再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 暴走しない。

今私は週の殆どを栃木県は足利に費やしている。
バイパスなんか走っていると、やはりいるのである、「族」が。例の騒音をふりまきながら、
四五台のオシャレに手を加えられた改造車に、独特の服装の若者がまたがって、道を占拠しツーリング。他人の迷惑をよしとする一団である。
なんだか懐かしい感じと、土地柄だねぇなんて言ってみたりして。

本日も夜、シンシンと冷える道を買い物がえり、
不穏な音が遠くから、空気を揺らしながらやってくる。
あれは、あの音は彼らに違いない、
「いるねー、族だねー」なんて言っていると、
当該バイクが通り過ぎていく…
ああ、暴走族たちよ、この寒い中…
…あれ?

一台。
一台である。
ま、一台でもうるさいのだけれど。

これはもしや暴走族ではないのではないか、

族ではない、なにしろ一台なのだ。
確かに二人乗りはしているのだが、一台なのだ。
詰まるところが「暴走族」ではなく「暴走」だ。じゃあー

「暴走する二人乗りのちょっと変わったカタチの自動二輪車」と名づけてみて、

しかし彼は騒音を立てながらゆっくりと走っているわけで、こうなると「暴走」とも言えないのではにか。ましてここは栃木県で房総ではないし(ダジャレ)、ゆっくり走ることでその後続車を進ませない目的もこの時間の車が少ない場所では成立していない。するとー

「デシベル高く法定速度以下でゆっくり走る二人乗りのちょっと変わったカタチの自動二輪車」だ。

ちょっといい感じになってきてしまった。
こうなるともう問題は「デシベルの高さ」だけである。
発想を換えてそれを「季節もの」と捉えてみる。すると迷惑ですらなくなる、感じなくなる。
あれは乾燥が続く季節の「火の用心」の合図、お土地柄。

そうか。彼らは暴走していたわけではなかったのだ。結論ー

「火の用心を唱いながら寒冬の公道を走る青年二人」

土地愛を持つ青年団の二人なのだろう。
なんだかよくわからなくなってきた…

稽古と外の温度差に、思考停止中ー


2012年02月03日(金)



 来ないことにしない。

演技って不思議である。
台本に、「来ない」と書かれていれば「来ない」訳だが、実際にその場で演じる場合には、「来ない」を知らない必要がある。(同じように「来る」と書かれていれば「来る」わけで)て、当たり前の事のようで、間違いがちだ。
「来る」と思ったモノが「来なかった」のと「来ない」と思ったモノが「来なかった」のでは人の感情としても多いに違うはずである。
でも、「ここで奴はこないから、で、こうなって、こうなって、云々」と頭で段取りを組んでしまう。で、そのさして「来ない」から重要ではないとふみ、ただセリフを通過させる。これはいけない。

そんな時、打ち合わせなしでその場に誰かを登場させる事がよくある。大概演じ手は「来ない」はずの所に、イレギュラーで「来た」ことに驚き、戸惑う。で、なんで?と突っ込むと、「いや、来ないはずの場所に予想外に人が来たから…」とのたまう。違うのだ、「来る」のが当たり前ならば、「来ない」ことの方に驚きが生じ、実際に「来た」ことについては「当たり前に」対処しなくてはいけない。要はその登場人物(本人の解釈でなく)の肚の据え方なのだが。。。
勿論、上記の場合だけでなく、書かれ方によって違いはあるにせよ。段取りしてないからできませんではすまない。文字面だけを追っているとこうなりがちだ。役の目的を露わにしなくては、自由が利かない。人間味も舞台に乗らない、ひいてはその場に存在できない。
バックボーンとかゆうけど、ある程度表現に直結できる具体性を持たないと意味がない。(ここがきっと、「頭でっかち」と「考えが身体を通る」の境目か…)

文字通りの表層だけで人の気持ちなど動いているわけないではないか(笑)と、言えば当たり前にわかりそうなことが、そこをこだわらずに決まっていくことがどれだけ多いのだろう。書かれた文を読み、言った言わないの揚げ足取りを繰り返し、「討論」とか言っている輩と変わらんでしないかそれでは。。。
まずは「来ないことにしない」ことから始めるしかないのだな…

2012年01月27日(金)
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