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JIROの独断的日記
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2008年01月26日(土) 父の十三回忌。

◆私事で恐縮です。

「JIROの独断的日記」では、原則として私事は書かない、と宣言しつつも、過去ログを読むと結構書いていますね。

今日は、ニュースを書こうと思ったがどうしてもその気になれないので、この表題にした。

十三回忌は、死後12年目である。正確には1996年1月29日の早朝に父は他界したが、私はロンドン駐在中であったため、死に目には遭えなかった。

ロンドン駐在の内示が出たのが1993年8月20日だった。父は喜んでいたがその十日後に脳出血で倒れて、意識はあるが口もきけなくなった。

内示を取り消して貰おうかとも思ったが、父は「是非、行け。気にするな」という。迷ったが、その通りにした。

渡航前に病院へ妻子を連れて挨拶に行った。もしかするともう会えないかも知れないと考えた。私は泣かなかった。しかし、もう少しで泣くところであった。

父は、まだ幼かった私の息子を大変可愛がっていた。病室を出るとき、父が息子を見たときの悲しそうな目がいまだに忘れられぬ。


◆病室中に貼っていた、ロンドンからの絵葉書。

私はロンドンで仕事を始めた。英語は先日書いたとおり大して苦労しなかったが、私のチーム11人の中で日本人は私だけだった。

欧米人は、自己主張の文化である。東京本部からかくかくしかじかの通達が来たので、これに従え、といってもなかなか言うことを聞かぬ。

しかし、現場の日本人上司も東京本部もなんとかしろ、という。着任して2週間ほどで、有能な英国人スタッフを他の銀行に引き抜かれもした。

正直言うと、辛かった。家内が全く英語を話せず、話せるようになろうともしないので、仕事中に「カーペットクリーニングの業者と話が通じないから、電話をして」

などという連絡をしてくる。私は、一時、発狂するのではないかと思った。


それでも、休みの日にドライブに出かけ、英国の美しい田園風景を見ると、心が和んだ。その風景をバックに、家族の写真を撮り、

手紙を添えて、「無事にやっています。極めて順調、快適な生活です」という趣旨の言葉を繰り返し書いた。

豪放磊落なくせに心配性の父を安心させるためだった。父はそれらの手紙が来る度に、繰り返し読んでいた、と後に母から聞いた。

そして入院している病院の病室の壁に所狭しと、私たちが送った写真を貼って、見舞客に見せていたそうである。

私たちが渡英して2年後、1995年10月、再び脳出血を起こした。危ないかも知れないというので、一時帰国した。

父は目は開いているが、こちらを認識出来ているかすら分からなかった。痰が詰まると危険だというので気道切開して管を通されていた。

変わり果てた父の姿を見て、私はトイレで泣いた。しかし、人前では何とか平静を装った。

私は、ICUの父のベッドの横に簡易ベッドを持ち込み一週間以上、泊まり込んだが、容態に変化がないので、やむを得ず再びロンドンに戻った。


◆「先ほど、死亡退院されました」

ロンドンに戻って年が明け、1996年になった。1月末、突如兄から電話があり、父の状態が悪い、帰国しろという。

覚悟はしていたが、胸の潰れる思いであった。電話を受けたのはロンドン時間の夜だったので、翌朝、東京の病院に、

ロンドンから直接電話をした。容態を聞くつもりだったが、看護婦さんの返答は、

「・・・さんは、先ほど死亡退院なさいました」

というものだった。



至急帰国して、葬儀に間に合った。大勢の方にご参列いただいた。

父は、銀行員だった。最後は取締役支店長だったが、ずっと支店ばかりに務めていた。

かなり、おっかない上司だったらしい。怒鳴られた部下の方は数え切れないと思われる。

が父は、世間がイメージする姑息な、揉み手をして慇懃無礼に顧客に接する「銀行員」とは全く違っていた。

相手がお客さんであろうが、無理な要求をされると、平気でケンカをした。それでも父のファンがいて下さった。

父はまた、支店長として支店に関する全てのことは自分に責任がある、という当たり前のことを、骨の髄から分かっていた。

部下に責任を押しつけることは絶対にせず、部下の失敗の責任を全て自分の所為だ、と言った。
「何かあったら、俺が(お客さんに)謝ってやるから、思い切りやってみろ」

と、外回り(営業で融資案件や預金を取ってくる人々)を励ました。そうしたら、本当に謝りに行くハメに何度も陥ったらしい。

そういうときも、未練がましいことや言い訳はしなかった。

父の遺品を整理していたら、山の様な書類が見つかった。部下の失敗などの責任を取るために、本部宛に書いた始末書の控えだった。


父は、本来は自然を愛する人間だった。若い頃はしばしば山に行って、野鳥を観察していたらしい。

何しろ、「日本野鳥の会」の会員で、創立者・中西悟堂氏と直接会ったことがある古参のメンバーだった。

銀行員になってしまい、なかなか山になど行けなくなってしまったが、鳥のことを語らせると実に良く色々なことを知っていた。


私は英国の田園風景を眺めたとき、もう少し父が頑健で、倒れなかったら、イギリスに呼んで、この風景を見せてやりたい、と

いつも思ったものだった。が、その願いは空しかった。

本当に残念だった。さぞや喜んだだろう、と、今でも思う。

十三回忌の法要で坊さんのお経を聞きながら、また、そのことを考えた。

涙が出そうになった。もう少しで本当に涙ぐむところであった。

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