無責任賛歌
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| 2005年08月09日(火) |
おしまいはおしまい/DVD『ベルヴィル・ランデブー/老婦人とハト』 |
『ゴジラ ファイナルウォーズ』のDVD発売記念イベントで、プロデューサーの富山省吾さんが、「ゴジラは最長ブランク9年で復活している。今度もそのくらいでよみがえる。新世代のスタッフで新しいゴジラの復活を待ちたい」と2013年ごろに復活させる意向を語ったそうな。 「ファイナルってウソじゃん!」と怒っているゴジラファンはもうそんなにはいないと思う。もう騙されるのは何度目だかわかんないくらいだしね。 富山プロデューサーは『ファイナルウォーズ』公開直後から、「いつか復活」は明言していたから、今更驚きゃしないんだが、それにしても発表が早すぎる。言った舌の根も乾かぬうちに掌返すような態度に出るところが富山さんがファンから嫌われてるとこなんだけど、自覚はないのかね。 以前、『VSデストロイア』でいったんシリーズに終止符を打ったときも「20世紀中の復活はない」と断言していたのだ。ところがわずか三年で『2000ミレニアム』を製作。けれど前VSシリーズほどにはヒットせず、その後遺症はミレニアムシリーズに最後まで付いて回ったという手痛い失敗があるのに、どうしてまあ、また同じ轍を踏もうとするのか、本気で理解に苦しむよ。 ハッキリ言うが、ゴジラシリーズには既に往年の神通力はない。なんだかんだで初期のゴジラシリーズは映画が黄金時代だったころの産物である。昭和30年代、子供が楽しみに劇場に見に行くことのできた特撮モノと言えば、ゴジラ(と、他の東宝特撮シリーズ)しかなかったのだ。だから、その「名残り」でVSシリーズには初期ゴジラのファンだった親たちが子供を連れて劇場まで足を運んでくれた。 けれども、ミレニアムシリーズのころの親たちは、昭和40年代、あるいは「9年間の空白期」のころに子供だった世代である。このころの子供たちにはゴジラ以外に熱中できる特撮モノがほかにもいくらでもある。別に「ゴジラ映画に行かなきゃならない」義務感などはないのだ。ましてや、更に2013年までゴジラ復活を待つということになれば、ゴジラを応援する世代は「VS」シリーズや「ミレニアム」シリーズで育った子供たちということになる。 あの、どこからどう貶せばいいやら見当が付かぬほどフ抜けたテイタラクの両シリーズに、誰がどれだけの思い入れを持つことができるというのだろう。いくつか部分的に見るべきものはあったとしても、もはやゴジラは特撮の王道ではなく、たくさんある特撮モノの一つでしかない。たとえ10年経とうが20年経とうが、一般人はおろか、特撮オタクの間でも、「ゴジラ復活? へーえ」程度の反応で終わりそうな気がしてならないのだ。 私だって、決して初代ゴジラからリアルタイムで付き合って来た世代ではない。ゴジラよりもガメラに入れ込んでいた世代であることは明言しておかねばならない。しかしそんな私でも、「ガメラのライバルであったゴジラ」が惨めな末路を迎える姿は、見たくもないのだ。若い連中がゴジラになんて興味ないという態度を取られるのが寂しくて仕方がないのだ。 観客動員数が落ちている以上、「飢餓感をあおって客を寄せる」という手を打とうという目論見は分からないでもない。けれども現実にそれが成功した例はそんなに多くはない。それに、新世代のクリエイターによる新しいゴジラをったって、それをやろうとして失敗したのがUS版『GODZILLA』ではなかったのか。東宝は単にバクチを打とうとしているだけじゃないのか。 「ファイナル」だと言ったのなら、その言葉を守って、潔くゴジラは過去の歴史の中に輝く存在のままでいてほしい(つかもうかなり薄汚れてしまったが)。万人を満足させるゴジラ映画なんて、もう作りようがないのだから。 ……でも、それでも「一縷の望み」を期待してしまう自分が一番切ない。これがオタクの性(さが)ってことなのかねえ。
