パラダイムチェンジ

2005年05月29日(日) はじめてのTOEIC

日曜日、TOEICの試験を受けてみた。
TOEICのテストを受けるのは初めてだし、そもそもテストを受けるのも
10年ぶりくらい。
学生時代に使っていたペンケースやら、その頃使っていた、マーク
シートにも使いやすい、芯の太いシャープペンなどを引っ張り出して
きて、気分(だけ)はもう学生気分である。

試験会場が明大前と近かったこともあり、余裕を持って到着したまでは
よかったんだけど、実際に受けたテストは思いのほか大変で。

いや、TOEIC試験なめてました。マジで。

2時間で200問という問題数をなんとかこなすことはできたんだけど、
最後の200問目のマス目を埋めた時点で残り1、2分。
当然見直す余裕なんてものがあるはずもなく。
正解かどうか相当怪しい解答も沢山あったので、成績は推して知るべし
だろう。
もしも点数がよかったとしたら、それはまぐれに近いかもしれない。

で、今回TOEICテストを受けてみて感じたのは、
このテストって、どれだけ英語に対して抵抗感がないか、もしくは
慣れ親しんでいるかを評価するテストなんだろうなあ、ということ。

英語を聞いて一度日本語に変換してたんではもう遅く、英文を見て
すらすらと英語のまま理解できる人が高得点をマークするのかもしれ
ない。

語彙に関しては、見た事もない単語がもっとズラッと出てくるのか、と
思っていたらそんなこともなかったし。
やっぱり日常からどれだけ英語に慣れ親しんでいるのかが問われている
んだろうなあ、と思うのだ。
だからこのテストで高得点をとるためには英文の多読と、リスニングが
重要なのかもしれない。

まあ今年中にもう一回受けるつもりではあるんだけど、いつ受けるかは
テストの成績が返ってきてから考えるということで(ちょっと弱気)。
それまでは地道にまた英語に慣れ親しむように頑張りますか。



ということで普段ちっとも使ってない頭を使った後のごほうび、
ということで。
テストが終わった後、久々に立ち寄った下北沢で反射的に入ったカフェ
のチョコバナナワッフルをぱちりと。

ワッフル自体はサクサクで甘すぎず、アイスクリーム、バナナ、チョコ
クリームと相まってウマーって感じで。

昔、自分がよく通ってた頃と今の下北の一番の違いって、いろんな種類
のカフェが増えたことかもしれない。
どこもそれぞれ個性的でおいしそうだし。

いやー、疲れた頭には一番の栄養でございました。



2005年05月28日(土) フィリピンで戦い続けた人

フィリピンの山奥で、元日本兵が今も生きているという。
今も本当に生きているのだとすれば、80歳を超えているわけで、80過ぎ
で今も現役?の兵士というものを私は想像することができない。

彼らが一体どのような、戦争中を含めれば60年以上もの時間を過ごして
きたのか、ということも私には想像することができない。
一体いつ頃まで、いつ敵が襲ってくるのかという緊張感を強いられてき
たのか、それとも80過ぎの今でもそういう生活が当たり前だったのか。

なんてことを思うのは、30年前同じくフィリピンのルパング島で発見
された小野田寛郎さんの講演を聞いたことがあったからである。
それが3年前の「ほぼ日刊イトイ新聞」のイベント、「智慧の実を食べ
よう」
での話。ちなみにその模様はDVDにもなっています。

今回改めて本を読み返してみると、小人数で戦争状態を続けていること
の過酷さが伝わってくる。
以下、少しだけ抜粋すると、


一番最初に何が必要かといえば、食べるものです。本当はお米も魚も
野菜も食べたい。(略)ところが、島の中の周りすべてが敵となると、
そうは問屋がおろしてくれません。周りを見渡して、何か食べるものを
探しました。幸い、非常に牧畜のさかんなところで、まるで野生化した
ような牛、あるいは馬がおりまして、その牛の肉をとって食べるという
ことを一番最初に考えました。(略)

その次、その肉の保存ですが、暖かい南方ですから放っておけば三日目
には腐ってしまいます。(略)塩を塗って天日乾燥すれば乾きますが、
私たちは住民と敵の目を逃れて生活しているんですから、そういうこと
ができません。結局、火を燃やして、火力で乾燥するしかない。(略)

