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2011年08月04日(木)
遊山涸沢山鯨(ゆさん・からさわ・やま「で」くじら) 2/2
先月7月の最終週北アルプス涸沢にいた。 天才政治家西村眞悟夫婦、三文画家夫婦、助っ人強力(ごうりき)大陸(米国・アフリカ)浪人愛国者一人の異色の取り合わせ。 別にサミッター、としてでもピークハントを目的とした山行きでもなく、涸沢の懐にいて酒が飲めるぞーの山旅であった。 梅雨明け十日はもう無くなったのではないか。二年前の上高地涸沢も雨の合間の移動、去年の新穂高槍平もバケツひっくり返したような大雨だった。いずれも七月最終週だった。 今年は台風一過後でもあり、お山は晴天だと思いきやぐずぐずと変化を繰り返す不安定な天気が続いた。腕時計の気圧計は下方グラフは振り切れていた。 だが、ひと言「楽しかった」に尽きた。 最初、酒を一人で涸沢にあげるつもりだった。日本酒一升、赤白ワイン四ℓ、焼酎一升、シャンペン一本、特別の赤ワイン一本、スコッチ年代もん、他。これに非常食・行動食 衣服他が加わる。山での修業時代は既に終えて久しい。苦痛を伴うのは本懐ではない。 楽しくて楽しくてしょうがないといけない。 そこで愛国者ゴーリキいしばし(仮名)を思いついた。二年前北アルプス入門を終へ、今年は奥穂ということで、そこらのオッサンを連れて行くなら、助っ人等いらないが、次の国政を担う重要な人を、荷物でへとへとになった個人が何かあった時に対処出来ないと思った事もあって、ひょっとしたらアフリカ行きを決めていたかもしれないゴーリキいしばし(仮名)に声をかけた。 ゴーリキいしばし(仮名)は不言実行の人である。 大震災直後、すぐ東北に入って、数日の間、家の中にたまった汚泥をかき出しくみ出し続け、何食わぬ顔でまた会社に戻っている。また、過去靖国神社を清掃し、奉賛した。 来てもらって本当によかった。今回ゴーリキいしばし(仮名)の収穫は、かって、下りが得意と言っていたが、実は荷を背負った場合、登りより下りの方がしんどいと言う事がわかった事だと思う。より登山の真髄がわかったと思う。遭難も下りの時に多く起きる。 曇り空の中、横尾の小屋八時前に出発、涸沢2300メートルの小屋に着いたのは午後一時前、涸沢カールの雪は、二週間前には例年より多いと言う情報があったにもかかわらず、行ってみるとヒュッテ、小屋に続く登山路にはほとんど雪はなかった。 なくても、アイゼンを試す事は付けた事のないものにとっては良い経験になるので付けて雪面を歩いてもらった。 西村御大は、数十年前に冬の前穂で死にかけている。若い頃にそういう経験を持った人は又格別なものがあるんだと思う。 今写っている写真を見ていると、清々しい顔をしている。これだけでも今回の山行きは大成功だと感じた。 小屋前のデッキで小屋売りのジョッキビールから始めて持って来た全主類の酒を飲んだ。 シャンペンはゴーリキいしばし(仮名)が、雪渓に穴を堀り埋めてしばし冷やしておいた。何かにかこつけ二度三度乾杯した。 山鯨と言えば猪(いのしし)の事だが、今回、山でほんまもんの鯨を酒の肴にすべく、 あの傲慢無礼者集団シーシェパードが勝手に住み着いている和歌山太地の鯨屋のおっちゃんから送ってもらった鯨の皮と、鯨の珍々、通称’たける’を持って上がった。 腐らしてしまうのを覚悟で持って行ったが、厚さ10センチ縦30横20センチほどの発泡スチロールの箱に一杯の保冷剤を入れ、途中泊の山小屋で、保冷剤の半分を冷凍庫に入れてもらい、継ぎ足して上がった。小屋前で開けた時に既に二日経っていたがまだ凍っていた。 見事、それは二千メートル雲上の酒の肴となった。本わさびも持って上がり卸して供した。 ちなみに鯨の珍々をポン酢で和えたのを鯨の「ちんぽん(珍宝ん)」と言う。 例えばこういう楽しみを方していた椎名誠の怪しい探検隊というのがあったが、そのメンバーの一人だった写真家の岡田昇は目の前の冬の奥穂高の向こう側槍平方面に下山中に行方不明となり今だ遺体は見つかっていない事を思いだしていた。 