2003年09月20日(土)  花巻く宮澤賢治の故郷 その1

花巻へは前々から行きたいと思っていた。義父が宮澤賢治研究会に長年関わっている縁で、話を聞かせてもらう機会に恵まれていたし、映画関係者に「賢治の世界に影響を受けた」と言う人が多いのも気になっていた。

折り良く今年の賢治祭(賢治の命日である9月21日に毎年開催)が『風の絨毯』盛岡公開(盛岡フォーラムにて20日から)と重なることがわかった。北へ南へ上映各地に足を運んでいるプロデューサーの魔女田さんに「今井さんも一緒にどう?」と誘われ、「行く!」と即答。劇場に挨拶がてら花巻まで足をのばす計画だった。が、直前に魔女田さんが行けなくなり、計画変更。わたし一人が盛岡入りしても意味がないので、花巻だけをめざすことに。賢治祭と賢治学会に参加する義父にくっついて、いきなり誘ったダンナの妹・恵子とともに珍道中のはじまりはじまり。

新花巻駅の改札を出ると、宮澤和樹さんが出迎えてくれる。賢治の弟・清六さんのお孫さん。お会いするのは2年半ぶり。和樹さんの運転で『賢治先生を偲ぶ会』会場の花巻農業高校へ。歴代校長の肖像画が壁をぐるっと囲んだ校長室でお弁当をいただき、茶道部の生徒さんによるお茶会へ。賢治が住んでいた家を移築した『賢治先生の家』の和室の壁には、辞世の句「病のゆゑにもくちん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし」の掛け軸。茶碗にも賢治の句。お茶うけは、童話『貝の火』に登場するうさぎのホモイ君をかたどったお饅頭。賢治づくし、心づくしのお茶をいただく。

庭では賢治の童話『鹿(しし)踊りのはじまり』で知られる鹿踊りの披露も。部活動として取り組み、守り伝えられているとのこと。

続いて宮澤賢治記念館へ。宮澤賢治作品の知識は教科書止まりの身には、驚くことばかり。絵も描き、作曲もし、花壇の設計まで手がけていたとは。涙ぐんだ瞳を表現した『TEARFUL EYES』という名の花壇は、目を見張る発想。北海道に実在するらしい。あの『銀河鉄道の夜』が、5稿まで手を入れながら未完だったということにも、びっくり。あらゆる分野にアンテナを張り、精力的に制作し、しかし37才で閉ざされた才能。だからこそ後の人々は、彼の投げかけた謎や残した空白に答えるように、想像力や創作意欲をかきたてられるのかもしれない。

記念館からイーハトーブ館へ続く坂道は、賢治が設計した傾斜花壇をめぐる形。至るところにも花が咲き誇る花巻は、花巻く町なのだった。坂を降りたところにある句碑の文字は、和樹さんの奥様、やよいさんの手によるもの。ロンドンで書道の先生をされていたやよいさんの人柄は、その美しく優しい筆跡によく表れている。
記念館のカウンター式カフェにも惹かれたが、和樹さんのお店『林風舎(りんぷうしゃ)』2階のカフェは、動きたくないほど心地いい場所。石の壁と高い天井、暖炉、アンティークの家具、ピアノ。「イギリスのマナーハウスを思い出します」と言うと、「それがモデルです」と和樹さん。

おすすめのセバスチャンティー(ストロベリー味ミルクティー)とアリーシャティー(バニラ味ミルクティー)は癖になる甘さ。セバスチャンとアリーシャは賢治作品の登場人物ではなく、やよいさんがイギリスでお世話になった家のお子さんの名前なのだとか。アーモンドプラリネとクリームとスポンジを重ねた手作りケーキのアマンド・ショコラも絶品。ただし、季節ごとにケーキを入れ替えているので、いつ行ってもあるわけではないそう。そのときには別なおいしさとの出会いが待っているでしょう。

