パラダイムチェンジ

2006年09月24日(日) ワンセグ携帯

今日、携帯電話の機種変更をしてきた。
替えてきたのは、auのW43Hという機種で、ワンセグ(TV)、FeliCa
(おサイフケータイ)、FM、GPSのついた、ラーメンで言うところの
「全部のせ」ケータイである。

私が今まで使用してきた携帯について書くと、
・G'z One(最初のGショック携帯)
INFO BAR(薄型、ストレート型のデザイン携帯)
320万画素のデジカメのついた携帯
という感じで、どこか特徴のある携帯を選ぶことが多く。

特に最後に買った携帯は、結構カメラ機能がお気に入りで、この
日記/ブログでも、何枚もの写真を載せてきた。
(というよりそのために機種変したといっても過言ではないかも
しれない)

で、携帯の機能自体にも何の不満も無かったんだけど、1年半を
超えるとだんだんとクレイドルとの接触が悪くなって、充電が
上手くいかなくなったり、写真をPCに転送するのも上手くいかなく
なってきて。
アンテナをポッキリと折ってしまったこともあり、今年の春先位から
次はどれにしようかなあ、などと考えていたのである。

個人的には、やっぱりカメラ機能は充実してくれていた方がよかった
んだけど、後継機種のカシオ/日立製のカメラはAFながら200万画素に
なってたりとか、他社のは300万画素だけど、AF機能がなかったりして。

その後、カメラに関しては新たにデジカメを買って、いつも持ち歩く
ようになったこともあり、そんなに重視しなくなったんだけど、
何となく、ありふれた機能じゃやだなあ、と天の邪鬼な性格がムク
ムクともたげてきて。
どうせ買うなら、ワンセグ機能付きの奴かなあ、と思って、春先に
発売されたW41Hが安くなるのを待っていたのである。

で、後継機種が発表になり、実際お目当てのW41Hが安くなった頃、
値段を調べにauショップに立ち寄った所、その後継機種であるW43H
を見て、思いっきり惹かれてしまったのだ。

前作のW41Hと、W43Hを比べると、どうしても41の方は幅が広くて、
作りもちょっとちゃちく見えてしまうんですね。
最新作の43の方は多機能にも関わらず、他の機種と遜色ない位に
スリムになっており。
文字盤?も自分好みの大きいキーになっているし、何より外観が
私の好きな半透明というか、透ける感じになっているのが気に入って
しまい。

どうしようかなあ、どっち買おうかなあ、早く決めないと店頭在庫
のみのW41Hの方はなくなっちゃうしなあ、なんて思いながら、でも
まずは実機に触れてみないと使い心地はわかんないしなあ、という
事で、原宿の竹下口にある、KDDIのデザインショールームに行き。
ここは最新作に直に触れることができるので、参考になることが
多いのである。

で、実際にいじってみた感じでも、使い勝手は自分が今使っている
カシオ製とそんなに変わらないこともわかったので、もう買ってし
まうことにして。

値段が高いのはちょっと痛いけど、あっちの方がよかったなあ、と
くよくよするよりは、自分の気に入ったデザインの物を使っている
方が精神衛生上にもいいと思うし。
ついでにこれだけ機能充実していれば、少なくとも1〜2年は何の
不満もなく使えるだろうと見越せばいいかなあ、と。

後はどこで買うかなんだけど、うちの近所にある代々木のauショップ
では、年会費、入会金無料でその代々木店の会員になれば、3150円の
割引をやっているのを、ショップ巡りをしている間に知っていたので
そこで買うことにして。
ついでにポイントも使うことで、ACアダプター込みでも23000円位に
はなったのでまあ、許容範囲内という事で。

auショップは実はそんな風にお店によって料金が微妙に違うらしい
ので、いろんな所をのぞいてみるといいかもしれません。

で、家に帰って、説明書を読みながら、色々といじっている訳ですが
期待の?ワンセグ(TV)は、思ったよりは綺麗な映像で、しかも無音
状態にしていると、ニュースなどでは文字放送をしてくれるみたい
なので、行き帰りの電車の中とか、ちょっと観たい時には便利かも。

ついでに、今回からついた新機能の「EZニュースフラッシュ」という、
待ち受け画面にニュースが定期的にテロップで流れるサービスも
暇つぶしには便利かも。
宮里藍選手が優勝したとか、桑田選手が移籍希望であるとか、の
最新ニュースもこれで知ったし。

