2013年01月07日(月)  「80代はあの世とこの世に股をかけている感覚」の高田氏

今井雅子ファン最高齢、昭和ひとケタ生まれの高田氏が亡くなった。

高田氏とは、どういう人物であったか。
絵本『子ぎつねヘレンの10のおくりもの』にならって、誰かが亡くなると、その方がのこしてくれたものを数えるようにしている。

放送文化基金のパーティで知りあった余語先生の幼なじみとして紹介された高田氏から受け取ったものは、両手の指では足りないけれど、「老いとのつきあい方」に集約される。

高田氏の奥様が家を空けると、余語先生や同年輩の友人たちと集まった(2004年10月02日(土)「平均年齢66-1才」若返りの会)。

「家内がニュウヨークへ行きますので、その間に又パアテイしようと思いますが如何でしょうか。若し遊びにおいで頂けるようでしたらハッピイです」
こんな招待状が届き、出前の釜飯をいただきながら昼下がりをおしゃべりで過ごすと、
「お陰様で1歳ほど若返りました、何故か解りませんが今井さんと話しをすると若返る様です、多分人助けのオオロラ?が放射されているのかも知れません(この歳で1歳はたいへんなのです)」
とお茶目なお礼状が届いた。

この集まりは、後に「洗濯の会」と名づけられた。恐妻家の高田氏をからかって、鬼の居ぬ間に何とやらをもじった名前だった。

2006年の8月に、わたしの娘のたまが生まれると、秋に余語先生と会いに来てくれた。そのときの印象を「小生はただ物珍らしそうにイエス様とお合いした様な気持ちで赤ちゃんを眺めるのみ」と振り返り、「次にお目にかかる時はこのスクスク組とシワシワ組のかわりように驚き世の諸行無常を嘆くことを必ずと覚悟致しております」と手紙を寄越してくれた。

出会った頃から年を経るごとに、高田氏にとっては「死」は身近なものになった。風邪を引いてなかなか治らなかったときの心境を「お棺の中で寝ている様」と綴り、体調が回復したのでまた新たな絵の制作に取りかかろうと思っているが、「『とし』ですので、まあ子ぎつねへレンがミルクをのむ様な気持で自然に自分が楽しめれば」と語った。洗濯の会への招待状でも、「気楽なパーティであの世行き乗客専用車にまぎれ込んだ面白味もあるかもしれません」と冗談にしていた(2007年05月28日(月) 高田さんからの招待状)。

2008年春、80を超えた高田氏と余語先生と一緒に植物園で一日を過ごした(2008年05月03日(土) 80BOYS AND BABYの会)ときは、今までになく老い語録が飛び出した。「70代と80代では感覚ががらりと変わる」のだそうで、80を超えて、思うところがあったのかもしれない。

「80過ぎた者に、元気ですかなんて聞いちゃあいけませんよ。どこかしらガタが来てますから。生きてるだけで大変なことなんです。故障しているのがわかっている車に走れますかと聞くようなものです」

では、なんと聞けばいいのでしょう?

「調子はいかがですか、と聞かれたら、なんとか生きてますと答えます。でも、そうすると、お元気そうで、なんて言われるんですよねえ。そろそろお迎えが来そうですなんて言うと、いやいやまだまだなんて言われるんですけど、そこで話が終わっちゃうんです」



では、どう反応すればいいのでしょう?

「いつ頃来るんですか、どうやって来るんですかって聞いてもらえたら、話が続くんですけどねえ」

2009年の年の暮れ、余語先生の家で集まったとき(2009年12月30日(水) 「162歳コンビの会」と「40にしてマドワーズの会」
)は、「生き長らえたとして、せいぜいあと10年」とおっしゃっていた。2012年の暮れになくなったので、実際は、10年よりもずっと短かった。でも、出会った頃も同じことを聞いた気がするので、ずいぶん長い間、死というものをそばに置いて見つめていたのだろう。

「最大あと10年」の遺された時間を使って絵を描くために、高田氏は額縁を大量に購入していた。その数、三百枚! そんなに描けるんですかとわたしは驚いたが、額縁を買うことで、自分を追い込む目的もあったようだ。それを聞いて、お茶目な余語先生は「まさに、がくっぶち人生」とからかっていた。

三百枚の額縁は、どうなったのか。
何枚ほど、絵が埋まっただろうか。

朝起きて、今日はこの世かあの世かと確かめるところから一日が始まる、と話されていた高田氏。階下から奥様に朝食の支度ができたと告げられ、今行くと二階から返事をしたけれど、そのまま姿を表さなかったらしいと余後先生が知らせてくれた。「80代はあの世とこの世に股をかけている感覚」なのだと話されていたが、重心の位置をすっとずらすように、あの世側へ移動してしまったのだろう。

高田氏に会うと、いつも奥様の話になった。愛の反対は無関心のルールをあてはめると、留守の間も奥様が気になってしょうがない高田氏は、愛妻家だったことになる。その奥様と最後にいつもの何気ない会話を交わせたことも、微笑ましく思える。

出会った頃から「そう長くはないでしょうから」と飄々と語っておられた高田氏。そうは言いつつ長生きされる気もしていたけれど、来るべき日は来てしまった。わたしは、まだまだ高田氏のように、死を身近に受け入れる心境にはなれないけれど、老いるという境地について、実に具体的で生々しい感覚をたくさん教えてもらった。

高田氏は、わたしの作品を「迷い人救出作戦的物語」と呼んでくれた。便箋何枚にもわたって、戦争を繰り返してはならないという想いを綴ってくれた。あと数年早く生まれていたら戦争に取られ、あと数年遅く生まれていたら戦争を知らなかった自分たちの世代こそが戦争を語り継ぐべきだ、と語っていた。いつか今井雅子作品に取り入れてもらえたらという願いを受け止めつつも、いまだ戦争に真正面から取り組めてはいない。でも、わたしが書くとしたら、戦争が終わった頃に青春が始まり、高度成長とともに戦争が遠い過去になって行く日本を憂う、高田氏のような人のことかもしれない。

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