無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年11月25日(日) オタアミ承前/『すごいけど変な人×13』(唐沢俊一・ソルボンヌK子)/DVD『金田一耕助の冒険』ほか

 実は昨日の続きです(^^)。
 いや、書いてたら規定容量(原稿用紙20枚)越えちゃったもんで(^_^;)。

 昨日の内容を読まれて、私が、AIQに批判的なのかとお感じの方もいるかもしれませんのでちょっと注を。
 私は自分が身内だと思う人間に対するほど、容赦しません。
 職場を貶すのだって私ゃ自分の職場が好きだからだし、きらら博を貶したのも「同じオタクなのになんだアレは」という怒りからだし、何より妻のしげを無慈悲なほどに斬って捨ててるのは、それはその、はっきりと書くのはシャクに触るんで書きたくないんだがアレだからです。

 表現が過激である(らしい)せいで、誤解を招くこともしばしばだけれど、どんなに気を遣ったって、誤解したがるやつは勝手にします。
 なにしろ、ウチの劇団の中にも、いくら言葉を尽くしても誤解しかできないアホウがいるくらいですから。
 だからと言って、「誤解されるから」と語りかけることをやめるわけにはいきません。
 歯に衣着せぬ物言いは、相手に期待しているからです。
 今回のミスは、どうにも仕方がないという類のものではありません。全て、事前の準備さえあれば回避できるはずの些細なミスの集積でした。いや、実はトラブルが起こること自体に対して批判をしようとは思ってないのです。こちらの予測を越えた事態が起こることだっていくらでもありえるんですから。
 要は一点、「要領を知らない」。
 何に気をつけなければいけないか、それを考えていかねばならないというだけのことです。
 AIQのみなさんがその期待に答えられない方々だとは、私は思っていないのです。

 実際、昨日の宴会、別にAIQのみなさんと諍いになったわけでもなく、私が壁の花になったわけでもなく(イヤな宴会だと私はすぐそうなります)、楽しく過ごさせていただいたのであります。
 しげもひたすら肉を食い続けてたし(^^)。

 毎回、宴会となれば話題の中心となるのはぴんでんさん。
 眠田さんとのやりとりも踏まえて、アブない話をしまくっている。
 ご本人は「日記にいくら書いてもいいですよ。ホントに書いて困ることは喋ってませんから」と仰っているのだが、あそこまでハデな話をどこまで書いていいものやら。
 だいたい、あの岡田さん、唐沢さんを爆笑させてるネタを連発しているのである。どうしてご自身のHPを立ち上げるなり、○○ライターになるなりしないのか。二束のワラジ履いたっていいと思うのに。

 しげもぴんでんさんやZUBATさんと話していると楽しいらしく、ついくっつきたくなって困るのだそうだ。
 「私、本番するんじゃなけりゃ全然OKなんだけど」なんてことをしれっと言うので、さすがのZUBATさんも引く引く。……もちろんしげは自分の言ってるコトバの意味がわかってない。
 私「あのな、おまえ、その本番前っての、どんな意味で使ってんだよ」
 しげ「……ん? 手をつなぐ」
 ZU「それは、言葉の使い方、間違っとるよ!」
 念のために言っておくが、しげは決して作為的にこんなこと言ってるわけではない。「天然」なのである。信じられないかもしれないが。

 みんなでスタッフの特権とばかりに会場で取ったアンケートに目を通す。
 手厳しい意見もままあり、やはり開場の不手際は何人かに指摘されている。でもこれは来年には確実に改善されるはずのものである。
 「寒くて環境も悪かったけど、アミーゴスのお三方との距離が近かった去年の方がよかった」という意見は、「会場が変わって見やすくなった」という意見のほうが多い中では無視されかねないが、傾聴に値しよう。
 そうだよなあ、ある種の「創世」に関わるような瞬間の熱気っちゅうか、オタクシーンの「つながり」というか、舞台と客席の「絆」を演出していく方法も考えていかなきゃいけないんだよなあ。
 客席から登場してもらうってのもちょっとクサイし、お三方は嫌いそうだけれど、何かいいアイデアはないかな。