ということで新しい携帯電話は、コミュニケーション機能の強化だけ
でなく、というより一人でいる時の、退屈しのぎ機能が格段に強化
された感じの携帯電話になりました。

ただし、ワンセグを見続けると、本体が相当熱くなりますので、
手や顔で触れる場合には注意下さい、という注意書きがついてたり
して。
って、これ手で持って話すのが前提の携帯電話なんですよね・・・
とりあえず、やけどをしない程度に楽しませて頂きます。

でも、これだけ小さい中に、TV、FM、クレジット機能、カメラ、
GPS、音楽プレイヤー、そして当たり前だけど電話、インターネット
と、ゲーム機能が入っているってすごくないですか?
もうさすがにこれ以上の機能は入らないよねえ・・・?



2006年09月21日(木) 鉄槌!

今回も図書館で見つけた読書ネタ。
今回紹介するのは、いしかわじゅんの「鉄槌!」
漫画家いしかわじゅんが経験した、自身の裁判を基にした法廷ドキュ
メンタリー?である。
あ、ちなみにいしかわじゅんは、みうらじゅんとは別人なので、念の
ため。
時々TVとかCMでも見かける、ひげを生やした渋い?オヤジである。

物語のきっかけは、たまたま乗らざるを得なくなったスキーバスが、
トイレに行くために途中下車したいしかわじゅんとその友人を、吹雪の
中に置いてきぼりにしてしまう。

その後の運転手の対応に怒ったいしかわじゅんが、自分が当時連載して
いた週刊誌に事のあらましを書き、最後のコマで「バカヤロー、俺は
二度と利用しないからな」とツアー会社の実名を
公表したことから、当の会社から(謝罪ではなく)訴訟を起こされる、
という話。

で、この本の何が面白いかというと、私たちが普段係わり合いになる事
のない、法廷に素人が紛れ込むとどのように感じるのか、ということを
いしかわじゅんの目線で知ることが出来るのである。

原告のツアー会社は、元々、漫画を発行している出版社のスポンサーで
もあったことから、自分が言えば、出版社もいしかわじゅんも、すぐに
頭を下げてくると高をくくっていたらしい。

で、あるが当のいしかわじゅん本人にしてみると、相手から夜のスキー
場に置き去りにした事や、その後運転手がろくにそのことを謝罪もせず
かえって火に油を注いだことに対して、謝罪されることもなしにいきな
り名誉毀損で訴えられ、なおかつ当日の事実を捻じ曲げてきたことに
腹を立てこそすれ、自分から謝るつもりなどなかったことが、原告側
には誤算であり。

訴訟されたいしかわじゅん側も、友人の紹介で弁護士を立てるんだけど
この弁護士がまた、ちょっと変な人であり。

裁判自体も、早々にいしかわじゅんが出頭して、相手側と事実関係に
ついてやり取りをしていくのか、とも思ったらそんなことはなく、本人
にとっては意外な方向に話は進んでいき…という感じで。

これって、相手の原告の会社側、そして弁護士、判事にとって常識と
されている事と、私たちみたいな一般人の常識の食い違いというか、
妙なミスマッチ感が、読んでいて面白く。

普通、法廷ドラマや映画なんかを見ていても、出てくる弁護士の先生
って溌剌としてカッコよかったりするじゃないですか。
でも、この話に出てくる弁護士のセンセイたちは、どこかちょっと
ピントがずれている様に、(いしかわじゅんには)見えていて。

中でも普段言葉の表現力で飯を食っている漫画家、エッセイイストの
いしかわじゅんから見ると、同じく言葉を専門にしているはずの弁護士
の言語能力、文章作成能力の低さに驚いたらしい。

あとがきから引用させてもらうと、それはなんと、当時の弁護士の
書いた文章をこの本にそのまま転載したところ、ことごとく校正者に
チェックされ、正しく直されてしまったらしい。
(と、ここで書いている私自身の文章力の方が問題の気もするのだが)
で、それをこの本の著者であるいしかわじゅんは、それでは意図が伝わ
らない、といちいち直したらしい。

まあ、弁護士の方たちも、別に出版することを意識してその文章を
書いたわけではないんだから、出版するというプロの基準で見たら、
至らないのもしょうがないんじゃないかな、とは思うけど、でも確かに
私が読んでも中にはちょっと?な文章もあったりして。

