりが正しいわけではないと気付きそうなものなのだが、多分、国民の大半が文盲なのであろう。馬鹿の一つ覚えのようにしょっちゅう反日デモばかり起こして日の丸を焼いているが、暴動を起こすやつに正義があってたまるか。
 だから馬鹿にビビッて、A級戦犯の分祀だの無宗教の慰霊碑の建立だの、そんな姑息な手段で解決を図ろうとしたって、こちらが一つ要求を飲めば図に乗って別の難癖を付けてくるに決まっているのだから、結局は何の意味もないのだ。どんなに困ってるときでも、馬鹿の言うことを聞いちゃいけないってことね。
これは小林さんだけが指摘していることではなく、現実にアチラの政治状況を見ていれば誰にでも理解できる紛れもない事実であるので、ゴーマニズムに反発を覚えている人でもこの点に関しては小林さんと意見を一にしなければならないことだろう。それにアチラの人でも、特に洗脳されてない人は反日デモに参加なんかしないのである。
 ただそれでも問題がややこしくなってしまうのは、日本人の中にもやっぱりアチラさんを憎み蔑み、「いつか復讐してやるぞ」と心に誓ってる連中はいて、そういうやつらと同一視されたくないから靖国参拝を控えざるを得ない普通の人々もいっぱいいるだろうなと思うわけである。筆頭は天皇陛下(笑)。
 鑑みるに、小林さんは右に行く一歩手前で踏みとどまっていると思う。これまでの言動を見て行けば、街宣車でがなり立ててるいかれた連中と一緒にならんことははっきりしている。それをいかにも軍国主義の権化のように口汚くののしっているのは、左翼の方がよりトチ狂ってると言われても仕方のないところだ。
 確かに、小林さんは資料の読み間違いも多いし、南京大虐殺はなかった(かも知れない程度で押さえているけど)とか、全ての主張を鵜呑みにするわけにはいかなってことも分かりはするのだ。感情に流された勢いで馬鹿だの狂ってるだのテキさんをわざと挑発するようなモノイイをするのだって、あまりうまいやり方ではない。
 しかし、だからと言って、いくつかの誤謬だけを根拠に「小林よしのりの言ってることが全て間違い」だなんて断言していいわけがない。
 これまで小林さんが『ゴー宣』で俎上に乗せてきた題材はどれもこれも一筋縄ではいかない困難な問題を含んでいるものばかりで、ちょっとした話し合いであっさり解決できるなんて簡単なものは殆どなかった。薬害エイズの事件についても、オウム真理教事件についても、従軍慰安婦の件についても文字通り小林さんは体を張って取り組んでいる。これだけの事件に首を突っ込んで、とりあえずできるだけ角を立てないように冷静に対応しようったって、土台無理な話なのだ。論戦になれば結局は激しく言葉をぶつけあい「馬鹿阿呆間抜け」とののしりあわざるをえなくなる。しかし、それだけの言葉をぶつけるということは、小林さんがまさに「本気」だということの証ではないのか。
 だから読む方だって最初から「小林よしのりの言うことだから」で初めから鼻で笑ったような読み方をするもんじゃないよと思うのである。相変わらずコマ割りはヘタだし、恣意的でわざとらしい表現は多いし、習俗の問題を政治にすり替えようとする意図は見受けられて、そこんところが一番鬱陶しいのだが、少なくとも極右の人たちのように日本の軍国主義化を標榜しているわけでは決してない。そんなふうに小林さんのマンガを読み取りたがってる左の人は多いようだけれど、それも政治的かつ恣意的に過ぎる読み方である。
 ディテールに腑に落ちない部分はあっても、「靖国の存在が外圧に左右されてどうにかされてよいことではない」という基本的な主張は全面的に正しい。一時期に比べればアチラさんのデモもだいぶ沈下しているが、これはやはり国際的な批判を浴びたおかげだから、外圧に弱いのはアチラさんも同じなのである。受けに回った方が立場が弱くなるのは当然だから、小林さんの責めの姿勢はやはり貴重だと思う。
 まあ、批判したい人はもちろんして構わないんだけど、「コヴァ」なんて斜に構えたモノイイで論争を最初から回避するような態度はやめといてほしいんだけどねえ。

