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JIROの独断的日記
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2006年10月14日(土) 「セーラー服と機関銃」の原作者に関する補足的情報。/今日の一曲「キャンディード」序曲」

◆天下国家ばかりを書いて憂鬱なので、好きなことを書かせていただく。

毎日、時事問題について書いている。読み返すと、簡潔明瞭にまとめられない、冗漫な文章しか書けない、自分の知能の低さに自己嫌悪に陥る。

しかし、それでも、この程度の文章を書くに際して、「常識」のみで済ませることは少ない。。

毎回、情報を複数のソースで確認したり、分からない専門用語を調べるために、

ネットで百科、イミダス、現代用語の基礎知識、新聞の過去記事有料検索サービス、Financial Times、Wall Street Asia,The Economist,Britannica on lineなどを購読している。

情報はタダではない。相応の対価を支払うべきだ。本当は、青山繁晴氏のリポートなど読みたいのだが、

極めて高度な情報が含まれているため、年間10数万円の購読料がかかるし、読んだら書きたくなるが、

それは、決してしてはいけないことなのである。



カネにまつわる品がない書き出しとなったが、もう一度だけ、書かせていただく。

この程度の駄文を素人の私が書くに当たってもそれなりの準備は必要なのだ。

言うまでもなく、私はニートでもフリーターでもオーナー社長さんでもないので、時間は限られる。

書き上げたときは嬉しいかというと、そうでもない。毎日、世の中の問題の深刻さを知り、憂鬱になる。

そこで今日は、軽い話を書かせていただく。


◆どうして、今時、「セーラー服と機関銃」なの?