天日乾燥のかわりに薄く切って乾かそうというので、イカのように薄く
切って串に通して乾かしました。一晩で本当に全部乾きます。(略)
パリパリパリパリ、おいしいんですけど、何十キロという肉をイカの
ように薄く切ると、やっこら終わったと思うと、もうナイフを持って
いる指が開かない。手を切るからって非常に固く握っているから、
それが何時間も続いたから指が開かないんです。これも困る。(略)

食べるものだけあればまず生きられますけれども、数年経つと、今度は
被服の問題が出てきました。私たちは、雨に濡れると濡れっぱなしなん
です。火を燃やすと煙が出る。太陽が出たからって、服を脱ぐわけに
いかないんです。脱ぐと裸なんで。着替えを持つほど私たちは重いもの
を持って歩きません。だから、これを太陽に干すことができないし、
日の当たるところにもし被服を干すと、敵や住民に日本兵ここにありと
看板を出しているようなものなんですね。これも危うくてできない。
結局ずっと乾くまで着ている。
そんなことで、雨に濡れるから被服がどんどん腐るわけです。(略)

被服は全部改造しなきゃいけないんですけれども、先ほど言ったよう
に、濡れたまま着ているんですから、ゴム袋に入れて胸のポケットに
入れている針が、露玉がわいて錆びてしまう。銃だけは錆びさせない
ように毎日毎日手入れしておいたんですが、針はめったに使わないもの
です(略)。そういうことを何年も続け、とうとう針のめどがみんな折れ
てしまいました。(略)

じゃあというので、ほかのフォールディングナイフをつぶして、スプ
リングをたがねに作りました。そんなことをしたものですから、出来
上がるのに二日半もかかりました。それに自信を得て、一日かけて、
二人で一生懸命十本つくりました。そのときはそれでよかったんです
けど、何かのはずみにふと仲間が、「隊長、あのとき十本しか作れ
なかったね」と言いました。二人でこれっぽっちしかできない。(略)
そのときに、私たち人間は、社会から離れてしまうと、本当に無力な
ものだとつくづく思いました。(略)

私の仲間の一人が、毎日竹をこすって火をおこすのですけれども、面倒
な話なんです。まだ真っ暗いうちに火をおこして、煙が見つからない
ように飯を炊くのですれども、そのときに「だれかマッチぐらいくれて
もいいのに」ってついこぼしました。
確かに、マッチは安いものですから、住民たちに「おれたちの乾燥した
肉と交換しようじゃないか」と言えば、替えてくれないとも限らないん
ですが。でも敵か味方になってしまったら、それがきかないんです。
住民にとっても日本兵に便宜を図ったというのがわかると、うっかり
すると命をとられてしまう(略)。

相手がいないのですから、私たちにはお金もなんの価値もなくなって
しまいました。(略)それを持っていても住民とマッチ一本も替えること
ができないわけです。よしんば、それがダイヤであっても、金の延べ棒
であっても、住民と替えることはできません。戦争とはそういうもの
なんです。(略)

結局、考えてみますと、貿易商にいたときは立派な貿易商になってうん
とお金をもうけようと思って、それらしく行動した。だから、その時代
を知っている仲間は、「あんなナンパ半分のような男がよく戦争で三十
年もやれたものだ」と言いますけれど、兵隊になった以上はそうあるべ
きであって、軍人らしく努力したということなんです。そしてその次
は、牧場を大きくするため畜産業者らしく一生懸命働いたのです。

いわゆる「らしく」働くこと。どこへ放り出されても、どこへ流され
ようと、生きるために、あるいはそれらしく。ということは、自分の
責任を全うするということでもあります。人々がみんなそれらしく
やってくれると信用ができます。信用ができないということは、団結
するということができなくなる。だれも信用できなければ、どうして
私たちは集団の中で暮らすことができますか。信用できなければ周り
が敵と同じなんですよね。あの人に頼めばこのことはやってくれる、
自分はその代わり引き受けたことは必ずやる、だからお互いに信頼でき
るわけで、初めてそこで一つの社会、一つの集団が成り立つわけです。
らしくやる――そのためには、時によっては自分の命を懸けるという
ことが必要なときもあるわけです。その命を懸けるということが、自分
の意識している以上の力が出るということ。私が言いたいのはそこなん
です。(略)