 岡田さん、アンケートを読みながら、山口県を悪し様に書いたものを見つけて笑う。
 「『山口の悪口はどんどん言っていいです』って、どうしてみんなそんなに山口嫌いなの?」
 更にそのアンケート、佐賀の悪口も書いてある。
 福岡県民の感覚から言えば、単にどっちも「田舎」って思ってるだけじゃないかと思うな。

 福家書店さんに、今日の本の売れ行きを聞く。
 なんと一番売れたのが夏コミ同人誌の『オトナ帝国の興亡』で、28冊だとか。
 次いで、ソルボンヌK子さん編集の好美のぼる作品集、『うわっその子キレイ殺す』、唐沢さんの新刊『社会派くんがゆく』、岡田さんの『フロン』と続く。
 やっぱり新刊が売れるのとと同時に、日頃は目にすることが少ない同人誌に興味が集中したみたいだ。
 この日記見てるヒトで、当日、『オトナ帝国』買った方はいますか?
 実はエロさんが巻頭評論、私が別名で小説1本書いてます。ご感想など頂ければ幸いです(^^*)。

 宴会、10時過ぎにお開き。
 岡田さんは一足先に帰られたが、唐沢さんはホテルの直前まで我々とおつきあい。
 道すがら、ぴんでんさん、お友達の女の子と「今、カラサワシュンイチと会ってるんだよ」と携帯でやりとり。そのお友達、唐沢さんの熱狂的なファンらしい。
 ぴんでんさん、唐沢さんに「口を利いてくれませんか」と携帯を渡す。
 ああ、そんなことをしたら……(・・;)。
 ぴんでんさん、相手が並木史郎か筑紫哲也かと間違えてないか。
 受け取った途端、唐沢さんのマシンガントークが始まる。
 「やあやあやあ、ぴんでんさんのお友達の方ですか。なんですか、聞くところによると、ぴんでんさん、○○○が○○○○○○だそうで。え? ○○? ○○○が○○で○○。ほうそれはそれは……」
 もう周囲は大爆笑である。
 私も思わずぴんでんさんに、「いいんですか? 今のも日記に書いても」と言ってしまう。
 そのときだけは、さすがのぴんでんさんも立往生、箒を持った観音像になっていたのであった(←元ネタはわかるね)。

 ゴクウ君ことロプロス君、カメラマンになりたいとかで、唐沢さんにアドバイスを受けている。
 しかし、果たしてどこまで「本気」で相談してるのかな、と気になる。
 多分唐沢さんにこういうことを話かけてくるファンとかも多いのだろう。「どうしたらライターになれますか」「どうしたらマンガ家になれますか」「どうしたら」「どうしたら」……。
 「運と実力」っていう、わかりきった答えがあるのに、別の答えを求めてしまうのは、その時点で自分に運も実力もないことを認めてしまうことになっちゃうんだけどな。
 もし本気で自分の実力認めてもらいたいなら、まず自分の作品を作って、それを発表していくこと以外にない。自分の作品が作れて初めて、唐沢さんに見てもらうなり、どこかの編集者を紹介して見てもらうなりすればいいのだ。
 プロの世界は「何となく○○になりたい」程度の意識しか持ってない甘えたシロウトを相手にするほどヒマじゃなかろう。

 ホテルでの別れ際に、「別にオタクアミーゴスでなくてもいいからさ、また九州に呼んでよ。落語家何人かと朗読会もやってるから」と仰る唐沢さんに、福家書店さんやZUBATさんが大喜び。
 何となく来年はイベントがまたひとつ増えそうな気配であるが、果たして、みなさん、時間は捻出できるのかね。