もう一つは、これは民事の裁判制度についてなんだけど、今回のケース
では、代理人同士で話が進められていく中で、その弁護士の意志伝達
能力がやや低い人が紛れ込んでいたために、当事者である、いしかわ
じゅんの考えとは別に勝手に和解で話が進みそうになる場面が数多く
あり。

これは、弁護士のルーティンで言えば、ここでもう和解調停だな、とか
勝手に話が了解されて、本人の意思とは関係なく進んでいく事って、
結構あるんだろうな、と思ったりして。
(白い巨塔でもそんなシーンはあったけど)

でもそういうのって、ちょっとわかる気がするのである。
というのは、自分が住んでいるマンションの管理組合の理事長をやって
いる時にも似たような事があったので。

それはこっちが組織に属している人間じゃないからかもしれないけれど
当事者が納得しないうちに話が専門家によって勝手に進んでしまいそう
な事って結構あったんだよね。
で、その辺納得できないことは結局もう一度話し合うしかなかったり
して。

それは専門家からすると、空気読めよ、みたいな物だと思うんだけど、
当事者がこっちの場合には、本人が納得することが一番だと思ったりも
するのである。

ふたたび、あとがきから引用するならば、

それにしても、ぼくはどうして、もっと弁護士に要求しなかったんだ
ろう。あんなに、遠慮ばっかりしていたんだろう。自分の疑問や要望
を、こちらから弁護士にぶつけておけば、ここに出てくるほとんどの
ことは解消できていたかもしれない。弁護士は、自らはサービスして
くれない職業のようなのだ。だから、ぼくは、強く求めるべきだった
のだ。

それが、この事件における、ぼくの一番の反省点であった。


という言葉が、この裁判を経験した著者から学べる一番重要な事かも
しれない。
そういう日が訪れないことを願いつつ。



2006年09月19日(火) 電球1個のエコロジー

今回は図書館で見つけた読書ネタ。
紹介するのは「電球1個のエコロジー」

この本は、人間が1日生きるために必要なエネルギー、2000kcalを、
1eu(エコロジカルユニット)という単位にして、私たちの生活に、
どれだけのエネルギーがどのように使われているかを、共通の単位で
表わそうという本である。

例えば、1euは、100ワットの白熱電球の1日の消費電力や、また現代の
私たちが1日に出すゴミを焼却した時に排出される熱エネルギーに等し
かったりする。

ちなみに、白熱電球の消費電力が1euといっても、可視光線になるのは
そのうちのたった1割で残りは熱になってしまったりと効率が悪く、
これを蛍光灯や、将来実用化が期待されている発光ダイオード(LED)に
すれば、効率がよくなるらしい。
ちなみに最近増えてきた青色発光ダイオードを使った信号機の場合の
消費電力は1日=0.15euだそうな。
また、ゴミにしても、30年前のゴミ焼却に必要だったエネルギーは、
1人あたり半分の0.5euだったらしい。

この本はこんな風に普段わかりにくい、私たちの消費しているエネル
ギーについて、色々と考えるものさし代わりになるのが面白いので
ある。

例えば、食料(私たちが摂取できるエネルギー)について書くならば、
世界すべての人間がアメリカ人の生活をするならば25億人しか生きる事
はできないが、インド人の生活ならば100億人生きられるとか、
国産の、霜降り牛を20ヶ月まで育て上げる餌などのエネルギー量は、
輸入牛の5倍!なんだとか。

また、東京と大阪間、今現在新幹線と飛行機だと所要時間や、料金
にそんなに違いはないけれど、乗客1人あたりが消費するエネルギーは、
新幹線が22euなのに対し、飛行機はその5倍の110eu、自動車だと実は
8倍の180euも消費しているらしい。
ちなみに二酸化炭素の排出量も新幹線は飛行機の8分の1、自動車の12分
の1なんだとか。

だからといって、航空機の移動は今すぐやめるべきだ、なんて事を言い
たいわけではなく、大体自分たちがどれくらいのエネルギーを消費して
今の便利な生活を成り立たせているのかを知るのはいいことなんじゃな
いのかな、と思うのだ。