眼前の前穂六峰、一番奥の三つのピークはガスで見えなかったが、反対側遠く常念岳は見えた。 宴たけなわ、一人のおっさんが思いつめたように寄って来た。あの人は西村御大か?と言うような事を聞くのでそうだと答えると、破顔一笑、言葉が溢れ出た。御大はぶれない、俺は支持する…云々。 夕飯食ってそろそろ律儀な登山者が眠りにつく頃、ゴーリキ、我々夫婦、何故か御大奥さん参加、外の軒下テーブルにて宴会第二弾。 御大酔い多分心地よい疲労感で部屋にて爆睡の模様。無理もないと思った。政治政局思い、現政権に怒髪天を突き、ために神経すり減らし、辺り味方も多けりゃ敵もそれに上回るくらいいるだろう。胆力無しにはやれる仕事ではないと改めて思う。しかも二千メートルは数十年ぶり、若かりし頃と体形も大部変化してしまっている。この高さは酔いが回るのも速い。 ほの暗くなったこの席に、先ほどのおっさんが来て、我が夫婦をぼろくそ全否定するも、あんまりそのいいかたがおもろくて、腹をよじらせて笑いすぎて高度のせいもあったと思うが息継ぎが出来なくなって酸欠一歩手前で死にかけた。 ここ十年、あんなに笑った事はなかった。 しかし、このおっさん、いい所があって、最近の山小屋は酒と言えどなんでも売って居て大吟醸酒迄用意されている、その一番高価な奴を御大に飲んでくれと持って来たらしい。 ぼろくそ言われたけど、うまい酒をお相伴に預かったので許す。何をぼろかす言われたかと言うと、「あんたみたいな猿に何でこんな美人の嫁はんが来るんや!おかしい!」てな事を延々抜かし続けた。喜んでいいのか怒っていいのか、東京人の軽妙洒脱な言い方に笑い転げてしまったと言う訳だった。 ほんまに笑い死ぬかと思った位笑った。 翌朝ゴーリキは早朝片道ベテランで1、5時間の所、難なく二時間で上がり、十一時には小屋に帰って来た。ゴーリキいしばし出発の後、ヘリが一機奥穂方面に飛んで、一人が堕ちたと言う情報が山小屋に届いた。 どんなベテランでも堕ちる時は堕ちる。ましてや北アルプスは初心者、もしもの時の事を考えて頭に思いがめぐった。堕ちた本人意識があるのかないのか、小屋番に聞いても埒が明かない。わからない。 数時間後それは杞憂に終わったが、心配した。そして昼近く、それぞれの思いを胸に山を後にした。 山行きを終えて現在、西村御大は仲間達と精力的に駅前に立ち、ビラを配り挨拶している様子。そのエネルギーはすごい。これを書く間迄に時事通信すでに三、四信。 これからも、合間を縫って「山で酒」に同道したいと思った。また行こな、眞悟さん。
2011年07月31日(日)
遊山涸沢山鯨(ゆさん・からさわ・やま「で」くじら) 1/2
先週金曜日午後京都に帰って翌土曜夕、山ぼけ酒ぼけのまま河内国民文化研究会主催の尖閣ビデオをユーチュウブに公開した「何かのためにsengoku38の告白」の著者、一色正春元海上保安官、西村眞悟(前衆議院議員、現たちあがれ日本。)の両氏講演を聞いた後の懇親会、さらに場所を変へ、もう馴染みとなってしまった八尾にある日本一(にっぽんいち)のたこ焼き屋「たこ八」で昨日迄信州に共にいた西村さん夫婦、一色さん、小林よしのり女系天皇論完全破綻を宣言した「皇統は万世一系である」の著者谷田川惣(やたがわおさむ)さん、研究会主宰三宅博(前八尾市会議員・現たちあがれ日本)さん他が集い腹一杯たこ焼きビール焼酎を飲みかつ喋りし後、偶然にも一色、谷田川さん両人とも京都に住んでいたため、谷田川さんの車で家の近く迄送ってもらった(谷田川さんは酒が飲めない。念のため)。 帰りの車の中は憂国の士の集まりらしく話が絶えなかった。ここでは書けないかなり過激な話もした。二昔前なら、当然出て来るような話題だが、書かない。ちょっと山の疲れをひきずりながら帰宅したら、家人が西村さんがもう時事通信で山中記書いていて読んだところだという。ほとんど帰ったその日に書いたのではないか。そのエネルギーにあらためてびっくりしてしまった。 ちなみに土産にもらったまだ温かいたこ焼き、ちょっと目を離した隙に全部平らげられてしまった。 山行き等の話を書く場合は、少しおいて「何か」が頭の中でまとまる迄、時間がかかるたん譚には真似が出来ない。一週間位して書こうかと思っていたけれど触発されてすぐ書く事にした。 続く。→遊山涸沢山鯨(ゆさん・からさわ・やま「で」くじら) 2/2 西村眞悟時事通信→涸沢の山中にて →2002年の今日のたん譚
