2009年08月11日(火)  本は事件だ!『装幀思案』(菊池信義)

わたしが本を選ぶ場所は大きく二つあり、ひとつは新聞の書評欄、もうひとつは図書館。その二つでアンテナを張り、引っかかったものを手に取る。書評欄で気になったものは、ネットか図書館で取り寄せることが多い。最近読んだ『装幀思案』は、書評で知って図書館で受け取った一冊。書評の言葉の何に引っかかったのか、取り寄せた頃には記憶が飛んでしまったが、裏表紙には、「一万数千冊の本をデザインしてきた装幀家が、書店で心引かれた装幀にはじめて言葉をそえた」とある。

装幀家である著者、菊池信義氏が目に留めた装幀について綴った短いエッセイがまとめられている。共感できるところが多く、「平台で装幀と出会う、一瞬の劇を楽しみたい」という精神にうなずきつつ、取り寄せてレジで受け取る本とは「一瞬の劇がはじけたためしがない。(中略)すでに良くも悪くも私の本として在るということか」という鋭い指摘に膝を打った。

「チリ」という表題のエッセイには、自らが装幀を手がけた蜂飼耳の『孔雀の羽の目がみてる』について綴られている。「蜂飼耳の文は、読むという行為が、一つの事件であり、対象に当事者として向きあうことを要求してある。情報の容器ではなく、読むという事件、その現場としての本の形が問われる」とある。そうか、本は事件の現場なのか。だからこそ、本との出会いは、書店で目と目が合って恋に落ちるような衝撃的な出会いでなければならないのだな、と思う。

表題の「チリ」とは、本文を印刷したページよりひとまわり大きな上製本の表紙がはみ出した部分のことを指すらしい。「チリは、人を読むことへ誘い、読むことで生まれた新たな心の秩序を縁どる、一人一人の罫なき罫ではないか。版面の余白を、さらに表紙のチリへ広げる。深いチリは読むことが一つの事件である文を支えてくれるはずだ」とある。本文の先の余白、その深さが、余韻を受け止める懐の深さということか。菊池氏は、『孔雀の羽の目がみてる』に通常の倍以上のチリを設けることを発案、実行したのだった。タイトルの二つ目の「の」の右側の丸みに沿わせるように作者名の蜂飼耳を配したデザインは「蜂」を連想させて、さすが。

「包む」の項では、「紙は破れる、切れる、千切れる。紙は折れる、曲がる、まるまる。紙は濡れる、溶ける、乾く。紙は日に焼け、黴が生え、虫に食われる。紙は燃える」とある。紙というものの本質を知り尽くした上で、装幀という営みは行われる。レイ・ブラッドベリ原作、フランソワ・トリュフォー監督の映画『華氏451』を思い出した。変質するからこそ印刷された本には電子図書にはない生々しさがあるのかもしれない。

「火種」の項には、「読むとは、書かれてあることを知ることではない。情報化されてあることや物の裸形を知ることだ。一語、一語の意味と印象を主体的に掴み直すことだ。読むという強い思いを人にもたらすのは、得体の知れぬ欠落感であって、装幀にできることは、そんな感覚に火を放つことだと思う」とある。火種になれるのも、紙だからこそ、などと思ったりする。

「予兆としての装幀」には、「作品とは、それを読んだ一人一人の印象が意味に育つ温床。真の作品とは、作者の手によって完成するのではない。読むという行為によって、一人一人の内へ一作一作、誕生する。その予兆としての装幀」とあり、「真に書かざるを得ない心の出口であり、読む事を必要とする心の入口である装幀は静まる」と締めくくられる。この言葉にも深々とうなずいた。「静まる」という表現は「裸形」と並んで本書に何度か登場したが、しっくりとあるべき形に納まった装幀は、雑音を立てず、澄み切った佇まいをしているのだろう。

「あとがき」には「言葉で紡がれた事件としての作品、その装幀も、書店の平台で事件としてありたい」とあらためて装幀家としての心構えが語られ、この一冊もまた、わたしが装幀を見る目を大いに見開かせる事件になったと確信した。本のタイトルに添えられた「その深遠へ」の副題をしっかり味わえる一冊。読み終えると、本はやはり書店の平台で出会うべし、という気持ちにさせられる。「すぐれた文章家は、すぐれた読書家でもある」とよく言われるが、菊池氏の文章自体もデザインされたかのように的確かつ美しい。「すぐれた装幀家は、すぐれた読書家でもある」のだった。

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