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■ エッセイ 人生波茶滅茶
【仕事転々、心・・・・・・】
夫婦共々職を失い、個々が仕事探しに必死だった。当月の返済金と生活費を作るため、私達は仕方なく又新たにお金を借りた。 月々の返済額は当時、金融会社の支払いだけで、合わせて二十万近くに及んでいた。 なので夫婦で三十五万くらいは稼がないと、返済しながら生活するのは困難なのだ。 ある日、ネット検索をし、リストカットのチャットルームを訪れた事がある。そこに行けば死ぬ勇気が貰えそうな気がしたのだ。 その部屋で私は(R)と言う一人の女性と出会った。 彼女はその部屋の常連ではなく、彼女のネット上の知り合いが何度もリストカットを繰り返しているので、死のうとする人の心境が知りたくて、その部屋に来たと言う。 彼女と個人的な会話を交わす内、彼女は私よりはかなり若いが、しっかりとした意思とバイタリティーを持つ知的な女性だと言う事が伺い知れた。 私達は意気投合し、プライベートな話題に移った。私がどうしてこの部屋に来たかの理由を話し、今絶望中だとも告げた。そして物を書いている時だけが唯一の支えだという事も話した。そうしたら彼女が、是非私の書いた物を読みたいと言うので、唯一の自信作である、懸賞金を貰った時の桜文の文章をメールで送り、彼女に読んで貰ったのだ。 彼女はそれを読み心を動かしてくれ、彼女のホームページに枠を作るから、あなたの書いた文章をそこで発表してみたら良いと言ってくれたのだ。そして彼女のHPを見せてくれた。 彼女は飼っている愛犬が癌に侵され、その闘病記をHPにしていた。それが全国的にとても支持を得ていて、大人気だったのだ。彼女のホームページを訪れた途端、私は彼女のフアンになった。文章で彼女を目指したい! そう思ったのだ。 文章の上手さもHPのレイアウトセンスも彼女は抜群だった。パソコン音痴の私にとって、彼女は憧れの存在になった・・・。 しばらくし、私は彼女のホームページに間借りをする事になり、自分の文章をそこで発表するチャンスに恵まれたのだ。 毎日毎日、日記形式でエッセイ風の駄文を書いては、掲載させて貰っていた。 その間、夫は初めて自ら両親に頭を下げ授業料を借り、フォークリフトの免許を習得し、市内のコンクリート会社に就職した。 私は私で仕事は見付けるのだが、あまり続く所は無く、今度は私が職を転々とした。 テレフォンアポイント・スナックの共同経営・旅館の仲居・健康器具の実演販売・旅館に属するスナックの従業員、厨房のパート等、ありとあらゆるパートを転々とした。 夫の仕事がやっと落ち着いたのに、今度は私の方が全然ダメだ。何をやっても何処に行っても、心を摩り減らされるような仕事ばかりだった。 仕事を探す時、返済額に見合った収入は得なければならないので、仕事はおのずと限られて来る。しかし思う金額を稼げる仕事は、気持ちがダメになるか、身体がダメになるかのどちらかが多く、自分の無力さや我慢の足りなさに自己嫌悪にも陥った。
テレフォンアポイントの仕事は、給料は良く座り仕事なので、時間的にも腰痛面でも楽だったのだが、精神面で続かなかった。 その商品や売り込み方に不信感を抱き、電話で良い応対をしてくれる客に対し心を痛めてしまうのだ。 テレフォンアポイントをしながら、電話に出ないで欲しい。私の言う事を素直に聞かないで欲しい、等と願っているようじゃ、成績が上がる訳が無い。 ノルマは無いとされていたのに、それは全くの大嘘で、成績が上がらなければ平気で怒鳴られる。 体育界系の幹部社員が、自分の母親や親父ほどの年齢の人間を「お前は給料泥棒か!」と、椅子を蹴飛ばしながら呶鳴り付けているのを見た途端、余りに虚しくなり、その仕事は即座に辞めた。
知人からの紹介で始めたスナックの共同経営とは、深夜遅くから営業になるホスト系のパブで、12時までの店の空き時間を韓国人の女性が又借りし、スナックとして営業していたのだが、彼女が家賃を払い切れなくなり、家賃、その他の経費を折半で支払い、仕入れは個別で各自の売り上げは全て自分達の物になると言うシステムだった。なので同じ時間帯にママが二人居ると言う形だったが、負担金も少ないので始めてはみたのだが、半年ほどでその韓国女性が引退する事となり、私一人で全額の家賃や経費を払う事は不可能なので辞めざるを得なかった。