しげの情緒不安定、まだ何となく緩やかに続く。 またすぐに自殺未遂なんてことにはなりそうにないし、なったとしても実効性はあまりないことしかしそうにないから、いざというときは何とかなると思いはするのだけれども、脈絡もなくいきなり「オレ、母ちゃんと一緒にいられたの、どっちも五年だけだ」とか呟くのを聞くと、もちっとセルフコントロールしてほしいものだと切に思う。 要するにしげがどうして自殺なんてことを考えたかというと、私が先に死ぬのがいやだったからである。 先日、父としげと三人で食事をしたときに、父がいつもの口癖で「お母さん、なんでオレより早く逝ってしもうたかなあ」と呟いたので、「年の順だから仕方ないよ。僕がお父さんより先に死んだらやっぱり怒ろうもん」と私が言ったこともしげの記憶に残っていたのかもしれない。 でも、十中八九、私の方がしげよりも先に逝く。多分、それは避けられない。 そのことをしげに言ったら、「あんたは私が死んでも寂しくなかろ?」と来た。 言いたいことは分かる。私は昔から孤独に慣れているから、しげが先に死んでも耐えることができるが、しげの場合は私が先に死んだらとても孤独に耐えるだけの自信はないと言うのであろう。 確かに私は一人には慣れているが、かと言って、しげがいなくなって寂しくないわけはない。仮に今しげがいなくなっても、そのあと、自分が誰かと再婚する可能性はまずなかろうと思う。「人間は気が変わるものだから」と言われそうだが、これまでしげに散々ヒドイ目に遭わされてきても、全く浮気心が芽生えなかったように(まあ、コンビニで『プレイボーイ』を見る程度である)、しげ以外の人間との結婚生活というものが、自分が50、60歳になったときの状況を想像してみてもいささかもピンと来ないのである。 私だって、しげに寂しい思いをさせたいわけではないから、しげが70で死ぬなら80まで生きたい。しげが80まで生きるなら、90まで頑張りたいと思う。でも多分、それは無理だ。だとしたら、願うことは「しげに強くなってほしい」。それしかないではないか。 今まで散々私の期待を裏切ってくれているのだから、せめてそれだけはしげに望みたいと思うのだが、ダメかねこれも。
先日6日、毎日新聞の報道で、「甲子園大会の開会式前に、広島代表の高陽東高校が全代表校に黙祷を呼びかけようとしたところ、高野連の幹部が『原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない』と制した」、というのは誤報だったと判明。 あとで関係者に確認したところ、「取材の不備で、そのような趣旨の発言をしていないことが分かった」んだと。毎日新聞は「おわび」を掲載することを決めたそうだが、さて、気になるのは「取材の不備って、何をどう間違えたのか」、その過程だ。 高陽東と高野連との間で行き違いがあったのは事実のようだが、それはまあ偶然のいたずらで仕方のない面があったのかもしれない。しかしそれがそのまま事実として報道されず、「言葉の捏造」が行われたとしたら、それは誰のどういう意志が働いたせいなのだろうか。高野連は実際に黙祷を制止させたのだから、そこで「何か」を言ったのは間違いないことである。さらにてっきり黙祷を呼びかけられると思いこんでいた高陽東の選手たちが、素直に「はいそうですか」とは言わなかっただろうことも容易に想像はつく。理由を聞くなり、どの程度強くかは分からないが何らかの抗議はしたろうと思う。そしてそのやりとりを新聞記者に伝えた者が脚色なり誇張を加えたとしたらどうか。そこに脚色者のどういう意志が働いたか、記者の受け取り方にもどの程度バイアスがかかったか。 まさに「伝言ゲーム」のようだが、私もホモオタさんの件で新聞記者に取材を受けた経験があるから「様子」は見当が付く。