2003年05月18日(日)  風じゅーの風よ、吹け!

東京・横浜での「風の絨毯」の公開2日目。シネスイッチ銀座で榎木孝明さん、工藤夕貴さん、益田祐美子プロデューサー、柳生美結ちゃんの舞台挨拶があったので、かけつける。300人ほど入っていたのではと思われる大入り。いつもは黒などのシックな装いが多い工藤さんが、カラフルな幅広ボーダーのチューリップラインドレスで登場。思わず「ステキ!」とため息がこぼれた。美結ちゃんはウェスタンなあしらいのスリムジーンズ。身長は現在1センチ差でわたしが勝っているけど、足の長さは絶対負けてる。もちろん細さも。平成祭屋台の仕掛け人、中田金太さんにもお正月ぶりにお会いできた。日本で英語を教えているというニューヨーク出身のシアターフリークな女性が「英語字幕がついてなくて、内容がわからない部分があったんだけど」と話しかけてきた。東京国際映画祭のときには、全台詞に日本語字幕と英語字幕が対応していたけれど、今回の公開作品はペルシャ語の台詞にのみ日本語字幕が対応。「でも、すばらしい作品だから広めておくわ。英語つきDVDが出たら連絡して」と女性。

シネスイッチ銀座脇にあるレストラン「OLD MOVIE」に関係者が集い、軽い打ち上げ。乾杯のとき、隣にいた女性の名前は景山さん。どこかで聞いたことがある名前だと思ったら、魔女田本に登場する「人間宅急便となってテヘランから生フィルムを持ち帰った景山咲子さん」だった。現在、日本イラン文化交流協会の事務局長をされているという景山さん、以前勤めていた商社が中東と取引があり、そのとき身につけたペルシャ語(本人いわく、「ペルシャ語のペの字ぐらいしか話せないので、ぺ語」)を活かし、現在は日本イラン文化交流協会の事務局長をされている。初対面なのに、お互いのことは魔女田本「私、映画のために1億5千万円集めました!」で予習済み。「あの景山さん!」「あの今井さん!」と一瞬で打ち解け、一気に話がはずんだ。

本での情報では「一イラン通」の方だと理解していたのだが、なんとシネマジャーナルという「女がつくる映画誌」の発行に携わる映画通であることが発覚。最新号は風じゅー特集で、益田さんの独占インタビューも。おまけに景山さん、「NHKの朝ドラ『ロマンス』以来、榎木さんの大ファン!」だそうで、東京国際映画祭にぎりぎり間に合った生フィルムは、うってつけの人の手によって空輸されたとわかる。「これは運命です!ドラマになります!」と興奮してしまった。よくよく話を聞いてみると、「ほんとは私、フィルムを持ち帰れないはずだったんです。行きの機内で福岡映画祭に行っていたイランの映画関係者と知り合って、イスファハンでこども映画祭があるって聞いたので帰国日を延長したんです。そしたら益田さんからSOSの連絡が入って…」。その電話が入ったテヘランのイラン人宅というのが、日経新聞の記事を読んで益田さんに連絡を取ったイラン経済研究会の方が30年前に下宿されていた家だとか。つくづく事実は小説より奇なり。

その景山さんより、「イラン文化週間」の情報を入手。5/22-28(25日は休演)まで国際交流基金フォーラム(赤坂ツインタワー1階)にて、イラン映画の上映やイラン文化についての講演などが行われる。28(水)10:00-12:00、風じゅーのカマル・タブリーズィー監督の前作「テヘラン悪がき日記」上映+監督への質問が行われるとのこと。

先日、三越イベントで再会した「99年函館映画祭以来の知人」巌本さんとも同じテーブルで話がはずむ。風じゅーの応援とあわせて、加納周典監督の映画「ロデオドライブ」の宣伝にも関わっているそう。

風じゅー公式サイトを運営するシネマイマジカ、カフェグルーヴの皆さんとは、「風を起こそう」と盛り上がる。ネット上で絨毯を織る特別企画1000人の絨毯は250人で1枚の絨毯が織り上がるのだけど、1枚織り上がったときに感動的なことが起こるらしい。「この仕組みのために半月かけたんです!」とカフェグルーヴ社長の浜ちゃんこと浜田寿人。絨毯に登録した人だけにわかる、ささやかなサプライズもあるそうなので、ぜひぜひご登録を。ちなみに、登録時に書き込むメッセージをすぐに見られないのは、「絨毯に託した一人ひとりの願いや祈りは、絨毯が織り上がったとき、ひとつになる」からだそう。みんなの思いが結ばれる瞬間(250人目)まで、ただいま、あと189人。