例えば、私たちが普段出来ることでいうならば、アルミ缶のリサイクル
に必要なエネルギーと、地中に埋まっている鉱物のボーキサイトから
アルミ缶1本分のアルミを作り出すエネルギーでは、リサイクルの方が
少ないエネルギーで済むんだとか。
また、もしも畳18畳位の大きさの南向きの屋根がある一軒屋に、
太陽電池を敷き詰めれば、それで1世帯の消費電力はまかなえるんだ
とか。


これは養老孟司の受け売りだけど、現代は石油文明といってもいい位に
石油エネルギーの恩恵を受ける形で発展している。
それは、何もガソリン、プラスティックに限らず、衣服や場合によって
は、薬品、食料品にまで形を変えて存在している。
それもこれも、石油というエネルギーが、コストが安く、また姿形を
変えて利用しやすいことからだと思う。

遠い過去、ギリシャや、エジプトや中国で文明が発展したけれど、それ
が滅んだり停滞してしまった背景には、彼らの文明のエネルギー源が、
木材に頼っていたからだという。
すなわち、今現在砂漠や荒地になってしまっている所は、実は豊かな
森林で、それらを消費しつくしてしまったが故に、今はかつてほどの
繁栄は見られなくなってしまった。

現代は、石油エネルギーにあまりにも依存しているが故に、30年前から
いつか石油エネルギーは枯渇するのではないか、という不安を持って
私たちは生きていかざるを得なくなった。

ちなみに、30年前には、3〜40年後には石油は枯渇すると言われていた
のが、今現在も枯渇していないのは、石油の掘削技術が年々改良されて
いるかららしい。
だから、正確にどれだけの石油が今後も利用できるのかはわからない
けれど、この本によると、今現在の技術で採掘可能な石油埋蔵量は、
1.3兆バレル=950兆eu。
これは莫大な数字に思えるけれど、富士山をひっくり返して杯にした
場合、7分の1、5合目より上の部分くらいしかないんだとか。

現在だと、バイオマスエネルギーといって、さとうきびから取れる
エタノールや、植物を原材料として、再生可能なプラスティックとか
もどんどん開発されているらしいけれど、それが植物由来であるという
事は、石油ほど大量に供給するのも難しい様な気もするし。
(この辺も将来の技術革新次第なんだと思うけれど)

もう一つ、関連した事を書くならば、惑星物理学者の松井孝典が以前
講演で言っていた話なんだけど、産業革命の起こった19世紀末から現在
までの200年間、二酸化炭素の排出量で考えると、地球環境の変化の
速度は、人間のいなかった太古と比べると、現代の1年は、太古の100万
年!に相当するらしい。
いわば地球はこの200年間で、恐竜時代でいうならば、2億年の環境の
変化を起こしているともいえるらしいのだ。


繰り返していうならば、だから今すぐ何か行動を、と私は言いたい訳で
はない。もちろん、普段からの心がけや、小さな行動の積み重ねが大事
なんだと思うけれど。
まずは、自分たちの生活がどんな支えでできるのか、普段どれだけの
エネルギーを使っているのかを、できれば面白く興味深い形で知ること
も、何かを考えるきっかけになるんじゃないのかな、と思うのだ。

ついでに言えば、そういうことをアメリカや中国の人々も考えてくれる
ようになってくれればいいな、と思うのだけれど。

ちなみにウェブサイトもあるようです>>ガイアプレス



2006年09月09日(土) うつはクリエイティブの病

河合隼雄文化庁長官が脳梗塞で倒れてからもう3週間以上経つ。
一時は肺炎も併発している、という事だったんだけど、その後の報道で
は、危険な状態は脱したという報道もある一方で、最近の報道でも
まだ意識は取り戻していないという報道もあって、一人気を揉んでいる
のである。

個人的には、河合文化庁長官というよりは、臨床心理学者の河合先生と
いった方が馴染みがある。
河合先生は、私にとっては大切な心の師匠とでもいうべき存在だから
である。

といって、直接何かを教えてもらった訳ではない。
直接お会いした(というよりお見かけした)のは、今年の4月のトーク
ショー
が初めてであり、こちらが一方的に著書を読み、勝手に師事?し
ているだけである。

私は心理学をきちんと学んだわけでもなんでもないけれど、でも河合
先生の本を読んでいなかったら、今のような自分にはなっていないと
思うし、また自分の仕事の上でも、著書から学んだことは大変役に立っ
ているのである。

