パラダイムチェンジ

2006年08月31日(木) 8月31日



今日の朝、起きたらいきなり鼻水が止まらなくなった。
これはひょっとして、花粉症(ブタクサ?)と思いながら午前中の
仕事を何とかこなす。

私は元々スギ花粉症は持っているんだけど、いよいよぶたくさも
発症したのかもしれない。

とはいえ私の場合、春先のスギ花粉の時でも、症状がひどくなる時
って、自分の身体が疲れているか、どこか身体の筋肉が緊張して
いる事が多い。

果たして今回は、自分の身体を調べてみると肩甲骨の間の筋肉が
張っていたので、多分これが原因だったのかもしれない。

ということで、昼には近くの韓国料理屋で、サンゲタン鍋を食べ、
午後ちょっと時間が空いたときに自分の身体を調整し、なんとか
鼻水は止まった様である。
こういう時、自分で自分の身体を調整できるのは便利でいいんだけ
ど、その代わり、ちょっと寂しい気もする今日この頃。

だからという訳ではないけれど、帰りに後楽園のラクーアに寄って、
温泉&岩盤浴(低温サウナ)を満喫して癒されてきました。

やっぱり、今日が8月31日だからというわけではないけれど、身体が
ちょっと疲れていたのかもしれない。
もう夏休みの宿題に悩まされる事はないんだけど、でもそれでも
何となく、8月31日って特別な日というか、夏の終わりみたいに
ちょっぴり切なさを感じるのって私だけでしょうか。



2006年08月30日(水) パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト

今回は映画ネタ。見てきたのは「パイレーツオブカリビアン(以下略)」
この映画の感想を一言でいうなら、「この夏見た中では一番」である。
ジャック・スパロウ格好いい〜。

物語は、前作からの続きになっていて、ああ、このキャラクターはどこ
かで見た覚えがある(サルとか、デコボココンビの海賊とか)と思いなが
ら、見ていたんだけど、いや、前作より面白いでしょう。

一つには、前作よりも笑えるアクションシーンが増えたことと、もう
一つには、主要キャラクターのジャック・スパロウ、ウィル・ターナー
エリザベスの三人のそれぞれのキャラクターを掘り下げるシーンが増え
て、見せ場が増えたこと。

ウィル・ターナーを演じる、オーランド・ブルームとエリザベスを演じ
るキーラ・ナイトレイは、経験を積んだせいか、存在感が増してるし。
でも、やっぱりこの映画の主役は、ジョニー・デップ演じるジャック・
スパロウなんだよなあ、と思うのである。

怪物さえも手玉に取ってしまう、その舌先三寸の口の上手さと、全身で
表現される、ジャック・スパロウらしいコミカルなアクションはもう、
さすがジョニー・デップ!と掛け声をかけたくなる位に板についていて
上手いのである。

自分の高校時代に、やはりジャック・スパロウみたいな、いい意味で
いい加減な魅力のある同級生がいたんだけど、やっぱり奴にはかなわ
ないなあ、と思わせる雰囲気が、このシリーズのジャックスパロウから
も感じられて。
やっぱり人を惹きつける魅力があるんだよね。

このいい加減なジャック・スパロウと、真面目な(だけどおかしみも
ある)ウィル・ターナーと、おてんばなエリザベスって、本当にいい
組み合わせだよなあ、という感じで。

物語も、え、この先どうなってしまうの?という辺りで終わり、続編に
つながるようになっており、いやあ、来年5月?あたりの公開が今から
もう待ち遠しくなってしまう感じなのである。

いや、これは是非、映画館で見て欲しいなあ、と手放しでオススメ
したいと思います。



2006年08月25日(金) 小泉首相の強さの秘密

先週の8月15日に、小泉首相が靖国神社を参拝して、その後会見を
した後で、彼の支持率が51%に上昇したらしい。
私自身は、それを嘆くとか、そういう気持ちよりも、ふーん、そうな
んだ、という気持ちが強い。

もうすぐ任期の終わる、小泉首相の、何が一番強みだったのか、と
言うことが、今回の事でも浮き彫りになったんじゃないのかな、と
思ったのである。

小泉首相の強さの秘密って、言葉の強みなんだろうな、と思うのだ。

すなわち、彼が靖国神社に対する発言でも、または昨年の郵政絡みの
衆議院選挙でも、彼が発言をした後で、彼の支持率がグーンと上昇
した理由は、彼がその発言を、自分の言葉で、本音で語っているから
なんだろうな、と思うのである。

その言葉の本当らしさ、嘘のなさ、いさぎよさに私たち日本人って、
反応する気がするんだよね。

それは逆に言えば、あの亀田興毅の世界タイトル戦に対して、あれだ
けの非難が集中したのは、あの一連の流れの中に、嘘や、恣意的な
演出があるように感じてしまったからなんだと思うのだ。

すなわち私たちは、TV画面を通じて、その言葉が本音なのか、嘘なの
か、いさぎよいのかいさぎよくないのか、という事を判断しているん
じゃないのかな。

その意味で言うならば、一度いさぎよくないという烙印を押されて
しまった加藤鉱一議員の場合には、いかに靖国や外交問題で真っ当な
事を言っていたとしても、一度ついてしまった烙印を取るほどまでに
は、世間一般からは、支持されることはないのかもしれない。