 で、やっと今日の日記(^o^)。
 しげはもう二日酔いか気疲れか、「アタマが痛い」と言ってクルマを出してくれない。無理に起こすつもりはないので、久しぶりに一人で職場へ休日出勤。
 実は正月休みも今年はないのだが、なんとかそれだけは避けて休もうと画策している最中である。不況の影響なんだよねえ、これも。

 昼あたりから、咳が出て来て止まらなくなる。どうやらまた風邪を引いたらしい。体調がまた入院前の状態に戻ってきたのかなあ。


 唐沢俊一著・ソルボンヌK子漫画『すごいけど変な人×13』(サンマーク出版・1365円)。
 いわゆる「奇人伝」の類だけれど、初心者向けという感じで、研究者の目で見れば物足りなく感じる部分もあろう。一人あたりに費やしている原稿もごく短い。
 冒頭のコナン・ドイルなどは、自伝や伝記の類を何冊も読んでるので、ドイルが実はホームズものを書くことを嫌ってたことも心霊研究に没頭したことも周知のことで、特に「そうだったのか!」と驚いたりすることはない。
 むしろこの本に取り上げた人々のチョイスの仕方に唐沢さんらしさが現れていて、そこが面白いのだ。
 北大路魯山人、宮武外骨、快楽亭ブラック、ウィルヘルム・ライヒ、岡本かの子、近衛文麿、ジョージ・アダムスキー、長谷川海太郎、白鳥由栄、エド・ウッド、力道山、岸田森。
 いやもう、なんとバラエティーに富んでいることか。
 『丹下左膳』の作者、林不忘こと牧逸馬こと谷譲次(ペンネームを三つ持ってたんである)を「長谷川海太郎」として紹介しているところも、唐沢さんのスタンスがよく解る。このヒトの「デタラメさ」は正しくその本体である「海太郎」自身にあるという見方だ。
 私ゃ牧逸馬名義の『世界怪奇実話』シリーズ読んだおかげで、「マリー・セレスト号事件」を何十年もホントの話だと信じ込まされてたんだよなあ。この人の筆致、とても昭和初期に書かれたものとは思えないくらい、モダンでリズミカルで今も全く色褪せていないのである。それだけの筆力を持っていたからこそ三つのペンネームを使い分けるなんて離れ業もできたんだろう。
 唐沢さんなら、彼に、作家・地味井平造と長谷川四郎という二人の弟がいることも知っていただろうが、限られた紙数ではとてもそこまで触れられない。もっと紙数を与えて、文庫化してほしいなあ。
 圧巻はラストの岸田森。
 彼の蝶好きは実相寺昭雄監督の思い出話の中にもよく出てくるが、ソルボンヌさんの漫画は、その一点に視点を絞って描かれており、わずか6ページの紙数にもかかわらず、まるで夢のような岸田さんの一生を描出することに成功している。
 蝶の標本の部屋で一人、酒瓶を片手に虚空を見つめて孤独に過ごす岸田さんのカットが、都合、三度ほどコピーで登場するが、これがもう、たまらないくらいに切ない時間と空間を生み出しているのだ。私が今まで見てきた漫画の中でも、これは最も美しいコピーの使い方であると断言したい。コピーって、決して手抜きのための道具なんかじゃないんである。
  