旅館の仲居は家から直ぐ近所で、交通費も全く掛からずで良いと思った。客が居ない日は仕事が無く、それでも給料は出るというのだが、なにせその旅館は客室数が多い割に仲居が私のほかに一人しか居なく、後は金髪の若い板長と補佐が一人、その他はフレックスの番頭爺ちゃんが一人居ただけだ。 経営者の若夫婦は旅館内に自宅を構えているにも関わらず、滅多に手を貸す事は無かった。殆どの仕事は、仲居任せ、番頭任せだ。 なので旅館の混雑時には一人一日十三時間以上の労働にも及ぶ事もある。それが数日間続くのだ。 腰痛悪化で高熱まで出し、ドクターストップが掛かり辞めた。 【この旅館も私が辞めた後、一年弱で潰れてしまった】
健康医療器具の実演販売の仕事は、数件のホテルや旅館の浴室に備えられた休憩所で、マッサージ器具を無料で試してもらい、気に入ったお客に販売するという仕事だった。基本給十八万、プラス歩合と言う事で借金苦の私には御誂え(おあつらえ)向きだった。 遠い場所の仕事も有ったが、客とのやり取りも楽しく、決して嫌な仕事ではなかった。 ただ、私は強引な売込みが出来ない性格なので沢山稼ぐ事は出来なかったが先ず先ずの成績だった。 しかもこの仕事は諏訪のホテルの仕事が半分有り、当時諏訪に居た息子とちょくちょくデートが出来たので、私は結構気に入っていたのだ。が、入社三ケ月目くらいで完全歩合制にシステムが急変し、基本給も何も無くなってしまった。しかもこれからは諏訪までのガソリン代も自腹になると言う。もしも一台も売れなければ毎日がタダ働きだ。何とか一年半程はしがみ付いて居たのだが、労力の割に給料が五万に満たぬ事もあり、辞めざるを得なくなり辞めた。
旅館が経営する棟続きのスナックは、定年が六十歳と言う大らかな物だった。(笑) ハローワークで見付けたパートなのだが、夜の部の責任者が辞めたという事で募集していた。 家から車で五分程の場所なので通う都合も良く、給料は安いが私は早速面接に行ってみた。 そこは年中無休で昼夜営業しているスナックだ。昼の部と夜の部に分かれており、時間が来ると交代するのだ。責任者が各時間帯に一人ずつ、その他手伝いが一人ずつ居る。 店舗はかなり広く、カラオケ設備はえらく豪勢で、今時ミラーボールが回っているような田舎特有の店だった。 その旅館の宿泊客や近所のカラオケ好きの高齢者が屯する、憩いの場のような店だった。 なるほど、面接に行ってみれば、従業員は五十間近の私が一番若いくらいだから驚いた。(笑) 後は六十過ぎの女性が殆どだった。 旅館その物は古く、携わっている人間も客も高齢者が圧倒的に多い。 働き始めて見たのは良いのだが、客も従業員も中々の頑固者が多く、一筋縄では行かぬ気配を感じた。 社長は旅館&スナックの人気の低迷に悩んでおり、それでも私の事は結構気に入ってくれたらしく、私相手に一杯ひっかけては、日々愚痴等をこぼしていた。 この社長、腹は悪い人間では無いのだが、いかんせん、意固地な裸の王様タイプなのだ。 常連客などがアドバイスをしても、何を改善させるでも無く、人の意見に耳を貸すでも無く、売り上げの低迷は全て周りのせいばかりにし、挙句の果てには給料の遅配まで出始めた。 しかも給料当日になって「給料は払えん!」と、頭を下げるどころか反対に威張っているのだ。さすがの私もこれには舌を巻いた。 皆が愛想を尽かしながらも、辞めれば行き場が無いらしく、そんな社長の傍若無人振りに黙って従っている。しかし、私は給料の遅配が当たり前になられては困るので、辞めた。
そして最後に勤めたスナックは、友人の店の殺すぞ社長を女版にしたようなママの店だった。 まだ開店間もないスナックで、ママは若い。旅館のスナックの客で、私を気に入ってくれた女性客が人づてに頼まれ、一足最初にバイトを始めたらしいのだが、一人では心細いので是非私に来て欲しいと言うのだ。 後日ママと面接をしたら、高齢者でも構わないので厨房を任せられる人が欲しいとの事。私を喜んで受け入れてくれると言う。しかし、面接時にママの本質を見抜けなかった事は私の不覚だった。 後日男友達に「新しい店に勤めたので遊びに来て」と電話をすると、何処だと言うので詳細を話すと、いきなり猛反対されたのだ。 彼はママのホステス時代を知っていたらしい。 しかし、間など空けていられぬ状態だったので取り合えずは勤め始めてみたのだ。生半可な事には驚かない免疫も出来ていた。 しかし勤めて見て初めて、友人の猛反対の理由が良く解った。 そのママは美人でもないのに一人女王様気取りのとんだ勘違い女だった。客も従業員も自分の家来扱いだ。 出勤時間は何時も十時間近。