そしてもう一つ、小泉首相の強みがあるとするならば、それは彼の
皮膚感覚と、世間の声とのシンクロ率が高いということなんじゃない
のかな、と思うのである。

すなわちこれまでの5年間を振り返ってみても、多分彼の行動が、
世間の期待を大幅に裏切った事ってなかったと思うのだ。

逆にいえば、小泉首相のやってきた行動を見ると、我々日本人の
最大公約数の本音がどこにあるのかがわかるのかもしれない。

例えばね、外交問題に関しても、小泉首相は対米重視、追随型で、
ここまで米国に対して尻尾を振った宰相もいないんじゃないかな、
とは思うけど、でも世間的にも多分、世界で一番頼りになるのは、
米国だ、という意見が強いと思うし、彼くらいにアメリカ文化が
好きな日本人はザラにいると思う。

その一方で、対中国、韓国に対しては、両国の平和と協調を図りたい
とは言うし、そう思うけどその一方で言うならば、どこかまだ軽視
したいと思っているし、また60年前の事について、いつまで私たちが
謝らなきゃいけないんだ、勘弁してくれ、と(世間の声も)思っている
のかもしれない。

小泉政権が成立したとき、日本は失われた10年の真っ只中で、銀行の
不良債権問題が何年も長引き、景気回復の兆しさえ見えなかった時
だから、小泉首相の言うように、郵政事業を民営化しさえすれば、
全ての問題が解決する、という処方箋というか正解を提示されれば、
そうかも、と思う。

痛みなくして成長なし、と言われれば、そうかも、と思い、多少の
格差が知らないままに広がっていくこともやむなし、と思う。

でもその一方で消費税を上げられるのは、勘弁だと思うので、小泉
首相もそこには手をつけない。

また例えば、皇室の後継者問題に関しても、色々と意見が出てきて、
世間の声も一つにまとまらないな、と思った場合にはいさぎよく手を
引いて、次の政権に先送りをする。

と言う風に、小泉首相と、いわゆる世間一般の声との一致率って、
歴代政権の中でも一番だったんじゃないのかな。
いわば、小泉首相と世間(国民の声の最大公約数)の蜜月期間が、この
5年間だったような気がするのだ。

それを裏付けるという訳ではないけれど、ちょっと前の東京新聞の
放送欄(7/14付)に、ニュースキャスター筑紫哲也が小泉劇場を
評してこう言っていた。

以下、引用すると、


 ――首相はテレビを活用したと感じるか。

 それは見事にそうだ。小泉劇場と呼ばれたが、劇場の舞台を用意したのは明らかにテレビ。振り返ると、青島幸男さんや田英夫さんらテレビで親しまれた人が政治家になるパターンが繰り返されてきた。だが逆に政治家、中でも指導者が、デーリーのテレビ番組を持ったらどうなるか。それをやったのが小泉さんだ。

 彼のように毎日、テレビの前に出てくる指導者は世界の中で、あるいは歴代首相の中で一人もいない。首相がレギュラー番組を持ったようなものだ。テレビが小泉さんのお先棒を担いだなどといわれるとき、現場にいる当事者は違和感を覚えるが、結果として小泉さんはテレビをうまく使った。

 ――具体的には、どのように使ったのか。

 テレビは小泉さんに加担したとか、小泉ブームをあおったとかいわれるが、小泉さんを支える中心になったのは、キーワードで言うと日常性と非政治性だ。

 まず日常性だが、小泉さんは毎日、自分からテレビの前に出てきてしゃべる。これが果たしている効果は絶大だ。つまりテレビを見ている人が小泉さんの考え方にすべて賛成というわけではなくても、毎日出てくるため親しみを覚え、ほかの政治家に比べて自分の日常に近い存在になる。

 もう一つが非政治性。例えば記者が小泉さんに「王監督が入院します。どう思いますか」と聞く。「大事に至らなければいいですね」とか平凡な答えが返ってくる。そうした政治とは関係ない非政治的なことが、政治的効果を持ってくる。

 ――そのようにして存在感を増している。

 最新の例が、アメリカ版小泉劇場だ。私もワシントン特派員を務めたが、日米首脳会談が米国のメディアで大きく報じられることはまずない。

 しかし小泉さんの今回の訪米は破格の扱い。特に、故エルビス・プレスリーの邸宅訪問はニューヨーク・タイムズが一面、ワシントン・ポストも一面トップ扱いだ。エルビス邸訪問は、政治と関係ないが、そうした非政治的な出来事が新聞のトップ記事になる。

 みんな小泉さんについて何を覚えているだろうか。貴乃花の優勝に「感動した!」と叫んだり、ああいうイメージが強いと思う。あれも政治ではない。つまり非政治的なものを最もうまく政治的に使った首相が、小泉さんだ。



と言う風に、小泉首相が例えば王監督の入院に対して発言した内容は
おそらくは世間一般の声との乖離はほとんどなかったと思うのだ。
そしてそういう発言を聞くたびに、私たちは彼の発言が私たちとズレ
がないことを再確認して、ホッとしている様な気がするというか。