もっと詳しく知りたい方は、本かDVDで見ていただくとして。
やっぱり、実際に経験してきた人の話には迫力があると思います。

でもこういう話を聞くと、とても自分にはできないだろうなあ、と思う
一方で、いかに戦争状態における一兵士というものが、私たちの想像
からかけ離れた状況に置かれるのか、ということがわかるし。

いかに国家の存亡の危機のためとはいっても、小野田さんの話は特殊な
状況ではあっても、一個人にそれだけの労苦を強いることが愚かな行為
であるように、今の私は感じてしまうのである。

それだったらたとえどんな手を使ったって、そういう状況に追い込まれ
ないように戦争を回避する知恵を持った国の国民でいたいよなあ、と
本気で思うのである。



2005年05月23日(月) Shall We Dance?

今回は映画ネタ。見てきたのはShall We Dance?
実をいえば、私は今から10年以上前、社交ダンサーだったことがある。
大学時代、学生競技ダンス連盟(通称学連)という団体に所属する大学
の競技ダンス部の選手だったのである。
私の大学時代は、社交ダンスと共にあったといっても過言ではない。

だから、という訳ではないが、この映画のオリジナル版である「Shall
We ダンス?」
や、TVバラエティ番組のウリナリ社交ダンス部を見る時
には、どうしても身構えてしまうのである。

もちろんそれらのおかげで、日本における社交ダンスの裾野は広がった
と思うし、実際、私たちの代では苦労した新人勧誘も苦労は減ったらし
い。まことにありがたいことである。

でもその一方では今回の映画の中でジェニファーロペスが
言っていたように「ふざけた気持ちでダンスを取り上げるのなら
やらないで」という気になってしまうのだ。いやマジで。

という感じで、幾分身構えた気分で見に行ったのだが、見てきた感想は
「予想していたよりずっと面白かった」である。

物語の運びはオリジナル版と一緒なんだけど、出来上がった作品として
は、こっちの方が好きかもしれない。
オリジナルと今回の作品の一番の違いは、リチャードギア演じる主人公
の方が、断然ダンスを楽しんでいるように見えることである。

それはダンスシーンの前後に垣間見せる表情が、無防備に楽しんでいる
ように見えて、しかもその楽しさがこっちに伝わってくるような気が
するんだよね。
そう、やっぱりダンスは心を弾ませて踊らなくちゃ。

おそらくはリチャードギアに限らず、この映画のキャスト、スタッフに
共通するのは、社交ダンスとそしてオリジナル版に対するリスペクトの
気持ちなのかもしれない。
だからこそ何かすがすがしい気持ちにさせてくれるのである。

肝心のダンスシーンに関してマニアックにいえば、物語の最初の方、
ジェニファーロペスが初心者であるリチャードギアたちの目の前で、
プロの男性パートナーと組んで踊っているときのラインがとっても
綺麗で。

あと、これはオリジナルにはなかったと思うけど、ジェニロペと、
リチャードギアが1時間だけ練習するシーン。
うんうん、そうだよな、ダンスに必要なのって相手の事をちゃんと感じ
ることなんだよな、と思ったり。

この映画を観た後は仁侠映画における高倉健効果ではないけれど、
また踊り始めたい気分になってしまったのである。
全てのダンスを愛する人にオススメの映画である。



2005年05月19日(木) 「交渉人真下正義」ネタバレあり

今回は映画ネタ。見てきたのは「交渉人真下正義」
「踊る大捜査線」シリーズからのスピンオフ企画であるこの作品。
見てきた感想は、「オタクな監督、本広克行がつくった、カルトという
か、オタクな映画」である。

