与太郎文庫
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| 2000年10月07日(土) |
ポール先生、さようなら 〜 続・教え子の消息 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007
── チップス先生さようなら“Goodbye,Mr.Chips”ピーター・オトゥ ール主演のドラマチック・ミュージカルで舞台はカンカン帽を制帽とす るイギリス南部の学園。融通のきかない教師の人柄と生徒たちの交流を、 それなりの人間性で描いた好編。(昭和四四・一二・二○) ── 田中 純一郎《日本映画発達史�� 19760710 中公文庫》P188 ◆ Let's letter わたしの成長に、かけがえのない関心をいただいた“三人の先生”を、 結婚披露宴にお招きしてから、やがて三十三年目にならんとしています。 その筆頭は、小児結核で休学していた九才の少年を迎えてくださった 金谷昭良先生でした。その後も二十年間にわたって、作文や絵画、孔版 から読書におよぶ、あらゆる技術・技法の基礎を、文字どおり手をとる ように教わったのです。もちろん、手紙の書きかたも。 「教え子の消息」の初稿は、高校一年の夏休み課題(国語・岡谷 清子 教諭)による《愚作自叙伝 1955 》の終章です。岡谷先生の採点は A゜ でしたが、将来もっと本格的な自叙伝を書くため、少年期にありがちな 思いあがりから、早計な決断のもとに破り棄ててしまいました。 あらましの内容は、音楽に傾斜しはじめたころの経過を述べ、九州民 謡《五木の子守唄》から黒人霊歌におよび、とくに虐げられた人々への 共感を論じています。 この情熱は、まもなく西欧古典音楽に発展して、ついには高校オーケ ストラの実現にいたるのですが、くわしい経過は、この《虚々日々》の 他に別稿《双龍外伝》、家伝《伊甲遍路》に分散しています。 実は、このときの宛名に想定していたのは、小学校五・六年の担任・ 芝山マツ先生でした。 その続編を、芝山先生ではなく、むしろ敬して遠ざかっていたポール 先生に宛てて書くことにしたのは、諸先生・友人ほか、少数の読者にも 通じるような、文学的趣向として選んだものです。 「ポール先生、さようなら」というタイトルは、映画になったヒルトン 原作の邦題《チップス先生さようなら》から転用しています。 芝山先生には礼法をさずかったというべきでしょう。かけがえのない 生涯の友人たちが待ち受けていた同志社中学・高校で、さまざまな友情 を得るための作法をまなんだと信じています。かつての友情は、いまも 記憶のなかにあり、年を経るごとに節度ある敬意に変化しています。 少年から青年にいたる危機的な一年間、杉井六郎先生との遭遇により、 ダンディズムというものが、決断のときの正装となることを知りました。 そして杉井先生の配慮によって、私は現実の世界へ送り出されたのです。 金谷先生の技法、芝山先生の礼法についで、杉井先生の処法と呼ぶべ きでしょうか。かくいう“三師の恩”については、個々に、あるいは、 概して語り尽せるものではありません。 この手紙は、とくに感謝をささげたい諸先生への献辞をかねた教え子 の消息であるとともに、青春をわかちあった友人たちに宛てた回想記の 一部であり、二人の息子に対するわたし自身の記念誌の序文です。 わたしの母は、満六十才で亡くなりましたが、おなじ年齢に達して、 わたしの人生を母に語るとすれば、どんな形式がふさわしいかと考える に、母は(老人になる前に亡くなったので)一人息子の人生をどのよう に予想していたのか見当がつかないのです。父は、満六十七才を目前に 亡くなったので、それなりの無常感を抱いていたと思います。 ◆ Dear Mr.Paul ようやく六十才を迎えるわたしが老人と呼ばれるなら、わたしよりも 年長の先生がたは、一切の面倒なことから解放され、すでに引退されて 久しいことでしょう。 ともに老人となれば、ときおり手紙を書くことや、思いがけない手紙 をひろい読みする楽しみが残されており、さらに都合のよいことには、 返事をしたためるなどという、世俗の義務からも解放されています。 儀礼的に永年の無沙汰をわびたり、愚痴めいた苦労話やあらぬ自慢話 もつまらないので、なにか目あたらしい形式の手紙をと書きすすむうち、 無用の注釈や引用をとりまぜた、長々しい手紙になってしまいました。 その結果、同年輩の友人たちも老眼鏡なしには読めないほどの、新聞 の株式欄なみの文字になってしまいましたが、すべてお目通しいただか なくても、パラパラとめくって下さればよいのです。 私の在学中、ポール先生の日本語は、私の英語と同程度でしたから、 ほとんど語りあうことがなかったのは、まことに残念でした。しかし、 ほんとうのボクは、無口な生徒ではありません!。