多分、この日記内検索で、「河合隼雄」と打ち込めば、沢山の記事が出て
来るはずである。

私が河合先生に学んだことで、一番大きいこと、私が河合心理学につい
て感じる事は、それが人の心を分析する学問ではなく、人との関係性に
ついて考える学問である、という事である。

分析することと、関係性を作り上げることは、心理学の分野という事で
は似ていても、大きく違うと思う。
人間は、それが心理であれ、医学であれ、自然科学、社会科学であれ、
「科学的」に分析しようと思うとき、関係性を切り離して考える。

なぜなら、そのように関係性を切り離して考えなければ、そもそも観察
や、分析ができないからである。

だけれども、もしそのように分析した結果、原因と結果がわかったと
しても、それを実際の親子関係や、人間関係に応用しようと思っても、
なかなか上手くはいかない。

だって、人間同士の間で生まれる関係性は、その時その時で生まれ、
絶えず変化をしているからである。
それをある一時期を定量化しても、次の瞬間には状態は変わって
しまっているわけで。

そのような視点で、自分と周囲の人間や、人と人との関係性を考える
事が、私自身の生き方にも多くの影響を与えてきた、と今の私は感じて
いるのである。


今回、河合先生の病状を知るために、ネットで検索していたところ、
こんな記事に巡り会った。
それは、「うつとは、クリエイティブイルネスである」という記事で。

以下、一部を引用させていただくと、


―「うつ」とは「クリエイティブ イルネス」だと?

河合: 「創造の病」という意味で、病が創造、何かを作り出すきっかけになるという考え方です。クリエイティブ イルネスというのはいろいろな病で言えるのですが、「うつ」ももちろんそのひとつです。「うつ」になっている本人はまるっきり逆で、「何もできない」と思っている。だけど、できるから不思議ですね。


 フロイトやユングも心の病になっています。そして、その心の病を克服していく間に、あのような精神分析や心理学というものが生まれてきました。ですから、「うつ」で沈んでいる間は何もできないようだけれども、実はそこから物事が生まれる。クリエイティブ イルネスです。これは「うつ」の本質と言ってもいいとわたしは思っています。


―芸術家に多いような気がしますね。

河合: そうですね。芸術家で「うつ」になる方は多いです。夏目漱石は体の病気でしたけれども、病のあとで作風が変わりました。それまでの「我が輩は猫である」から、「こころ」のような作品へと、ぐっと深くなったような気がします。あれは典型的なクリエイティブ イルネスです。


―さらに河合さんは、「うつ」を「心のエネルギーが行き場を失った状態」ともおっしゃっています。

河合: 「うつ」はやる気や興味といった「エネルギーがなくなった状態」とよく言われますが、それは、「今、使えるエネルギーがなくなっている」ということで、どこかにそれはたまっているはずです。そのエネルギーがボン!と破壊的に、マイナスの方向に作用したら自殺という行為に出てしまいます。だけどそれが違う方向、つまりプラスに作用したらクリエイティブになるということです。


―カウンセリングとしてはどういった感じでされるのですか。

河合: 当事者は「出なきゃいかん」と焦っているでしょう。でも、ただ焦るだけでは、出口はふさがっている状態なので見つかるわけないんですよ。そこでわたしもいっしょに沈むと、心に余裕ができるんでしょうね。

 わたしと会って外に出たら、「景色がものすごくきれいだった」と言った方がいます。「こんなに景色ってきれいやったんか。自分は今まで景色なんか何も見ていなかったんやないか」と。つまりそれは、職場、仕事、研究でいっぱいいっぱい。景色を見る余裕がなかったんですね。ホッとして景色を見たら、「こんなにきれいか」と思う。

 そこでおもしろいのは、今までそんなことやったことのない人が、「心に出てきた」と言って短歌や俳句を作るんですよ。そしてそれはそういう苦しみの中から作られたからやっぱりいいものがあるのでしょう。新聞などに投稿すると選者もわかるのでしょうか。案外採用されることが多い。

 絵を描く人もいます。自分は理科系で生きていて理科系の仕事ばかりしていた。そういうときにわたしが、「高校の時、絵画部だったんですよ」とふと言うと、「へえ、ちょっと描いてみようかな」なんて思いだして、それで描いた絵を県展などに出したら入選するんです。

 つまり、まったく新しい自分を発見するのです。


―エネルギーの行き場を失ったということは、それまでの自分の道筋ではもう行き場がないから……。

河合: だから、こっちに動く。そうすると、前のパターンと変わってくるでしょう。短歌や県展で入選したような人が職場に戻ると、「おまえ、なんか柔軟性が出てきたな」とか、「スケールが大きくなったな」とか言われるんですよ。


―それが、クリエイティブ イルネス?

