再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 [キネマの神様」パンフ戯言

「想像力×創造力×◯◯◯」++
藤井ごう

改めて場と人間とゆうことを思っている。
今回、原田マハさんが約四千ページを費やした映画に纏わるファンタジー小説を高橋正圀さん得意の人情味をプラスして、約三時間の舞台として駆け抜ける。
「名作の舞台化」作品は世に沢山ある。オリジナルよりも立ち上げ段階から全体像を掴みやすく、何しろ原作を読んで面白いのだから物語への信頼度も高い。しかししかし、その実、芯から「面白い」と思える作品にはあまり出会ったことがない。ファンである作品であれば、これはファンの解釈があって[原作ファンのイメージ]とゆうものがあるし、知らなければ[知っているでしょそのことはモチロン]風な流れで置いていかれたり、と、入口の盛り上がりとは違う出口に来てしまうことが多いのだ。
そして最後に「原作を読めばわかるよ」となる。
つまるところ創り手が何を客席に手渡したくて、どこまでそのことに自覚的であるかが露わになってしまうのだ。
小説や映画は、自由に空間も場所も登場人物の多寡も飛び回っていいわけだが、舞台はそうはいかない。客席と契約を結び、舞台上で行われることに目いっぱい想像力を働かせてもらえないと飛ぶ事すら許されない。今回脚本の正圀さんが舞台版に選んだのは「名画座」とゆう場所である。だけれども、もちろん「映画」をそのまま上映できるわけでもなく、似たようでありながら、見終わって「ああ、やっぱり名画座に行きたい、映画を見たい!」だけではどうも演劇人としては違う気がするし。僕らは「ああ、劇場に出かけてよかった」と思ってもらう為にも、楽しい物語をただ漠然と並べることをやめよう。「名画座」に集まる人たちの人間ドラマこそキチンと描くのだ。詳細に、緻密に「今この瞬間を生きる」「日常を生きる」人の心の動きを舞台上に乗せる。脱すべくは「原作を読めばいい」である。

見回せば愛すべき存在だらけの原田マハ×高橋正國ワールド、
市井の人々をなめちゃいけない、その市井の人々の一見くだらない営みが、世界を表しちゃたりするのだ。ジクジクして、ふさぎ込んで、格好良くないし、有名なものや金額に翻弄されちゃったり、ダメさ加減も凄まじいけれど、人を思うこと、思いやること、他人の痛みを感じること、人のことを信じようとするのも市井の人々。忘れがちだけど、思ってくれる人がいること、想いを寄せてくれる誰かがいること。
そして僕らもしっかりとそんな市井の人々であるとゆうこと。


そんなことを思っているときに、樹木希林さんのインタビュー記事をたまたま見た。
〜日常を演じるのは、もちろん大変ですよ。そのためには、自分を俯瞰で見て、普段の面白いことを感じていかないと。そのためには、当たり前のことを当たり前にやっていく。たとえば森繁さんは戦争をくぐりぬけてきたわけだけど、私たちは戦争のない、物の豊かな時代に生きちゃっているから人間の幅がなかなか広がらない。自分を深めるために、障害になるものはこっちが望まないと出会えない。だから、役者にとって日常が大切な学び場だと思うの。そういう日常を常に俯瞰で見ると、悲劇の中に笑いがあったり、哀しみの中にふっと息を抜ける瞬間があったり。人間って、よく見ているとそういうものじゃないかと思う〜(抜粋)

樹木希林にして幅が広がらないとは、言うは易く行うは難しは自明…

演劇は舞台上だけでなく客席をも巻き込んで、場を共有する媒体である(しかもこの効率化が優先される世にあって、これ程非効率、非経済なものってそうはない)。共有するには他人を受け入れる必要がある。受け入れるには外に向かって開いている必要がある。言わば「寛容」の必要『他人の考えを想像して理解し、認めて、受け入れること』。これこそ分断化が進む世の中でもっとも必要とされること、なのではないか。その上で「出会い」がある。
そしてこの劇場にもやっぱり「カミサマ」みたいなものがいる。そのカミサマは、客席と舞台が絶妙に絡み合い、溶け合う豊かな時間をニコニコと見つめている。いい出逢いを俯瞰して、まるで自分の手柄のようにニコニコと。
その豊かな時間との出逢いの為に、日々人物たちを構築する、この地道な作業の上に、舞台とゆうお祭りはある。