ちなみにネタバレなしにこの映画を語ってもつまらないので、以下
ネタバレ風味につき、まだ見ていない方は要注意、ということで。


今はもうオタクという自覚がないので、自称元オタクとしてこの映画を
見た時に感じたのは、アニメーション映画「パトレイバー1 」との
関連性である。

赤い光を放ちながら暴走する機械、電波を放ちながら移動する乗り物に
群がるカラス、正体の見えない犯人、今はもう使われてない地下鉄の
線路、周波数によって作動する鍵、OSに潜んでいた罠、そして何より
東京で起きたテロ。
これらはすべて、映画「パトレイバー」とも共通するネタなのである。

また、映画版「パトレイバー」の監督、押井守が、人気漫画/アニメの
パトレイバーシリーズという物語の構図を使って、まったく別物の
映画版という物語をつくったように、

今回の「交渉人真下正義」は「踊る〜」シリーズの監督本広克行が、
「踊る〜」シリーズの物語の構図を使ってまったく別の物語をつくった
という構造までそっくりだと思うのだ。

おそらくは本広監督自身、そう指摘されることまで意識して確信犯的に
つくっているんじゃないのかなあ、と思うのだ。
すなわちこの映画自体が、オタク監督本広克行からの、君は一体いくつ
のネタがわかるのかな?という挑戦状でもあるのかもしれない。


もう一つだけ個人的にニヤリとしてしまったのは、雪乃が見に行った
クラシックコンサートが、ラヴェルで、しかも指揮者が西村雅彦だった
こと。

実は今から10年くらい?前の深夜番組で、「マエストロ」というドラマ
仕立てで毎回クラシックのうんちくをひも解く番組があり、その時の
指揮者役がたしか西村雅彦だったのである。
もしや、と思い家に帰ってきてから検索したら、やっぱりその「マエス
トロ」のディレクターが本広監督であった。

で、そのマエストロの中でもラヴェルについて触れている回が印象的
だったことを映画を見ながら思い出し、思わずニヤリとしてしまったの
である。
ま、この辺はマジで映画のキモなので、この辺にしておくとして。


映画自体に触れると、正直ユースケ・サンタマリアが演じる真下正義の
交渉人はプロとしてはいささか頼りない気がする。
(だって、交渉人としては素人のはずの同僚警官に交渉内容について
指図されたり、捜査方針に関してはなんの権限もない地下鉄職員たちに
ツッコミまれたり)、全東京200万人の命がかかっている割には、
指揮権も一体誰が握っているのか不明だったりするのだが、そこはまあ
ご愛嬌ということで。

というより今回の作品、熱血ヒーローキャラの織田裕二ではなく、その
脇にいたはずのオタクキャラが堂々と主人公になってしまった、という
のが一番の醍醐味なのかもしれない。

TVシリーズや、歳末SPでは、真っ先に逃げ出していた真下も、今回は
逃げずにちゃんと受け止めているわけだし。

映画の中で真下正義が犯人に向かって、俺は君とは違う、君は一線を
超えてしまったけれど、俺は踏みとどまっているんだ、というのは、
そのままオタクなファンに向けての、オタク監督、本広克行のメッセー
ジのような気がする、というのが深読みしすぎだろうか。

また、映画自体は渋いオッサンパレードで、個人的には今まで単なる
ゲストキャラ扱いだった爆弾処理係の松重豊が活躍したり、またこっち
は前作から大活躍のSAT隊長役の高杉亘をはじめとして、寺島進、
国村準、金田龍之介まで、皆さん普段より脚光を浴びている感じで、
本広監督の愛情を感じてみたり。

ということでこれに続く、8月公開の「容疑者室井真次」が一体どう
なるのか、今から楽しみなのである。



2005年05月15日(日) タイフェスティバル

日曜日、久々の休日ということもあり、代々木公園に行ってきた。
目指すはタイフェスティバルである。
日本全国?のタイ料理店、雑貨屋が一同に会し、タイ観光協会によって
開かれているらしいこのイベント。

せっかくだからお昼はここで済まそうかなあ、なんて思ったわけです
ね。
代々木公園はうちから徒歩で10分強、目的地のイベント広場まででも
約20分くらいなのでちょうどいい散歩である。

ということで実際に行ってみると、その人の多さにビックリ。
昼過ぎということもあってか、まさに芋を洗うような状態で、屋台は
並んでいてもさすがに腰を落ち着けて食べられそうな場所はないし。
ま、立って食べればいいや、ということでとりあえずは目星のついた
お店に並んでみる。