それは例えば、前首相の森喜郎と比べるとはっきりすると思う。
森前首相の人気がなかったのは、彼がマイクの前で話した内容が、
世間一般の感情とはちょっとずれていたり、もしくはその言葉の中に
嘘とは言わないまでも、不誠実さを(無意識の内に)感じ取っていた
からなんじゃないのかな。

それに対して小泉首相の場合には、多分彼の発言って、計算して
世間一般の声に合わせているというよりは、彼の皮膚感覚で発言して
いるように感じられるのだと思うのだ。
だからいわば、世間一般の声の巫女的な存在と言うか、具現してきた
(+そこに自分の主義主張を織り交ぜてきた)のが、小泉首相の強さの
秘訣なんじゃないのかな、と思うのである。

でもね、その一方で言うならば、例えば消費税を上げない代わりに、
彼が行なってきたのは、例えばサラリーマン家庭の扶養家族手当ての
削減だったり、また福祉、介護予算の縮小だったりという形で、
弱者的な立場の人たちに対する政策は厳しさを増していると思う。

個人的には、それだったら(生活必需品の消費税は余り上げないとい
う前提で)全国一律、平均的に税が取れる消費税率を上げたほうが、
税の公平性という事では正しいと思うのだが。

と言う風に、彼の政策は、世間一般から零れ落ちそうな箇所に対して
は、目が行き届いているとは言い難いと思うのだ。
それは例えば、難民問題などでもそうで。世間一般から外れる、
世間の関心のあまりない部分に関しては、冷淡にも思えるのである。


で、話題は、ポスト小泉に移る。
果たして、ポスト小泉と目されている候補者たちは、小泉首相ほどに
も、自分の嘘偽りない本音が、世間の声とシンクロすることができる
のかどうかが、彼らの政権の寿命を決めるのかもしれない。

おそらくは、安倍晋三官房長官が、次期首相になるんだと思うんだけ
ど、彼の発言を聞いていると、ちょっとだけ計算している感じがする
のは、私の思い過ごしなのかもしれないけれど。



2006年08月24日(木) ゲド戦記

今回は映画ネタ。見てきたのは「ゲド戦記」
この映画の感想を一言でいうならば、「正直、この作品の評価がこん
なに低いのかがわからない」である。
作品自体は、正統派?ジブリアニメに仕上がっていると思うのだ。

この映画に関して、原作者のアーシュラ・K・ルグインが原作とは
違う別作品だと自身のWebサイトで書いているらしい。
でもそうだろうな、と思う。

この映画の監督、宮崎吾郎が書きたかったテーマって、親殺し、
子殺しが頻繁に起こっている印象のある、現代日本の心の闇、病巣を
描きたかったんだろうな、と思うからである。

主人公、アレンは映画の冒頭で自分の親を刺し殺し、剣を奪って
逃げる。
彼が逃げ続けているのは、自分の心の中の闇とも言うべき、自分の
影である。
そして彼自身は、心の奥底で、自分に生きる価値はないのだ、と
思っているようである。

そしてそれは、おそらくは監督宮崎吾郎が考えた現代を生きる若者、
生きる目標を失ってしまったかのように見えるとも重なっているのだ
と思う。
だからこの映画のテーマは、オタクの人にとっては、面白くはない
かもしれないなあ、と思うのだ。

ただ、個人的にこの宮崎吾郎監督の考え方に、賛同する部分があるの
は、自分自身が宮崎吾郎監督と年齢が近いせいかもしれない。
すなわち、この映画を見ている私にとっては、アレンの立場も、そし
て彼を取りまくゲドたちの考えることもわかる気がするからである。

解剖学者の養老孟司が、この映画を見てなんと言ったのかは知らない
けれど、おそらくは我が意を得たり、と思ったんじゃないのかな。
「日本人は生きていない」「自分の生き方がわからないなんて言って
る奴は身体を動かせ、自然の中で畑を耕せ」というのは、養老孟司の
主張そのものだと思うし。
でも、実際そんな風に自分の身体を使う生き方をしていると、私も
そう思うんだよね。

この映画の中でヒロイン、テルーは「生きてない」アレンに対してこう
言う。

「人はいつか死ぬ。だけどすぐに死にたいっていうのも、死にたくな
いって言うのも一緒で、それは生きてないんだ。アレンが怖いと思っ
ているのは死ぬことじゃない、生きることを怖がっているんだ」
と。

で、個人的にはこの言葉がスッと自分の心の中に入ってきただけで、
この映画を見てよかったな、と思ったのである。

私は心の闇は、誰の心の中にもあるのかもしれない。
そしてそれはこの映画で描かれたように、自分にとっての影みたいな
もので、だけどそれも自分の中の一部分なんだ、ということだと思う
のだ。

