カエルと、ナマコと、水銀と
n.446



 端書

濃縮された時間が通り過ぎるときにスパークするよ。
七色に光りまわる雨が降り注ぐ。地面に連弾し、踊り狂う。

原色に光るものが好きだ。暗い闇の中でそれをめでる、主軸からずれきった人が好きだ。
そいつは愛のために道徳を殺すのだ。自分自身の中に生まれ育った、平和を殺すのだ。

ストップ。
休止。

夕焼けに見えた一瞬の哀愁と苦しみを、叫びまわるフォークシンガーは煙草を口の端にくわえながら、彼の思うユートピアを酩酊の進んだ宴の席で隣に座る、瞳を輝かしその歌の純粋性にただ心を浮かべる女の子に語るが、彼女はその二時間後にラブホテルの中で薄れ汚れたフォークシンガーの身体に抱かれ、「シャワー浴びてくる」と去っていった彼の後姿を見たとしても、それさえも彼女の心を汚すことはないだろう。それはもしかすれば人間の本質的な美醜の感覚を体現しているのかもしれないな、と思う一人の若者がパソコンの前に座り、暗い闇夜の中薄く青く光るモニタに彼の厚い眼鏡のレンズを反射させながら、身体を抱え込むようにすわりただ白く開かれたワードの画面の中に文字を構成していくのは、彼が世界から閉じた彼の世界の中に彼自身の美しい、まだ残る愛を守ろうとしているからかもしれない。その文字たちは、匿名的なネットのブログの中に書きしめられて、それを読んだ十二歳の少年は、自宅のパソコンで両親が外出中のうちにエロ動画を探そうとその情報の海を泳ぎまわった末に当初の性欲さえも失って、絶え間なく襲う「個」を謳う刺激の渦つまり音楽と文字との相乗効果の末に溺れかけていたのだが、若者の書いたあまりにも辺境的で朽ち果てたブログを見つけて思いのほか長いことそこにとどまった。それはきっと少年の人生ベクトルをたった二三ミリほど動かしたのに過ぎないのかもしれないが、少年の人生は二十年後その重要な意味を知る。彼は十数年後に廃墟と化した大都市の辺縁で、崩れ落ちたビルディングの合間を縫ってその歌声を聞かせるのかもしれないが、それは天変地異が彼の命を奪わないことを前提にしている。そのとき暗く閉じきった自室の中でかすかに残る愛をワード画面にしたためていた若者は轟音とともに崩れ去り、外界と交じり合い、光が差し込み始める部屋の中で小さくため息をついが、それは多くの人がそうしたように叫び声を挙げることとは精神構造を異としている。彼の人生もまたその瞬間に始まったのかもしれない。少年の人生もそのときに始まったのかもしれない。少しだけ彼らよりも歳をとったフォークシンガーは彼の味わい深いアコースティックギターとともに散った。彼は彼と彼と寝た幾らかの少女と部屋の中に閉じこもった若者とその若者の書いた文章を読んだ少年の中でのみ、今では生きながらえている。歌は死なないのだ、と、そう、彼は虚脱した少女の耳元で煙草をふかしながらいささか興奮気味に語ったことがあったかもしれないが、その事実は少女がその言葉を覚えているという前提の下に立っている。しかしそれは大したことではないのだ。彼がまさに言いたかったのは、彼がそれほどにまで深く彼の思考を練り上げていたかということはさておき、まさにそのようなことなのだろう。彼は死んだ。彼の言った言葉はそのうち風化する。果たして幾十年後かにもっとも残る彼の残した情報は何か――つまり、「彼は歌っていた」という事実だ。
 さて。崩れ去った街の中でまず始めに人は何を思うのだろうか。彼らは一様に神に祈りをささげるのであろうか。命が助かったことに感謝をするのだろうか。それとも、状況に打ちのめされて深く深く心を痛めるのだろうか。結局のところ、普遍的に何かを書き示すことには無理があるのだと言うことを、若者は知っていた。その若者は長い間、暗い部屋の中で本当に長い間、彼自身の日記をつけ続けていたのだ。彼は彼の人生を物語りに落とし込もうとしていたわけではないが、必然的にそれは文字と言う媒体を借りて何かしらの物語を提示することになるのだろう。それが辺境で歌っていたフォークシンガーのようにわずかばかりの人間の心を打つに過ぎないとしても、それはどこかしらに発信され続け、それをどこかしらで読み、心に刻んだ人間がいたのだった。それはあの日ティッシュを片手にパソコンの前に座り込み、静かな住宅街の休日にただ黙々と文章を読み続けた少年のように。つまり、「彼は書いていた」と言う事実が残るのだった。
 ただ、若者はまだ生きている。彼はいつしか歳をとり若者とカテゴライズされなくなり、そしてあの日から交じり合った現実の中で重力に抗いながらも、生きていた。そうして少年が若者になり、あらたな少年はどこかで生まれ続けるのだろう。長い間、元若者を苦しめ続けていた無常観はやがて彼の風化し始める心のなかで小さくなっていき、今では時折ふと落ちる夕日がいまだ撤去されることのない傾いだビルディングの隙間に落ち、その路地裏を野良犬がうなだれ闇が交じり合い藍と茜のグラデーションを描き奇妙に美しい月と星が空に浮かぶとき、それが頭を覗かせるに過ぎない。

ああ、ああ、ああ。言葉にならない? ねえ、そうね。いつも向こう側を見ている。山の向こう側にはないがあるの? 雲さんは遠く遠い空の果てまで消えていくのに、どこかで雨になって結局重力にがんじがらめにされちゃうんでしょう? それとも、地の深くにもぐっていってどこかにたどり着くと言うのですか? 教えてください。太陽さん。教えてくださいお月様。君らの声を聞かせてください。クーラーの聞いた僕の部屋にはそいつはちっとも届きやしないんだから。


2011年07月05日(火)
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