 
 DVD『英国戀物語 エマ』1、2巻。
 初回生産限定豪華コレクターパッケージ仕様ってやつで、黒っぽいカバー(色弱なんで色は分からん)に、英語で「Victorian Romance Emma」って華麗に書かれてるのがすげえ素敵。って、パッケージに惹かれてうっかり買っちゃったみたいだが、もちろん中身のアニメも傑作である。 
 いつの間にやら「メイド萌え」モノがアニメ界を席巻するようになって久しいが、私は多感な学生のころですら特にアンナミラーズにもハマらなかった朴念仁であるので、メイドコスとかにはまるで興味がない。アニメ見ててもフリフリ作画するの大変だろうなあとか、そんなことしか思わない(『ぷぎゅる』とかはその心配いらないから楽だな。ってあれもメイドアニメって言っていいのか)。
 ところがもうファンには一切説明は要るまいが、これはメイドさんに「ご主人様、何でもお言いつけを♪」とこぼれそうな微笑みでかしずいてもらってる主人公に感情移入してムネがドッキンドッキンバックバックしちゃうような妄想逞しいオタクのためのメイドアニメなどではないのである。もちろんそういう観点で見ることだって不可能ではないのだが、それ以前にこれはもうイギリス・ビクトリア朝・ロンドンを舞台にした世紀の大ロマンであり、近代小説が「恋愛」という、ドラマを構築するための重要な要素を獲得したのが、まさにこのビクトリア朝の身分社会を活写することから始まっていることを確認させてくれる画期的な物語であるのだ。
 浅薄な知識なのでいろいろ突っ込まれたい方はおありだろうが、『チャタレイ夫人の恋人』を生み出した土壌もここにあり、全てのハーレクイン・ロマンスの、メアリー・ウェストマコット(正体はあの人ですね)の諸作のルーツもこの時代に求めることができるという理解はそれほど外れてはいないと思う。
 私が原作マンガの『エマ』を見て、今更ながら、ああ、と嘆息したのは、小説以上に広範な守備範囲を誇り、古代ギリシャから近代ヨーロッパ、アメリカ西部劇の時代まで、ありとあらゆる時代、国を舞台に物語を展開させてきた日本のマンガシーンが、この「ビクトリア朝ロンドン」に関しては、ほとんどそのマンガ化と言えば「シャーロック・ホームズ」以外に見るべきものを生み出してこなかったよなあ、という事実である。
 この時代、風俗、これを活写するためには、単に人物のキャラクターが描けていればそれでいいという訳ではない。人々を取り巻くその風景、リージェント・ストリート、コベント・ガーデン、ハイドパーク、ピカデリー・サーカス、タワーブリッジ、ロンドン塔、セントポール大聖堂……。まあ、絵に描くのは大変だってのは分かるけれども、これらが人々の精神世界を象徴する風景としてきちんと描かれ、「機能」していてこそ、近代小説の祖としての恋愛ロマンを現代のマンガとして再生することができるのである。
 ビクトリア朝の美術については、宮崎駿の(美術の山本二三の)アニメ『名探偵ホームズ』の細かいレンガの描き込みを見たときにも舌を巻いたものだったが、原作の森薫の背景描写へのこだわりにはそれ以上の熱情がある。それをアニメはさらにグレードアップ、原作にないディテールに至るまで設定し、動かし、匂うような空気まで感じさせてくれるほどに描き出してくれた。本作の美術を担当した櫻井純子・矢野祐子両氏の仕事はまさしく「入魂」の一語に尽きる。
 ここに描かれている建物が、調度が、衣装が、流行が、ロンドンの人々を支配し拘束しているからこそ、ウィリアム坊ちゃまとエマの恋は「その世界に縛られつつも自由であろうとするエネルギー」を生み出し、ロマンの炎を燃え上がらせているのである。
 まあ、堅っくるしい言い方を避けて簡単に言っちゃえば、女性が一個の人間として「恋愛」できるようになったのは、「身分を越えた恋」を経験できるようになってからってことなんだよね。凡百のメイドアニメが一見、主人公とメイドさんとを対等に描いているように見えながら実はメイドさんが精神的には男の性奴隷となり果てている状況の中で、『エマ』は見事なほどに正統派の恋愛ロマンを蘇らせてくれたってわけ。

 1巻は、第1章「贈り物」、第2章「二つの世界」を収録。
 2巻は、第3章「告白」、第4章「ミューディース」を収録。
 美術の話ばかりしてしまったが、シリーズ構成・脚本の池田眞美子の簡潔でさりげない伏線の張り方の見事さにも感動を覚えるし、決して枚数が多いとは言えない中で、登場人物たちの微妙な表情に気を配り、ここぞというときには髪や衣服の重みまで感じさせるように動かす緻密な作画には私は拍手を惜しまない。いやまあ、スタジオぴえろだし、作画監督も田中比呂人さんをはじめ錚々たる人たちだし、当然のことではあるのだが。
 オーディオコメンタリーは監督の小林常夫さんのほか、時代考証を担当している村上リコさんに加え、なんと原作者の森薫さん自身も登場。でも画面に見入って鼻歌を歌うばかりで、全然解説をしてないのであった。それだけアニメが素晴らしいという逆証明にはなってるけどね。

2004年08月10日(火) 本名、また変わりました(T∇T)。
2003年08月10日(日) 二元論の陥穽/『魔法先生ネギま!』1巻(赤松健)/『金田一耕助ファイル6 人面瘡』(横溝正史)ほか
2002年08月10日(土) 映画ファンってどこにいるの?/DVD『∀ガンダム�機|狼絽�』/『アフター0 著者再編集版』1・2巻(岡崎二郎)ほか
2001年08月10日(金) 代打日記
2000年08月10日(木) トマトの罠/『太陽がいっぱい(リプリー)』(パトリシア・ハイスミス)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)