新聞記者の方が聞けば腹を立てるかもしれないが、あえて断定させていただく。新聞記者とは決して「事実を報道しよう」などとは考えない人種である。かなり恣意的に記事を作り、しかもそれが限りなく捏造に近い創作であるにもかかわらず、自分がウソをついているという認識がない。ゆえに罪悪感も全くない。自分はあくまで「正義」のために「真実」を書いていると思いこんでいる。ハッキリ言えばただの妄想家だ。 今回も、「黙祷呼びかけ中止」「選手の抗議」、この二つの事実だけで、実際のやりとりがどうだったか、記者は勝手に想像して記事を書いたと思われるが、その時点でもう記者のアタマの中では「記事」は「事実」であると変換されてしまったのだと思われる。 「高野連が黙祷呼びかけを拒否した? それはヒロシマの記憶が風化しているせいだな? きっと乱暴な口調で選手たちを傷つけるようなことを言ったに違いない。『ヒロシマなんて関係ない』とかそんなことを言ったんだろう」 そう思い込んで取材をし、選手が仮にちょっとでも「ニュアンスとしてはそんな感じです」とでも言おうものなら、もうその発言は「事実」ということになってしまう。恐ろしいことのようだが、これは日常の人間関係でもしばしば起こることで、まさに言葉というものが「受け取る者の恣意によって決定されてしまうもの」であることの一つの事例でしかない。 注意しなければならないことは、新聞や雑誌、マスコミの流すニュースの言葉は、程度の差はあれ100%例外なく基本的には「捏造」であるという認識を持つ必要があるということだ。「捏造」という言葉が過激過ぎるなら「演出」と言ってもいい。「どこそこで事故があった」とか「誰それが何をした」という基本的なことは事実であっても、それを報道する側の姿勢の中に、「このニュースをこのように見せよう、聞かせよう」という「演出」が混じるのである。 今回の件はその「演出」が「見え透いて」いたから、すぐにバレた。事件としてもそう大したことはないから、収束させるのも簡単だった。しかし、これが「政治的な事件」だったらそう簡単にはいかない。たいていの国民は政治に関してはシロウトであり、騙されないように気をつけていても裏を返されて騙され、真実に気付いたと思ったらまたそこには裏があるという二重三重四重五重のウソに翻弄されてしまうからである。 「騙されないでいられる国民はいない」、これが政治における唯一の真実である。だからまあ、私はこの日記ではできるだけ政治的なことを書くのは避けているのだが、世の中には「自分には政治的な判断力がある」と思い込んでいる御仁はやたら多いのである。裏の裏まで見通しているのだと自信ありげな人は多いのである。虚飾を剥ぎ取ったその向こうには必ずたった一つの真実があると信じている人は多いのである。 「自分が事実として受け取っているものも実は虚構である」という認識を前提として持っておかなければ、いざその虚構によって自らの立場が侵食されるような事態が生じたとき、その虚構を捨てられなくなってしまうのだけれどもね。「あの人は私を裏切ってほかの人のもとに走ったけれども、本当は今でも私のことを愛しているのだ」とか。いや、なんか卑俗な例で落としてしまいましたが、別に他意はありません。ホントよ。
DVD『ベルヴィル・ランデブー』。 まあ、以前の日記でも散々褒めちぎったから、再度内容を繰り返すことはしないけれども、DVDの画像の明晰さと言ったら、劇場版以上に艶やかだったんで驚いた。映画を見たときは人物の顔とかがやや平板に見えてたんだけれども、発色がハッキリしたおかげで、かなり立体的に見えるようになっているのである。 解説書も微に入り細に入り、特にミルクマン斎藤さんが「見所」を逐一指摘してくれていたので、「そうだったのか!」と気付いたことも多い。 