最初に並んだところは、どうやら盛岡のお店らしく、私の後ろに並んで
いる人が他の人に熱っぽく、ここは鶏肉のバジル炒めがうまいと力説
している。
そこまで言われたら、やっぱり挑戦してみたくなるのが人情という
もので(笑)。
いや、実際ウマーって感じで。

他にもグリーンカレーや、揚げ春巻き、タイ風さつま揚げなどをぱく
ついていたら、もうすでにお腹いっぱいになってしまたのである。
←つくづく定番メニューしか食べてないけど。

でも、チャレンジしたところはどこも出店しているだけあって、平均点
よりは上なんじゃないのかな。とてもおいしゅうございました。

なんてことを思っているうちに、だんだんと雲行きが怪しくなり、肌
寒くなってきたので、もういいや、と思って会場を離れ、原宿の図書館
に向かったんだけど、その途中からポツポツと雨が降ってきて。

幸い傘は持っているし、天気雨っぽいので、すぐにやむかなあ、と思い
ながら図書館で時間を過ごし。
さて、帰ろうと思って外に出てみると、あ、まだ雨が降っているんだー
などと思いながら駅に向かっているうちに、どんどん雨足が強くなって
きて、土砂降りになるは、雷は近くに落ちてくるはで、結構大変な事に
なり。

こっちはまだ傘をさしているからいいようなものの、周りにいる若い子
たちは皆ずぶ濡れ状態で、この分だとあの後もタイフェスティバルの
会場にいてご飯を食べていた人たちはさぞかし大変だったんだろうなあ
なんてことを思った休日だったのである。
その後程なくして雨は上がったので、夜まで盛り上がっていたんだと
思うんだけど。
でもタイ料理はとてもおいしかったっす。

ちなみにNarinari.comにはタイフェスティバルの様子がもっと詳しく
取り上げられています。



2005年05月11日(水) 英語三昧の日々ふたたび

というわけで、5月5日〜11日までの1週間、海外から父親の講習を受け
に来る人がいたため、再び英語三昧の日々を迎えることになった。
ただし、今回は長年父親の通訳をしてくれる人も同行しているので、
私としては少し安心できるのである。

なんてことを思っていたら、最初の2日間くらい、全然頭が英語脳に
切り替わらなかったのである。
なんか普通に挨拶を交わすのにも一苦労で。
おおい、今年に入ってからの英語漬けの毎日は一体なんだったんだよ、
と思うくらい、英語が口から出てこなかったのである。

一つにはやっぱり、今回は通訳の手伝いも少なくて済むという安心感と
いうか、気の緩みもあったのかもしれないし、もう一つにはやっぱり
完璧な英語を話したい、という気負いもあったのかもしれない。
その結果として、力めば力むほど言葉が形にならなかったのかも、
しれない。

結局その後、何となく話せるようになってきたのは、3日目に彼女たちを
連れてデパートまで買い物の案内をした時だった。
そこでは、自分が通訳兼ガイドをしなければならなかったため、否応な
く話しているうちに英語の失語状態は改善し、結局文法は無茶苦茶では
あったが、何とか意思の疎通は図れるようになったのである。
ま、果たして本当に向こうが満足できるレベルだったのかは疑問が残る
わけだが。

でもね、そこで改めて感じたのは、たとえどんなに語彙や知識を蓄えて
いたとしても、目の前にいる生身の相手と、お互いに共鳴できる所と
いうか、身体になっていないと、英語って口から出てこないんだなあ、
ということである。

よく、英語がまったく話せない人が、外国人とボディランゲージでも
コミュニケーションが取れているように見えるのは、結局、口から
放たれる言語以外の、身体から放たれる非言語的なコミュニケーション
に相手が反応するからなんだろうし。

私みたいにまだまだうまく英語を話すことのできない人間は、結局
口だけでなく身体中を使って相手に伝えようと思えば、なんとかその
意志は伝わるのだろうと思うのだ。
そのためには結局、身体が英語を話そうと思うことで緊張すればする
ほど、自分で身体を縛っているのと同様なわけで。