2011年07月06日(水)
福島南相馬市他、子供の体内放射能検査結果−1−
六月の始め頃、高田先生とメールでやり取りした時に、この後、南相馬市を始めとして調査しにいく予定ですと書いてあった。七月に入って結果報告がビデオ映像でホームページに発表されたので、転載します。 2011年6月18-20日福島県南相馬市などでの放射線衛生調査を、高田(札幌医科大学教授専門放射線防護学)博士が子供達の健康調査。結果発表と講演のビデオ。 クリック→高田純博士のページ →2010年の今日のたん譚 →2002年の今日のたん譚
いい歳になる迄、大理石はとても堅いものだと思っていた。イタリアバロック期の彫刻家(建築家でもあった)、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、通称ベルニーニの大理石の扱いについての言葉に、「わしは大理石をロウのように扱へたが、古代人の彫刻家達が出来んかったのはわしが天才やからや、それ位大理石の扱いは難しいんやぞ」とか何とか物の本に書かれていて、その呪縛にずっと囚われていた。絵画のカラバジオと並んでその彫刻にびっくり仰天したバロックの巨匠が遺した言葉だから頭から完全に信じ込んで、ん十年…。その呪縛が解けた。 ベルニーニ 「聖テレサの法悦」 コルナーロ礼拝堂 きっかけは、破産したのか税金を滞納したのかどうか、その経緯は不明だが、裏に「差し押さえ物件」とラベルが貼られた、直径120cm 厚みが2.5センチの馬鹿でっかい大理石の丸テーブル天板を手に入れたことからだった。 送られて来て、その重さはもとより、猫の額程の庭(以後、猫額庭)に置いてみるとあまりに存在感が有り過ぎて庭が埋まってしまう感じがし、猫額庭にはまったく不釣り合いな代物だった。これが置かれていた場所は一体どういう屋敷だったのかと思いを巡らしつつ、困ってしまった。 思案した末、円の中心を出してふた回り小さい丸テーブルにする事にした。直径80センチなら、猫額庭にうまく調和する。で、大理石切専用のダイアモンド丸刃を手に入れグラインダーで切る事にした。 生まれてこの方、石を切ることなど考えた事も無いし、ベルニーニが、一つの大理石の固まりから上の作品を彫り出すことが出来るのは天才だからで、そこ迄行かなくてもぶきっちょな工作音痴には自分で石を加工してどうにかしようという事等思いもしなかった。 もともと、運賃だけで手に入れたようなテーブル板だ、どうなってもええかと腹を決め凄まじい切断音のもと切り始めた。 庭中ものすごい切り粉が飛び散り、顔はアフリカのぴょんぴょん飛ぶマサイの戦士のようになり、髪の毛は今有る白髪の十倍くらいの真っ白に染まり、辺りは初夏なのに銀世界になった。 が、なんと!簡単に切れる!! 生まれて初めて石を切った。大小の大理石片が足下に転がった。 切り落とした大理石片を見ていると、その断面は白い粉砂糖の固まりのように見え、決して固そうな感じはしない。じっと見ていると何だか手刀で割れそうな気がしてきた。 昔取った杵柄、一般の空手大会用瓦なら十枚位、K会館仕様の瓦(他流派の使用する試し割り瓦はアーチを描いているが、K会館のは座布団状で二倍の厚みが有る)なら四、五枚位は割った。 そこで右手の甲を下にして置き(左利きのため)、適当な長さの大理石片の端を右手掌に置きかるく握り、もう片端は他の大理石の上において、一撃を軽く加えてみた。割れなかったがいけそうな感じがしたので、今度はかなりの速度をつけて、石に当てる瞬間に、右手で地に着いている方の片を少し浮かせてそれが落ちるのと同時に突き抜く感じで叩いてみたら、カチンと言う音とともに簡単に割れた。 割れなかった時は手はかなり痛いが、割れると力が突き抜けるので全然痛くない。 「え?」