河合: そうです。だから考えてみると、芸術家のかたがたはものすごい苦しみの中にいます。われわれ普通の人間がクリエイトするというのはたいへんなことですが、「自分の人生をクリエイトする」と考えたら、いちばんわかりやすいですかね。

 今、俳句とか短歌とか言いましたが、今まで「仕事、仕事」でそんなこと考えたこともなかったというような人が、ボランティアをやり出したり、NPOに入ったり、子どものために何かをしようと思ったり、そういうのがボコッと出てきます。人生はその人がクリエイトするんですね。


―誰でもがクリエイター?

河合: 誰でもクリエイターです。だけど、うまいことクリエイトしていける人はいいけれど、いちずに行った人はポンと止まってしまうことがある。だから「うつ」になる人は、すごい頑張りやさんとか、いちずな人、律義な人が多いですね。だから、その道が止まってしまったら、「もっと開かなくちゃダメですよ」と言いたい。

 それから、励ます人もその道でばかり励ますからよくない。「やればできるよ」なんて言うと、よけいに止まっちゃうでしょう。だからわたしはいっしょに沈み込むんです。「仕事をする」とか「頑張る」ということをなしに、1年くらいぐっといっしょに沈み込んで話をしているとなんとか生き延びられます。



と、ちょっと長目の引用になってしまったんだけど、
この部分にも、河合心理学の肝が現れているんじゃないか、と私は
思うのだ。

そして、今回の記事を読んで、私が新たに気がついた事というのは、
「うつというのは、クリエイティブに関する病なのだ」という視点で
ある。

すなわち、うつ病というと、私たちは何もできない状態、という事に
目を向けがちだと思うんだけど、でも何も出来なくなってしまった状態
というのは、もう一方では、それまでの様々な周囲との関係性の行き詰
まりである、という見方も出来るのかもしれない。

うつ病は、内因性の、脳の中で分泌されるはずのホルモンの不足に
よって起こるという原因もあると思うけど、でもその一方で、自分なり
に、新たな周囲との関係性を発見できた場合、ガラッとその人の生活が
変わり、より豊かな人生を送れるようになるという一面もあるのかも
しれないな、と思うのである。

ただし、その新たな関係性の発見というのは、簡単に発見できる物でも
ないのかもしれない。
というより、そういうものが簡単に発見できる人は、そんなにうつ病で
苦しむ必要はないのかもしれないし。
だからその最中というのは、本人にとっては、とってもつらい時期だろ
うし、周囲の人間にとっても、とても気を揉む時期なんだと思う。

だけど、その時に本人も周囲の人間も、焦らずにじっくりと待つことが
出来るのなら、ひょっとした瞬間にその発見の時期がやってくるのかも
しれないなあ、と思うのだ。
それはある意味、何年も難しい公式に悩んでいた数学者の頭の中に、
ひょっと解法が浮かんでくるようなものなのかもしれない。

まあ、といっても現代の社会で生きるうえで、じっくりと待つだけの
余裕をなかなか私たちが持てない、という所にも、難しさはあるんだと
思うんだけど。

現代の日本では特に、みんな個性的に、クリエイティブに生きたい
と思う人は多いし、そういう人生にあこがれる風潮は強いのかもしれ
ない。

だけど、自分ひとり、クリエイティブに生きていこうとする事ほど、
実は困難な事はないのかもしれない。
いい意味でいい加減に生きられる人は、その辺上手く折り合いをつけ
て生きていくことは出来るけれど、人生に対して真面目な人ほど、
その折り合いのつけ方がわからずに苦しんで、うつ状態になってしまう
人も多いのかもしれない。

だけど、そういう状態に陥った人でも、その苦しんでいる中で、何かを
発見できれば、うつという状態から脱することも出来るし、またそこで
つかんだ何かを元に、自分の人生をクリエイトして考えることができ
るんじゃないのかな、という事で。