1階はショップになっており、オリジナルの賢治グッズも。壁には、『風の絨毯』のポスター。その下には『風のセミナー』のポスター。お店の名前も風がつくが、「林風」は当て字で、『北守将軍と三人兄弟の医者』に登場する3兄弟の真ん中、「リンプー先生」が由来だそう。
夕食は『早地峰』というお店で秋刀魚の刺身や納豆カツ(どちらかというとコロッケ)など、日頃食べられないご馳走。

食事の後は、温泉!わたしと恵子が今日と明日お世話になる宿は、賢治もよく訪れた大沢温泉。ここのお部屋は「山水閣、菊水館、自炊部」と、いわば「松・竹・梅」になっていて、わたしたちが選んだのは、自炊部。「びっくりする古さですよ」と和樹さんは気遣ってくれたが、傾いた廊下といい、心細い引き戸といい、こんなひなびた雰囲気を出せるのは年月の重みゆえ。おそらく賢治が足を運んだ時代の名残を最もとどめているのが、この自炊部なのだ。お風呂は選べる4種類。そのうち1つは山水閣と共通。今宵はその「豊沢の湯」を攻める。


2003年09月18日(木)  夢も人もつながる映画『夢追いかけて』

今週は「水の金メダリスト」に縁があるようで、今日はパラリンピック金メダリストの水泳選手、河合純一さんに会う。生まれたときから少しずつ視力を失い、中学3年のときに失明。だが、希望の光までは失わなかった。「教師になる」「メダリストになる」という夢に向かってまっしぐら、本当にかなえてしまった。その人生を原作に、映画が生まれた。花堂純次監督の『夢追いかけて』。河合さんは本人役で出演されているが、中高時代を演じているのが『パコダテ人』で隼人役だった勝地涼君。わたしのサイトに勝地君のファンの方からの書き込みがあり、この作品を知った。河合さんの新聞記事はいくつか切り抜いていたので、これも何かの縁、と渋谷公会堂での上映を心待ちにしていた。

花堂監督からも「上映にいらっしゃるなら、ジュンピーと仲間たちを紹介します」と連絡をいただく。ジュンピーとは監督(純次)自身なのか、河合さん(純一)なのか。上映前の対面で、後者だとわかる。河合さんの第一印象は、「まあオシャレ」。水泳で鍛えた体を包むスーツのラインの美しいこと。グレーのシャツもビシッと着こなし、海外遠征のスポーツ選手のよう。爽やかな握手の後、「今井さんに」と本(澤井希代治著『夢をつなぐ』)を手渡す仕草もスマート。花堂監督もお会いするのは初めてだが、初めてという感じがしない親しみを感じた。

今夜の上映は日本点字図書館が主催で、音声ガイドつき。白杖や盲導犬を伴った人々が続々と客席を埋めていった。映画を観る醍醐味はまわりの観客との時間の共有だと思っているが、今回はとくにスクリーンに客席全体が引きつけられている感覚があった。息をのむ音、安堵のため息、くすくす笑い、すすり泣き……それらが波のように寄せては返した。

作品については、どこまでが事実でどこからが脚色なのかわからないが、河合さんの生き方そのものがドラマであり、駆け抜けてきた半生の様々なエピソードが溶け込んで、このストーリーになったのだろう。夢を持つことはすばらしいし、夢を実現させることはもっとすばらしい。そのためには本人の努力とまわりの協力が大切で、河合さんの場合は持ち前の負けん気とバイタリティ、家族や友人や教師の理解と励ましがあった。とくに作品では中学校時代と盲学校時代の恩師との絆が印象的だった。高校教師の父の姿や教育実習の記憶が重なった。河合さんの夢が失明によって萎むどころか膨らみ、花開いたのは、恩師の存在が大きかったのではないか。教師になる夢が膨らんだのも、身近に目標となる人がいたからかもしれない。

上映終了後、会場出口では河合さんと監督に声をかける人の列が連なった。「勇気づけられました」「ありがとう」「応援してます」……。白杖の男性に付き添った女性が「右が河合さん、左が監督さんですよ」と囁く。あたたかくて、やさしい光景だった。