と言う感じだった。あまりにもあっけなく割れた。 大理石は本当は脆く柔らかいのではないかと思い硬度を調べたら、柔らかさとしては、砂岩の次に柔らかい。これは本当に意外だった。一番堅いのは花崗岩次に安山岩、そして大理石砂岩と続く。 これまで勝手に大理石はとても堅いと心から信じ込んでいた。 叩いて壊れ易いと言う事と硬度とは違うらしいが、思い当たる節はあった。 スペインに滞在していた頃の、中程度の下宿の階段は横二・五メートルくらいの大理石で出来ていて、真ん中辺りは角が取れて極端にすり減っていた。今から思えば柔らかいからそうなったと得心がいった。 そうか、天才ベルニーニのはったりはさておいても過去それに続く彫刻家達は柔らかいからこそ、精緻で優雅な指の動きや顔の表情を鑿一本で彫りだせたのだ。 脳は見たくないもの、興味の無いもの、固定観念を持ってしまったものについて壁を作るといったのは養老孟司言うところの馬鹿の壁だが、今回、この経験で大理石は堅くない事がわかった。 となると、ある興味が湧いた。現代美術彫刻家がこの柔軟性を逆手に取って何か作品を作っているのではないかと思い、ネットで大理石彫刻を調べた。現代彫刻家は扱いにくい大理石等使わないと勝手に思っていたが、イタリアのトリノで制作している彫刻家がいた! 以下のFabio Vialeの大理石彫刻、面白い。一見、発泡スチロールで出来た髑髏 (下写真)、巨大なタイヤ、巨大な紙飛行機、イタリアの国旗、水に浮かぶ一見折り紙の船、他。これら全て白や黒の大理石で出来ている。 大理石彫刻の驚くべき作品→Fabio Viale の頁に飛んで、上段のworks をクリックすると一連の作品が見られる。 大理石は脆く柔らかかった!
いつも送られて来る、西村眞悟(前衆議院議員)の時事通信 をとても面白く読んでいる。三月初め頃の時事通信には、トラファルガーの戦いを巡って、英国の自衛権の事が書かれていた。 一番最近のは、東郷平八郎率いる連合艦隊の戦艦三笠に乗り込んで記録を書いたアルゼンチンの観戦武官M・Dガルシアの、「トラファルガー海戦はヨーロッパをナポレオンの支配から救い、日本海海戦はアジアをロシアの支配から救った」の引用があった。この二つの海戦、トラファルガーの戦いとそれから丁度100年後の日本海海戦。この二つの戦いを巡って、いろいろ面白い話がある。 この戦いを日英それぞれ描いた繪がある。トラファルガーの戦いは、英国の代表的な画家* ターナー(ホルベイン・ミノー等と並んで日本の油彩絵の具メーカの名前になっている)が二枚描いている。 左The Battle of Trafalgar, 1806 右The Battle of Trafalgar, 1822 ターナーは風景画家であったが、俗にいう「緑」が嫌い(たん譚も大嫌いで使わないが、ここで言う緑は、ヴィリジャンではないだろう。この人工色は、1856年に発明、特許1859年、ターナーは1851年に没だから見ていない筈なので、ここで言う緑は、昔からあるテールベルトだと思われる。)で後に、ベネチアンピンク(透明黄土色)一色のような画調(二枚目)になっていく。風景画家なのに、緑が嫌いだとしたらもう、風景は描けないと思うのだが、薄黄土で描き通した。 世界的には「対馬の戦い(The Batlle of tushima)」として有名な東郷平八郎他乗組員を描いた「三笠艦橋の図」は、画家 東城鉦太郎が、海軍省の命で描き上げた。この繪は、関東大震災の時に消失し、現在保存されているのは、復元されたものである。登場人物は変わらないが、細部においては表現が違っている。三笠艦橋の図