 アニメ『サイボーグ009』第7話「見えない敵を撃て!」。
 脚本構成、演出、ともに第1話以来の傑作である。
 原作のストーリーをなぞりながら、その後の009シリーズが内包していった、「神とはなにか、人間とはなにか」といった重厚なテーマもその中に織り込んでしかもちゃんとエンタテインメントとして昇華している。これほどハイレベルな脚本は、ここ十年のアニメを通してみても『エヴァ』など数本しか思いつかない。
 冒頭で、008が東京を俯瞰しながら語る、神に関するモノローグは、『天使編』を予告するものだろうし、003が「雑音が多すぎて聞こえない……」と苦しげに呟くのは、肥大化しすぎた街そのものが「黒い幽霊」と化しているような不安さえ感じさせる。
 それだけ「重い」テーマを孕みながら、鼻キズのヤスとノロマな少年のやりとりのシーンでは、しっかりアニメチックなギャグを飛ばしてくれていて、脚本家がドラマとしての緩急をよく心得ていることが判る。
 009を育てた神父が実はブラックゴーストの一員だったという新たな設定は、『怪人島編』の伏線だろう(あの神父さんのキャラクター、『多羅尾伴内』からの流用なんだな)。009の苦しみはこれから始まるのだということをも予感させる。
 いや、至れり尽せりの演出とはこのことだ。
 0013が透明ロボットだったという設定は原作にはない。手塚治虫の『電光人間』あたりからインスパイアされた設定かとも思うが、石森さんのほかのマンガにもあったかもしれない。なんにせよ、0013が船に激突し転覆させるシーンなど、荘重な音楽とも相俟って怪獣映画を彷彿とさせる迫力である。
 ただ残念なことは、これだけすばらしい傑作にしあがっていながら、原作では唖で知恵遅れの少年が、多少たどたどしい口調ではあっても、ごく普通の少年に置き換えられていることだ。
 身障者をアニメに登場させたら何かと問題があるとの判断だろうが、それは結局、差別事象を隠匿しているのと変わりがない。原作は身障者差別を告発するために描かれたようなものなのになあ。
 だから、視聴者のみなさんには、少年が呟くシーンのセリフを、心の中で原作どおりの「ウヘ……」というコトバに置き換えて御覧になることをお薦めする次第である。


 『こち亀』『ワンピース』を斜め見。
 『こち亀』は悪徳セールスの話で、『ワンピース』はワポルがぶっ飛ばされるあたり。
 ネットなんかでは、ヒルルクの死をずいぶん感動的に紹介してる記述が多いけど、この辺、尾田栄一郎はまんま、なかいま強とかをパクって描いてるんで、私はちっとも感動できないんである。
 これでしばらく原作の方だと「感動編」はお預けなので、これから先、話をどうひっぱって行くかだなあ。またぞろオリジナルエピソードを差し挟むのかなあ。 


 DVD『金田一耕助の冒険』。
 公開当時、小林信彦が「日本にはパロディをキチンと作れる監督がいない」と言ってたが、半分首肯し、半分は失笑した。
 「パロディ」というコトバにただの駄洒落やモジリ以上のものを求めるならば(別にただの駄洒落だって構わんと思うが)、それはその通りかも知れない。
 しかしそう言ってる小林信彦だって、「ただの駄洒落」を『オヨヨ大統領』シリーズや『唐獅子株式会社』でやってるのだ。
 メイキング・インタビューで、監督の大林宣彦が「パロディ映画ってのは、お客さんが自分から楽しもうとするかどうかで面白さが変わる」と語っていたが、実際、私は、このギャグセンスのカケラもない低レベルな駄洒落に満ちた、しょーもない映画が公開当時も今も大好きなのである。
 いや、確かにしょーもないギャグも多いが、金田一耕助の内面にこれほどせまった映画もほかにはないのだ。