近くのホテルのラウンジで感想などを語りあう。メンバーは、河合さん、監督、現在は早稲田大学の修士課程で学ぶ河合さんの地理学講師の男性、早稲田祭での上映の実行委員の学生さん3人、着物で駆けつけた監督の友人の女性、監督とは初対面という俳優の矢吹蓮さん、それにわたし。河合さんは美人を見分けられるのだそうで、「肩を貸してもらう相手を選んでいる」という講師氏の暴露話に爆笑。わたしの肩は必要とされなかったが……。よく話し、よく笑い、楽しい時間だった。サイトの書き込みからこんな風に輪が広がるなんて愉快だなあ、と思っていたら、まだおまけがあった。「来週堺市で上映するんですよ」と言われて調べてみたら、なんと会場は実家の最寄り駅の前。歩いても15分ほどの距離。これは両親に知らせねば、と実家に電話すると、「ああ、3日ほど前に申し込んだよ」。地元のコミュニティ紙に記事があったのだとか。「夢」は人もつないでしまう。

2002年09月18日(水)  月刊ドラマ


2003年09月17日(水)  Virginie Dedieu(ビルジニー・デデュー)

■フランスから来日中のシンクロ選手、ビルジニー・デデューさんが顔見せのために来社。まずは2003世界水泳・バルセロナでソロ金メダルを獲得した「芸術点オール満点の演技」をビデオで鑑賞。技の完成度といい、しなやかな動きといい、豊かな表現力といい、完璧。ソロはオリンピックの正式種目でないのがもったいない。シンクロにはつきものの鼻栓をしないことでも知られる彼女、鼻に水が入って息苦しくなったことはなく、鼻や耳の炎症に悩まされたこともないとか。(フランスでは「鼻が悪くなければ耳、耳が悪くなければ鼻、どちらかが悪くなる」と言うらしい)。恵まれているのは身体だけではなく、類まれな美貌の持ち主。広告業界が放っておくはずはないが、映画からもオファーがあったそう。ただし本人は演技することにはあまり興味がないようで、「広告出演で世界を広げたい」意向のよう。■長い手足を活かした演技からは大柄な人を想像していたが、身長164センチと日本人にも親しみやすいサイズ。「ピチェンヌ(おちびちゃん)」と呼ばれる小柄な体に秘めたパワー。顔には知性があふれている。大学では建築を学んでいて、絵を描くのが好き。ふだん持ち歩いている手帳は、町の風景や建物や人物など味わいのあるスケッチで埋めつくされていた。「水の女王」でありながら、それだけにとどまらない。アスリートでありアーティストである彼女は「"possibility"の人」。名前のVirginie Dedieuはフランス語で「聖なる神」を意味するのだそう。■集まった社員は興味津々。次々と質問が投げかけられた。「ソロの振り付けは自分で考え、コーチにチェックしてもらった。曲を聴いていると自然にイメージが浮かんだ」、「演技のときは、いつものメイクをちょっと濃い目にするだけ。でも落ちない」「水に長時間入ると肌が乾燥しやすいので、気をつけている」など興味深い話を聞けた。世界陸上のおかげで、日本での知名度はフランス以上。シンクロ人気は日本のほうが上だし、フランスには日本のような大型ビジョンもないし、とのこと。今回の来日ではサインを求められることも多かったとか。話し方は落ち着いていて、年齢以上に大人っぽい印象を受けた。個人的にも心ひかれる人だった。