そして、私たちは一人で生きているわけではない。必ず誰かしらの
目に見えない、普段はあまり意識はしない助けがあるからこそ、生き
られるんだ、と思うのである。

ただし、私はまだ原作を読んでないので何とも言えないのだが、おそ
らくは原作の持つ魅力は、このテーマだけに絞り込まれたものでは
ないんだろうな、と思う。

もっと複雑な魅力が原作にはあるんだろうし、その意味でこの映画が
原作の持つ魅力を全て引き出したとは思ってないし、別物なんだろう
な、と思うのだ。

また、ここに描かれた世界が、果たして原作者の思い描いた世界なの
かどうかも私にはわからない。
この映画で描かれている世界は、今までのジブリ作品の世界そのもの
の様に思えるからである。


この映画を見ていて、個人的に懐かしいなあ、という感覚になった。
それはおそらくは、宮崎吾郎監督の父、宮崎駿監督の作品を彷彿と
させるキャラクターが出てきたり、街の雰囲気も以前の宮崎アニメの
舞台になってもおかしくはないレイアウトになっていたからだろう、
と思うのだ。

すなわち、魔女クモーの手下、ウサギは、風の谷のナウシカのクロト
ワっぽいし、テナーは、魔女の宅急便のオソノさんを彷彿とさせる。
それは、個人的にはジブリのキャラクターが、他の役を演じている
感じに見えて、そんなに抵抗はなかった。

また、この映画を見ていて、もっともジブリっぽいな、と思ったのは
牛や馬などの動物の描写の仕方だった。
こういう所のリアルさや、農作業の描写の確からしさの様な物が
ちゃんと描かれている事に、見ていて一番ホッとしたのである。

逆にいえばそれは長年宮崎駿監督の下で技術を磨いてきたスタジオ
ジブリの底力といえるのかもしれない。
それは今までどこかで見てきた風景ではあるんだけど、日本沈没の
時とは違って、今まで見てきた風景だからこそ、少なくとも監督の
伝えたかったメッセージは際立って伝わってくると思う。

ジブリのアニメは、それでなくても説教臭い、と思っている人に
とっては、それは単なる親父の繰り言に聞こえるのかもしれないけれ
ど、でも多分そう思った人も、自分が子供を持つ位にこの映画を
見直した時には、その評価も変わってくるんじゃないのかな、と
思うのである。

だから個人的にこの映画を一番見て欲しい、と思う層は、今気難しい
年頃の子供を持って、どう接していいかわからない、と思っている
(特に男)親の人である。

多分ね、私はまだそういう立場ではないけれど、私自身は今回のゲド
のように、自分の生きる姿を見せるしかないだろうな、と思うのだ。

人に生きているとはどういう事かを見せるためには、自分自身が
「生きて」いる姿を見せる事が一番大切な事のような気がするので
ある。

そしてできれば、私もそんな師匠に出会いたいな、と思うし、自分が
そんな人になれたらいいな、とも思うのである。


ただ、今回の作品の作画で、一番違和感があったのは、主人公が
狂気に駆られ、キレる場面での表情だった。
それが練れてない、というか、作画のレベルからいっても、ちょっと
落ちるというか。

多分ね、この辺宮崎駿だったら、もっと顔の表情の演技に頼るのでは
なくて、全身の動きで表現したんじゃないのかな、と思うのである。
あと、おそらくラストシーンあたりは作画の時間が足りなかったんだ
ろうなあ、と思ってみたり。


今回の映画、ゲド戦記は、そんな風にこれが初監督作品になる、
宮崎吾郎監督にとっては、原作の持つ魅力と、父が培ってきた資産に
よって、相当助けられている部分があると思う。

でも、これ以上にひどい内容のアニメ作品なんて、今まで見てきた
中にも沢山あったと思うし、初監督作品としては、むしろ無難に
こなしたんじゃないのかな。

もしも次回作があったとして、その時、優れた原作や父の資産だけに
頼ることなく、自分自身の世界といった物が生まれるのなら、彼の
評価もまた変わるのかもしれない。

個人的には今回の映画は、父、宮崎駿のやる気に火をつけたんじゃ
ないかな、と思うので、父の次回作に期待、という事で。

あ、あとこれを機に原作を読んでみようと思います。




2006年08月12日(土) クルージング

先週の土曜日、サンセットクルージングに行ってきました。
本当は、東京湾大華火大会を、船の上から見る予定だったんですが、
午後大荒れの天気になってしまったが故に、花火大会は残念ながら
順延。。。


事の起りは、雑誌東京1週間の読者プレゼントに葉書を送ったら、
2通の内の1通が大当たりして。
もお、どれだけこの日が来るのが楽しみだったことか。

でもね。
多分、これだけ美味しい思いをして、なおかつ花火まで特等席で
見られた日には、一生の運をすべて使い果たしてしまうと、おそらく
は、神様が思ったんでしょうね。
それともお前にはまだ早いと思われたのか、はたまた普段の行いが
よほどお気に召さなかったのか。

ということで、花火は順延になりましたが、クルージングは予定通り
行われると言うことで、乗ってきましたよ。
サンセットクルージング。

ということで、当日は午後大荒れの天気だったにも関わらず、その後
回復して、見事に見られたサンセットの模様を何枚か。









で、実際に船に乗ってクルージングしてみると、これが無茶苦茶
気持ちがよくて。
多分、大きい船で、しかも東京湾の中だけをクルージングしている
からなんでしょうけど、揺れもほとんどなくて、静かで、それでいて
結構早くて。