 冒頭、物語はいきなり「戦後の」岡山を走る蒸気機関車の中から語られる。
 女学生のクロスワードパズルを見事に解いて見せる金田一。
 「その答えはインディアン・ライラック。百日紅です」
 女学生は感嘆し、金田一の名を尋ねる。照れながら名乗る金田一。
 「ああ、あの有名な……! 言語学者の!」
 金田一、メゲて「……とるに足らぬ男です」と呟き、振り返る。
 ここで、金田一京助と勘違いしたギャグだけを取り上げて、しょーもない、と断じた目の見えぬヒョーロンカのいかに多かったことか。
 しかし、このギャグの秀逸さは、そのあとの「取るに足らない男」の方にあることを見逃してはならない。
 これは実は、原作にある『百日紅の下にて』のラストでの金田一のセリフなのである。自分で自分のことをこんなふうに芝居がかって言うヤツをみなさんは信頼できるだろうか。
 一般的には純情ではにかみやの印象を持たれている金田一が(そのイメージは石坂浩二が作ったものだ)、実は自己顕示欲の強い俗物であることを、この映画はいきなりファーストシーンで暴露し、揶揄しているのだ。
 列車は、東京に到着する。
 そこは、「現代の」東京だ。待ちうけている等々力警部は「岡山の磯川さん元気? 金田一さんも相変わらず快刀乱麻を断つ名推理みたいね」と磯川警部に比べて自分に人気がないことを僻み、羨んでいるかのように皮肉っぽく言う。
 金田一シリーズが戦後の岡山を舞台にした作品に傑作が多く、作品数から言えばはるかに数の多い「東京モノ」にさっぱり人気がないことを揶揄するセリフなのである。
 当時の横溝正史作品の読者は、「現代の東京」になんかロマンを求めてはいなかった。現実に幻滅していたからこそ、土俗的な横溝ミステリーに惹かれていたのだ。言い返れば、それくらい現実の犯罪にはロマンがなくなっていたのだと言える。
 犯罪にロマンを! 不謹慎なセリフだろうが、ミステリーの魅力はまさにここにあるだろう。この『金田一耕助の冒険』は、懐かしき探偵小説にロマンを求めるミステリファンの「自分探し」の物語であったのだ。
 そのことを大林監督は、よく判っていた。だから、原作小説だけでない、監督が愛してやまない数々の映画やCMやその他もろもろ、岸田森の吸血鬼が、三船敏郎の初代金田一が、片岡千恵蔵のホントの初代金田一が、峰岸徹の瞳の中の訪問者が、引退した山口百恵が、東映時代劇からは東千代之介が、高木彬光や横溝正史本人が、考えるゴジラが、星の数ほどのキャラクターたちがただ単に顔見せ程度に出てくるだけ出て来たのだ。
 パロディに名を借りた、これは監督の「お遊び映画」だったのだろう。

 実際、こんなに監督の一人よがりで作られた映画も滅多にない。
 金田一耕助にビリー・ザ・キッドを、等々力警部にパット・ギャレットを重ね合わせて撮ったと大林さんは言うが、そんなん誰が気付くか。しかし言われてみればまさにその通りで、この映画の中での金田一耕助は、大好きなキャラクターや映画たちの間を駆け巡る、まさにイタズラ好きの少年だったのである。
 最終的に夢のない犯罪に飽き足らなくなった金田一自身が、真犯人に変貌して行く過程、このへんには『熱海殺人事件』で犯罪にロマンを求めたダイアローグライターのつかこうへいのアイデアも反映されていると思うが、少年がイタズラに走るのは、つまらない現実をぶち壊し、革命を願うココロの現れにほかならないのではないか。
 ああ、そうだ。
 この映画の金田一って、『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』のケンにそっくりなんだ。回りにあるのはただそこにある懐かしい、いつか見た風景たち。だから、トシを追うごとに私はこの映画が大好きになっていくのだ。ギャグの元ネタが判らなくなるくらい古くなれば古くなるほど。

 アニメオタクには、オープニングの和田誠のアニメーションも一見の価値ある傑作だと紹介しておきましょう。
 欲を言えば、せっかくのDVDなんだから、ついでにテレビ放映時の改訂版音声も収録してほしかったなあ。百恵ちゃんにそっくりの不二子像に江木俊夫がキスするシーンで、テレビ版は百恵引退の直後だったんで、セリフが「どうして引退しちゃったの!?」に差し換えられてたリしてたんだけど。


 疲れが取れず、咳も止まらないまま、泥のように眠る。
 明日は起きれるかなあ。

2000年11月25日(土) 希ウィッチィズ/安藤希トーク&サイン会



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