この、トラファルガーの戦いと日本海の戦いは、ネルソンタッチと呼ばれる戦法、片や東郷の方は丁字戦法と呼ばれる戦法、東郷が知ってか知らずでか(当然知っていたろう)共に似ている。ネルソンは、敵の艦列に対して直角に縦弐列の艦隊で相手を分断する戦法、東郷の艦隊は同様に相手に丁型に対するが、この頃には戦艦は進行方向に砲筒が向いており(日本の発明)、従来のように艦の腹を見せ合って砲撃する型から出て、敵が腹を見せているのを、まっすぐ艦首から砲撃する、これで圧勝した。 また、現在化学遺棄兵器回収問題で、日本が馬鹿な対応を中国に取っている中で問題になっている、赤緑黄白(簡単に言うと赤−くしゃみ、緑−催涙、白−着弾の時の位置を示す白煙。現在も当時も催涙ガス、マスタードガス等は町中のデモ鎮圧等で使われている)などの中で、黄にあたるピクリン酸がある。俗にいう下瀬火薬(日露戦争において初採用)の事である。これも日露戦争に於いて多いに役立った。 この火薬は炸裂すると、炸裂時の温度が高く小一時間熱くて近寄れない。砲手がやられて変わりの砲手を出しても熱くて近寄れない効果があって、これも敵を壊滅せしめた大きな力となっている。 英国はトラファルガーの戦いに於いて、ホーレイショ・ネルソン提督をこの戦いで失った。洋上の事、遺骸を持って帰国するのには時間がかかる。 当時英国海軍は必ずラム酒を樽で積んでいた。このラム酒でネルソン提督をラム漬けにして保存、凱旋したと言われている。 何故ラム酒が海軍の酒となったか、この酒をめぐっては面白い逸話がある。 カリブ海のバルバドス(英連邦の一国、立憲君主国)で、島民達がこれを飲んで騒いでいるのを見て、 rumbullion (デボンシャー方言。「興奮」の意)と読んだのが始まりで、以後ラムと呼ばれた。 また、嵐や謎の失踪船多発地帯のバミューダ海域で嵐に巻き込まれた船員達がラムを飲んで恐怖を克服し、嵐を乗り切った。以後英国で海での守りの酒となり、英国海軍が取り入れ、当時蒸気船が主流で、そのボイラーの灼熱に負けないようにと担当の船員に配られた。 が、ラムはアルコール度が高く弊害も出始めたため、E・バーノン提督の時代、提督が、水で薄めて飲めと御布令(おふれ)を出した。今迄普通に飲んでいたものを突然水で薄めて飲めと言われて、船員達はその不平を提督のあだ名だったグログラム(布、生地の名。当時提督が愛用、羽織っていたコートからついた)に引っ掛けて、この薄めたラムをグロッグと呼ぶようになった。現在も水割りのラムはこう呼ばれている。 これを飲み過ぎでふらふらになる事をグロッギーといい、日本でもグロッキーになるという言葉の元になっている。 一方、日本海軍の連合艦隊の話。英国留学において、東郷平八郎提督は当初王立海軍兵学校を希望したが、向こうの事情で許されず、商船学校のウースター協会で学んだ。その時の生活の中で、ビーフシチュウを知った。その味が忘れられず、帰国後任務に就いたある日、料理長にビーフシチュウを作れと命じたが、料理長、そんな料理見た事も聞いた事も無い。話の中から推理して、肉、ジャガイモ、タマネギ、人参をぶつぎりにして入れ、ワインもドミグラスソースも無いので、適当に色の茶色は濃い口醤油、味醂酒等で味付け創った。それは似ても似つかぬものだったが、これが後に日本で一般的になる料理、「肉じゃが」の発明となる。ついでに言うと、提督の学んだウースター協会のウースター(ウスターシャー州・ウスター)は、日本で調味料となっているウースターソースのウースターである。ただ、英国で主流の元祖リーペリンソースとは味が違いすぎる。どちらかと言えば日本のソースはフランスのブラウンソースに似ていると言われている。 トラファルガーと日本海の二つの海戦の裏にはこういう面白い逸話があった。* J. M. W. Turner (1775-1851)英国ロマン派の画家 ペインティングナイフだけで描いたと言われているが、未確認。
2011年05月18日(水)
N氏の食卓は毎日放射線被曝