そんな中で食べたフランス料理も美味しくて、こういう所で結婚式を
挙げたくなる人の気持ちがよくわかった気がします。
ていうか、料金さえ許すならば、俺だって一度はやってみたいぞ。
そういうの。

家に帰ってきた後も、その日はどこか船の上で揺れているような、
そんな感覚が忘れられなくて、心地よかったです。
結構やみつきになりそうな感覚なので、その内近場でいいから、
船の旅でもしてみたいなあ、なんて思ったのでした。
夢はカリブ海クルージングですけど。



2006年08月08日(火) 亀田選手にかけたい言葉

日曜日の朝、TVをつけたら「サンデージャポン」をやっていて、
そこに今話題のボクシングの亀田興毅選手が出演していて、周囲の
出演者たちがしきりに亀田君は悪くない、と擁護しているその空気の
微妙な感じにいたたまれなくなり、すぐにチャンネルを変えてしまっ
た。

なんでそんな空気を寒く感じたんだろうと思ったときに、多分、亀田
選手自体は、自分の実力を評価してほしかったのに、今回のTV番組で
擁護している人たちが言ってることって、亀田親子のサクセスストー
リーみたいなものについての評価だったからかもしれない。
って、本当にちょっとしか見てないのでわからないのだが。

本当は、亀田選手がかけてほしかった言葉って、今回結果的に世界
チャンピオンになれてもなれなくても、「今回は自分の実力が出せ
なくて本当は悔しかったやろ。次は頑張りや」って言葉なんじゃない
のかな。

ジャッジがどうのこうの、とか、そういう話について周囲が議論を
交わしているのを聞かされるのではなくて。


今回の、亀田興毅選手の騒動について、個人的に思うのは、日本の
世論(っていうか、世間の声)って、やっぱり凄いなあ、という事で
ある。

だって、TV視聴率50%超を取った番組で、疑惑?の判定が下された
瞬間、その番組を見ていたかなりの数の人が、一瞬にして「これは
八百長だ」と(ボクシングに詳しくても詳しくなくても)感じた訳で
しょ。

すなわち日本の中にある、世間という、はっきりした形はないけれど
この国を動かしている、法律すら超えた日本の倫理基準に照らし合わ
せた結果で言えば、今回の亀田選手の試合は、プロのジャッジが勝ち
と判定しても、国民的には「負け」「裏切られた」と判断したわけで。

もしこれが、TV番組の生中継で、50%なんて視聴率を取らず、他の
ボクシングの世界タイトル戦と同様に、よくて15%の視聴率だった
ら、多分同じことが行われたとしても、ここまで話題にはならなかっ
たと思うし。

そして、おそらくここまでネットが発達してなければ、この話が
これだけ大きくなることもなかったのかもしれない。
ネットって本当に、瞬間的に生理的な感情の爆発が加速しやすい
媒体なんだろうなあ、と思うし。

その意味では、今回、あまりにも多くの人の関心を集め、耳目を惹き
つけてしまったことが、亀田選手で商売をしている興行側としては、
一番の誤算だったのかもしれない。

早々、一度ついたレッテルをはがすのって難しいと思うし、また
おおっぴらにあおって、自分たちの(商売上のリターンの大きさとい
う意味で)掛け金を上げすぎた場合、それを取り戻すのは大変になり
そうだし。

だから少なくとも、亀田選手の周囲の大人の人たちは、これからどん
なシナリオが一番効果的なのか、今頃は必死こいて考えているのかも
しれない。


でもね、その一方で言うならば、亀田選手自身の人気の回復を図るの
は、そんなに大変じゃないんじゃないかな、という気もするのだ。
だって、ボクシングって本来は実力勝負な訳でしょ。

今回の試合で視聴者の何割かが、胡散臭く感じたように、逆に言えば
亀田選手が本当に強い相手と戦って、自分の実力を出せたなら、少な
くともボクシングファンの人の人気は勝ち取ることができるんじゃ
ないのかな。(今までそういう部分が作られてきたと感じる人が多か
ったからこそ、今のバッシングの現状があるんだろうし)

それにもしも、本当は世界チャンピオンになるだけの実力がなかった
んだとしたら、それでも亀田親子が本気で世界チャンピオンを獲りた
いのなら、何回でも挑戦したってかまわないんじゃないのかな。

元世界チャンピオンのボクサー、辰吉丈一郎が、あれだけの人気を
博したのって、彼のキャラクターもさることながら、周囲の反対を
押し切っても、網膜はく離になっても世界に挑戦し続けたからなん
じゃないかな、と思うのだ。
それだけ、彼が本気だったからこそ、最後まで(そして今も)ファンは
応援しているんだと思うし。

亀田三兄弟にしたって、世界チャンピオンを獲りたい、そして親父に
楽させてやりたい、と思う気持ちは、本気なんだと思うんだよね。
だからこそ、練習に打ち込んできたわけで。

果たして自分を含めて、それだけ何かに本気になって取り組んでいる
人って、この世の中にどれだけいるんだろう、とも思うのだ。

だからといって、本気だったら何をしても許されるのか、とも私は
思わないし、また、本気でやればなんでも願いが叶うとは思わない。
でも本気って、こういう結果が用意されているから頑張るってもん
でもないだろうし。