その時に必要なのが、一緒に沈んでくれる人、別の言い方をすれば、
「中心をはずさずに」見てくれる人、なのかもしれないな、と思うので
ある。

でも、そういう人間関係を発見し、新たにクリエイト、もしくは
編集できる能力というものに、うつに苦しんでいたり、その周りに
いる人が気づくことが出来たのなら、もっと人間関係も豊かなものに
なるような気もするのである。

近年、河合先生のように脳梗塞になった後で、リハビリは必要で
あったとしても、執筆活動を続けている人に、免疫学者の多田富雄、
料理研究家の小林カツ代がいる。
出来れば、河合先生にも、(表舞台に登場するのはなかなか難しくて
も)、執筆活動を通じて、再びいろんなことを考えるきっかけを作って
もらえたら幸せなのであるが。

病状が回復されることを心より願っています。



2006年09月07日(木) 911陰謀説について

9/6付東京新聞の特報欄で、2001年9月11日に起きた、アメリカ同時
多発テロの陰謀説がアメリカで再燃している、という記事が載って
いた。
今回のアメリカでの話がちょっと違うのは、S911Tという
元軍人と科学者のグループがアメリカ政府の関与を示唆し、それに
対して今まではその手の陰謀論をアメリカ政府が公式に否定し、
それをCNNやニューヨークタイムズが取り上げた事が、東京新聞が
記事にした理由の様である。

私が、この911テロの陰謀説を初めて聞いたのは、ビートたけしの
TV番組だったと思う。
で、このときに触れていた話の元ネタが、「911ボーイングを捜せ」
というビデオだったらしい。

個人的には、事の真相がどうだったのかを判断するのは難しい、と
思っている。
政府はもしかしたら何か隠しているのかもしれないし、2年前の時
にも思った、ペンタゴンという低層の建物に(周囲に何の痕跡や被害
も与えることなく)綺麗にぶつかったという事に対して、どこか疑問
とまでは言わないまでも割り切れない感じは残ったままである。

それは、 ケネディ大統領暗殺の時の、暗殺犯オズワルドが放ったと
される銃弾の弾道が複雑怪奇な軌道を描いていると言われればそう
なのかなあ、と思うのと同じである。

ただ、だからといって、すべての証拠が陰謀を裏付けている、と
言われると、ちょっとなあ、と思ってしまうのだ。
陰謀論を唱える人って、結構自分の意見の正しさを主張するあまり、
どんなに些細な事でも陰謀に結びつけちゃうきらいがあるような気が
するのがちょっと、という感じで。

今後、何かのきっかけで、決定的な証拠でも出てこない限りにおいて
は、陰謀があったのかなかったのかについての立場は保留しておくの
が賢明?なんじゃないかという気がするのである。

でも、今、アメリカで911についての陰謀論が今も根強く残っている
のって、多分、大きな事件に関しては、誰かしらが陰謀を唱えるんだ
ろうと思うんだけど、それが今、ある程度支持されている背景には、
おそらくは、ガソリン価格の高騰などが、日常生活に悪影響を及ぼし
ている事に対して、ブッシュ政権に対する不満がたまっているって
証拠なんだろうなあ、と思うのだ。

今年NYに行ったときでも、向こうの人たちがガソリン価格が高く
なった事に文句を言っている人が多かったし。
といっても日本の方が高いんですが。

これが、アポロ11号は実際には月には行ってない、位の話だったら、
まあ笑える話なんだけど、911に関してはそのインパクトが強すぎて
なかなか消化できない、って面も強くあるのかもしれないな、と
思うのだ。

でも、たかだか5年前の出来事でも、その真相について色んな意見が
出ることを考えると、60年以上前の南京で起きたことについて、
意見が真っ二つにわかれるのも当たり前の事なのかもしれない。



2006年09月01日(金) 狩人と犬,最後の旅

毎月1日は映画ファンサービスデー。
ということで今回見てきたのは「狩人と犬,最後の旅」
カナディアンロッキー、ユーコン川のほとりに住む、狩人の生活を
つづった映画である。

