 |
 |
■■■
■■
■ エッセイ 人生波茶滅茶
最終章 読者からのプレゼント 【聖母バアバの死】
文章を書き始め、四年近くが経過し、私が利用している日記サイトの文芸部門では、常に人気投票の5位以内を保持するようになれ、掲示板には常連仲間の書き込みが増えて来た。 相も変わらずパソコン技術は一向に向上せず、コンテンツは日記本文と掲示板しか無いのだが、見に来てくれる客は「珍しいくらいスッキリしていて、返って解りやすくて良いんじゃない?」等と、苦し紛れにも慰めてくれる。 掲示板仲間の中には、書面で私が究極に貧乏な事を熟知しているので、酒類を贈ってくれたり、本を差し入れてくれたり、食べ物を送ってくれたりする大変ありがたい人達も居た。 お返しも何も出来ないからいいよと遠慮すると、いつもタダで楽しませて貰っているんだから良いの良いの。単なるファンからのプレゼントだと思って気軽に受け取ってくれれば良いのよと言ってくれる。 そんな心優しい友人に支えられ、私は本当に幸せ者だと思う。 もう私に取って、書く事は一つの習慣であり、生きている証であり、何よりもこの飽きっぽい私が大好きで続けられている、たった一つの事なのだ。 文章嫌いの私が、自分でもこんなに長く書き続けられるのが驚きだった。 日記はほぼ毎日のように書き続けては居たのだが、私がお金の事やらで落ち込み過ぎ、日記を書けずにいたり、発熱などして日記が滞ったりすると読者が心配し、掲示板に催促に来てくれたりもする。そんな事が死ぬほど嬉しかった・・・。 私の文章を心待ちにしてくれている人が一人でも居ると言う現実が嬉しかった。 私の文章など上手い訳でもためになる訳でも無い。ためになる物が有るとすれば、料理好きの私が定期的に載せている簡単貧乏料理レシピくらいだろうか。 それでも読者は増え続け、最近では毎日100くらいのカウントが回る様になった。 そしてアクセス数ももう直ぐ十万近い。 夫との貧困生活、日常の出来事、苦悩、飼い猫の事、料理レシピ、仕事上の人間模様、世間への怒り、友人達とのエピソード、失敗談、日頃の喜怒哀楽等、私は思いのまま書き連ねて来た。 文章上で私は、夫の事をフゥーリィーと言うハンドルネームで書いている。ゴロツキと言う意味のフーリガンから捩ったあだ名で、昔の彼は正にそんな感じだった。 彼との夫婦喧嘩や日常秘話などもよく書くので、夫は一切パソコンをいじれぬが、読者には結構有名人なのだ。(笑) ただ、赤裸々に書くとは言っても、あまり読者達の気が重くならぬよう何処かでクスリと笑えるように・・・と、心掛けているつもりではいた。 しかし文面の軽さとは裏腹に、本当は深刻に苦しく、給料日までまだ間が有るのに、財布の中には数枚の百円玉しか無いなどと言う事も多く、書く事が苦しくなる日も沢山有った。 少しのお金なら気楽に貸してくれる友人は数人居るが、前の分を返せても居ないのに又上乗せで借りる事は出来ない。 私達の暮らしは刻一刻と限界に近づいていた。 いつも、今度こそダメだ。今月を越せそうに無い。明日はもう無いのかもしれない・・・。そう思いながら生きて来た。そしてそのような極限状態まで落ち込むと、何かしらの救いの手が常に差し伸べられて来た。 全く忘れていた保険が満期になったと連絡が有ったり、店の立ち退きが起こったり、癌になれたり・・・。 でも、もう私達にはミラクルが起こる要因は何一つ残っていない。 財産家の身寄りも、私にも夫にも一人として居ない。 悩んだ末、私は友人の紹介の司法書士にお願いし、私名義の借金の破産申し立てをした。しかしその弁護代すらまだまともに払えてはいないのだ。 夫はコンクリート会社に真面目に通い続けている。今度だけは感心するほど長続きし、仕事も滅多に休まず、あれほど頻繁だった通風の発作もピタリと治まっていた。 夫は仕事が楽しいと言い、夫を慕う若い仲間に囲まれ、活き活きと働いている。 「フォークリフトは俺の天職だよ。お前一度、俺の積み上げたコンクリート見に来て見ろ。そりゃぁ、すんばらしく見事で綺麗だから。俺、今度TVチャンピオンのフォークリフト選手権にでも出てみようかなぁ〜」などと鼻の穴をおっ広げている。 その頃の私は、丁度旅館に付属するスナックを辞め、最後のパートになったボリママのスナックに勤め始めて暫くした頃だった。 夫がこんなに頑張っているのに、私は再びこの仕事が続きそうもない予感に焦りを抱いていた。 そしてこの頃、思わぬアクシデントが重なった。 この諸々の出来事は、誰もが通る道でもあり、誰のせいでも誰が悪い訳でもなく、いた仕方の無い出来事ばかりなのだが、何時だってそういう事が起きる時は必ずといって良いほど余裕が無く、一番苦しい時期にピタリと重なるのだ。 私も夫も軽自動車で仕事場に通っている。私は深夜の仕事なのでタクシー代を考えると致し方ない。夫の会社も交通の弁が悪い場所なので、やはり車で通うしかない。 ある日、もう直ぐプロパンガスが止まると言う葉書が来た。ガス代を支払ったらガソリンが入れられない。ガスが止まれば風呂も入れず料理も作れないが、仕事に通えなければ次の給料が減ってしまう。ガス代を払うかガソリンを入れるかという究極の選択は過去にもまま有るのだが、そんな時期にいつも図ったようにその類のアクシデントは起こるのだ。 