京都N氏のある日の献立 昼 牛 乳(40) 、パン 夜 玄 米(70) 、わかめ(80) のみそ汁 ほうれん草のおしたし(155) 、肉(55) 、 ビール(5) 、読書しながらシングルモルト(50) 、計455 以上( )内は(単位:ベクレル) 各種食品中に自然に含まれる放射性物質の量 毎日これらから出る放射線により被曝している。 それはさておき、普通短時間でシーベルト10(一万ミリ)を浴びると間違いなく死ぬ。 ところが放射線治療で使われる放射線の強さはシーベルト60(六万ミリ)が体のがん細胞にピンボイントで当てられる。 原発と関係なく毎日の癌での死亡者は900人、年間30万人、この人たちほとんどが、放射線治療をしている。今の医療体制ではどちらにしても、被曝から逃れる事は出来ない。どこに逃げても、癌になれば間違いなく高被曝する。 勿論、医者から「これによってどうなってもかまいません」という念書を書かされる。いやなら断る事は出来る。ただし、其の後、骨折したとする。 癌患者は骨折だけを治療する事は出来ない。癌治療をしながらになるので、そこで放射線治療が必須となる。 自分の体が一体どのくらいの放射線被曝したか知りたい人は,ヒューマンカウンターを使って計る事が出来る。長崎大学にあるこのカウンターは、戦艦陸奥の船体から出来ている。微量の放射線量を計測するのに、自然放射線をカットしなければ計測値が不正確になる。そのために計測室は厚い鉄板で覆われる事になるが、この長崎大学のヒューマンカウンター制作時の鉄は、微量の放射性コバルトが含まれていて(鉄材の摩耗度を放射線を利用して調べるために製鉄所で鉄の中に故意に混入)、反応してしまう。そこで、大東亜戦争以前の鉄にはそれが無い事から、使われているらしい。 そこで、はっと気づく事が無い人間はあほうだ。そのくらい自然放射線は降り注ぎ、体内には食品を通して日常的に摂取しているのに、わざわざ厚い鉄板で遮断した部屋で、自分の体内のごくごく微量の放射線量を知ってどうするんだ。
2011年05月06日(金)
まだ放射能呪縛にとらわれている人達に。
原爆と放射能 「リスク認知とリスクコミュニケーション」とのテーマで 長崎大学が「グローバルプログラム放射線健康リスク制御戦略拠点」と銘打って、徹底して放射能影響を調べた報告書の紹介。 日本財団による10年に渡るチェルノブイリ原発事故の現地住民二十万人の調査と医療の報告書の紹介 、その結果は放射能は怖くないんだという結論、動画10分あたりから原発関連の話題。VIDEO
2011年05月03日(火)
お知らせ 京都円山公園音楽堂で集会とデモ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 頑張れ日本!全国行動委員会・京都府本部 設立記念大会 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 亡国政権打倒! 中国の尖閣侵略阻止・被拉致同胞の奪還・被災地早期復興! 集会 & デモin 京都 日時:平成23年5月7日(土) 14:00 〜 19:00(雨天決行) 1)集 会 会 場 京都市円山公園音楽堂 (京都市東山区円山町 円山公園内) アクセス:京阪電車『祇園四条駅』下車 東へ約450m 阪急電車『河原町駅』下車 東へ約800m 京都駅より�市バス『祇園』下車 何れの場合も、八坂神社石段の100m南の道を東に上ル約300m 開 会 14:15 (開 場 14:00) 登 壇 者 : 水 島 総 (頑張れ日本!全国行動委員会 幹事長) 西 川 晃 男 ( 同 岡山県本部代表) 西 村 眞 悟 ( 同 関西総本部代表) 三 宅 博 ( 同 大阪支部表) 濱野 ゆき子 (私たちが選ぶ国民栄誉賞委員会 委員長) そ の 他 (交渉中)特別出演:saya (シンガー)(敬称略)
閉 会 16:00 2)デ モ 16:15 〜 18:00(街宣車先導) コース : 円山公園音楽堂 → 八坂神社石段下 → 東山三条 → 河原町三条 → 四条河原町 → 仏光寺公園(流れ解散) 3)街宣活動 18:00 〜 19:00(四条河原町角・街宣車は使用しない) 主 催 : 頑張れ日本!全国行動委員会・京都府本部《注意事項》 ・プラカード持参可(ただし、民族差別的なものは禁止)。 ・国旗以外の旗類、拡声器等の持ち込みはご遠慮ください。 連 絡 先 : 090−5043−5585(椿原) 080−5634−5790(桑瀬)→2004年の今日のたん譚 →2010年の今日のたん譚
2011年05月02日(月)
福島原発上空 UFO現わる!か?
