再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 この夏。

『島』稽古を重ねている夏。
作品について、現場が総意で全体心がありながら進んでいる贅沢さ。
これを面白く魅せられなかったらありえない、思いを日々強くしている。
新メンバーもいて、そこから動き出すことの多いことと言ったら!
あらためて、こうだからこうする的な演劇のダメさ、
前回こうしていた的な反芻のダメさ、
こうすれば正しいを謳うことのダメさを強く感じている。
ここ最近で『父と暮せば』(こちら、同じく被爆を扱っているわけだが、三年後の話)をやっていたこともあって、六年後を生きる人間たちの行動、思いの捉え方が変わっている、、、『もっともっと』の思いが凄まじいけれど、演出はあくまで導き繋ぐ立場。悪目立ちしないように細心の注意。
前回よりも、特別な人のいない、まさに市井の人々の生き様が舞台上にあげられるよに思っている。

流石にこの稽古はしんどいので、なるべく他のものと一緒にしないようにしていた筈が、別現場の俳優さんのトレーナーとかとかとか、
先の打合せとかとかとか、
そう思い通りになるわけもなく、
このままの勢いで年末まで休みなく(ありがたい!)続くので、どれも、細心と、全力とを忘れないように、夏休みの宿題を考える8月31日にならないようにと。。。

学校の試演会も間もなく。。。

『島』の東京公演は、
中部北陸、北海道と演鑑旅を終えたあと、11/26に府中で。ぜひ目撃してください。


2014年08月25日(月)



 傘がない

父と暮せばを見る。
装置も簡素を通り過ぎて椅子と屏風のみ、
照明も明暗調整が効くくらい、
幕間で音楽はかかるも最低限の裏支え。

井上ひさしによる広島の原爆を扱った作品であった。
8月にこうゆう作品を見ることの意義よ。
いやぁ、軽々しくは言えないが、娘の生き方、父の想い。
演者の熱演。
没入後、なんの言葉も発せず、
もう少しこの感じを噛み締めていたい中、
会場の蛍光灯が点いて日常に戻されたような。。

しかし、私にこんな井上ひさしのような高潔なことができるとは思わないが、
しかし、日々を見つめ直して生きていこうなんて思った。
簡単なことではなかろうが…
自分本位だけで生きるのは今日からは辞めてみようと思う。

演者の父をやった俳優さんが見送りに入り口に出てくれている。
このアットホームな距離感もいいのだな。

あ、外は雨が…
チッ、台風の余波で降ったり止んだり、
行きは隙間をぬえたのだが…
何しろ傘は持っていない。
…結構降っているな…
…濡れる…
…俺は濡れる為に外に出たわけじゃないなないか、そもそもこんなに終演後降るとしっていたら、こんな狭い場所に一時間半近く閉じ込められには来なかったはずだ。
…なんてことだ、さらに雨脚が強まっているじゃないか…
…濡れたくない…

出口付近には…
傘立て。
そして、預かり札などはない…
ヌヌ…
深緑の蛇の目傘(骨組みの多いやつ)がある。
…いいな。

私のではない。

…濡れたくない。

私のではない。

…いや、私は濡れる為に来たのではないと言っているではないか。
預かり札もないし。まあ、私は持ってきていないわけだが。

拝借。
雨が悪い、荷物札がないのが悪い、台風が悪い。
…自分本位なわけではない!


ーーーーーー

その傘は私の一張羅であった、
忘れるのも怖いし、
大事だけに普段使わない(使わないなら余り意味をなさないが)
今日は何しろ台風余波で風が強い。
ビニール傘ではダメだった。
上の物語は架空ながら、昼公演を舞台にしている。
私は夜公演終演後に、件の傘のないことに気づいた。
ビニール傘ではない、
間違いようがない。
そして、間違ったとすれば代わりに残っている筈の傘もない。
嗚呼、傘がない。
これは『父と暮せば』観劇後の話である。