スナックだというのにマキシのドレスを着、自分のグラスは客よりも良い物を使い、羽のショールなどをヒラヒラさせている。 客からはボリまくり、一組の客に平気で十万単位を使わせる。この手のボリママはドラマなどでは見た事が有るが、実物を目の当たりにしたのは五十年生きて来て初めてだ。 そのくせ食材の仕入れには、たった千円使うのもケチる。萎びた大根とハムとかまぼこだけで付き出しを作れなど無理難題を言う。 いくら私が料理人とは言え、そりゃ無茶だ!! ママは何時も九時頃電話をして来、事務的口調で「ご苦労様。客は?」と聞く。 「まだ誰も」と応えると「まさか皆で座ってくっ喋ってるんじゃないでしょうね」などと言い、一分たりとも無駄に時給を払うのが惜しいらしく、造花の植木鉢の葉っぱを一枚一枚拭けだの、五十間近の私を含め、皆に大雪の中、ビラ配りまでさせる。【此処はキャッチバーか!?】 女王様の命令と思い渋々やってはいたが、私なんかがビラを配って、返って客を減らしはしないだろうかとそれが一番心配だった。(苦笑)
金や生活の為には、どんな経営者であろうが仕事内容であろうが我慢するべきだと言うなら、私にはもう働き口などどこにも無いのかも知れない・・・・・・。 考えてみれば、中学迄の学歴しか無く、病み上がりの腰痛持ちで、得意な事といえばソコソの料理と歌くらいしかなく、他には何も出来ない五十バアサンだ。 しかもプライドだけはある程度高く、人の性格に得て不得手も激しい。それに輪を掛け、変な所で正義感が強く、少しでも遣り甲斐のある仕事に就きたい等と望んでいる私に、そんな都合の良い働き口など有る訳も無かった。 仕事を選んでいる立場ではない事などは百も承知だ。人間関係に妥協が必要な事も百も承知。でも、いくら金や生活の為とは言え、人格を疑うような低レベルの人間にハイハイ従い、顔色を伺い、自分を殺しながら働かなければならないのなら、このまま干乾びた方がマシだと、どうしても思えてしまうのだ。 いっそバキュームカーの運転士だろうが、生ゴミ収集だろうが、工場の流れ作業だろうが、ある程度給料が良く、人と関わらずに黙々と仕事をこなせるのならその方が良いと思う。軽蔑すべき人間に謙(へりくだ)らなきゃいけないくらいなら、使ってくれるならその方が全然マシだ。反対に、例え給料は安くても、どこかで尊敬出来るような温かで人間味のある人に使われたいと思う。 ハローワークなどに有る仕事はレジ打ち、掃除婦、ピッキング、荷物の仕分け作業、皿洗いの類の仕事ばかりで、極度な腰痛持ちの私にはどれもこれもが無理そうな仕事ばかりだった。 一度、波乱万丈な私の人生経験を生かし、ストレス社会の今の世の中に役立ちたいと思い【出張愚痴聴き屋】なる仕事を思い付き、始めてみた事が有る。 しかし宣伝費や経費の方が高く付き、辞めざるを得なくなった。 これは、お客様の指定場所まで出向き、喫茶店などで落ち合い、お茶代は各自負担で、一時間二千円で愚痴を聴いてあげるという物だ。カウンセリングよりは気楽で、必要と有れば私なりのアドバイスや苦労経験を話し、少しでも元気になって貰おうと言う物だった。 友人や身内には解ってもらえない事や、親しいからこそ話し辛い事をぶちまけて貰い、ストレスを発散してくれれば良いと思い、始めて見た。しかし、お茶代とガソリン代と地元紙への宣伝費を差っ引くと、赤字続きで、浸透するまでに至らず、余計苦しくなって辞めてしまった。
私にはもう、何も出来る事は無い・・・・・・。 そんな諦めと自己嫌悪の中、書く事だけは益々夢中で楽しくなり、私は独立し、新たに自分自身のホームページ【マキュキュのからくり箱】を立ち上げた。 コンテンツは何も無く、日記と掲示板だけのしょぼくれたホームページだが、私はひたすら日々の思いを日記に綴り続けた。 そうしている内に少しずつ読者が着き始め、カウント数も回るようになって来た。 【正直で飾らないマキュキュの文章が好きです】とか【アナタの文章は面白い】とか【アナタの日記を読み、死のうとしていた自分が馬鹿らしくなり、もう一度頑張ってみる気持ちが付きました】などなど、嬉しいメールなどもポツリポツリ届くようになった。 私は将来、エッセイストになりたい。 書いた物で人を笑わせ、楽しませ、感動させ、人を元気付けたい。 何時しか私はそんな大それた夢を描くようになった。
続く
2007年01月09日(火)
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