むしろ、日本語での 手紙を書きはじめると、どこまでも饒舌なので、しばしば投函する時を 逸してしまうこともあり、ワープロからパソコンの容量が増すほどに、 日記や書簡草稿のファイルが、さまざまの日付で散らばっています。 (この手紙は、約半年間 [1998062. < 19990120] の草稿によります) かつて卒業後十四年ぶりに再会した先生は、同席する日本人の誰より も美しい日本語を話されていました。 いまでは英語のにがてな教え子からの手紙も(奥様の手助けなしに) 読んでいただけるかと思いますが、わたし自身の回想をつづっただけの ものですから、ばくぜんと眺めていただければよいのです。 再会の、さらに数十日後(昭和四十七年十月七日)夜、私の不在中に お電話くださったことを、ご記憶でしょうか。そのあと、コールバック せずに今日まで無礼のまま、うちすぎてしまいました。 わたしの生涯で、もっとも美しいエピソードの数々を、ようやく語る にあたって、ほとんど語りあうことができなかったポール先生からも、 これほどおおくの感銘をさずかったのですから、ほかの諸先生から与え られたことへの感謝は、とても語り尽せないのです。できれば、今後は 数人の先生にあてて、それぞれふさわしいテーマのもとに書きつづけた いと思います。 ◆ Trick 昭和三十年の秋、高校一年の私は、最初の自叙伝を書きあげたのち、 ひとつの決心を捨て、もうひとつの決心をしていました。 最初の決心は首位をあらそう成績に達することでしたが、次の決心は、 これを放棄して音楽に専念することでした。 まず教科書を持ってこないこと、あたらしい教科書は買わずに楽譜を あつめることにしました。なるべく授業中は睡眠にあて、体育の時間は 体力消耗するので、一計を案じてニセの健康診断書を手に入れました。 つまり、通りがかりの医院で「国立大学の受験勉強に専念したいので、 ドコカ悪いことにしてくれませんか」というと、初対面にもかかわらず、 初老の医師が「そうか、ロクマクあたりにしておこうか」と、気やすく 書いてくれたのです。いまでは信じられない話ですが、この診断書一枚 で、卒業にいたるまでの体育の時間は「見学」と称して免除され、もっ ぱら器楽部の部室でチェロの練習にはげみました。 (新聞部・文芸部の後輩・中西宏君は、ラジオでサン=サーンス《白鳥》 が流れるたびに、私のことを思いだすといいます。チェロや、とりわけ オーケストラに関しては、あまりにも膨大な草稿が眠っていますので、 この手紙では、なるべく他の記憶を回想するつもりです) うまいことに、もっとも恐れられていた体育の、星野光司先生が退職 され、大学をでたばかりの新米先生が、だまって見逃してくれたのです。 (♪ 仰ゲバ尊シ我ガ師ノ恩)。 ◆ Guest どことなく落ちつかない気分のある日、ESS(英語部)の誰かに、 声をかけられました。 「こんど来た英会話の先生は、マサチューセッツ工科大学を出た秀才で、 グリークラブで歌うてはったらしい」 「本場のグリークラブか」 「そうや。歓迎会やるから、君も来いひんか」 「オレ、ESSなんか入らんゾ」 「歓迎会だけ、ちょっとのぞいてみたらどうや」 いま思えば、この勧誘方法はESS伝統の営業方針らしく、しばしば パーティやレコード・コンサートの名目で人集めがおこなわれ、いつの まにか本人も知らないうちに私の名はOB名簿に載せられたようです。 いかなる事情であれ、はじめて日本にやってきたアメリカ青年には、 すべて熱心な語学使徒にみえたでしょう。それと同時に、うわさにきく 名門大学出身の、青い目のハンサムな秀才に、女生徒たちがうっとりと してしまったのも当然です。 みんなが歓迎の辞を述べることになり、この私にも順番がきたのです (あレレ、ハナシがちがうやないか?)。 ◆ Nobody まったく不用意でしたが、とっさに当時流行語となっていたアメリカ の新兵器「オネスト・ジョン」を思い出し、 「ボクが見るところ、とても親切な優しい先生である」 どうか授業ではお手やわらかに、と結ぶつもりがつづかない。 私の英語は国語にくらべて、われながら見劣りするもので、はたして 先生の反応は不得要領でした。先生のそばでは上級生が、ヒソヒソ注釈 しているが、オチがあるとは知らないから、おそらく話はそれている。 みっともないので途中で打ちきり、得意分野に変更しました。 「それでは黒人霊歌を歌います。《Nobody Knows The Trouble I've Seen》」 おせっかいな上級生が、またもやヒソヒソ補足する。花の女生徒たち はもっぱら先生の顔ばかり見ている。こんどは先生が、上級生に尋ねて いるのが見える。「何だって?」「ニグロ・ソングです」「Oh !?」 この瞬間ボクは、先生が本場のグリークラブ出身であることを思いだ したのです(シマッタ!)。おさない少年の声は乱れはじめ、さいごは 消え入らんばかりとなりました。(♪ Oh yes Lord !)