与太郎文庫
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2000年10月09日(月)  ポール先生、さようなら 〜 Super 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007
 
 ◆ Super
 
 文芸部の送別会で、ぼくは後輩たちにメッセージを遺しました。
“オレにホレるような女に、オレはホレられたくない。オレの入れるよ
うな大学に、オレは入りたくなかった!”
 それにしても、なぜ優秀な同期生は、申しあわせたように京都大学へ
行ってしまうのか? しかるに中西宏君はどうして行かなかったのか?
 後輩のなかでも群をぬく俊英だった中西宏君に、担任の先生が、
「きみは、どの大学にすすむのか」
とただすので、彼は胸をはって、先生をタシナメたそうです。
「同志社のセンセが、そんなこと言うたらイカン」
「へぇ、なんでや?」
「ボクは同志社が気に入ったから、同志社に来たんです。ダイガクも、
同志社にキメてます」
「そうか、それはスマんナ」
と、先生が礼を言ったかどうかはわかりませんが。かくて彼は、生っ粋
の同志社ボーイとして初の(?)新入生総代の名誉を奪還したのです。
 卒業後、その報告をきいて「さすが、スーパーマン!」と内心喝采し
ました。なにしろ彼は、小山素麿君から数えて四代目・同志社中学新聞
部長でもあったのです。
(しかし二代目が、落第したのはいかにもまずかったかな?)
 三代目新聞部長・北川禎三君については、ほとんど記憶がない。中西
君の印象が強いのは、卒業後に明治屋の前で出会ったとき、彼が大声で
“センパーイ”と声をかけてくれたこと、その翌年には文芸部に入って、
ふたたび後輩となったからでしょう。
 彼の自慢話をはじめるとキリがないので、ほんの一例をあげましょう。
 大学卒業後、NCR(日本金銭登録機)のセールマンとなって、たち
まち新人賞をとります。その記念品とは、米国ナントカ大学の図書館の
蔵書一式(!?)。「そんなもん貰うて、どこに置くんや?」ときくと、
「マイクロ・フィルムに顕微鏡がついてるんですワ」
 そして、社内いちばんの高給とりになったので「居心地わるいから」
退職、踊り子にホレたがフラレる(!)。
 
 最後に会ったころには、彼は結婚して(たぶん父親の後継者として)
スーパー・マーケット(?)を経営していたようです。
 もし今でも続けているとすれば「人類史にとって損失ではないか」と、
竹内君への手紙に、追記しました。
 
 ◆ Post
 
 私の不出来自慢で、教育者としての先生の評価をそこねてはいけない
ので、卒業後に東京で国際的貢献をはたしたエピソードを。
 夜の東京中央郵便局で、用をすませて隣をみると、韓国人老夫婦が涙
をうかべて局員にたのみごとをしています。
 身内が死んだので、祖国に電報を打ちたいが、先方には日本語を読め
る者がいない。ハングル語はもとより漢字でも電報は打てない。じっと
様子をうかがいながら、私は画期的なアイデアを思いつきました。
「よろしい、ボクに任せなさい。まずお父さん、あなたが言いたいこと
を韓国語でボクに言いなさい」老人の顔がパッと輝く。
「なにその、ボクは韓国語はできません」、老人の顔がパッと紅らむ。
「よろしいか、ボクが同じ発音を繰りかえす。大体の意味が通じるよう
なら、ウンという」
「!!!?」
「そのまま、ボクがローマ字に書きうつす。局員さん、それなら電報を
打てますね」
「ウン? はい!」
 
 ◆ Reunion
 
 みんなが三十歳になったころ、あいついで三度の同窓会が設けられま
した。中学高校時代に一度でも机をならべた同窓生に呼びかけ、ナイト
クラブ・ベラミで再会する私設同窓会という趣旨で、来賓の先生がたを
ふくめて百人におよぶ盛況となりました。
 このときの記録は《同窓会始末 19710115-0415》にまとめましたが、
私の役割は、当日の受付・司会を担当する前に、ひとりで延五百数十人
の案内状の宛名を書くことでした。
 その結果、受付にあらわれた出席者ひとりひとりに対して、ほとんど
間髪を入れず、フルネームで応答することができました。十三年以上も
前の、ほとんど口を利いたことのない相手、しかも年齢や容姿の変化に
かかわらず、満点ちかい正解率は自慢してよいでしょう。
 これにくらべると、わたしが中学高校の七年間でおぼえた英単語は、
当時の推定で約一千語にすぎません。
 国立大学の受験に約三千語必要ならば、漢字の名前(平均四文字五百
組、わたしの同期生はその三倍)を記憶する能力があれば、とるにたら
ないはずです。
 しかるに、この記憶能力は、なぜか学業において機能しませんでした。
 
