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■ エッセイの講評
出版社からの講評
◇市井にあって数奇な波乱万丈な半生省を送ってきた著者の自伝エッセイ。 売れない俳優を両親に持ち、小学三年時には親の離婚を経験、少女時代は友人達と大いに遊んできたという著者。その後も夫の浮気による自身の離婚、借金苦に自殺未遂、最愛の母の死、新しい夫の失業、癌発病・・・・・・と、次々に苦難に見舞われる。しかしどれほど辛い状況に陥ろうとも必死にもがきながら乗り越えてきた著者は、読むほどに独自の感性と個性を身に付けているとの印象を持った。波乱ずくめのダメ人生と自嘲気味に語りはしても、逃げずに歩んできた人生記は気概ある大人のそれである。いわば自身をも笑い飛ばすような形で読者にも励ましを与えるようなユニークな作品だ。
◇著者は「ぐうたら神」に生かされてるという(P1)。貧乏神で疫病神、死神でもあるとんでもない存在だが、「時に私と大喧嘩をし、時に私を絶望の淵へと沈め込み、(原文のまま)、時に仲良く寄り添い、時に親身に叱ってくれ、親代わりとして様々な人生ドラマを体験させてくれる」(P15)というように、著者の創作となるこの神様により、実は「生かされている」のではなく、自らの人生を自分自身の手で「生きている」と言えるのだ。よく自分に降りかかる困難を、社会が悪い、運が悪い、周りが悪い、と総て他者のせいにしてしまう人も居るが、著者は「総て自分が蒔いた種」(P286)と理解した上で、「ぐうたら神」という架空の存在を置き、自身の状況を見詰めているのである。ページを覗くと度々顔を現す気まぐれな神様が作品にユーモラスな味わいを添え、深刻な話も悲壮感を漂わせずに読者に読ませてしまう。著者の懐の広さや潔さがにじみ出ている。
◇50年に及ぶ著者の人生は文字通り波乱万丈であるが、常に誇りを失わず、筋を通し、常に前を向いてきた姿勢は胸を打つ。専門学校で卒業を間近に控えながらも、校長の犬への接し方に衝撃を受け、退学してしまうこと。借金を抱え、幼い子供を乳児院へ預けて働き通しでも被害者として泣くよりは幸せになろうと踏ん張ったこと。女の武器を使い経済力で男を選ぶのではなく、対等な関係を築き、人間性に価値を置くこと。癌に冒されても、家族と過ごす時間に幸せに感じ感謝すること。相手のことを考えきつい言葉もはっきりと伝えること。金や生活の為とはいえ、人格を疑う人の下では働けないこと。義捐金を出してくれたホームページ仲間をはじめとして、お世話になった人のためにも頑張り続ける腹を固めていること・・・・・・等など。 人は窮地に陥っている時ほど楽な方向に流されやすく、近視眼的にもなりがちだが、著者は惑わされず大切なものを捨てないで対処してきた。借金苦や仕事がうまくいかないなど困難は多々あれど、そんな人生に対峙する凛とした姿勢が見えてくる。
◇ただ、生硬な部分も残している。自分の人生を振り返り、愚痴らず余裕を持って語った本作であるが、終盤、心情を一方的に吐露するような書き方になっているのが惜しまれる。 P285ではホームページを介した仲間に対する語り口調になっているため、読み手は放置された気分になる。続く私の志もそれまでの読者を意識した文体から、自己の心情吐露に終始した台詞調に変化しているので、作品全体のリズムや風合いを崩さないような書き方の修正が望まれる所だ。 なお、書籍化に際しては一部の表現表記を改める必要が有る旨は予めご了承いただきたい。
◇とまれ、周りの人への感謝を忘れず、謙虚な気持ちで此処まで歩んできた著者である。不器用で生き方が下手な人、自分を卑下している人、そしてそうと知りながら日々を無為に送っている人にも、著者のとことん頑張る姿、決して諦めない姿勢は大きな励みであり、刺激となることだろう。編集者の意見を交えて修正点を調整し、是非世に問うてほしいものである。
以上、原文のまま。
2007年01月22日(月)
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