2002年09月17日(火)  宮崎映画祭『パコダテ人』上映と手話


2003年09月16日(火)  『冷凍マイナス18号』キャンペーン開始


■日本冷凍食品協会の『冷凍マイナス18号』キャンペーンがはじまった。キャンペーンの顔は、冷凍食品ソング『冷凍マイナス18号』とキャラクター『冷凍マイナス18号ファミリー』。作詞・キャラクター開発から関わっているので、成長したわが子の巣立ちを見守るような気持ちになっている。これから10月18日の『冷凍食品の日』に向け、各地の冷凍食品売場で歌が流れ、新聞広告や駅貼りポスター、ネット広告などが世の中をお騒がせしていく予定。今日編集を終えた30秒CMも間もなくCSでオンエア開始。キャンペーン期間は10月31日までとなっているけど、打ち上げ花火に終わらず、歌とキャラを育てていきたいと考えている。■先週金曜(12日)午後に立ち上がったキャンペーンサイトの制作は、大阪を中心に活躍されている永野デザイン室さん。時間がない中でのハードな作業にもかかわらず、楽しみながら作ってくださったのが伝わるサイトになった。オープニングのフラッシュアニメは何度見ても楽しいし、キャラクター紹介もかわいくできている。映像つきCDと飛び出す絵本目当てにアクセスした人も、ついつい長居してしまうのでは。アクセスは金曜中に3桁になり、月曜に4桁になり、本日火曜に2000突破。マスコミへのリリースは流れだしたばかりで記事や番組には取り上げられていないし、広告もこれからなので、今のところは口コミでアクセスが増えている様子。あとひと月半でどこまで数字が伸びるか、楽しみ。アクセスは日本冷凍食品協会のトップページからどうぞ。


2003年09月14日(日)  ヤッシー君、地震を吹っ飛ばす!

来るかもしれない地震に備えて、昨日は朝から大掃除。資料と衣料が地崩れを起こし、すでに地震後のようなわが家を地震前状態にしなくては。

「すて奥」作戦でワイングラスやら香水瓶やら家中のあらゆるガラスを花瓶にしてしまったので、倒れないよう箱に入れたり紙袋に入れたり、間にプチプチを詰めたり。牛乳パックはワイングラス梱包に便利と発見。テレビが凶器になると聞いたので、壁との隙間に座布団を詰め込む。

まあ気休めかもしれないが、「気休め」とはよく言ったもので、何かしていると、安全に近づいているような錯覚を起こし、気持ちが落ち着いてくる。

飲み水は買ったし、お風呂に水も張ったし、来るなら来い、となったところに沖縄出張からダンナ帰還。「おみやげ」と差し出されたのは、ガムテープをぐるぐる巻きにした道具箱。「何これ?」「ヤシガニ」「ヤシガニ?」「うん、生きてるよ」「生きてる!?」。なんでこんなときに面倒なもの買ってきたのとなじると、「酔っ払って、欲しくなっちゃった」とのこと。

大袈裟なカムテープをおそるおそるはがすと、中でガサゴソ。「うわ、ほんとに生きてる!」「ゆでて食うとうまいらしいけど、飼うっていう手もあるらしいよ」というので、『ヤッシー』と名づける。30センチ立方大のプラスティック衣装ケースに深さ3センチほど水を張り、放流。

ところが、ネットで育て方を調べたところ、「間違っても飼おうとは思ってはならぬ」と経験者からの忠告。想像を絶する怪力で金網さえも破るので、強固な小屋を作らなければ脱走されるとのこと。

「うちのヤッシーに限ってそんなことはないだろう」と勝手に決めつけたが、念のためダンボールとお盆2枚で蓋をした上に重しの電話帳を乗せ、ヤッシー小屋のあるダイニングのドアを閉めて寝る。

ヤッシーは一晩中ガサゴソ音を立てていたが、今朝ダイニングは不穏なほど静まり返っていた。「暴れまわって疲れたかな」と小屋をのぞきこむと、なんと、中はもぬけの殻。「ヤッシーが脱走した!」「ええっ」とわが家はパニックに。

ジュラシックパークの厨房シーンさながらの緊張が走る中、四方に目を光らせ、どこから飛び出すかわからないヤッシーに向かって投降を呼びかける。たかだか6畳ほどのダイニングの、どこに身を隠しているのか。沖縄ではゴミ箱を漁っているという噂なのでゴミ箱をひっくり返すが、いない。

と、棚の上にあったはずの箱が床に落ちている。椰子の木に登って実を食べることからヤシガニの名がついているので棚登りも楽勝なのかも、とのぞきこむと、棚の後ろのすき間にうずくまっていた。