。 日本語で“アガル”というのは、実は多様な心理的症状で、最初から “アガッテル”ケースがふつうで“後アガり”はめずらしい。森田正馬 “森田療法”参照。京都語では(北に向って)上る、(南に)下る、と いう。一般用例では、双六ゲームの終着、ひいては女性の閉経(卑猥語 に類す)、隠語としては料理職人が店を退めること、などです。 * 九州では、炭坑に入るとき「クダル」、出るときに「アガル」という。 ── 「あがる」というのは、人間のすばらしい習性だ。恐怖をのりこ えて人前に出ることができる。(20011225)アンソニー・クイン」 http://d.hatena.ne.jp/adlib/19260919 ──────────────────────────────── ── Massachusetts Institute of Technology アメリカ、マサチュ ーセッツ州ケンブリッジにある私立大学。1861年創立。物理学を基礎と した工業教育と充実した一般教養、経済学の研究で有名。略称MIT. ── Honest John 地対地攻撃用のアメリカ陸軍のロケット。射程距離 30km 。誘導はしないが、核弾頭の装備も可能。 ── 《新世紀百科辞典 19781005 学習研究社》 ── glee 歓喜 (joy) : in high 〜 = full of 〜 上機嫌で Glee club 合唱団、グリークラブ。【楽】(正しくは無伴奏の)3部 またはそれ以上の合唱曲。 ── LP【商標】エルピー(演奏時間を増加した毎分 33 1/3 回転の レコードについていう)【 < long-playing 】 ── 《新英和中辞典 196812‥ 三省堂》 ◆ Trio 先生の授業は、たしかに親切で優雅でしたが、学期のおわりには私の 勉強方針もバレてしまいました。 「最近おぼえたニホンゴ、それは“ヨコズネ”デス」 「なんや、相撲のことやで」と生徒たちが笑っていると、 「KINOSHITAサン“セキワケ”、ARIGAサン“オオゼキ”、 AWAサン“ヨコズネ”デス」 「なんで、AWAが横綱やねん?」誰かがいぶかる声に、 「いつも宿題してこなかった“ヨコズネ”デス」教室がざわめいて、 「おい阿波、なんか言えよ」「マイッタ!」 この順位は、アイウエオやアルファベット順でなく、われら三人組、 別名“枯木コーラス”の終末をも予言していたのです(別項参照)。 以後たちまち悔いあらためた木下聖治は、かつての私が目指していた 首位あらそいに復帰、有賀誠一もそれなりに善戦しましたが、残る一人 は、最後まで“横綱”を張りつづけました。 この噺は、前任のM.L.ビアマン教諭、あるいは後任のリチャード・ デボール先生であったかもしれません。しばしば歴史的伝説は、勝者の 功に帰せられます。 ──────────────────────────────── ── 先生が生徒に与える宿題は実に多い。そのために子供たちは夜十 時、十一時までも、机に向かって宿題をやるような例が多い。/宿題が どれほど子供の力となるか、/毎日学校へ子供を集め訓練している以上、 その上に宿題を出す必要はない。(“宿題は廃すべし”P48-50) ── 私が子供たちにヴァイオリンの指導をする時、音楽の宿題を与え た上に、もう一つの宿題を与えることがあります。それは音楽の宿題で はなく、「お客さまの下駄をキチンと揃えること、これをなるべく誰に も見つからぬようにやること」「お父さまの靴をキレイに磨くこと」 「お庭を掃除すること」などであります。(“行動で育てる”P225) ── 鈴木 鎮一《全集 第1巻“能力の発見” 19890401 研秀出版社》 ◆ I'm busy ! 通学路でふりかえると、ポール先生と木下聖治が談笑しながらやって きます。木下が得意そうにボクに説明します。 「先生に、日本人の名前の由来を教えたげとるんや」 「ほう」 「たとえば、木下はアンダー・ツリーとかな」 「なんや、そんなことか」 こころ優しい先生は、ボクの顔もたててくれます。 「ホワッツ・ミーン、AWA?」 「エーと…?」 困っているボクに代って、親友の木下が答えてくれます。 「イッツ・ミーン、ジャパニーズ・ライス!」 「Oh !?」 (わが友よ、それはないぜ。“粟”やない“阿波”やがな) 先生の手前、日本語であらそうわけにもいかないので、結局だまりこ むことになります。 こころ優しい先生は、ボクの表情をみて話題を転じてくれました。 「ミスターAWA、あれからESSに来ない、ホワイ?」 「エーと…、アイム・ビジー」 「Oh !?」 これぞ先生とボクの間で成立した唯一の英会話でした(いかにも簡潔 で象徴的な回答ではありませんか)。おそらく当時のボクの答案用紙も、 かくのごとく簡潔だったはずです。
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