 ヒトの記憶は、右脳における画像認識“アナログ記憶”によるとされ、
左脳では論理思考を操作するといわれます。一般的に、歴史年号や電話
番号(無関連な数字の羅列)などの記憶能力が高い人たちの、数字認識
“デジタル記憶”は、論理思考にも適しています。すくなくとも日常の
判断はすみやかで、ぐずぐずと迷うことがない。たぶん彼らは数字以外
にも“デジタル記憶”を応用できるらしいのです。
 いっぽう、相互関連などの周辺情報とあわせて、数字そのものまでも
“アナログ記憶”する人々が居ないはずはない。個人的に小規模な調査
をしたところ、私と長男以外には該当者が存在しないのです。そこで、
これを“数の風景”と名づけましたが、余分な情報が多すぎるために、
実用面での効率が悪いのは当然でしょうか。
 
 受付にあらわれた女性が「あのう、……ですが」と名乗るまえに、
「××〇子さんですね!」と旧姓で呼びかけることができます。
 亀田弘行君も一目で思い出しました。このとき彼が名刺をくれたので、
みると「京都大学工学部教授」とあります。
「助教授」のまちがいではないかと再確認したくらいで、これは大変な
ものだと思いました。如才なく
「たいしたもんだ、いつ昇格したんだ?」とでもいうべきところ、適当
な言葉をさがしているうちに、つぎつぎに来場者があらわれ、それきり
になりました(彼としては、私の反応が物足りなかったでしょう)。
 プログラムがはじまり、私がマイクをもって先生がたに順にスピーチ
をお願いしたあと、雇っておいた女性アナウンサーが、欠席者の祝電や
返信はがきのメッセージを読みあげます。
 これには、あらかじめ私のメッセージを混ぜてありました。というの
も司会の役割とは別に、私の個人的な見解をひとこと言っておきたかっ
たのです。それも、皮肉たっぷりに。
「順境にあるヤツはがんばれ,逆境にあるヤツはザマア見ろ!」
 百人もの宴会で、こういうきわどい表現は良識を欠くものだ、と眉を
ひそめる立場もありましょうが、(私の意図は)むしろ逆境にある同窓
生は、出席者のなかにも欠席者のなかにも居るはずだ、三十歳になって
苦労している仲間を、胸のうちで励まそうではないか、というところに
あったのです(Diogenis Laretii《Periandros》 参照)。
 
 六十才になって、あの日の印象を思いだすと、事業で成功していると
みえた者は、すべて二代目ばかりで、あたらしい事業をはじめた者など
いなかったのです。かくいう私も、父のわずかな資産をもとに、いわば
家屋敷を投じて、それなりに緊迫感をもっていたのです。
 独力による勝者を賞賛して拍手をおくるために集まったのなら、亀田
君はうってつけの第一人者でした。しかしそのあと、われもわれもと他
の者の自慢話がつづいたら、とても虚しいパーティになったでしょうね。
 
 はたして二次会・三次会と流れるあいま、某君が私に小声で
「すまんが一万円貸してくれんか?」とささやきます。
 そうだ、これも現実なのだと私は感慨をふかめたのです。後日、もち
ろん彼は返してくれました。
《同窓会始末 19710115-0415》を送ったあと、ひとりの女性から礼状が
届きました。
「あのあと井上正雄さんを訪ねて、同窓会がどんなに楽しかったか、お
話をしてまいりました」
 ヘッセ《郷愁》に描かれたボピーとおなじ病気の井上君は、中学時代
の宗教部でどんなにか親しかったのに、半年もつづけた早朝祈祷会や、
ときには若王子山頂の校祖墓前に彼も挑戦し、街の安食堂で笑いあった
仲間だったのに、高校に進むと、文芸部・ホザナコーラス・器楽部など
彼の不得手なグループばかりに加わって、たちまち疎遠になりました。
 そして高校二年のころ、ひさしぶりに彼が訪ねてきた日、あるいは、
卒業後とつぜん彼が訪れたときには不在で、くりかえし彼の心を傷つけ
たまま絶えてしまったのです。
 彼女は、しかし井上君のことを思いだして、あるいは私にかわって、
彼をはげましてくれたのです。
 商売だの仕事だのを口実に、毎夜のように酒場にかよっている自分の
俗物ぶりを、彼女が知るはずもないが、もはや少年のこころを失った私
をたしなめるように、あるいはそれ以上に失わないよう伝えてくれたの
ではないでしょうか?
 わたしの人生において、彼女は知の女神にあたります。美の女神は、
わずか二度しか会っていませんが、ヴァイオリニスト・巌本真理女史の
厳しい芸術家としての姿でした。愛の女神は、亡き母であるはずですが、
彼女はあまりに厳格すぎたので、二人の息子の母に譲ることにします。
 