最初のモノクローム映像のシーンで、ワンカットだけギターを弾いていたのがジャンゴ・ラインハルトであるとか(だって一瞬だったんだもん)、ホッテントットが踊ってると勘違いしてたのがジョセフィン・ベイカーであるとか(あんな踊り方してるとは知らなかった)、タップを踊って靴に食われたのがフレッド・アステアであったとか(ジンジャー・ロジャースと一緒に出てきてくれれば分かったのだ。だって顔が似てないんだもん)。 シルヴァン・ショメ監督の前作『老婦人とハト』の主人公の警官がカメオ出演していたことにも気が付かなかった。こういったことは「遊び」だから、作品の価値と直接的な関係はないわけだが、気が付けば気が付いたで新たに「発見」できることも多い。 そう言えば、広島アニメーション・フェスティバルで本作が上映されたときに、質疑応答の時間にショメ監督に向かって「私もジャンゴ・ラインハルトが大好きなんです!」と上気して質問に立っていたお客さんがいらっしゃったことを思い出した。ショメ監督は「同志がいて嬉しい」とばかりにニコニコして、「ジャンゴ・ラインハルト、そしてジャック・タチはぼくの心の師匠です」といった趣旨のことを話されていたが、その言葉の意味も今回ようやくDVDを購入して合点がいったのである。 DVDを買う喜びは特典映像にあるが(映画のネット配信が普及してもここまでのサービスはできまい)、まず面白かったのはショメ監督と高畑勲監督との対談である。ショメ監督は、ディズニーなどの資金をかけて時間もかけて作った大作がかえって空疎な内容の作品ばかりになっていることを指摘して、逆に日本のアニメーションが時間も資金も制約を受けていることでかえって豊穣な作品を作り得ているのではないかと、実に見事な分析をしてくれているのだ。 これに対して高畑監督が苦笑いをしていたのが可笑しい。なんたって、その「時間も資金も制約がある中でアニメを作る」方式を成功させたのは高畑監督のいた東映動画ではなく、そのライバルたる手塚治虫率いる虫プロだったのだから。ショメ監督はそういう日本の事情を知らず、感じたままのことを口にしただけなのだろうが、偶然にも手塚治虫の功績を世界に通じる技術として賞賛した格好になった。手塚嫌いで宮崎信者のアニメファンの方、あまり自説に拘り過ぎない方がよろしいと思いますよ。 私も手塚アニメと宮崎アニメのどっちが好きかと言われたら、実はやっぱり宮崎アニメ派なのである。東映動画の昔から大ファンではあったが、だからと言って、手塚さんの功績を宮崎駿が口汚くののしるほどに全否定はしていないのだ。『Zガンダム 星を継ぐ者』の感想のときにも書いたが、テレビアニメを見て育った我々は、等しく「テヅカの子ら」であるのだ。 もう一つ、DVDの嬉しい特典は、ショメ監督のデビュー作、『老婦人とハト』も収録されていることである。これももう7年ほど前に広島アニフェスで見たっきりで、世界のアニメーションに関心の低い日本の現状では、二度と見ることはかなわないだろうと思っていた。基本的にはハートウォームな『ベルヴィル』に対して、こちらは徹頭徹尾ナンセンス&ブラックなホラー・コメディーである。 腹をすかした警官が、ある老婦人が公園でハトに豪勢なエサを撒いているのを見て、「ハトに変装して食事を恵んでもらう」ことを思いつく。普通ならこんなアホな計画、成功するはずがないのだが、それがなんとうまいこといっちゃうのだね。けれどそこには裏があって……。というストーリー。 この物語がどれだけブラックかというと、警官がハトに変装するためにハトの羽根を毟って被りものを作るのだが、哀れ裸ん坊になっちゃったハトがどうなったかというと……。いや、とてもグロくて言えねえ(苦笑)。ジブリも本当はこういうブラックなアニメが作れなきゃ、世界に通用するアニメスタジオとは言えないんだけどなあ。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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