想像力×創造力×寛容さ=∞出逢い

なんともどん詰まりな状況から始まる…
なんとも不器用な人たちのお話…
どうぞ最後までごゆっくりお楽しみください。

とこのような事を書いたのが初演時2018年、そこからものの二年足らずで、世界はガラッと音を立てて変わってしまった。まさか「場」が日常の中で失われる(奪われる)事態になるとは。「場」の意味がこんなに大切に、貴重に、大きくなるとは誰も予想しなかった。「劇場」から灯が消える日がこんな形で来るとは想像もしなかった。国のトップを筆頭に据えた「他人に寛容になっている場合ではない世界」が驕る僕らに突き付けられたのだ。…昨年鬼籍に入られた希林さんの言葉じゃないが、自分を深める為にこの事態を、この障害(目的を妨げるもの)とどう向き合い、何ができるだろう。創り手である僕らは、この禍を経験した上で灯のともった「劇場」という「場」に参加してくださるお客様に何を手渡せるのだろうか。…問いはつきない。
でも、この事態に客席と出逢い直せる作品がこの『キネマの神様』であったことは奇跡だとも思っている、何とこの機にそぐった演目なのだろう。劇場のカミサマも心配顔の奥は「ニコニコ」満面の笑みだ。無観客ではどうしたって成し遂げられない世界をご一緒に、どうか心ゆくまでお楽しみください。そして「ああ、劇場にでかけてよかった!」と感じていただけたら∞!の喜びです。


追記・かつて師(高瀬久男)が同郷なのもあり正圀さんといつか演りたいんだよねぇ、と言っていた。その舞台を観る機会には残念ながら恵まれなかったが、縁や思いは導かれるようにこうして繋がっていく、そして広がっていく。…人間を信じる未来を。感謝。合掌。


藤井ごう
1974年生まれ。
演出家・劇作家。R-vive主宰。
「人の心」に焦点をあてる繊細で緻密な側面を持ちながらも、奔放さと大胆さを兼ね備えた演出には定評があり、小劇場から新劇、ミュージカルとジャンルを選ばない。高瀬久男氏(文学座)に師事。また俳優養成所・大学講師や、プロレッスン、ワークショップコーチなど、その活動は多岐に渡る。
桜美林大学非常勤講師。
最近作にACO沖縄『島口説』(作:謝名元慶福)・ACO沖縄『美ら島』(作:謝名元慶福)など。
メメントC「ダム」で2014年度文化庁芸術祭優秀賞など受賞。2016年、青年劇場「郡上の立百姓」、燐光群「カムアウト2016 ←→1989」、椿組「海ゆかば水漬く屍」の三作品の演出で毎日芸術賞第19 回千田是也賞を受賞。

《青年劇場での演出作品》
「修学旅行」(畑澤聖悟=作) 
2007年初演 2007年〜2012年全国公演
「島」(堀田清美=作) 
2010年初演 2014年〜2018年全国公演
「普天間」(坂手洋二=作) 
2011年初演 2012年〜2013年全国公演
「相貌」(黒川陽子=作) 
2014年上演
「オールライト」(瀬戸山美咲=作) 
2015年初演 2016年〜2019年全国公演
「郡上の立百姓」(こばやしひろし=作) 
2016年上演
「アトリエ」(ジャン=クロード・グランベール=作/大間知靖子=訳) 
2017年上演
「キネマの神様」(原田マハ=原作/高橋正圀=脚本) 
2018年初演 2020年〜全国公演中
「もう一人のヒト」(飯沢匡=作)
2019年上演
「子供の時間」(リリアン・ヘルマン=作/小池美佐子=訳)
2019年上演


2020年06月20日(土)



 本分。

お陰様で、このコロナ禍に、観たいと言ってくださる方々がいるので、僕らは一応「求められて」稽古をしている。「作品を生み出す」機会をもらっている。
なんという贅沢だ。
三月から三か月ほど、僕らは何を「取り上げられた」のか、
そのことに気が付いて、自覚的にいた面々と、
大切なことだとは思うけれど、権利だけを主張して、
己をの武器を「鈍ら」(なまくら)にしていた面々、
明らかに違う。
この違いが、この後の在り方としっか繋がっていく筈だ
僕らの本分はどこにある。
表現者の本分はどこにある。
魅せる側の立ち位置はどこにある。
その足場は誰が創り、誰が立つ。
問いは尽きないけれど、
まずはできるだけの準備を旺盛にして、
万全の構えで臨む。

…その前に、
抗体検査を通過する、などの付加事項はあるけれど、
それは「安心」を用意するため。
ここは、やれることやっての神頼み、なのが惜しいところだが。
マスク着用のまま稽古は進んでいる。

この繊細の上にある上演できるかの可能性の探り、

対局にある、
都道府県をこえた移動制限の解除。
そりゃあ、解除されなくちゃ旅公演はできませんがね…



2020年06月17日(水)
初日 最新 目次 HOME