カエルと、ナマコと、水銀と
n.446



 嗅覚

=嗅覚=

冬の夜の匂いの中に一際甘く花の匂いが香って、通り過ぎた僕は振り返る。暗がりに隠され目に見えないその花は、まぶたの裏で少し像を結んで消える。二、三歩、歩み去った後にもう一度香りを確かめた時、既に、香りはどこかへと流れ去っている。澄んだ頭の中で、きっと花の色は黄色か白だ、と思った。

2005年11月09日(水)



 

=蝉=

その求めるところの必死さを知っていながらも、無機質にしか聞こえなくなっていた。すべての仲間たちが彼を避けるようにしてコミュニケーションをとっているようにしか感じられなかった。むしろ、彼はそれさえも疑った。私は、今・ここに、いないのではなかろうか。彼らのつがいを求める叫び声は私と彼らとの空間のズレに沿って走って行くだけであり、私が含まれるこちら側の世界とは全く異質なものではないのだろうか。途端。怖れる。彼は時を得てしまったのだ。繁殖のためだけに生まれてきた彼には、その自由はおぞましかった。いや、それ以前に、彼は途方にくれた。耳を澄ますと、懐かしい匂いのように、満月の夜の潮のように、あと一押しで壊れるであろう均衡がどうしても保たれていた。

2005年11月02日(水)
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