無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年11月25日(木) ヤクザと一緒の二日間/DVD『CASSHERN』

 しげの具合があまり芳しくない。
 朝、寝起きが悪いのはいつものこととしても、迎えに来るときも、メールを入れただけでは返事がなく、携帯に三度、自宅電話に二度電話を入れて、ようやく電話口に出るのだが、「もひもひ? ふいべ、いべ、あばちゃ」と何言ってんだか全然分からない。
 しばらくパートの仕事を休んでた埋め合わせか、昨日から二日続けての8時間労働、多少は疲れてるんだとは思うけれども、それにしたって家事はやっぱり手をつけず、家では殆ど寝て暮らしてるんだから、結局は日頃の運動不足のツケが溜まっているだけである。
 助手席に座っていて、機嫌がいいときには白石冬美か横山智佐のような甲高い声で喋りまくられ、機嫌が悪いときには森山周一郎か中田譲治のようなドスの利いた声で、広島ヤクザのように難癖つけられるのだから、どっちにしたってひたすら鬱陶しいだけなのだが、この二日は中田譲治の声しか聞いていないのである。私が暗く沈んだ気分になるのもご理解頂けよう。
 「食事はどうする?」と聞いても、機嫌がいい時には優柔不断でなかなか決まらないのだが、今日は「なんか買って帰りたいけど、めんどくせえからガストで食う」とあっさり決まる。いつもの、「どこにしようかなあ、えーとえーと」ってのもイライラさせられるのだが、こう投げやりに決められるのもあまり楽しくない。
 しげ、食欲もないのか、ハンバーグを頼んだだけでご飯は食べず。ダイエットしてるつもりなのかもしれないが、だったら肉も避けなきゃならんはずで、しげには珍しく「メシだってどうでもいい」という気分なのだろう。いつもはお喋りしたり本読んだりして長っ尻な我々なのだが、今日はメシを食い終わったらさっさと引き上げた。ぶすくれてるしげと真向かいでメシ食っても、美味くもなんともないのである。


 帰宅して、マンガ読んだり、DVDで『CASSHERN』を見たり。マンガの感想は量も多いし書いてたらキリがなくなるので、省略。
 紀里谷監督のコメンタリーを聞いていると、前半はかなり無駄なセリフを省き、余計なシーンもカットして、たとえ説明不足になっても映像で見せていこうとする意欲があったことが確認できる。整合性がなくっても、勢いで見せているので退屈はしないのだ。
 ところがまあ、後半になるとそういった「刈り込み」がされなくなり、極めて幼児的な「反戦意識」が前面に出てしまうる。もちろん、紀里谷監督の「オトナの事情でこの映画を作ってはいない。今、言わなきゃならないことは子供の気持ちに戻って、『戦争はいやだ』と主張することだ」という気持ちは伝わってくるし、それ自体否定しようとは思わない。「結局、長いものには巻かれなきゃなんないし、日本だって石油欲しいし、某国の問題もあるからねえ」という「オトナの思考」に対して、紀里谷監督が怒りを覚え、そんな単純かつ短絡的な思考に賛同できるかと、異を唱えたくなった気持ちにも充分共感できるのである。
 しかし、「大人の理屈」を批判する資格が「純粋な子供」にならある、と紀里谷監督が判断しているのだって、やはり単純思考にほかならない。「ダメだからダメ」ってのは、おもちゃを買ってもらえなかった子供が「ヤだったらヤだ」と駄々をこねてるのと少しも変わりない。そういうピュアな気持ちが届く相手は、同じピュアな人だけなのだ。「反戦」を本気で唱えるのであるなら、ピュアなだけではそれこそ「ダメ」だろう。そこには「戦争屋」どもを翻意させられるだけのエネルギー、そして説得力や駆け引きもなければならないが、『CASSHERN』はそれを「祈り」だけで済ましてしまっている。……結局、オチは『ゴジラ』(1954)ですか(-_-;)。でも、「祈り」も届かず、第2、第3のゴジラが生まれるから『ゴジラ』は名作たりえたんだけど、『CASSHERN』は紀里谷監督の中で自己完結しちゃったからねえ(+_+)。
 紀里谷監督の意図に反して、この映画でカッコよく見えるのは、復讐の権化と化したブライキングボスであり、私欲のためにマッドサイエンティストと化した東博士である。「許しあうことが必要だった」なんて言って昇天するCASSHERNなど、はいはい、勝手に逝ってなさい、ってなもんで、イラクの人質レベルの馬鹿にしか見えない。海外版は再編集されるようだけれども、ラスト30分は大巾カットしてほしいなあ。「メッセージ」はドラマ終わらせるための方便として機能してりゃそれで充分、というか、そうしないとこの映画、鬱陶しいばかりで、かえって「好戦的な気分」にさせられちゃうと思うよ。
 ……ああ、その点でこれ、『華氏911』によく似てるね(^o^)。