2002年05月18日(土)  『パコダテ人』のかわいい絵の安井寿磨子さん
1979年05月18日(金)  4年2組日記 西佳先生好きょ


2003年05月17日(土)  脚本が届く日

■『風の絨毯』公開初日の朝、NHK-FMシアター『夢の波間』の脚本が届く。脚本家としてデビューしたきっかけはFMシアターだった。『タカラジマ』『雪だるまの詩』につづいて3年ぶりの3作目。今回のお話は大阪に帰省したときに、母と話していて思いついた。古文書(こもんじょ)の研究会に入っている母が取り組んでいたのが、廻船問屋(今でいう海運会社と商社がひとつになったようなもの)の記録で、「何月何日に何をどんだけ積んだ船がどこへ向かったか、きっちり記録してあるねん」と話しているのを聞いて、「一見単なる備忘録のような古文書から、当時の人々の思いを読み取れたら面白い」と思った。そういえば今年は江戸開府400年。かつて船模型をつくっていた現代の男が、江戸時代の廻船問屋の遺した古文書に出会う話にしよう。二人の男の接点は、海。海には夢があり、ロマンがある。そう思って飛びついたのだが、そこからが難航した。日本史の知識は悲しいほど乏しく、歴史小説もほとんど読んだことがない。昔の和船の構造と洋船との違い、年号や時間の呼称、鎖国について、神社について、船模型について、調べることは果てしない海のようにあった。物語の舞台である「佐野浦」は、現在の大阪府泉佐野の辺り。母と、古文書仲間のD氏が本や写真や新聞の縮刷版コピーなどをどっさり送ってくれ、船旅を助けてくれた。着想から脱稿まで5か月近く。寄り道したり漂流しかけたりの長い旅だったので、脚本完成のよろこびはひとしお。少しずつ島影が見えてきて、やっと船が着いたぞ、という感じ。印刷された脚本を見ると、いよいよ作品になるという実感が湧いてくる。この瞬間がたまらない。■現在開発中の脚本作品は、映画。午後4時半にはじまった打ち合わせは、翌朝18日の9時まで続いた。トイレに立った一回以外は椅子に座りっぱなし。机の上の食料をつまみ、お茶をとっかえひっかえしながら、話し合いと同時進行でキーボードをたたき、本を直していく。眠気と疲れで脳が酸欠状態になる中でのアイデア出し。しんどいけれど、集中してたたいた本が確実に良くなっているのが見えるのは楽しい。本が届く日まで、もうひとふんばり。

2002年05月17日(金)  人生最高の日〜『パコダテ人』最終日
1979年05月17日(木)  4年2組日記 今日から日記


2003年05月05日(月)  日本橋三越に「風じゅー」現る!


■日本橋三越で行われていた「風の絨毯」イベントに義母を誘って行ってきた。高山から運んできた祭屋台は高さもあり、存在感も注目度もバツグン。1時間2回のからくり上演には、ちょっとした人垣ができていた。劇中で祭屋台にかけられたペルシャ絨毯や、さくら役の柳生美結ちゃんが着ていた「イスファハンでのお祭りのときの衣装」や「子どもたちの描いた絨毯デザイン画コンクール入賞作品」など、盛りだくさんの展示で見ごたえ十分。大小さまざま色とりどりの「さるぼぼ」をはじめ、飛騨高山の名産品を売るコーナーも。魔女田本、「風の絨毯」絵本も平積みされていた。会場に詰めていたプロデューサーの益田さんによると、「作品に興味を持っていろいろ聞いてくる人が多くて、面白いよ」とのこと。この人はほんとに人に会うのが天職。ここで思いがけない再会があった。「おひさしぶりです、今井さん」と声をかけてきたスーツの男性、売り場の店員さんかと思ったら、4年前の函館の映画祭で知り合った巌本和道さん。イラン映画好きとは聞いていたけど、まさかこんなところで遭遇するとは。イラン大使館で益田さんに会った縁で風じゅーに最近巻き込まれたそう。三越でのイベント期間中は毎日お手伝いに通われていたそうで、前売チケットを熱心に売ってくれていた。


2003年04月30日(水)  2003年4月のカフェ日記


■左から「お花見で行った小石川のイタリアン『ラグレスト』のガトーショコラ」「近所のケーキ屋Shimonのケーキ」「中目黒のスタバのバナナケーキ」。
■外苑前にあるトラットリア・ペコラのディナーコース(4200円)をしめくくるデザート。好きな種類を全部指名できるので、よくばって4種類。前菜(下段右)からデザートまで心配りのきいたおいしさで、豊かな気持ちに。

2002年04月30日(火)  焼肉屋『金竜山』で酒池肉林
2001年04月30日(月)  2001年4月のおきらくレシピ


2003年04月25日(金)  魔女田本「私、映画のために1億5千万円集めました」完成!

