■ 腰痛日記 ■
ケイの10年にわたる痛みの治療体験を少しずつ書いていきます

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2003年07月06日(日) ワインの最後の一口


この日記でも何回も紹介、引用したことがある




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TMSの掲示板に書き込みを始めた頃
(あら、もう2年以上たつのね)
この本のことが話題になっていて

その頃はamazonからの注文の仕方もわからず
近くの本屋さんに注文したんだっけ!

みんなの話に付いていきたくて
背伸びをして買った本です

届いた本の分厚さと細かい字に(^-^;
購入当時は、読み始めても
いったい何がかいてあるのか
何が言いたいのかが分からない(^-^)ゞ

その時は頑張って2回通読しました

でもね、今では時間のあるとき手に取ると
パラッと開いたページには
必ず心にヒットすることが書いてあります

昨日も、眠れなくてこの本のオレンジを方を
パラパラめくっていると…


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ついこの間の夜も
エーディトの後について森を散歩しながら
この「人に与える」修行を熱心に続けていた

ネックレスを手放す修行をしながら
私は、自分に親切にすることは
人に対して親切にしないということだと
いつも感じていることに気づいた

例のワインの最後の一口だ

もし私が自分に親切にすると
ワインの最後の一口はわたしのものになり
他の誰かがこれを飲むことはできない
というわけだ

このことにわたしは葛藤を感じていたが、突然
「私とは誰か?」
という疑問があたまに浮かんできた

そして、自分に親切であることと
他人に親切であることのちがいや
その二つの間にあると感じた葛藤が
本当は存在しないんだということに気づきはじめた

それに
「私とは誰か?」
と深く探求していくなら
自分と他人の間の境界や区別は消えていくのだから
自分への親切と他人への親切とのどちらを選ぶか
ということは問題にならない

こうした境界線が消えていけばいくほど
他人への親切だと思ってやってきた行為が
自分自身のためにしたい行為へと換わっていく

ワインの最後の一口を人にあげることが楽しくなってくる
いや、一口だけじゃなく
ワインを瓶ごとあげたくなる!

この問題は私のとって非常に重要なものだった

星型のネックレスを通じて
わたしはずっとこの問題に取り組んできたし
その前はトンレンで取り組んでいた

今度はまた同じ道を
「私は誰か?」
という質問を使って歩んでいる

区別や分離の感覚を根絶するために

チーズの最後のひとかけを手にするたびに
わたしは自分にこう問いかける
「おや、誰がチーズをつかんでいるのかな?
これを取らないと損をすると感じているのは誰かな?」

そうすると、それを人にあげることが
それを食べるのと同じくらい楽しくなる

ケンも言っていたように、結局のところ
すべてを楽しんでいる大我が存在するだけなのだ

今から思えば、昔はずいぶん厳密かつ性急に
自分と他人との間に区別をつけていたものだ

この区別の中に閉じ込められていると
もし他人に親切にすると
自分が損をしたように感じるし

逆に自分に親切だと
自分がけちでさもしい人間に思えてしまう

でも、もう、そんな思いを手放して
人に与えることが楽にできるようになった

なぜならそれは
自分を他人を同時に楽しませることだからだ

もちろんそんなことは前からわかっていたが
今回得た理解は
非常に具体的かつ実際的で
わたしにとって非常に重要なものだ

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他人を楽しませるのが大好きなケイしゃんです(^-^;
最後の一口は絶対自分では飲まないタイプでしゅ

好きでやっている行為のはずなのに
それを認めてもらえないと
イラついている自分がいましゅ(^-^)ゞ
(はっきり自覚はできていないのですが・・・)

< 他人を楽しませる = ほめて欲しい >

これ↑が私のいつもの構図のような気がする

でも、これからは↓こうだ!

わたしは、あなたを楽しませる時は
いつでも、心から
わたしもたのしんでいる〜♪

そして
わたしは、わたしを楽しませる時にも
いつでも、心から
思う存分楽しんでる〜♪

あなたはあなた わたしはわたし
あなたはわたし わたしはあなた


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