与太郎文庫
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| 2000年10月08日(日) |
ポール先生、さようなら 〜 too Long 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007 ◆ too Long ふだん口を利く機会のない亀田弘行君が、笑いながら話しかけてきま した。 「きみ、クラシック好きやろ」 「まあな」 「輸入LP盤、聴きに来いひんか」 「どこへ?」 あろうことか彼もまた、ESSの隠れセールスマンだったのです。 当時のボクは、通学路周辺の名曲喫茶にあるすべてのレコードなら、 針をおろした瞬間に、演奏者まで名指しできるほど精通していたので、 あたらしい盤が聴けるなら、どこへでも出かけたにちがいありません。 「ESSか。また何かしゃべるんやろ?」 「いやいや、レコード聴くだけや」 行ってみると、メンデルスゾーンの協奏曲が鳴りはじめる。 「誰や、ハイフェッツかな?」 さっそく亀田君が、ジャケット数枚を持ってきてくれました。そして そのまま、ボクのそばから離れようとしないのです。ジャケット裏面の 真っ黒な英文活字をにらみつけ、ボクは荒野の試練にさらされたのです。 そのボクを、じっと見張っている亀田君との我慢くらべは、数時間にも およびました。ほんとうのところ、ボクはジャケットはもとより、音楽 も亀田君の存在も、眼中にないほど固まっていたのです。 なぜなら、その席にX嬢が現われたからです。数ヶ月まえに、彼女に あててはがきを出していたことは誰にも知られたくないが、この数ヶ月 もの間、ひそかに彼女からの返信を待っていたのです。 その数日後、もういちど彼女にあてて(メンデルスゾーンの華麗なる ロマンチシズムに関する意見書を)投函しましたが、かれこれ四十数年 を過ぎてなお、いまだに返信はありません。当時の、文芸部誌《山脈》 第十四号の表紙では、彼女が着ていたセーターの色を再現しています。 その色は、以後の作品にあらわれることのない、わたしのエヴァ・グリ ーンとなりました。 このころひそかに、高校オーケストラの構想も熟していました。 ゴリとバンバ(吉田 肇 &馬場久雄)とともに“三銃士”、有賀誠一 をダルタニアンになぞらえ、わがシンフォニエッタ発祥の歴史をつづる 音楽自伝として、一挺のチェロの運命をたどる《双竜外伝》、草稿断片 《天才少年少女伝》などがあります(いずれも未完成ですが)。 ──────────────────────────────── ── 【虚日】何事もない日。ひまな日。【虚実】�〔気い海箸藩�るこ とと。空虚と充実と。�△Δ修箸泙海箸函��K蛭�の有るのと無いのと。 種々の策略を用いること。→【虚々実々】(「虚実」を強めていう語。 「虚」は備えのすき、「実」は備えのかたいさま)互いに敵の虚を攻撃 し、実を避けて、計略や秘術の限りをつくして相戦うさま。【虚実皮膜】 (近松門左衛門の語)芸は実と虚との皮膜の間にあるということ。事実 と虚構との中間に芸術の真実があるとする論。 ── 新村 出・編《広辞苑 19711118 岩波書店》P0584 ── 虚虚実実の〔抜け目のない〕shrewd,astute;〔たくみな〕clever ── 荒木 一雄・編《ブライト和英辞典 19890120 小学館》P338 虚々実々、ここではパロディ風に「虚々日々 Day was Day 」と転用。 ◆ Who was Who 亀田弘行君とは、それほど親しいわけではなかったのですが、回想を たどるなかで、しばしば重要な役割で出現します。 中学二年のころ、級友たちのうわさによれば、彼の父(生徒名簿では、 保護者・亀田得治)が、国会議事堂で灰皿を投げつけたというのです。 かくも血気さかんな野党政治家(吉田内閣時代の社会党議員)を父に もちながら、おとなしい彼(この親亀にして子亀)が、なぜ地震学者に なったのか。わたしは“地震ハイザラ火事オヤジ”と連想していました。 これを書きながら(念のため確認すべく)私のハードディスクにある 約70,000行のファイル《生没総譜》を検索したところ見あたりません。 つまり、一般的な人名辞典に掲載されていない場合は、引退後ひさしく 健在であることも考えられます。そこで衆議院事務局に問いあわせると、 中学時代の情報が誤っていたことが判明しました。 なんと彼の父は、灰皿を投げつけられた方だったのです! 亀田 得治 衆議院議員 19120814 大阪 19940314 81 /社会党/弘行の父 篠田 弘作 衆議院議員 18990727 富山 19811111 82 /自民党 ── (しのだ・こうさく)9歳で樺太に移り開墾に失敗、商店の小僧 など職を転々として上京、1927(昭2)年早大卒。『朝日新聞』記者、国策 パルプ理事を経て、49年の総選挙で北海道4区から当選(自由党)。