風の絨毯プロデューサーの「魔女田さん」こと益田祐美子さんの奮闘記「私、映画のために1億5千万円.集めました。」(角川書店)が完成! 4月30日により全国書店に並ぶ予定。ひと足早く手元に届いたので、表紙をご紹介。風じゅー関係者の中でただひとり、わたしと色の派手さを競い合っている魔女田さんらしい、ハデハデな赤とレインボーの組合せ。愛用の真っ赤な勝負スーツを彷彿とさせるギラギラぶり。本屋で目がチカチカしたら、この本のせいです、きっと。逃げずに手にとり、できればそのままレジへ向かっていただきたい。映画製作を思い立ってから3年、無理だ無茶だと言われながらも、企画という赤ちゃんを立派な作品に育て上げた魔女田さん。そのパワーに圧倒され、自分にも何かできそう、と元気が湧いてくるはず。■じつは、この本の編集者・藤田有希子さんとわたしの出会いにも不思議な縁が……。もう一人のプロデューサー・山下貴裕さん(彼は今回の本で裏エピローグを執筆)とわたしが出会ったランチに居合わせたのが、藤田さん。そのときは、わたしが風じゅーの脚本に関わり、後に藤田さんが関連本の編集に関わるなんて、誰も予想していなかった。ほんと、人と人とのめぐりあわせ、そこから起こる化学変化は予想不可能で面白い。以下は藤田さんが書いたプレスリリース。

ひとりの主婦が国、企業、大スターを動かした!
涙と笑いの波乱万丈!日本&イランの映画制作顛末記。


右手にロマン、左手にソロバン、主婦の映画製作物語
私、映画のために1億5千万円集めました。
著:益田祐美子

四六判・並製・240頁・定価1400円(税別) 発売:角川書店

東京国際映画祭での上映も無事終わり、公開を待つばかりとなった日本&イラン合作映画「風の絨毯」(配給:ソニー・ピクチャーズ/2003年5月17日よりシネスイッチ銀座ほか全国主要劇場で公開)。これは、ひとりの主婦が映画製作を思いつき、彼女の熱意ある行動により、イランの大監督、イラン政府、文化庁、外務省、大企業、そしてスターたちが次々と彼女の考えに賛同。アメリカの同時多発テロを乗り越え完成にこぎつけた作品です。「家族愛」と「善意」と「文化」を次世代に遺そうとする「大人たちの希望」をテーマに、ひとりの主婦の映画製作の3年間のストーリーをまとめた映画製作奮闘記の出版を企画いたしました。

■■ストーリー■■益田祐美子はちょっと“天然”などこにでもいるひとりの主婦。たまたま映画製作の現場と出会った頃、出身地、飛騨高山で祭の山車が数十年ぶりに新しく作られることを知る。彼女はその山車に、たまたま知り合ったイラン人が商売にしているペルシャ絨毯をかけたら素敵、と思いつく。そしてそれは、彼女の中で子供に夢と希望を与えるひとつの映画のストーリーになってしまった。 “天然”な彼女を心配したイラン大使館が止めるのも聞かずに、彼女はイランに飛ぶ。大監督、カマル・タブリーズィー氏に「私が考えた映画の監督を引き受けて」と説得しに。すると、大監督は条件つきながらもOKしてしまう。さぁ大変、資金は? キャストは? 配給って?必死にツテを頼り、どれだけ素晴らしいテーマの映画であるかを語るため、次々と人に会い続ける彼女。ところがその口調はフワフワと頼りない。しかし、なぜだろう、彼女の話を聞く人々は、彼女に大人物を紹介したり、寄付を約束したり、関係ないのに奔走してしまったり、なぜか協力してしまうのだ。まだキャストも決まっていない夢物語のような話に――。そして、2002年9月、いよいよクランクインまで話が進んでしまった頃、あの悲惨なテロ事件がおきてしまう。すべては終わってしまうのか。お世話になった人たちに、中止のお詫びを始める彼女。そんな彼女に、皆が言う。「信じているよ」「奇跡は起きるよ」。
――そう、その言葉どおり、奇跡は次々と起こり始める――