この映画を見た感想を一言でいうなら、「犬って本当に人間にとって
大切なパートナーだったんだなあ」ということ。

主人公のノーマンは、妻?のネブラスカと7匹の犬と共に、カナディアン
ロッキーの山の中に暮らしている。
彼は、山にすむ動物たちを罠を仕掛け、狩猟し、獲った動物の毛皮を
売ることで生計を立てている。
しかし、だからといって彼は必要以上の獲物は獲らない。
むしろ、自分が自然に介入することで、動物たちのバランスを適正に
保っているという。

現在、極北の地域では同じような狩人の数が減っており、それがために
特定の種の動物が増えすぎたり、逆に数を減らしすぎて絶滅の危機に
ある種も増えて、山が荒廃している地域が増えているという。

ノーマンの狩猟場も、森林の伐採により、罠を仕掛けて捕らえる「罠道」
という動物が通る道が消えてしまったらしい。

だからノーマンは新たな生活の拠点を求めて、さらに山奥へと入って
いく。そこからふもとの町までは、馬で5日間もかかるらしい。
そうして新たな生活の拠点を作るために、山を降りてきた途端、ノー
マンは長年のパートナーだった、シベリアンハスキーを交通事故で
失ってしまう。彼は、犬ぞりを引くときのリーダーだったのだ。

それを不憫に思った町の人の好意により、新たなシベリアンハスキー、
アパッシュを連れて、彼は山へと戻る。
そして、彼の狩猟の本番、冬の季節が始まった。
というような内容。

主人公のノーマンを俳優ではなく、カナディアンロッキーに住む本人が
演じているんだけど、彼の一挙手一投足にまず目を奪われる。
やっぱりね、実際にそこで生活している人の説得力というか、存在感が
この映画の一番の見所だろうと思うのだ。
これを演技でやろうったって、なかなか出来るもんじゃないと思うし。

そして、もう一つのこの映画の主人公は、カナディアンロッキーの自然
の(特に冬の)厳しさだろうと思うのだ。

広い山の中に、2人の人間と、7匹の犬の暮らすログハウスがぽつんと
一つ。雪深い山の中を分け入って移動するためには、犬ぞりに乗って
移動しなければならなくて、しかもその犬ぞりはリーダーを失ったばか
りで、まずはうまく統率しなきゃいけない訳で。

でもね、だからこそ彼らの生活に、犬が必要なんだ、ということが、
画面を通じて伝わってくるのである。
彼らにとって、犬は、単なる愛玩動物としてのペットではなく、自分と
運命を共にするパートナーなんだなあ、としみじみ思うのだ。

だってさ、山の中、寒くて凍え死にそうな時でも、犬たちがそばにいる
だけで、どれだけ心強いだろうと思うんだよね。
だから彼ら、ノーマンとネブラスカは、犬たちに話しかけるし、犬たち
にも、ちゃんとそれが伝わっていて。

ヒトはそんな風に何千年もの間、犬というパートナーを、生きていく
ため必要としていたんだなあ、と思ったのである。

そして犬たちにとっても、ヒトは(餌を与えてくれるだけではない)かけ
がえのないパートナーなんだなあ、という事が映画を見ているとわかる
のだ。

この映画の中にはもう一人、本人役として狩人の人が出てくるんだけど
彼は犬を失ってしまい、今はスノーモービルで一人山の中で暮らして
いる。
その背中はやはりどこか寂しい様にも思えるのである。
というより、その孤独に耐えてきた年輪の重みを感じさせるのである。
それはやはり、自然の中で生きてきたノーマンにも言える事なんだと
思うけど。

そんな風に、普段はほとんど人とは会わない、自然を相手に生きている
彼らなんだけど、だけど人間が生きていく上では、町の人たちも重要
なんだということもわかるし。
そう、人はやっぱり自然も含めて、沢山のものに助けられて、生かされ
ているんだろうな、と思うんだよね。

ノーマンは、獲物に対してこう言う。
彼らに対して謝罪はしない。ただ、感謝をするんだ、と。

繰り返しになっちゃうけど、でも人間って、何千年もの間、そうやって
自然の中でバランスをとることで、営みを続けてきたんだなあ、と思う
のである。

今、私にその生活をしろ、と言われたら(能力的にも)出来るわけはない
けれど、でも、そういう生活を人間が過ごしてきた事、そしてそこから
生み出された言葉の重みについては、もう一度咀嚼して、感じてみる
必要があるのかもしれない、なんて事を思った映画でした。


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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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