今回の亀田興毅選手の世界挑戦には、例えば無敗神話だとか、10代で
の世界王座奪還とか、いろんなストーリーの尾ひれが付きすぎていた
と思うんだよね。

でも、亀田興毅選手の本当のファンがいるとして、彼ら彼女らが見た
いと思っているのは、彼が真剣勝負で戦っているその姿なんじゃない
のかな、とも思うのである。

この亀田戦の行われる数週間前、大相撲では、大関昇進後、最短での
横綱昇進がかかった白鵬関が、13勝2敗、千秋楽では横綱朝青龍関に
勝ったにも関わらず、内容が悪いとして、横綱昇進を見合わせられ
た。

果たしてこの事が本当に白鵬関によかったのか悪かったのかはわから
ない。もしかすると怪我をして、二度と横綱になれるチャンスはめぐ
ってこないかもしれない。

でも、白鵬関が本気で横綱を目指して励むのであれば、たとえ彼が
横綱になれなかったとしても、彼を応援し続けるファンは増えるん
じゃないのかな。

まあだから、個人的には亀田選手にも、「次は頑張りや」と言いたい
のである。



2006年08月07日(月) 若冲と江戸絵画展

金曜日、上野の国立博物館に「若冲と江戸絵画展」を見に行ってきた。
若冲とは、江戸時代の画家、伊藤若冲のことで、私が若冲の事を
知ったのは、動植綵絵という、図鑑のように魚や鳥が並べて書かれて
いる屏風絵だった。

最近、若冲は何かと注目されているらしく、美術関係のTV番組だけで
なく、現在発売中のBRUTUSでも取り上げられている。
(モザイクみたいな象の絵のやつ)
この雑誌は若冲展を見に行った後で、立ち読みで読んだんだけど、
宇多田ヒカルの「SAKURAドロップス」のPVのバックに若冲のこの象が
出ている事を知ってビックリしたり。

何より、この展覧会を見に行って家に帰ってTVをつけたら、「たけし
の誰でもピカソ」でも、取り上げられていたので驚いたのである。
曰く、日本のレオナルド・ダヴィンチ、江戸時代のニート画家、だそうで。

でもこの人って、元々は八百屋さんだったのが、家督を弟にゆずって
隠居して、画家になった人なんだよね。
教科書に出てくる本居宣長にしたって、実は伊勢の医者が本業で、
本居宣長は副業というか、もう一つの顔だった訳で。
江戸時代っていうのは、こういう人たちも結構多かったのかもしれ
ない。

でもこれってたとえるなら、本業は別に持っている人が、夜な夜な
副業で絵を描いて、コミケで売るみたいなものだと考えれば、現代の
ニートとは言わなくても相通じるものがあるのかもしれない。

なんて事を思ったのは、今回の展覧会、タイトルに「若冲と江戸絵画
展」とあるように、若冲の絵画は一部だったんだけど、その数多ある
絵画の中でも、若冲の絵画が目を引いたのである。

個人的に気になったのは、鶴とかを連作している、墨絵の屏風絵だっ
たんだけど、その絵の墨絵の濃淡のつけ方や、構図の切り取り方が
非常に、漫画というかイラストっぽい感じがして、江戸時代の絵と
いうより、現代に通じるものを感じて違和感がないのである。

それは、昨年見に行った葛飾北斎展でも感じたことなんだけど、
多分、日本でこれだけ漫画文化が発展した大元って、こういう構図の
切り方や、絵をシンプルにデフォルメする文化があったからこそなん
じゃないのかなあ、などと思ってみたり。

そのほかにも、今回の展覧会で面白かったのは、屏風絵に、様々な
光を当てることで、その絵の印象がどんな風に変わっていくのかを
展示しているコーナーがあったことである。

これって、いわば朝の光から、夕方の光に変化させているんだと思う
んだけど、その光の指す方向や、強さによって、本当に屏風絵が表情
を変えるのが面白くて。

今まで屏風絵って、金箔を貼ってあるのがなんかキラキラしすぎて、
絵画としては面白くないんじゃないかな、と思っていたんだけど、
その金箔にあたる光線の具合によって、絵の印象が変わる所まで、
計算して作られたいたんだなあ、と思って改めて見直しました。

今回は自分が見たかった、若冲の動植綵絵の絵は見られなかったんだ
けど、こっちは実は宮内庁が保管していて、ちょうど今の時期に展覧
会
をやっていることを、今回ネットで調べて知り。

今度機会があったら(早々見られる機会もないだろうから)、見に行っ
てこようと思います。



2006年08月04日(金) 映画「ハチミツとクローバー」

今回も映画ネタ。見てきたのは「ハチミツとクローバー」
この映画の感想を一言で言うなら「山田かわいい」である。

って、訳のわからない人のために説明すると、山田というのは、
この「ハチミツとクローバー」という作品の中に出てくるキャラクター
なんだけど、今回この映画の中で山田役を演じている女優、関めぐみ
がムチャクチャかわいかったのである。
なんかキャラクターとのシンクロ率90%位な感じで。
いやあ、こんなにカワイイ女優さんがいるとは知りませんでした。