私の場合は特に、身体で感じ身体で話すことが重要なのかもしれない。
でもこれって多分、普段意識していないだけで、日本語でのコミュニ
ケーションでも一緒なのかも。

また、だからといって英会話に文法なんて必要ないじゃん、なんて
開き直るつもりはない。
おそらくは、文法とか一定の約束事を身につけた方が英語を話すのも
楽になるんだろうし、また聞いているほうもより安心してコミュニケー
ションが図れるんだろうと思うし。

それにしても私の英語力、もう少しは進歩していると思ったんだけど
なあ。まだまだドジでノロマな亀からの脱却は遠いようである。



2005年05月09日(月) 茂木健一郎トーク&サイン会

5月9日、仕事が終わった後、茂木健一郎のトーク&サイン会に行って
きた。
著書「脳と創造性」の販促イベントである。

その内容については氏のBlogに音声ファイルとしてアップされている
ので、興味のある方は参照していただくとして。
もしかすると、私の間の抜けた質問の声も収録されているのかもしれ
ない。あ、ちなみに一番最後に質問した人ではないので念のため。

45分間のトークショーの中から一つだけ、特に興味のひかれた箇所を
ひくと、より創造的な生き方をするにはどうしたらいいのか、という
部分である。

これはあくまで、私の理解したと思った範囲内の話だが、
情報は一度、脳の無意識下にある記憶領域におさめられ、それがある
時、フッと意識上に浮かび上がってきた時に創造性を発揮する。
これは内田樹が時々書いている 、作家村上春樹の発想のたとえとして
出す「うなぎ」と同様なのかもしれない。

そしてそのような創造性を発揮しやすくなる条件として、茂木健一郎は
二つの条件をあげる。
一つは、無意識下のアーカイブをたがやす、ということ。
そしてもう一つは感覚を大切にする、ということである。

この内の、「感覚を大切にする」ということについては、
たとえば、我々一般人は、赤というと、ある一定の色を思い浮かべがち
であるが、芸術家にとって赤とは、無限の「赤」という色が存在し、
それぞれの赤色の違いがわかるのだ、という。

すなわち、そこまで感覚を細かく分割できるか、ということであり、
これまた内田樹や甲野善紀が述べるところの「身体を分割する」という
ことと同じ事なのかもしれない。

もう一つの「無意識下のアーカイブをたがやす」ということについて
は、まだ「脳と創造性」は最後まで読んでないので、養老孟司との
共著、「スルメを見てイカがわかるか」 から引用してみる。


言葉が無意識から発せられるものである以上、言葉を磨くということは
すなわち、無意識を磨くこと、無意識をたがやすということである。
日常に接する言葉、自らが発する言葉が脳の中で不断に編集され、整理
される無意識のプロセスに働きかけて、その無意識のプロセスを磨いて
いくことである。時々手入れをしてあげて、あとは脳の中の無意識とい
う自然のプロセスを信頼して任せるということである。

言葉は、人間の意識と深く結びついていることは事実である。しかし、
言葉を磨くためには、意識を通して、無意識にこそ働きかけていかなけ
ればならないのである。

ともすれば、意識的にコントロールできると思いがちの多くのことが、
実は長い人生の経験の中で無意識のうちに蓄積、編集された脳の神経
細胞の結びつきのパターン=記憶に支えられて生み出されているので
ある。

私たちにできることは、大切な自分の無意識を手入れしてあげること
だけである。
無意識を手入れすることこそが、よい人生を送るための要諦であると
いってもよい。

自分の無意識を手入れするということは、奇妙に聞こえるが自分自身を
あたかも他人であるかのように扱うということでもある。

友人とのつきあいや、子育て、職場での人間関係、さまざまな場面を
通じて、私たちは他人というものが自分の思うようにはならないことを
思い知らされている。
様々なつきあいの場面を通して、他人という自分にとっては把握できな
いものに「手入れ」して、何らかの変化が生じることを期待することし
かできない。



という感じで、私にとっては非常に面白い、というか私なりに腑に落ち
た気になったのである。

ただし、そこから判断するに、私の英語力があまり格段の進歩を遂げて
いないように思えるのは、私のアーカイブのたがやし方が悪いのか、
まだまだ英語の感覚に対する分割が甘いのか、それともそもそも、
英語に対する私のクオリア(感覚質)が足りないせいなのか、なんて
考えてみたり。
うーん、どうなんだろ?