これも又、ぐうたら神が如何に底意地の悪い神様なのかの証拠なのだ。 先ずは夫の母が突然心臓病で倒れ、緊急手術をする事になった。 義父も過去に二度ほど軽い脳溢血で倒れており、歩くのがやっとの状態だ。そんな義父と寄り添いながら義母は木祖の片田舎で二人、仲むつましく暮らしていた。義父の世話は義母が一挙に引き受け、それ等が義母の心臓に負担を掛けていたのかも知れない。 義父を一時的に妹宅に預ける事になったのだが、兄弟会議の結果、そのご苦労代や食費として数万ずつ皆で分担し、妹に払う事になった。 そしてそれから一月も経たぬ内、今度は東京の従兄弟から電話が入り、祖母の死を知らされたのだ。 皆から【バアバ】の愛称で慕われていた、あの九十二歳の儀祖母の事だ。 祖母の事は、前のページでも少し触れさせてもらった。血は繋がっていないが、本当に彼女は私が知る限りの人間の中で、一番神様に近い人間だった・・・・・・。 自分の子供は一人も持たず、人の為にだけ人生を駆使し、人を決して悪くは言わず、周り中の人々に愛と元気とやる気を与え、九十二歳の生涯を感謝しながら終えたと言う、正に聖母のような女性だった。 私達の代も、多かれ少なかれ彼女の手を煩わせ、彼女に世話を焼かれ、彼女に大切な事を教えられながら皆大きくなって来た。 多分誰もが、有る意味自分の親兄弟よりも彼女の事を尊敬し、信頼し、慕っていたのではないだろうか・・・・・・。 彼女はこんな私の事でさえ心配してくれ、皆に突っ突かれてばかりいた時も、私を良く庇ってくれた。 彼女が死ぬほんの少し前、普段は電話代を気にし数年に一度くらいしか連絡を取り合う事も無かったのだが、一瞬彼女との電話のやり取りが頻繁になった時期がある。 祖母も久々の電話に喜んでくれ、色々な話をしてくれる。そんな祖母に中々電話を切るタイミングが計れず、つい三十分、一時間と話し込んでしまう。 それでも私は三日程に渡り彼女に電話をし、祖母と色々な話をしたのだ。 そのつい一ヶ月後だった。彼女の死を知らされのは・・・・・・。 久々の彼女との電話のやり取りは、きっと何かの虫の知らせだったのかも知れない。 その時祖母は「松本にも可愛い孫が一人いるんだって、いつも心の中で思ってるのよ。もう年寄りだから何の力にもなってあげられないけど、頑張って一生懸命生きなさいね」そう言ってくれたのだ。 「解ってる。頑張ってるから大丈夫だってば・・・」とは応えたが、本当はもうボロボロで約束を果たせそうには無かった。 私は何としてでも彼女の葬儀だけは出ようと思った。彼女と親類達にお別れを言い、私はその後、何処かに消えてしまう覚悟で居た。 友人からお金を掻き集め、私は東京に行き、祖母の葬儀に出席し、心の中で皆に別れを告げた。 葬儀は二日間の日程で、その夜、私は従姉妹の家に一泊し、私達は酒を飲みながら祖母の想い出話に明け暮れた。 従姉妹から祖母は死ぬ間際も私の事を「あの子は生き方がヘタクソだから、心配なのよね・・・」と案じてくれていた事を聞き、私は泣けて泣けて仕方なかった。 葬儀を終え松本に戻り、私はそのスナックにそのまま出勤していたが、その直後、私は苦かったにも拘らず、やはり我慢の限界に達し店を辞めたのだ。 ママが結婚を餌に金を引っ張り続けていた一人の気の弱い客が居たのだが、ママの冷酷さが我慢できず、きつく意見してしまったのだ。 彼はそれほどの金の有る人間ではなく、彼の年老いた両親も彼のお金の使い振りをとても心配していたそうだ。彼がママに費やした総額は五百万を越えていると言う。五十近くにもなって騙される彼も彼なのだが、やはり騙す方はもっと悪い。 その他にも、頼んでいない物をママが勝手に注文するとの客からの苦情、従業員からの愚痴など、年配で言い易い私にいつも愚痴が集中する。なのでママにそれなりの忠告するのだが、全く聞き入れてようとはしてくれなかった。 店を辞め、収入源を自ら断ち切った私は、唯一の生甲斐であった書く事さえもとうとう辞めてしまった。 いよいよ何がしかの覚悟を決めなければ・・・。私はそう思っていた。 夫は今、一生懸命頑張っている。私が居れば足を引っ張るだけだ。私が居なければ居ないで、何とか上手くやって行くだろう。 死ねたら何処かで死のう。もし、又勇気が沸かずに死ねなかったら、遠くの町でナリを潜め、住み込みででも何でも働けば良い。きっと誰かが拾ってくれるだろう・・・。そんな気持ちで居た。 気持ちとは裏腹に、夫の顔を見る度別れが辛く、寂しく、今日出掛けよう、明日出掛けよう、と、伸ばし伸ばしになっていた。 日記が十日間程停止し、掲示板には心配した読者からの書き込みがズラリと並んでいる。しかし、レスのしようもなく、電話にも出られず、私は一切の連絡網を遮断した。息子からの電話すら出なかった。 そうこうする内、心配したネット仲間の一人から自宅の電話に留守電が入ったのだ。 「マキュキュ、生きてるか? 頼むから電話に出てよ・・・。一体何が有ったんだ? この電話に出てくれなかったら、俺、警察に電話しようと思ってる」と彼の声が続く。 警察に連絡されるのは困るので、出ざるを得なくなった。 私は溜息を吐きながら、重い気持ちで受話器を取った。
続く
2007年01月10日(水)
|
|
 |