で、肝心の作品の感想については、以下多少ネタばれ風味なので、
これから見る人には注意していただくとして。

私は原作コミックスの「ハチミツとクローバー」が少女マンガなんだ
けど大好きで、以前エントリーを書いたこともある。
その私が今回、映画と原作を比べた場合、残念ながら?原作の方が
何十倍も面白いと思う。

原作と今回の映画で、何が一番違うのか、というと多分「狂気成分」
が足りない気がするのだ。
「狂気成分」というのは、原作を読んだ人ならわかってくれそうな気も
するのだが、原作者羽海野チカの、あんたそこまで話飛躍する?みた
いな、展開のオーバードライブ感というか、はたまたコマに書き込ま
れたデティールであったりとか。
そういう過剰な感じみたいなものが、私が原作に惹かれた一番の理由
なんだと思うんだけど、今回の映画ではその辺は割とおとなしめで。

まあ、もちろん現在9巻まで出版されているけれどまだ完結してなく
て、1冊読むのに1時間くらいかかってしまう(当者比)原作をたった
2時間でまとめろ、という方が土台無茶な話だとは思いますが。

でも、だからこそ原作の中の数々あるエッセンスの中から何を取捨
選択していくか、という所にアレンジャーとしての映画制作者のセン
スが光るんじゃないかな、と思うのだ。

で、個人的には、原作「ハチミツとクローバー」の主人公って、先ほど
も触れた山田だと思っていて、その山田の恋模様というか、ひたむき
に片思いをする相手の真山の片思いがあるからこそ、山田の恋のせつ
なさが引き立っていると思う。

だけど今回の映画だと、あまり山田の片思いを引き立てる役目として
は、真山のキャラが立ってないというか、単なるストーカーになって
しまっているのがもったいないなあ、という感じで。

個人的に真山の魅力って、彼の立っている、何かを背負っている背中
姿のカッコよさにあるんじゃないかな、と思うんだよね。
行動はほとんどストーカーであったとしても、相手が自分を頼りには
してくれなかったとしても、でも万が一、何かあったときには自分が
支えられるだけの実力を持っていたい、と思って日々生きている真山
のカッコよさ、優しさに山田は惹かれたんじゃないのかな、と思うの
だ。

今回の映画では、そのほんのちょっとの描写を加えるだけで、多分
ヒロイン山田の恋の切なさがもっと引き立ったんじゃないかなあ
と思うと、ちょっともったいない感じなのである。


今回、この映画の制作者が大事にしたかったものって、何かが生み出
される、クリエイティブな瞬間、なんだろうと思う。
だからこそ、今回のはぐの絵はMAYA MAXXに書いてもらったりしたん
だろうし。

天才の森田と、はぐの組み合わせは、ロダンとカミーユ・クローデル
の二人の様に、表現の神様に選ばれた二人で、その領域には、凡人に
は入っていくことは出来ないけれど、でも凡人なりに神に選ばれた
天才少女、はぐの事を愛してしまったこの映画の主人公、竹本に、
何ができるのか、というのをテーマにしたかったんだと思うのだ。

でも、竹本に脚光を浴びせるなら、もうちょっと実家の事情じゃない
けれど、自分の将来をどうするのか、悩ませてもよかったんじゃない
かなあ、という気もしたりして。
そうじゃないと、あの自転車の旅が引き立たない気がするんだよね。

個人的には、原作の中では、あの自転車の旅から帰ってきて、たく
ましくなった竹本の姿(7巻)、というのが一番好きなシーンだった
ので。

だから、なんていうのか同じ2時間の使い方でも、もうちょっとだけ
塩少々、隠し味で砂糖少々、みたいな感じで味付けを変えたらもっと
心に響いてくる作品になったんじゃないかな、と思います。
それだけが、ほんの少し残念でした。

でも、この映画を見たのをきっかけにして、個人的には家にある
原作本を読み返し、ゲラゲラほろりとする事ができたので、得した
のかも。
やっぱね、原作最強っす。



2006年08月02日(水) 日本沈没

今回は映画ネタ。見てきたのは「日本沈没」
知り合いの方にタダ券を頂いたので、前から見たかったこともあり、見に行ってきた。

この映画の印象を一言でいうなら「リアルってなんだろう」である。
この映画がリメイクされる元になった「日本沈没」の映画は、小さい
頃に見たことがある。といっても、多分TVの再放送だったと思うんだ
けど、日本が沈没してしまう、というのは半ばトラウマの様に記憶に
刻み込まれたと思う。

その前作の中で覚えている気がするのは、確か松尾嘉代が地下街で、
増水した水に飲み込まれそうになるというシーンなんだけど、それが
実際に映画の中にあるのかは、前作を見返すつもりはないのでわから
ない。そもそも、松尾嘉代という名前を小さい私が覚えているはずも
ないので、もしかするとその後見直したのかもしれない。