2002年04月25日(木)  田村あゆちの「ニュースカフェ」に演


2003年04月11日(金)  ちょっとおかしかった話

■声を大にして言うほどではないけど、ちょこちょこと笑える話があったのでまとめてご紹介。■シナリオ作家協会から書留郵便が届く。中には図書カードと手紙。「協会創立から約70年経っておりますので記念品を贈ります」。約70年というアバウトさに感激。■成田空港にて、出発前にカフェクロワッサンに入ったときのこと。隣のテーブルは卒業旅行っぽい男の子二人組。しかもどちらもはじめての海外っぽい。「せっかく海外行くんだったらさー、あれ、やってみたいよね」「え、何?」「エコノミー症候群」。思わず、ほんまかいっと突っ込みたくなった。学生の男の子たちの考えていることって無邪気だなあ。■無邪気な男の子といえば、電車の中で外人の大男二人が口喧嘩していたときのこと。背中で聞いていた日本人の学生二人組(男Aと男Bとしよう)が「今殴りあいになったら、俺たち巻き添え食うよな」とビクビク。男A「そういやお前、英会話できるんだろ?」 男B「ああ、まあね」 男A「訳してくれよ」ということになり、じっと外人男のやりとりに耳を傾ける男B。「なんかさー、貧乳、貧乳って言ってる」。男Aは驚いて、「え、それって英語?」。実際の会話は「He knew! He knew! (彼は知ってた!知ってた!)」。聞き取りが空耳アワーになっていた。男AとBは「女の取り合いか」と納得していたようだけど、同じ駅で降りたわたしが見たのは、さっきまでの喧嘩が嘘のように、むつまじく寄り添って階段を昇っていく外人大男二人。どうやら彼らは恋人同士で、熱い痴話喧嘩を繰り広げていた様子。そうなると、「He knew」の「カレ」も意味深に聞こえてくる。■新宿のセンチュリーハイアットでシナリオ打ち合わせの帰り、プロデューサーが「今井さん、駅まで送りましょうか」。ありがとうございますとお願いすると、「でも、ダイシャなんで小さいんですよね」。いくらわたしでも台車に乗るのは難しいのではと言うと、「いえ、代車です。今、撮影で僕の車を使っているので」。夜の新宿をリアカーに乗って走るのは恥ずかしいなあと本気で想像していた。

2002年04月11日(木)  ネーミング


2003年03月31日(月)  2003年3月のカフェ日記

■今月もお茶するヒマほとんどなし。その中で燦然と光り輝くのは、アンバサダーホテルのミッキーシュークリーム。子どもでなくても、こういうのは、うれしい。

2002年03月31日(日)  レーガン大統領と中曽根首相の置き土産
2001年03月31日(土)  2001年3月のおきらくレシピ


2003年03月30日(日)  中国千二百公里的旅 中文編

今回の思いがけない収穫は、中文(チョンウェン)、つまり中国語だった。前回中国に来たときは観光ツアーで日本人としか話さなかったし、台湾に二度行ったときは、一度目は中国語ペラペラの友人に通訳おまかせの旅、二度目はCM制作でスタジオにこもっていたので、これまた中国人と話す機会がなかった。今回はロケハンという取材の旅だったので、次々と中国の人と知り合い、一緒に行動する展開に。これまでの中国語圏旅行とは比較にならない中国語シャワーを浴びることができた。

人と人がぐっと親しくなれるのは、食事の時間。最初に覚えた言葉は「おいしい」を意味する好吃(ハオチー)と好喝(ハオホー)。吃は「食べる」の意味なので食べ物に、喝は「飲む」の意味なので飲み物に使う。「好吃、好喝」と言いながら、中国の人たちは実に楽しそうによく食べ、よく飲む。「良い」を表す好(ハオ)と動詞をくっつけると、ほめことばになるらしい。

好看(ハオカヌ)は「形が美しい=見た目がいい」、ハオティン(ティンは口偏に折の右側を足した漢字)は「音が美しい=聞こえがいい」となる。お酒をついでくれる小姐(シァオジエ)=「ウェイトレス」に謝謝(シィエシィエ)=「ありがとう」と言うたび、不客気(プゥカァチ *気の中の「メ」はない)=「どういたしまして」とささやかれるので、これもすぐに覚えた。