ないよなーなぞ思いつつ、
次の日、間違えましたの連絡なんかこないもんかなと待ちましたが、
そんな人間の信頼に返ってくる思いも、物品もなく、、、
…本当?
どうなんだよ〜


2014年08月17日(日)



 『父と暮せば』パンフ掲載文。

演出の戯言

本日はご来場くださりありがとうございます。
念願かなって、井上さんの「父と暮せば」朗読。
現在朗読流行り、動きがある朗読、動かないリーディング、動かないとわからない作品様々あれど、
この作品は目の前の現象なんかより、じっくりと文体に、俳優さんの発する言葉に耳を身体を預けてみることで更に味わいと広がりを持つことができるのではないか。井上さんの深い思いが伝わるのではないか。
想像力をお借りするために今回、ト書き(出入り、動き、状況の説明)も読みます。

3.11からたった三年で何の解決も見せないまま方針が変換される、今。
広島はHIROSHIMAになって百年は草木も生えないと言われていた、
これはあれから三年後の物語。
そこで生きていこうと、ひっそりと生きていこうとしている人々の物語。

僕らの殆どは戦争を知る世代ではない。
でも決して戦争を知らない世代ではない。
継承する世代の一期生(だか二期生)として、
想像力の翼は大きく広げることができるのだからー

椅子とCDデッキ一つあればできる公演。
この後は高校生に聞かせたりしていきながら、大切に育てていきたい作品です。
4月にこの無何有で初演、8月にまたこの機会をいただけたことに感謝してー

最後までごゆっくりお聴きください。

藤井ごう


後半戦、また沢山の方に窮屈な思いをしてもらいつつ、
無事に終幕しました。
この先は、地方に。
で、なんとか足利でもやりたいな、なんて思っている。

今週からは『島』の稽古。
念願の作品が続くとゆう機会に恵まれている。
(それはもう一筋縄ではいきませんがね)
どんな世界が構築できるか。。


2014年08月12日(火)



 いろいろ。

図式で動かすことと、声の具合で表現だと思われること。
それは、もう既に学芸会の域でしかなく、その先って本当に難しい。
たとえそれが、素人レベルの如何にもこうにもならない演者たちであってもだ。
想像力とその先に広がってくる世界があることへの否定でしかない、と思ってしまったりする。
(基本の立ち方がこうであるを聞きかじりでミミックしてみたところで、何故かそれが必要か、説明できなければただの型でしかないし)
創造性を養うって一筋縄ではいかない。
だからこそ、できない人の文句を言ってるだけでは無意味な時間にしかならないし。
精神論みたいなもので括って縛ったって、縛る人がいなくなれば、何もできない人に早変わりしてしまうし。
個人で考える能力こそ必要とされるのではないか。(ずっと言ってる)
でもそうするには、「具体的に考える」ことを癖付けするための、漠然とした提供と、少しづつのヒントだしみたいなものが必要(想像することを楽しませる)なのかもしれないし、物凄い忍耐力が必要とされるかもしれない。
とはいえ、そこだけを待って具体を言わないってのも難しい。
でも、全てを決めて、これが世界だと言えるのはもっと恐ろしい。
もう、結局、都度コツとか概要とか可能性みたいなものを現場、題材によって懇切丁寧に説明するしかないのだ。
だから演出家みたいなモノ好きしかならない立場はそこをちゃんとわきまえて、世界を謙虚に構築するしかない。

6月と7月の若い人ら(方や若くないかもう)とのモノづくりで殊更に思った事。
別のクラスや学校の発表会、また違う教えの現場なんかで思うこと。
だからこそ、講師は現役でなければいかんのだな…
逡巡の夏。

「父と暮せば」朗読劇の再演稽古を重ねながらおもうこと。
そして、人を動かすとゆうこと。
人を表現するとゆうこと。
人の心を動かすとゆうこと。

再演だから前回と同じ事❎
目新しいこと❎
新鮮に忠実に、関係を掘り込んで◎
9日から無何有で。

2014年08月04日(月)
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