数週間前からJRの駅のホームに、秋のドラマの「番宣」ポスターが貼ってあり、その一つが、「セーラー服と機関銃」だったので、さすがに驚いた。

これは、四半世紀前に薬師丸ひろ子が主演で映画化されたが、元は赤川次郎氏の小説である。



ドラマが進行するにつれ、ストーリーの荒唐無稽さに、驚く方が多いと思うが、

原作者の赤川氏は事情により、所謂「ライト・ノベル」作家になったが、本来教養人である。



赤川氏は、苦労人である。福岡生まれ福岡育ちだったが、父上の仕事の都合で上京し、東京の国立市にある桐朋学園に編入した。

なお、音楽大学として、特に、ピアノと弦では日本最高水準にある桐朋学園大学音楽学部というのがある。これは、クラシック関係者は「きりとも」と呼ぶ。

発音が同じだが、文字が異なる「東邦音楽大学」が存在し、これと混同しないためである。

ただ、言っては悪いが、教師・学生の音楽的レベルは、「きりとも」に対して「東邦」は問題外である。



因みに、桐朋学園大学音楽学部の附属高校は、何故か、桐朋女子高等学校(音楽科)しか存在せず、

男の高校生も音楽を専攻するものは、「桐朋女子高等学校」の生徒なので、非常にきまりが悪い。

ベルリン・フィルのコンサートマスター、安永徹さんや、ピアニストの清水和音氏など、後の一流音楽家は

「高校の頃、通学定期を買うために駅の窓口で学生証を見せる度に『桐朋女子高等学校』とかいてあるので、実に恥ずかしかった」と書いている。

それはそうだろう。しかし、いまだに変っていない。何とかすればよいものを。


◆赤川氏が在籍したのは「桐朋中学校・高等学校」で、音楽とは関係がない。

組織としては、大元に、「学校法人・桐朋学園」があり、男子校も、音大も、桐朋女子もその傘下に属するが、互いに交流はない。

赤川次郎氏が通っていた、男子校の桐朋中学・高校は普通の学校だが、かなりレベルの高い進学校である。

毎年、東大・一橋に大勢合格するような学校なのだが、赤川氏は気の毒なことに、父上の事業が破綻して、経済的な理由により、大学進学を断念せざるを得なかった。

桐朋高校卒だが、学歴は高卒、という人は非常に稀であり、ご本人も辛かったと思う。

高校卒業後は町工場のような零細企業で働きながらも、創作活動は学生時代から始めており、社会人になってからも続けていた。

小説を書くような人は、当然のことながら自身読書家である。

上でも述べたが、赤川氏は、エッセイなどを拝見すると古今の名作に通暁した教養人である。



その赤川氏が所謂、「ライト・ノベル」という分野から書き始めるのは、特別なことではない。

他の作家で、後年、大人向け本格ミステリーを書いて名声を博すに至ったような人でも、

最初数年はライト・ノベルという中学生か高校生向けの小説を書いていた、という話を、しばしば聞く。



赤川次郎が何故、この分野にとどまっているかについては、文学・出版業界の知り合いがいないから分からない。

ネットで調べれば、恐らく有ること無いことが沢山書いてあるに違いないが、「噂」は、参考にしたくない。

以下は、完全に無根拠の、私の「想像」以外の何物でもないことをお断りした上で敢えて記す。

最も考えられるのは、「ライト・ノベル」の分野で「あまりにも売れてしまった」ということであろう。

こうなると、次から次への同種作品の注文が各出版社から持ち込まれ、断り切れなくなる。



私は、赤川次郎氏の作品は、2,3作しか読んだことがないのである。

「セーラー服と機関銃」の原作は、比較的初期の作品であるが、本として出版された3年後、1981年には薬師丸ひろ子主演で映画化された。


◆角川映画ブーム

この当時角川出版の社長で、後に麻薬取締法違反で起訴された角川春樹氏が時代の寵児としてもてはやされていた。

(私は、失礼ながら、角川氏の顔を見ると、どうしても、元・N響コンサートマスターである、ヴァイオリニストの徳永次男氏を思い出す。)



この角川春樹が、出版社としてはそれまで誰もやらなかった、「まず、映像化して、若い一般大衆に作品に対する興味を抱かせれば、本も売れる

」という手法で様々な大衆文学を映像化して、成功した。

故・横溝正史氏の一連の作品も、原作が書かれてから数十年を経て、映画化を通じて爆発的に売れるようになったのである。

角川春樹氏が如何なる基準で映画化する対象を選定していたかは知らないが、とにかく「セーラー服と機関銃」は映画化された。


◆荒唐無稽さに驚く。

私は、昔も今も、全然映画好きではなく、前評判が高い作品をならんでまで見に行くと言うようなことは絶対に面倒くさくてしないから、

「セーラー服と機関銃」は、テレビで何度も放映されたのを見ただけである。



後から文句を付けるほど簡単なことはない。本作品のストーリーはとてつもなく荒唐無稽であるけれども、

兎にも角にも、この発想が頭に浮かぶということはただごとではない。

赤川氏は今年で書き始めて30年だそうで、作品数は480、売れた本の冊数は3億冊になるという。



「所詮、ライト・ノベル、子ども向けの本だろ」と言うのは簡単だが、後から後から生まれてくる「若者」に読み継がれる何か普遍的な面白さが有るに違いない。

ブログを書いている人なら、分かるだろう。我々はカネを取らないが、

プロの物書きは、読者が「カネを払っても読みたい」とおもうような作品を、ずっと書かねばならないのだから、その苦労は察するにあまりある。


◆ここまでひっぱって、何を言いたいかというと、赤川氏のクラシック音楽家との対談集をお薦めしたいのである。

赤川次郎氏は、音楽の専門教育を受けたわけでも、楽器を演奏するわけでもないが、

かなりクラシックがお好きである。読めば、分かる。



赤川氏の小説を出版するような会社とは比較にならないほど地味だが、ずっとクラシック音楽関係の本、楽理書、楽譜を専門とする「音楽之友社」という会社があり、

そのシンボル的出版物が「音楽の友」という月刊クラシック雑誌である。

この雑誌の1989年5月号から、14回にわたり、赤川氏が当時(中には今でも)、クラシック界の第一線で活躍する音楽家と対談するという企画が発案され、実行された。



対談相手は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスター、安永徹氏、オーボエの宮本文昭氏、作曲家ですでに故人の武満徹氏、

世界で本当に活躍している日本人テノールとしては多分唯一の存在、市原多郎氏、ショパン・コンクール4位のピアニスト、小山実稚恵氏など、錚々たる顔ぶれである。



赤川次郎について書かれた文章で、このことに触れているものが殆ど無いので、本稿で取り上げたのである。

これは、決してレベルの低い対談ではない。



勿論、音楽家たちは、相手は音楽に関しては素人であるから、高度に専門的な議論は出ないが、非常に興味深いエピソードが沢山出てくる。

僭越ながら、この私が読んで、へえ、と思うぐらいだから、本当である。


◆安永さんは「ツァラトゥストラ」のソロは「出来れば、演りたくない」

安永さんが、一番弾いていて嫌なのは、リヒャルト・シュトラウスという作曲家の交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」のソロ