2005年05月01日(日) バッドエデュケーション

今回も映画ネタ。見てきたのはバッドエデュケーション
この映画を見てきたのは実は5月1日の映画サービスデーで、以前から友
人に面白そうなんだけど、すごく混んでるんだよねーと言われてたので
半ば覚悟して見にいったら果たしてその通りで。
しかもそのほとんどは女性客。

で、この映画は 「トークトゥハー」の監督でもあるペドロ・アルモ
ドバルの半自伝的映画で。
「モーターサイクルダイアリーズ」でイケメンぶりを発揮してたらしい
ガエル・ガルシア・ベルナルが悪女ならぬホモのファムファタールぶり
を発揮しているのが話題らしい。
すなわち、ゲイの官能ラブストーリー?なのである。
どうりで男性客が少ないわけである。


私自身がこの映画を見た感想はというと「意外と面白かった」である。
以前見た「トークトゥハー」の印象が強烈すぎたのもあるけれど、それ
に比べるとこの作品は意外とおとなしい印象で。

物語は、現在スランプに陥っている映画監督の主人公、エンリケのもと
に、彼の幼なじみ、イグナシオを名乗る青年がやってきて、一本の脚本
を手渡し、できれば役者として使ってほしいと依頼をする。
そしてその脚本は2人の体験を基にした作品だという。

自分の初恋!の相手であるイグナシオの変貌ぶりをいぶかしみながらも
脚本を手に取ったエンリケは、その脚本の内容に魅かれはじめる。

そこに書かれていた内容は、まだ寄宿学校時代の、エンリケとイグナシ
オの青い体験であると同時に、イグナシオと校長である神父との、禁断
の関係を告発する内容だった。

この脚本を元に映画を撮ることを決断したエンリケは、やがてこの脚本
に隠された真実を知っていく。
イグナシオを名乗る青年は、彼の弟であり、そしてその弟と、イグナシ
オと、神父の間に起きた真実とは、一体なんだったのか。


この映画の中で一番印象に残ったシーンはどこかというと、エンリケの
自宅のプールで、本当は真性のホモではないイグナシオの弟(ガエル・
ガルシア・ベルナル)が、パンツを下ろそうとした時にプールの中から
その部分(股間)をじっと見つめるエンリケの視線の強烈さである。

うわー、こんな風に見られたらイヤだなあ、と思うほどの視線なのだ。
そしてそれと同様の視線を放っていたのが、幼少時代のイグナシオが
きれいなボーイソプラノの歌声を響かせている姿を見つめている、神父
の視線であり。

っていうより、この作品、同じシチュエーションでガエル・ガルシア・
ベルナルが演じる役が女性だったら、多分単なる成人指定のエッチな
官能映画扱いだと思うのだ。
それが男同士になっただけで、これだけの女性を集めるあたり、ゲイ
映画恐るべし、って感じなのかも。


前作「トークトゥハー」が一方通行の愛を描き、それなりのカタルシス
があったのに対し、この映画では神父のインモラルな、肉欲まみれの
愛情はあるものの、その相手である弟は、神父も、そしてエンリケさえ
も愛してはいない。
彼はただ金のため、役をもらうためだけに本当はホモを毛嫌いしつつも
自分の身体を彼らに与え続ける。

そしてエンリケは、彼が自分の初恋の相手、イグナシオではなく、そし
て彼がホモでもなく彼の事を愛していないことを知りながらも、彼の
身体を抱き続ける。

彼らは一体何を得て、そして何が得られなかったのか。
ホモセクシャルという関係が倒錯しているというよりは、その三者の
関係の歪み方こそが、印象に残った映画だった。

例えばそれは、男女の関係だったらノーマルなのか、それともお互いに
愛し合っていたら正常なのか。
おそらく、その答えは簡単には出てこないかもしれない。

でも、前作「トークトゥハー」が、たとえそれが歪んだものであったと
しても愛を貫いた作品だったとすれば、この映画は一番愛から遠い作品
である、といえるような気もするのである。


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