で、なんでそのシーンが印象に残っているかというと、自分が同じ
立場になったらいやだなあ、と画面を通してその苦しみが伝わって
来たからである。

ということで今回の日本沈没も、半ば怖いもの見たさ、お化け屋敷に
入るみたいなつもりで見に行ったんだけど、実はそういう身につまさ
れるような痛いシーンはほとんどなく。

全体を通して、なんというか、実写なんだけどアニメっぽいのだ。
映画の中では、熊本城は火山弾で崩壊し、東京も地震で六本木ヒルズ
をはじめとして、どんどん崩壊していく。
その倒れていく映像は、最新のCGでとてもリアルに作られてはいる
けれど、同時にそれを見ている私は、この映像がフィクションである
事がわかってしまうというか。

この作品のメガホンを取った樋口監督は、以前確かアニメの「エヴァ
ンゲリオン」の絵コンテを切っていたからなのかどうなのかはわか
らないけれど、各都市が崩壊していくさまは、とても映像栄えはして
いるんだけど、だからこそ、それがデフォルメというか強調した画で
あることを見ている私は感じ取る。つまり、視覚の楽しみはあっても
身体には響いてこない。
でもそのおかげで安心して見ていることができる。

以前、やはりアニメの監督の押井守が、インタビューで答えていた
内容で、CGの発達により、全世界的に実写がアニメ化している、と
いう発言があったと思うんだけど、今回の映画もそういう感じだと
思うのだ。

だから、逆に言えば、日本が崩壊していく様をリアルに描きこまれた
映像に対して、萌えることさえできてしまうのかもしれない。
少なくとももしも、私が10代くらいで、日常に退屈さを感じ、こんな
日本なんてなくなってしまえばいいのに、と思っている人間だったら
この映画の映像は、もっとリアルに感じられたのかもしれないなあ、
とも思うし。

でもそれって、考えてみれば「ゴジラ」とかも一緒かもしれない。
映画「ゴジラ」を見ている時って、ゴジラに対して被害に巻き込まれて
しまうパニック映画として見ているというよりは、多分自分がゴジラ
の立場になって、街をどう破壊していくのか、という方に(少なくと
も日本のコアなファンは)感情移入している気がするし。

だからこそ、単なるパニック映画になってしまったアメリカ版ゴジラ
は、日本では人気がなかったのかもしれない。

そもそも、日本の怪獣映画っていうのは、中に人間が入っていて、
それがミニチュアの街を破壊することは前提になっているわけで。
つまり、この映画はフィクションであるというのを前提にして楽しむ
映画だと思うんだよね。いわばプロレス的なものというか。

で、今回の映画の場合は「ゴジラ」の代わりに自然の猛威が主役だった
のかもしれない。
だから、豊川悦司演じる科学者は、敷島博士?っぽいといえばそう
思うし。
だからこそ、ああいうラストになったような気もするのである。

その上で、今回の作品で印象的だったのは、草��剛が演じる主人公の
行動である。
彼は今回、日本が崩壊するという時に、自分の愛する人とそして物語
の冒頭で自分が助けた、身寄りのなくなってしまった少女を連れて、
国外に移住しようと愛する人に持ちかける。

でもその一方で彼の親兄弟はまだ被害の起きていない、福島にいる。
もちろん、その家族にもどうするのか、と聞きにはいくけれど、母親
が、このまま日本と運命を共にする、と言われたときに、結構あっさ
りと、その決断を受け止める。

いや、でもこのまま日本にいるということが、生き別れになってしま
うことを考えたら、必死になっても説得しようとする気がするんだけ
ど、そこは結構あっさりとしているのだ。
で、多分こっちの方が、今回の主人公にとってはリアルなんだろうな
と思うのである。
でも、多分アメリカや他の国でこういう描写があったら信じられない
とか言われるだろうなあ、と思うんだけど。

そしてこの物語のクライマックス、彼は彼にしかできない使命を選択
し、不可能に思えるミッションに挑む。
その辺りのドラマツルギーというかカタルシスの作り方が、すっごく
ベタなアニメの文法に思えるんだけど、でももしかするとこういう話
の方が、リアルに感じられるのかなあ、なんて思ってみたり。

2時間半という時間の制約の中で、日本が沈没していく様と、その状
況で生きていく人たちの話の中に、愛を絡めようと思った時、その
最大公約数というか、正解はこういう感じだと思うんだけど、その分
今までどこかで見てきた映像とか物語という感じがしてしまうのだ。

もしも本当に、日本が沈没するという事態になった時には、そこで
起こる事っていうのは、自分の想像を絶する事態になるとは思うん
だけど、その自分の想像力の範囲内で済んでしまった分、安心して
見ることができたのかもしれない。

それに想像も絶する事態というのを、映画の中で実現しようと思っ
たら、予算の問題や、技術の問題でもリスクを冒す必要があるし、
その冒険が必ずしも成功するかどうかわからないことを考えれば、
こういう風に手堅くまとめた方が正解なんだと思うのだ。

だから確かにこの映画は、大画面で見た方が楽しめると思う。
もしも私がこの映画をレンタルで借りてみた場合には、多分見たい
シーン以外は飛ばしてしまいそうだし。
ということで、ちょっと辛口に聞こえるかもしれませんが、一見の
価値はあると思います。


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