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JIROの独断的日記
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2012年01月29日(日) 【音楽】父の命日に、ディキシーランド・ジャズを載せる理由。

◆私事で恐縮です。

私の父は16年前、1996年1月29日に他界しました。

今日が命日です。命日といっても特別にしんみり、と言うわけではありません。

こちらも50歳を過ぎてますから、同年代を見ると少なくともどちらかの親は既に、

あの世に逝ったという人が全然珍しく無い。既に両親とも鬼籍に入っているという人も多い。


但し、私の場合、親の死に目に遭えなかったのがちょっと悔しいのです。

父は急死したわけではないのです。

1993年8月20日にロンドン赴任の内示が出て、父は喜んでいたのですが、その10日後、

父は脳出血で、かなり危険な状態に陥りましたが、一命を取り留めた。意識はあるけど、

口は利けない、という寝たきりになりました。これは元気な頃の父が1番「こうなりたくない」と

思っていた状態でしたので、それが気の毒でした。

口が利けませんから、ひらがな五十音の板を動く方の指で差して、言語を発するのですが、

(一息に)死ぬチャンスを逃したのが無念だ。

と言っておりました。動けなくなりましたが、意識、思考は働いていたので、寝たまま

オムツを当てられる自分が屈辱的だったのです。


私はロンドン転勤の内示を辞退しようか、と考えましたが、父は

そんなことでは、ダメだ。構わないから、行けと申します。

後ろ髪を引かれる思いで、同年10月に私はロンドン行きの全日空機にのりましたが、

その数日前、もう会えないかも知れないと思い、妻子を連れて、父を見舞いに行きました。

父は当時2歳だった孫、つまり私の息子を大層可愛がっておりました。

最後に部屋を出るとき、息子はまだ何もわかりませんが、父は、もう二度と私や息子に

会うことはないだろう、と覚悟したのでしょう。何も言いませんでしたが、うっすらと涙をにじませていた

あの表情が忘れられません。

約2年後、東京から連絡があり、寝たままで安静にしているのに、また脳出血を起こしたというので、

私は急遽帰国しました。2年ぶりの日本でしたが、ICUに簡易ベッドを置き、

一週間、病院に泊まりました。このときも父の思い通りにはならず、一気に死ぬことができず、

もはや、意思の疎通もできず、こちらを認識しているのか分からない状態で、痰が詰まるといけないので、

気道確保のため、気管切開されて、管を固定されて、ただ横たわる父でした。

小康状態に戻ったため、仕方なく、私は再びロンドンに戻りました。

しかしそれから約3ヶ月後、1996年1月29日、父は他界しました。


◆私ほど、ではありませんが、父は音楽が好きでした。

私ほど、熱中した時代があったわけではなさそうですが、父は少しばかりクラシック・レコードを

持っていました。所謂泰西名曲ですけれども、今思いだしても、誰か詳しい人に訊いた訳でも無いのに

妙にツボを押さえておりました。



トスカニーニ指揮、NBC交響楽団の「運命」、フルトヴェングラー、ベルリン・フィルの「英雄」、

ジノ・フランチェスカッティ、ソロのメンデルスゾーン:「ヴィオリン協奏曲」、

エミール・ギレリス(ピアノ):フリッツ・ライナー指揮:シカゴ交響楽団による、

「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第一番」、デニス・ブレイン、カラヤン、フィルハーモニアによる

モーツァルト「ホルン協奏曲全集」、ジャック・ランスロ、ソロのモーツァルト「クラリネット協奏曲」

ジェラール・スゼー(バリトン)の「シューベルト歌曲集」等々、まるっきり泰西名曲ではありますが、

どこでどうやって上手い具合に見つけて来るのか不思議でした。


◆そんな父がアメリカ・ニューオルリンズで、ディキシーランドジャズで盛り上がったらしいのです。

父は(私もその遺伝子を確実に受け継いでいますが)、とにかく基本的に面倒臭がりの出不精で、

若い頃は「日本野鳥の会」会員で山に登っては野鳥の分布など調べて「論文」まで書いていましたが、

銀行員として忙しい毎日を何十年も過ごし、すっかり出不精になりました。

本来、海外旅行など絶対に面倒臭くて行かない人間なのですが、勤続何年とかで、

海外旅行に行くことになりました。何処に寄ったのか、手許に資料がないので正確なことは

わからないのですが、1つ、私は母が大変驚いたことがあります。

ニューオルリンズといえば、ジャズ発祥の地です。今でも黒人のオジサンたちのバンドが

ディキシーランド・ジャズを演奏する、クラブというのでしょうかイギリス風に言えばパブですが、

要するにそういう所にふらりと入った父と父に同行して下さった方が、

ディキシーランドですっかり楽しく盛り上がったらしいのです。いや、「らしい」ではない。

確実にそうなのです。父は文章を書かせるとなかなか上手かったのですが、これも「不精」が祟って

普段、規則的に日記をしたためる、というようなことはしない人でしたが、この夜のことは

余程嬉しかったらしく、手帳にその感激を丁寧に文章として書き残しています。

バンドの面々と意気投合する。一期一会の音だな、と思う。

(一言一句このままでは無いのですが、ほぼそういうセンテンスです)などと書いてある。

自分の父ながら、こういう一面があるとはそれまで思っておりませんでした。

後に母と私とで大変、驚き、かつたった一度の海外だったけど、それほど楽しかったのなら、

良いことだ、と思ったものです。


◆ベニー・グッドマン。"That's a Plenty."、"The World is waiting for the Sunrise"

父が聴いたのは、こんなにゴージャスな演奏では無かったと思いますが、

まあ、ジャズの中でもディキシーランド(風)なナンバーですね。

1980年から何度か、オーレックス・ジャズ・フェスティバルが東京や横浜で行われ、

スウィング・ジャズの神様、ベニー・グッドマンが来日しました。この武道館でのコンサートの模様は

NHKでも放送されたほどです。

オーレックスというのは当時存在した、東芝のオーディオ製品のブランド名です。

それでは早速。文字通りだと「もうたくさんだ」という意味になりますが、That's A Plenty。


That's A Plenty - Benny Goodman 1980







ベニー・グッドマンは勿論いいんですが、トランペットのトニー・テランとトロンボーンのディック・ナッシュ。

この二人のラッパの吹き方が大変すきです。

なんと正しい、トランペットの吹き方。真摯な態度、見事なアドリブ。流石はベニー・グッドマンが選んだ

演奏家です。もう一曲、"The World is waiting for the Sunrise"(世界は日の出を待っている)。

今の世界にぴったりですなあ。


The World is waiting for the Sunrise - Benny Goodman 1980







とりとめの無い、私事にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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