必要に迫られた言葉は、覚えざるを得なくなる。名刺を切らしたばかりで今回持ち合わせてなかったのだが、中国も日本と同様に名刺文化の国で、「名刺の持ち合わせがない」=没帯名片(メイダイミェンピェン)を繰り返す羽目になった。動詞を否定する「没」は使える言葉。「〜がない」を意味する没有〜(メイヨウ)は一日に何十回も聞いた。没有名片(メイヨウミェンピェン)と言うと、「最初から名刺がない」という意味になる。

有没有〜(ヨウメイヨウ)の形にすると、「〜はありますか」の疑問文に。レストランでは葡萄酒(プウタオジョウ)や珈琲(カァフィ)や白飯(パイファン)、ホテルでは「バスローブ」=浴衣(ユーイー)や「ドライヤー」=吹風機(チュイフンチー)があるかどうか聞くのに使えて便利。

文字通り「問題ないよ」の没問題(メイウェンティ)もよく聞く言葉。「ダイジョーブ」という軽いノリで使ったりする。「自分で没問題っていうヤツに限って問題を抱えてたりするけどね」と冗談も飛び出した。没との使い分け方はわからないけど、「不」も打ち消し語。みんなが「ブス、ブス」と連呼しているのが気になったら、わたしのことではなく「不是〜(ブーシー=〜ではない)」だった。不要(ブーヤオ)は「必要ありません、いりません」の意味になる。

ロケハンの旅ということもあり、辛苦了(シンクゥラ)=「お疲れ様」という言葉も飛び交った。「辛苦了、辛苦了」と肩をたたきあって繰り返すのは、「おつかれ、おつかれ」のノリなんだろか。中国語には過去形がなく、「了」をつけると過去になるらしい。「眠くなりました」=我困了(ウォクンラ)または「寝たいです」=我想睡覚(ウォシャンシュイジィアオ)と言って部屋に引き上げる前に、晩安(ワンアン)=「おやすみなさい」のあいさつを。「こんばんは」は晩上好(ワンシャオハオ)で、「おはよう」は早上好(ツァオシャンハオ)。

基本的にひとつの漢字にはひとつの読み方しかないので、漢字を覚えるごとに中国語の意味と発音が身についていく仕組み。アテンドしてくれた中国人関係者をつかまえては、「今なんて言ったの?」「これはどう言うの?」と聞いて回った。

「海はなんて言うの?」と聞くと、「大海(タ−ハイ)だよ」と教えてくれ、ついでに「大海是我的故郷(タイハイシーウォタクゥシィアン=海は私の故郷)っていう有名な言葉があるよ」とオマケがつき(是はbe動詞で、的は「〜な、〜の」を意味する)、発音指導までしてもらえる。これぞ生きた中国語。しかも「君は飲み込みが早い」「今度来る時は通訳は必要ないね」などとおだててくれるので、調子に乗って覚えてしまうのだった。

「おしゃべりな人は外国語の上達が早い」のだとか。そういえば、「ニューヨークに来る日本人留学生の中で、最初に英語を話すようになるのが関西人」と聞いた覚えもある。「わたしも話の輪にまぜてー!」という衝動が、言葉を覚える原動力になるのかもしれない。今回の旅でも「ここで中国語がわかったらなー」と思う場面が何度もあった。帰国して、早速中国語のテキストを購入。付録のCDを流しっぱなしにして聴いている。

動詞の変化も名詞の性もないし、フランス語やドイツ語に比べれば文法のルールはシンプルなんだけど、壁となるのは発音。四声の違いで意味がまったく変わってしまうので手強い。ただいま、有名な「マーマーマーマ」を特訓中。

2002年03月30日(土)  映画『シッピング・ニュース』の中の"boring"


2003年03月29日(土)  中国千二百公里的旅 厠所編

★(注意 食事中の人、食べたばかりの人、これから食べる人は読まないこと)

前回はじめて中国に来たときの教訓は、「トイレはホテルで行っておくこと」だった。ウォッシュレットに慣れた日本人には少々強烈なトイレ=厠所(ツァソォウ)が中国では現役で頑張っている。ツアーコースにあった民族村のトイレに行ったとき、先に入った同行のツアー参加者に「見ないほうがいいよ」と言われて入口で引き返してからというもの、ホテルとレストラン以外のトイレには近づかなかった。だが今回は観光ではなく、マイクロバスで長距離移動の旅。ついに開かずの扉を開けるときが来てしまった。