決死のダイブをはかったのか。こうなったらゆでてやる、とバーベキュー用の火箸を構えるが、必死の抵抗に遭い、捕獲は難航。煮立った鍋まで持ち上げられず、鍋を床に下ろして、ひきずりこむ作戦に。命をいただくというのは戦いなのだと実感。


黒い猛獣と化していたヤッシーは、数分後、きれいに赤くゆであがり、おとなしくなった。すぐには食べる気になれず、冷蔵庫へ。「いつの間にか生き返ってさ、ドア開けたら襲ってきたりしないかな。冷蔵庫の中、食料いっぱいだし」とダンナはSF映画的空想を繰り広げる。

地震の恐怖は吹っ飛んでしまったけど、ヤシガニにはもう、うんざりがに!

2002年09月14日(土)  旅支度


2003年09月12日(金)  ビーシャビーシャ@赤坂ACTシアター

■名古屋に住む行動派同級生・亜紀ちゃんが「学会で上京するときに観たいものがある」と誘ってくれたのが、『ビーシャビーシャ』。アルゼンチンから上陸した型破りパフォーマンスの評判は聞いていたので、早速チケットを取る。劇団四季のホームシアターだった赤坂ACTシアターが四季劇場移転のため取り壊されることになり、「最後だから何やってもいいよ」ということで呼んできたこの公演、それまでは日本では上演不可能と言われてきたとか。「天井から水が降る」「いや、人が降ってくる」「そうじゃなくて、客がさらわれて空を飛ぶ」といろんな噂が飛び交っていたが、とりあえずスカートは避けて会場へ行くと、ビーチサンダルの集団が。足元ビシャビシャに備えるのを忘れていた!開演までロビーで待っている間、床や壁に書き殴られたイラストやメッセージを見て楽しむ。取り壊し寸前なので落書きおOKらしい。「感動をありがとう」「忘れない」といった言葉にまじって、「一度ここの舞台に立ちたかった」「絶対女優になる」といった決意表明も。■会場に入ると、オールスタンディングの客はすし詰め状態。今日はとくに混んでいるのでご注意をとのアナウンス。でも、注意しろったって……。会場内は「何かが起こる」のを待ち受ける観客の興奮が渦巻き、巨大押し競饅頭をしているよう。ちょっとしたゆるみで将棋倒しが起きかねない状況で、期待感よりも不安が上回ってしまい、思わず亜紀ちゃんとギュッと手を握りあう。紙を張った天井を見上げること約10分。天井がスクリーンとなって影絵を映し出す感じ。猛スピードで横切る人影や転がってくる球体が見える。ライトがぐるぐる回り、幻想的。だが首が疲れる。後ろの男二人組は「引っ張りすぎ。早く始めようぜ」とブーブー。と、天井がプラネタリウム状態になったかと思うと、あちこちがビリビリと破け、パフォーマーが見え隠れする。そして天井が破け去り、命綱でぶらさがった男女の集団が頭の上を行ったり来たり、かと思うと、ミニスカートの女性二人が壁を全力疾走。この壁走りの力強さは、見ているこちらも力がみなぎるよう。鍛え上げた筋肉が弾丸のように駆け抜ける姿は重力を超越していて美しい。とにかくパフォーマーたちはあきれるぐらいエネルギッシュで全身ゴムまりのように弾み続ける。すぐそばをパフォーマーが通ったとき、その体は汗ぐっしょりだった。■遠吠えのような歌と太鼓、天井から水を降らせての足踏み鳴らしダンス、客をさらう空中闊歩男、壁をトランポリンに見立てて弾む男女……。あるときは壁、あるときは空中、あるときはバルコニー、あるときは移動式ステージが舞台になり、パフォーマンスが繰り広げられる。そのたびにスタッフが観客を強引に誘導し移動させるのだが、これでよく将棋倒しが起きないものだと感心するほど唐突で乱暴。「遠慮するとかえって危ないかもよ」と亜紀ちゃん。1時間ちょっとの上演時間はあっという間に終わり、後には破けた天井の紙が汚く溶けたビシャビシャの床が残った。その水たまりに点在する色とりどりのものは、プラスティック製の小さな飛行機やスパナ。これも天井から落ちていたらしい。床にかがんで拾い集める人たちの姿が目立ったが、ほとんどが踏み潰されてグシャグシャだった。