(コンサートマスターは、普段第一バイオリンの他のメンバーと同じ譜面を弾いているが、いろいろな作品で、ソロを弾く。

挙げるとキリがないが、リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」は冒頭から、主人公シェエラザード

(あの「千夜一夜物語のシェエラザード、である)のテーマを弾く。

この曲はコンサートマスターのソロがヘタクソだと、どうにもこうにも、話にならない)だそうだ。


◆宮本文昭氏は、オーボエが3つに分かれてケースに収納されているのは、安物だからだと思った。

オーボエの宮本氏が楽器を始めたのが中学三年で、

ある日、声楽家の父君が楽器を買ってきて、ケースを開けたら、楽器は3つの部分に分かれて収納されていた

(どの、オーボエもそうだし、大抵の木管楽器は、このように分解した状態で保存し、吹くときにジョイント部を結合して一本になるのだが)のを見て、

「ああ、ウチはカネが無いから、三つに分かれた(安い)楽器しか買えなかったのだな」と思ったが、

それを口に出してはオヤジのプライドを傷つける、と気を遣い、何も言わなかったそうで、単純に面白い。


◆小山実稚恵氏はショパンコンクールの間ヒマなので、詰め将棋をしていた。

ピアニストの小山実稚恵氏は、全く留学経験がないのに、チャイコフスキー、ショパン、の二大コンクールで上位入賞を果たした唯一の日本人だが、

かなり天然ボケ気味である。

ショパンコンクールは予選から本選まで一ヶ月以上かかるので、途中ずっと練習するのにも飽きて、

当時覚えたばかりの「詰将棋」で暇を潰していたそうだ。これぐらい度胸が良くなければ、ソリストにはなれない。


◆お薦めの対談集

というわけで、「セーラー服と機関銃」も結構だが、

多分、赤川ファンも、クラシックファンも見向きもしていないであろう赤川次郎のばっくすてえじトーク―クラシックという地味な本をお薦めしたい。

Amazonで唯一のカスタマーレビューを書いているのは、他ならぬ、私である。


◆今日の一曲:「キャンディード」序曲」(バーンスタイン)

バーンスタインは、ミュージカル「ウェスト・サイド物語」の作曲者だが、

若い頃から、ニューヨーク・フィルハーモニック(日本語では、「ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団」と表記されることがあるが、

英語の正式名称には「管弦楽団」に相当する単語は無い)で大暴れする指揮者として有名だった。指揮台でしばしばジャンプするのである。



しかし、晩年は指揮者としての活動が殆どでしかも若い頃カラは想像できないほど非常に円熟して、ウィーンフィルとのマーラーなどの名演を遺している。

御紹介するのは、「キャンディード」というオペレッタの序曲である。



極めて高度な作曲技術を駆使していることは、楽理(音楽理論)を勉強していない者でも、想像がつく。

美しい旋律がある一方、絶えず曲想が、全く想像を超えて変化する。

ジェットコースターに乗せられたような気分、とでも言おうか(無論、絶叫する恐怖感は無い)。



もっと具体的に言えば拍子が数小節で変る。それが、速いテンポの中で、幾度となく繰り返される。

プロは慣れたものだが、こういう曲は、一拍数え間違えたら、どこで入る(弾き始める、吹き始める。叩く)のか分からなくなる。

慣れるまではどの楽器の奏者も、指揮者も一瞬も気を抜けないと思われる。

これは、やはり天才の作品だ。今までの静かな作品とは対極的である。たまには、良かろう。

エンピツをご覧の方は、いつも恐縮ながら、ココログからお聴き下さい。

◆【追加】10月14日はバーンスタインの命日であった。偶然発見しました。

「クラシック・ファン」というと、主だった作曲家の生年月日を丸暗記しているのだろう、と思っている人がいるそうだが、

とんでもない勘違いである。

やはり、

クラシック音楽=学校における「音楽の授業」の延長上にあるもの


という図式を、人々は頭に描いているのであろうか(しかし、私は同時に、「芸術は大衆に迎合するべきではない」と信じている)。

ところで、年譜を見ていて驚いたが、

この記事の日付10月14日はバーンスタインの命日だった。

私が、そうとは知らずに、「キャンディード序曲」をアップしたのである。

こういう偶然もあるのですね。それだけ。以上。おしまい。


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