記念すべきデビューの舞台となったのは、国道沿いにあるガソリンスタンド(一番よく見かけた中国石化集団のもの)に隣接した公衆トイレ。外見は日本の公園などにあるものとさほどかわらず、かすかな期待が胸をよぎったが、中に入ると、「あれ、こっち、男子トイレだっけ?」。開かずの扉を開けようと思ったら、扉がなかった。「でも、壁があるだけよかったですね」とS嬢。高さ1メートルほどの仕切りで3つのオープン個室に隔てられているのだった。

他の人と鉢合わせするのは避けたいので、S嬢と交替で入口を見張り合うことにする。3つのオープン個室を貫くのは一本の溝。汲み取り式便所というのは子どもの頃に経験していた(ポットン便所と呼んでいた)けれど、あれは匂い以外のものは深い暗闇が吸収してくれたので良かった。しかし、そこに待ち受けていた溝は深さわずか二十センチほど。もちろん水洗ではないので、覚悟はしていたものの、ご対面した瞬間、絶句と目眩と混乱が一度に襲ってきた。「どんなにきれいごとを言っても、所詮人間は汚す生き物なのだ」と一瞬で謙虚な気持ちになり、「生きることは罪なことだ」などと哲学めいた言葉が頭をめぐりだし、短時間のうちに悟りの境地に至るのだった。恐るべき厠所力。S嬢の感想は、「大人になった気がします」。同感。

男性陣にとっても新鮮な体験だったようで、バスの中でそれぞれ武勇伝を披露しあって笑い転げていた。日本ではトイレの話で盛り上がることなどないのだが、あまりに強烈な話は笑い飛ばすしかない。同時に厠所デビューしたロケハン隊の間には共犯者のような親しみが生まれて愉快だった。

■一度すごい厠所を知ってしまうと免疫ができて、後はあまり驚かなくなった。露天トイレも初体験したけど、「天井がなくても個室でよかった」とおおらかな気持ちになれた。通訳の女性によると、中国のトイレ事情はどんどん進歩しており、都心部では欧米や日本と変わらないらしい。「壁や天井のないおトイレは、わたくしのような都会育ちの中国人でも、びっくりします」とのこと。その証拠にホテルの公衆トイレはこの通り。絶滅の危機にある仰天厠所、体験するなら今のうちかも。

2002年03月29日(金)  パコダテ人トーク


2003年03月28日(金)  中国千二百公里的旅 干杯編

■中国はビールグラスもワイングラスも小さいなあと思っていたら、中国の方々と食事をご一緒して理由がわかった。乾杯で宴会の幕が開くのは日本でも同じだけど、開宴の挨拶をした人が「2回目は○○に乾杯」「3回目は○○に乾杯」と続ける。「私は客人には3度酒をすすめることにしています」という挨拶もあったし、3度乾杯(中国語の略字では干杯=カンペイ)するのは、あらたまった宴席での礼儀なのかもしれない。「干杯!」と言った後に「随意(ズイイー)」と言われたので意味を問うと、「あなたの意思に任せます。全部飲み干すかどうかはお好きなように」の意味だとわかった。つまり、「随意」と言われない限りは一気に飲み干さなくてはならないので、杯は小さいほうがいいということになる。ワインやビールはまだいいけど、白酒(バイジュウ)という匂いだけでもクラクラするテキーラのようなお酒も出てくる。白酒用のグラスはお猪口の半分量が入るかどうかというぐらいのミニサイズだった。■10分に1回、それ以上のペースで誰かが立ち上がっては「干杯!」をやる。面白いので数えてみたら、17回になった。その1回1回に「遠路はるばる来てくださった皆様を歓迎して」「日中友好を願って」「わたしたちの友情に」「みなさんの健康に」と理由がつく。中には「女性たちがいつまでも美しくありますように」といったお世辞もあり、日本人の間では「あんな歯の浮くような文句言えないよなあ」と話題になった。この他にも「○○さん、干杯!」と名指しのミニ干杯があちこちで起こるので、それも含めるとさらに数は膨らむ。「なんでこんなに何度も乾杯するんですか?」と質問してみると、「人の気持ちはお酒の中にあるんです。気持ちを飲んでいるんです」とそのまま台詞に使えそうな答え。お酒はspiritとも言うし、なるほどと納得。食べ物も気持ちもみんなで分かち合おうという中国の心意気は、share大好きなわたしにはとてもステキに思えた。干杯の数だけ、中国を好きになった気がする。ちなみに、円卓なのでグラスを合わせられるのは両隣の人ぐらい。なので、回るテーブルの上にグラスを置くと、乾杯したことになるのだった。

<<<前の日記  次の日記>>>