 気がついたら大相撲九州場所が始まっていたが(^o^)。
 私の相撲への関心は千代の富士で途絶えてしまっているので(古いな)、かつての若貴時代だって土俵外のスキャンダルの方が面白かったし、朝青龍がどうとかいう話題だって、相撲自体には何の興味もない。だってさあ、見ていて心動かされるものがないんだもん。それこそ名横綱と言われる力士たち、大鵬とか北の海とか千代の富士の相撲には、「この強さはいったい何なんだ!」って驚きがあったんだけどなあ。いや、たまに私もニュースで朝青龍の相撲を見かけることあるけどね、今のファンって、あんな腰の座ってない相撲見てワクワクしてるんかね?(私が見た取組がたまたまそんなのだったのかもしれないが)
 だから今場所も、「ああ、大鵬親方、これで引退かあ」と、昭和30年代、40年代に子供だった世代にしか分からない感慨はあるものの、取組自体を見たいという気は起こらないのである。思い返すと、私は子供のころ(幼稚園のころだと思う)、九州場所の祝賀会に出席して当時現役だった太鵬さんに抱っこしてもらったことがあるのだが、「強いお相撲さんに抱っこしてもらえると、その子は丈夫に育つ」って習わしも、今は廃れてやしないかなあ。自分が子供だったら、あるいは自分の息子を、朝青龍に抱っこしてもらいたいって感覚の持ち主、どれくらいいるんだろう。なんか、「あんな若僧に抱っこしてもらっても、あまりご利益なさそうだ」って気がしないか?
 そんな寂しさを感じていたところに次のようなニュース。
 九州場所名物のちゃんこ鍋と言えば、あの『美味しんぼ』にも紹介されていた「アラ鍋」(「アラ」とは、料理したあとに残った肉の切れ端や骨の「アラ」ではなくて、そういう名前の魚。関東では「クエ」と呼ぶそうな)であるが、各相撲部屋のちゃんこ番の若手はもう包丁裁きも味付けも全然ダメになってしまっていて、アラ鍋が作られなくなっていると言うのである。せっかくタニマチから差し入れされたアラも、豚肉とかとごった煮にされてしまうとか。ともかく今の力士の注文は、自分のカラダを作ることになど興味はなく、ただひたすら「肉、肉、肉」だそうな。ハンバーガーしか食わないからだじゃ、贅肉は付いても筋肉は付かんだろう。今の相撲が全般的にまるで強そうに見えないのは、こうした食生活の変化も原因にあることはまず間違いのない事実だろう。
 いやまあ、私だってアラなんて高い魚、自宅で食ったことなんてありゃしないのだが、「九州は魚が美味い」というのは、味ばかりでなくその栄養価も含めて我々の自負でもある。「肉の方がいいよ」なんて言って笑ってる情けない力士など、誰が応援なんてしてやるものか、という気になるのも仕方のないことなのだ。
 それでもさすがに朝青龍は、差し入れのアラ鍋を食べて、「こっち(博多)は食べ物がうまいな。力士はやっぱり、食欲だ。体もよく動く」と上機嫌で話していたそうな。なんだかんだで横綱は(つか、高砂部屋は)、相撲取りとしてのからだ作りに注意を払っているということなのだろう。別に私は格別のナショナリストでもなんでもないが、魚料理は少ないであろうモンゴル出身の力士に「味」の意味が理解できていて、日本人力士がそれを忘れてしまっているって事実を突きつけられてしまうと、おまえら国技に従事してるって意識があるんかい、って思いもつい抱いてしまうのである。

2002年11月25日(月) 再爆走� 真深造録燭鹵罅拭悒優海硫Α截慨�(小野敏洋)/『獣星記ギルステイン』4巻(完結/酒井直行・田巻久雄)ほか
2001年11月25日(日) オタアミ承前/『すごいけど変な人×13』(唐沢俊一・ソルボンヌK子)/DVD『金田一耕助の冒険』ほか
2000年11月25日(土) 希ウィッチィズ/安藤希トーク&サイン会



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