2002年09月12日(木)  広告マンになるには


2003年09月11日(木)  9.11に『戦場のピアニスト』を観る

遅ればせながら、見逃していた『戦場のピアニスト』をスクリーンで観ることができた。かなり気になっていた作品だったが、ここまで重くのしかかる内容だったとは。観ている間は打ちのめされっぱなしで、会場の浅草公会堂を出た後は足がふらつき、しばらく現実の「平和な日本」になじむまでに時間がかかった。

雷門の近くは小さな路地が密集しているが、そこから銃を構えたドイツ兵が撃ってくるような錯覚を感じたり、地面に死体が転がっていないことに胸を撫で下ろしたり、妙な緊張と安堵のくり返しを味わい、どっと疲れた。アウシュビッツの収容所を訪れたときの頭の中に鉛を置き去りにされたような感覚が残っていた。

SF映画やアクション映画なら、手に汗握り、心臓バクバク、悪を憎み倒しても、「これは作り物の世界だから」と、夢から覚められる余裕がある。けれど、「このような残虐な過去が事実としてあった」というのは逃げ場がなく、息苦しい。

客席から何度も小さな悲鳴が上がるたび、この何倍もの阿鼻叫喚を誘う地獄絵が、ほんの60年ほど前に現実としてあったのだと思い、その光景を数年前に訪れたワルシャワの記憶に重ね合わせ、何ともいえないほど気持ちになった。人が人に対して、これほど残酷になれてしまうことの恐ろしさ。こんなことは二度とあってはいけないし、二度と起こさないために何ができるのだろうか、と考えさせられた。

肝心のピアニストの人生については、ドイツ人将校との交流が意外にあっさり描かれていて、むしろ命を賭けて彼を匿った地下運動家たちの勇気に感嘆した。ドイツ人将校のその後はクレジットで紹介されたが、地下運動家たちとピアニストの家族はどうなったのか。ピアニストは80才まで生きたそうだが、命の恩人や家族には再会できたのだろうか。音楽以外にも友のいる人生だったのだろうか。

平和な時代の平和な国で、不条理な差別も迫害もなく、堂々と町を歩き、好きな場所へ移動できるありがたさに感謝しつつ、これが、いつの時代でも、世界のどの場所でも、誰にとっても、当たり前のことであってほしいと願った。


2003年09月08日(月)  「すて奥」作戦

雑誌「すてきな奥さん」を略して「すて奥」と言う。(「おはよう奥さん」は「おは奥」)。広告業界語かと思ったら、一般にも結構流通している言葉らしい。なるからには「すて奥」になるつもりだったのだが、整理整頓が大の苦手な「捨てられない奥さん」であるがゆえ、部屋は荒れ放題、このままでは「捨てられた奥さん」の危機。いかんいかん、そっちの「すて奥」になっては困る。で、心機一転「すてきな奥さんキャンペーン」を勝手に開始。

まずは「花いっぱい運動」。先日感銘を受けた伊豆の作右衛門宿を真似て、家中に花やグリーンを飾る。花瓶が足りないので、香水瓶やデミタスカップも花器に変身。身の回りの物にひと工夫加えるのは、「すて奥」の常識。もちろん「このお花、うちのお庭(といってもベランダ)でとれたものよ」とアピールも忘れない。

花を摘むついでにハーブも摘み、自家製ハーブティーなど淹れてみる。レモンバーム、ローズマリー、バジル、ラベンダーをブレンドした、自然の香りいっぱいの爽やかな味わい。「君にこんなことができるとは!」と驚いてグラスをのぞきこむダンナ。まさか毒でも盛っていると疑ったか。