 ◆ Stag
 
 私にとって最後の同窓会は小規模なもので、案内状もつくらず十数人
に電話連絡しました。なぜか女人禁制です。招待する先生も、現職教諭
ではまずかろうということで退職されていた二人の先生が選ばれました。
 そんな趣向とは知らずに、三十歳をすぎた俗物紳士の秘密パーティに
招かれたのは、同志社大学人文研究所教授に栄進された杉井六郎先生と、
外車販売の日光社・営業部長に転向された高田幹也(茂)先生でした。
 高校生が、教壇の机にヘビの死骸(杉井先生の回想 P066 参照)を入
れた箱をおいて先生をおどろかせるような、悪ふざけのつもりでした。
 しかるに両先生は、なかなかの粋人であり、悠然として、われわれの
演目をたのしまれたらしい。
 杉井先生に格別の敬意を抱いていた私は、さすがに赤面して
「恥ずかしくって顔もあげられません」というと、先生は
「なに、君たちはもう立派なおとなに成長したんだ」と笑ってくださっ
たのです。
 おなじ言葉を、高校三年のときに(進級・進学について特別に呼びだ
された)私の父も聞いています。
「お父さん、いろいろご心配でしょうが、彼を一人前の紳士として接し
てやっていただきたい」
 一人息子の将来に暗然としていた父は、すっかり感動して帰り、
「あの先生はエライもんや」と母にも語っています。
 
 私に関して最後となった職員会議の席上、担任の杉井先生の発言を、
わたしは次のように空想しています。
「ただいまは数学・物理の先生から、彼の成績が進級・卒業に値しない
水準にあることを、きわめて具体的かつ客観的にご説明いただき、担任
として本人以上に恐縮した次第であります。もとより私の日本史におい
ても、いわんや各教科の先生がたにおかれても、同様のご意見がうかが
われましょう。しかしながら、いわば同志社の建学の精神を想起するに、
わたくしは新島襄先生のことばに、いまあらためて、胸うたれるもので
あります。“徹頭徹尾、生徒を愛すべし”もとよりわたくしは同志社で
教育を受けた者にあらずして、本校の末席につらなるという身にあまる
光栄とともに、つねづねこの言葉によって自らを律しております。この
言葉にひかれて、わたくしは本校の教員を志願し、お許しを得て以来、
ようやく最初の卒業生を送り出すときを迎えたのであります」
 
 おそらくこのような名調子で、修辞学の達人は列席者ひとりひとりの
心を平らげたのではないか、と思います。
「すなわち、かくのごとく卒業をひかえた生徒は、ことごとくわたくし
のかけがえのない生徒たちであります。かなうならば、いつまでも彼ら
とともに学び、彼らとともにありたいと願うのが切実なる心情でありま
す。優秀な生徒からは学びつづけ、優秀ならざるものには教えつづけた
いと願うものであります。さりとて彼らにも彼らの人生があり、未来も
あります。わたくしの手をはなれて飛躍する可能性は無限であります。
されば諸先生がた、わたくしの手のなかにある鳩たちを、一羽たりとも
余さず、はるかなる大空にむけて、解きはなつことに御賛同ねがいたい
のであります」
 そのあと、街で出会った先生に、愚かなハトはこう訴えています。
「センセイ、ボクは卒業できないと、入学試験に合格しても意味がない」
「アワや、という状況だったが、安心しろ。受験勉強にはげみたまえ」
(♪ 仰ゲバ尊シ我ガ師ノ恩)。
 かくて期末試験を免除されて、「特急ハト」に乗ったボクは、東京に
向って飛びたつことができました。
 人生にわずかな希望を取りもどして、一時帰郷した青年が、破れ寺に
間借りしておられた先生をたずねると、
「君たちが、どんなにエラクなったとしても、わたしも、君たちの教師
として、いつまでも負けないぞ」
 そして万巻の書籍を収めたミカン箱のすきまから、ウィスキーを抜き
だして、私のための祝杯を注がれたのです。
 
 杉井先生の来賓祝辞は、録音テープのほか日記(1978ca)にメモあり。
左頁下段の印刷書簡 (Let'19670815 消印)には華麗なるダンディズムが
あふれている(P66参照)。同志社大学人文研究所教授、エール大学客員
教授、のちに京都女子大学名誉教授。下記の資料により消息を知る。
── 《日本執筆者事典 19670920 日外アソシエーツ》著者番号
── 杉井 六郎・監修《蘇峰書物随筆・全十巻 1993 ゆまに書房》
 
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──  [ 米口語 ] STAG PARTY. go stag 女性の同伴なしで行く。/
Stagger よろめく。千鳥足で歩く。 ── 《新英和中辞典 196812‥ 三省堂》
 
── 暑中お見舞申しあげます このたび 私事 8月13日から19日まで
Ann Arbor で開かれる International Congress of Orientalists に出
席し、その後 Princeton大学、Yale大学でそれぞれ半歳ずつ研究のため、
渡米いたすことになりました。アメリカでは幕末明治以降の在日宣教師
報告の調査、研究を予定しています。 昭和42年8月4日  杉井 六郎
──  East Asian Studies 70 Whasington Road Princeton University Princeton N.J.08540 U.S.A.
 


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