以後 当選11回。直情径行で武勇伝が多く、53年衆議院予算委員会で灰皿を野 党議員に投げつけ、野党議員負傷の乱闘事件を起した。 ── 《朝日人物事典 19901210 朝日新聞社》P792 ◆ Professors ひとくちに私の同期生、といっても(小学校・高校で留年しています ので)前後三学年にわたります。 三十歳にして京都大学防災研究所教授となった亀田弘行君は、のちに 阪神大震災後ほどなく、NHKの公開シンポジウムに登場しています。 「防災コストは、被災金額に反比例する」という趣旨の発言でしたが、 ライフライン工学では、あたりまえのことも理論化するのでしょうか。 彼を同期生のなかの一番星とすれば、一年上の本命星に脳神経外科学 の小山素麿君がいます。彼はESSには無縁でしたが、同志社中学新聞 部長、ホサナコーラス(バス)、そして、われらが枯木コーラスでは、 初代にして最後のコンダクターの栄誉を手にしています。このときの、 私の奇妙なアレンジならびにテノール独唱のおかげで、すっかり赤恥を かいた結果、勉学一途の決心をしたらしいのです。 よほどはなばなしい臨床成果をあげたとみえ、五十歳を待たず、私の 紳士録に登場しています(脚注=ホーム・ページ「名医が語る」より)。 名門校の条件は、すぐれた卒業生を輩出することですが、実態は有力 者の子息子女が参集することにあり、同志社中学・高校も、総理大臣の 孫、自治・法務大臣の長男・次男、俳優・学者・実業家など多士済々、 もちろん二代目すべてが紳士淑女録に登場するわけではありません。 実業界の後継者では、立石電機・立石義雄、十字屋楽器店・田中義雄 の二人が堂々の常連です(それぞれオムロン、Jeugia と改称)。 また、子役時代から二枚目だった加藤雅彦は、中学を出て早稲田実業 にすすみましたが、父・沢村国太郎の仕事の都合だったのでしょうか。 なお、最近のテレビ番組で、津川雅彦は昭和13年十二月二十一日生れ と自称していましたが、この現象は昭和二十三年の民法改正以前には、 医師または助産婦の出生証明書を要しなかったため、届出の六ヶ月前、 任意の日付を選ぶことができたのです。したがって、私自身の誕生日も、 戸籍上は一月二十日ですが、実際の出生は前年十二月某日(ひとつの、 可能性としては旧暦十二月下弦?)だったらしく、くわしい事情や本来 の日付は分らないままです。 すこし余談になりますが、おなじ防災研究所の大先輩にあたるひとり、 角屋 睦 教授は、わたしの小学校時代の恩師・芝山マツ先生の令妹婿に あたります。教授の外国旅行に際して、写真機材を一括購入されること になって紹介されました。その研究室における滞在時間数は、学内でも 評判の記録的伝説だったそうですが、のちに酒場で出会った後輩教授の 証言では、さらに尾鰭がついて「あれでよくも子供が生まれたものだ」 などと象牙の塔にふさわしくない軽輩もいたそうです。 おなじ建物の研究室で、いま亀田君も机に向っているのでしょうか。 当時わたしはNHKの契約カメラマンとして、オリジナル企画である 《保津川の一日》の構想について助言をもとめています。さらにまた、 研究室助手の渡辺少年が(カメラマン志望だったので)転職して、私の アシスタントになりましたが、どちらも半年ほどで挫折しています。 ──────────────────────────────── ── 角屋 睦 (研究代表者) /昭和58年7月山陰豪雨災害、京都大学防 災研究所年報、第27号A、1984,pp.45-50 ── http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/photo/misumi/misumi.html ── 昭和60年度日本気象学会秋季大会シンポジウム「都市化と災害」 の報告 2 角屋 睦 33 91―94 (3) ── http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/TENKI/index/subject/index4-1.html ──(脊髄腫瘍は)年間十万人に一人余りですから、滋賀県だけを対象 にしていると私のする仕事はほとんどありませんが、日本各地から患者 さんを紹介してもらいますので、年間三十人余りの方を手術しています。 これには脊髄血管奇形も含みます/「MRIといういい機械があるから 撮りましょう」と言われたら逃げればいいのです/私の師匠の、スイス の教授は、打腱器、18金製の安全ピン、それにレントゲン写真だけで 診察されて、正確な手術をされていました。MRIを私も使うことがあ りますが/百万人に一台で十分な機械なのです。ところが日本では、三 万人に一台、ところによると一万人に一台というところもあります。/ 病気は、医師と患者が一緒になってお互いの信頼関係のなかで治してい くものです。 ── 小山 素麿《名医が語る健康と医療のはなし》 ── http://www.health-net.co.jp/meii/koyama.html ◆ Retire そのころ、NHKの新米プロデューサーだったのが竹内 康 君でした。 彼が文芸部の後輩として山脈十五号に寄せた哲学的論考《無情について 1958》は、つよく私の心をとらえ、のち追随して《日常について 1964》 を書いています。かつて、シンフォニエッタ初代コンサートマスターを (しぶしぶながら)つとめてくれた彼との友情は、卒業後もつづいて、 とりわけ酒場において最高潮に達しました。 京都放送局長に栄進したことを知り、二十五年ぶりの電話で、 「君は学者になるべきじゃなかったか?」というと、 「学者なんかいっぱい居るからね」、しからば手紙で、 「学者が多いわけではない、大学教授が多すぎるのだ」。 つまり、彼のようなセンスと博識をそなえた、はたまた世俗に通じた 人文学者を、わたしは待望していたのです。 彼の人生双六における“アガリ”はいつの日か、しかしまさかNHK 会長にはなるまいな(理事だって大変にちがいない)、などと老いたる アキレスは、ひとりつぶやいています。 “老いたるアキレス”とは、ゼノンの詭弁「アキレウスと亀」から思い ついた、いわば自嘲的造語です。 あるとき何気なくNHK市民講座を観ていると、京都大学名誉教授・ 森 毅 という数学者の解説では、この話をきいた賢人が「こんな詭弁に つきあっていること自体、馬鹿げている」といって立ち去った、という のが結論です。 引退した学者とはいえ(その手は無いんじゃないか)せめて、素人に 興味のもてる説明を期待していたので、がっかりしました。あらためて 素人むきの通俗書や百科事典を読んでみても、納得できるものがない。 そこで「距離もしくは時間が無限ならば、この詭弁が成立する」こと に気づいたのですが、はたして、このような説明だけでよいものか。 手稿《走れアキレス! 1987ca 》や《アキレスみたび 19931103 》で 図解したりするうち、そもそも疑問を抱いていた「時間とはなにか」を 自分なりの手法で説明してみよう、と決心したのです。 まず、生没年月日(人が存在する期間)に異説・誤植が多いことから、 歴史上(あるいは伝承上)の人物には、ところどころ空白の期間がある のではないか? ついで無限に連続すると信じられている歳月も、古代 から現代の暦法につながる確証はあるのか? たしかに、ひとりで考えることは能率がわるく、ほとんど役に立たな いばかりか、しばしば幼稚で必然性にとぼしいのです。しかしこれまで、 ほんとうに自分ひとりで考えたのは少年時代だけで、おおくは専門家や 他人の意見に依存していたのではないか、と思いあたります。 五十歳をすぎて、引退すべきか迷っていたころでした。 ── 子曰加我数年五十以学易可以無大過牟 ──《論語・述而篇一六》 セネカは、世俗との訣別について(くりかえし)説いています。ぜひ 定年退職を迎えんとする畏友・後輩たちに伝えたい、深遠な考察です。 ── 君が若年のころから、学問研究のあらゆる修行で勉強してきたこ とは、巨大な量の穀物が君の良好な管理に委ねられるためではなかった のだ。君は何かもっと偉大で、もっと崇高なものを自分に約束したはず である。 (食料長官パウリヌスに宛てた書簡)── セネカ/ 茂手木 元蔵・訳《人生の短さについて 19801117 岩波文庫》P052 “老いたるアキレス”も、竹内君への手紙を“一口噺”で結びました。 「ロ−マの哲人セネカは、常々後輩に引退をすすめ、みずからも隠棲を 図ったが、おくれて切腹した。早くセネカ!」 ──────────────────────────────── ── 最愛の友セレヌス君、私にはかく言うアテノドルスが、余りにも 多く時世に身を屈し、余りにも速やかに退去したように思われる。私と ても、時によっては後退すべきであることを否定するわけではないが、 しかし徐々に一歩一歩と、また軍旗も損なわれず軍隊の威信も損なわれ ることなく後退すべきである。敵側に一層よく威厳を示し、一層安全で あるのは、武器をもったまま降伏する者たちである。 ── セネカ/ 茂手木 元蔵・訳《人生の短さについて 19801117 岩波文庫》P078 ── 順境にあるときには適度を守り、逆境のなかでは思慮深くあるこ と。友人たちに対しては、彼らが順境にある場合にも逆境にある場合に も、いつも同じ者として接すること。約束したことは何であれ守ること。 秘密はもらさぬこと。過ちを犯した者だけでなく、犯そうとしている者 をも懲らしめること。この人が護衛兵をおいた最初の人であり、またそ の支配体制を僭主制に変えた最初の人である。 加来 彰俊・訳《ギリシア哲学者列伝(上) 19950715 岩波文庫》P090
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