心をとろかすには、何といってもアロマ。会社の近くのキャンドルハウス青山でアロマキャンドルを仕入れ、家中を甘いストロベリーの香りで満たしてみたが、「なんだ、暑苦しい匂いがするぞ」と不評。季節を間違えたか。茶香炉作戦に切替え、緑茶の香ばしいアロマを醸し出すと、こちらは気に入った様子。「おお、何だこれは。茶香炉っていうのか。ああ、チャコウログレーのチャコウロか」とご満悦。ダンナよ、それは違うぞ。こんなとき、すて奥は何と言って正すのだろうか。


2003年09月01日(月)  「うんざりがに」普及運動

■「うんざりがに」という言葉を流行らせようとしているが、どうも流行りそうにない。きっかけは、ダンナが猛暑とわたしの弾丸トークのたたみかけに参って、「もう、うんざりがに!」と悲鳴を上げたこと。この響きが妙に気に入り、以来、嫌気が差すと、「うんざりがに」と言い合うようになった。言うときには両手でVを作り、「ざりがに」のジェスチャーをするのだが、いかにもやる気のないVサインはバカバカしく、脱力した笑いを誘う。これは他人が見ても面白いのでは、ひょっとしたら流行るのでは、と二人して盛り上がり、「うんざりがに普及運動」が始まった。暑さのせいで、どうかしていたのかもしれない。■同僚で仲良しのT嬢が「かわいいー」とやや受けしてくれたのに気を良くして、『夢の波間』に出演してくださった上杉祥三さんと西凜太郎さんに再会した際に披露したら、「大丈夫?」と心配された。「あれ、おかしくないですか、うんざりがに?」「おかしいのは、今井さんですよ」。お二人に会うのはこのときが二回目、人間関係が確立されていない相手の前では危険なネタだとわかり、あえなく退散。■秋の訪れとともに「うんざりがに」熱も冷めつつあるが、ダンナは深夜番組をぼけーっと見ながら、「ある日突然うんざりがにが流行語になってさ、あれ言い出したのはオレなんだよって自慢したいなあ」と夢を見続けている。誰か、流行らせてくれませんか。


2003年08月26日(火)  アフロ(A26)

なぜかわたしの入社した年にはやらなかったけれど、それ以来毎年伝統のように続いている新卒パーティーの今年のテーマは「アフロ」!開催日の8月26日(August 26)を略してアフロ(A26)なのらしい。わたしの後ろの席に入れ替わり立ち替わり新卒君たちがローテーション配属されたおかげで、「店探し」にはじまり、「アフロというテーマ決定」「アフロのヅラ発注」「夜ごとのダンス練習」「必死のチケット販売」と繰り広げられた舞台裏を垣間見ていた。

途中、青春ドラマを見ているようなぶつかりあいがあり、その後のこれまたビバヒルもびっくりの熱い仲直りがあり、近所のお姉さんとしては、「この子たち、無事パーティーできるのかしらん」とおせっかいな心配をしながら出かけたのだが、蓋を開けてみれば、受付で渡されたアフロヅラを率先してかぶった瞬間、映画「ゲロッパ」を見たせいで疼いていたアフロ熱が一気に爆発。「今日はとことん楽しむぞ!」とフィーバーのスイッチが入った。

新卒君たちが猛特訓したダンスは、テレながら一生懸命踊る姿がなんともかわいく、参観日のお母さん状態でウルウル。ダンスタイムに突入すると、アメリカのディスコで体に叩き込んだユーロビートにあおられ、パブロフの犬状態で体が動き出す。気がつけば、アフロから滝のような汗をしたたらせ、まわりがひくほど踊り狂っているのはわたしだった。終わってから「いやー、よかったよ」と新卒君に声をかけると、「僕たちのために盛り上げてくれてありがとうございました」と爽やかな返事。好きで楽しんでただけなんだけど、「なりふりかまわず、年も考えず、プライドを捨てて盛り上げてくれた先輩」に映っていたのだろうか……。

2002年08月26日(月)  『ロシアは今日も荒れ模様』(米原万里)

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