今から六十数年前、零戦と米軍の戦闘機が空中戦で火花を散らしていた横を光る火の玉が観察するように飛んでいる光景を日米戦闘機乗りが目撃していて、文字通り火の玉戦闘機と呼んで、互いに敵国の秘密兵器だと思っていた。 時代は二十数年前のチェルノブイリの原子炉爆発の後、炉の真上にUFOらしきものが観察されて、去ると放射線量が下がった、まるで火消しをしているようだったという報告もある。 さて現代、1997年、飛行時間3800時間で退官した元自衛隊空将 南西航空混成団指令 佐藤守の著書、「自衛隊パイロット達が接近遭遇したUFO」を見ると、自衛隊員は結構UFOを目撃している。 パイロット達は、UFOを見ると正直に報告をせねばならないが、未確認(国籍不明)という意味での報告ではなく、光の玉、ようするに空飛ぶ円盤の類いを正直に報告すると頭おかしいんじゃないの?という事になって口をつぐんでしまう。しかし、目撃した事は必ず報告しないと、事国防に関わる。これでジレンマに陥り結構悩むらしい。 だから、この本の告白は全て匿名である。 一方、アメリカなどは諜報の国であるから,どんな報告でも徹底して調査する、だから過去現在何事かをつかんでいる筈である. 今回福島原発が、津波でやられ町全体が壊滅している様を見た時、チェルノブイリのUFO出現が頭にあった。やはりそれらしきものの映像がユーチュープにあった。これをどう見るか。ただ、原発の上かどうかは解らない。最近は簡単に合成出来るからそういう頭で見る。VIDEO エラーが発生しましたと出る場合は、ブラウザの更新ボタンを押して、画面をクリックで再生出来ます。VIDEO
→2004年の今日のたん譚
2011年05月01日(日)
福島原発構内突撃取材−最新(4月末)−
大腸がんの手術後 に、単身福島原発内に入り取材した様子を民放のテレビで流したもの。何故がん手術後と書いたかと言うと、これを見た後に、青山繁晴が大腸がんと知った時、「それ見た事か」派の人々に突っ込まれるのを回避するために書いたのと、逆に手術後の低線量被曝が* 泣きの青山繁晴にどう現れるかどうかが今後見られる。 術後、低線量被曝をした例はないのではないだろうか。再発しようとするがん細胞に一撃を与えて今後再発しないとすれば、* ホルミシス効果が言えるかもしれない。VIDEO VIDEO
* ホルミシス効果…体の悪玉をやっつけるのが白血球。白血球は免疫(病原体や毒素他を対外に排出する機能、)の兵隊。この免疫を人工的に弱放射線で活性化させることがマウスではあるが有効結果が出ている。* 泣きの青山…、話している最中に自身の言葉に感極まり、結構な割合で泣きそうになり、涙ぐんでしまう事が多々有る。同年の男で、TV出演中、不特定多数の前で泣くのをたん譚は良しとしないので、勝手にあだ名を付けた。独立総合研究所の仕事と独自の取材はこれとは別である。