マキュキュのからくり日記
マキュキュ


 エッセイ  人生波茶滅茶


【何か書いてみよう!】

 夫は、私に貯金が全て無くなった時、ようやく重い腰を上げ、仕事探しをし、生肉業の仕事に就いた。個人経営の肉屋だ。
その仕事はハローワークで見付けて来た仕事なのだが、夫は直接肉屋に電話し、ハローワークを通さず入社してしまった。
彼は高校を卒業した後、東京の親類が勤めている青山の肉屋さんで数年間修行した経験を持っている。だから一応は経験者だ。数ヶ月の見習い期間がいるのだが、半年ほどで正社員にして貰えると言う。
夫はあれで中々腕っ節は強い。ヒモなどと書いたのでひ弱で蒼ざめた優男を想像する人も居るだろうが、体形は大男でかなり力持ちだ。
 一方私もいよいよ貯金が無くなり、とあるショッピングセンター内のブティックで店員のパートを始めた。ただ私には若い頃からの持病である腰痛が有り、癌の手術以降、それが悪化していた。それでも二人で働かない事にはもうどうしようもなくなっていたので仕方が無い。
やる以上は頑張ろう・・・。そんな気持ちで勤め始めた。 
 二人が仕事に就く前、かなりすったもんだの喧嘩をした。どんどんお金が無くなっていると言うのに、何時までも悠長に構え続けている夫に私は我慢出来なくなった。
私に一銭たりともお金の残っている内は、きっと夫が仕事はしてくれないのだと思い、最後の貯金を全て叩き、私は半ばヤケクソでいじったこともないパソコンセットなる物を購入したのだ。しかし、それにはある目的が有った。
 ある日、ふと本屋で目にした公募物の月刊誌で、ドキュメントエッセイの原稿を募集していたのだ。大賞賞金は百万円。
それを見ていたら、何故だかやたらに文章が書いてみたくなった。
遺書のつもりでこのシッチャカメッチャカな生き様を書きつらね、応募してみたいと思ったのだ。もしもそれがボツになったら、私は死ぬしかないくらいにまでスッカラカンになってしまっていた。
一か八か、書く事に賭けてみよう・・・。
 とは言う物の、私はまともな文章など書いた経験など無い。小学校の作文とて三行書ければ良い方だった。国語の成績もずっと2だった。でも、私に出来そうな事は他にはもう何も無い。
中卒で、病み上がりで、何の才能も無く、極度の腰痛持ちの年増女に出来る仕事など知れている。
ブティック勤務も会社の内情を知れば知るほど働く事に虚しさを感じていた頃だった。
ただ、もし死ぬとしても、何かの可能性にチャレンジしてからでも遅くない。そう思った。
 いよいよパソコンが届けられ、私は恐る恐るキーを打ち始めたて見た。たどたどしく一本指で、あ・・・い・・・う・・・と言う具合に。
【これじゃ応募用の原稿が書きあがる前に乾びてしまう・・・】
 ふと取扱説明書を見ると、そのパソコンに、音声認識ソフトと言う便利な物が入っていた。
言葉で喋ればそれが文字となって勝手に出て来てくれるのだ。これは便利とばかり使い始めては見たのだが、私の発音が変てこりんなのか、ソフトがアホなのか、変な変換ばかりで出てくる。
 当初手始めに、原稿用紙十枚ほどの短いエッセイにでも挑戦してみようと、シリアスな闘病記か何かを書いていた。
しかし「慣れ親しんだ病室に」と言ったつもりが、出て来る文字は【値上げして死んだ病室に】となっているし「子宮摘出手術」と言ったつもりが【至急的主張術】などと出てくるし(どんな出張術なのだ!)「止むに止まれぬ心境だった」などは【ジャムにマーマレードの宗教だった】などと、訳の解らない文字となって出て来る。
一番酷かったのは「目の当たりに感じた私は」が【マンの辺りに感じた私は】などと出てき「朝っぱらから何てぇこった!」と、私は一人でゲラゲラ笑い転げてしまった。
これじゃ使い物にならぬと、音声認識ソフトは諦め、キーボードを練習する為、思い切ってパソコンをネットに繋げチャットなる物を始めてみたのだ。
 昼は腰痛に嘆きながらも何とかパートを勤め、夜になるとキーボードをコツコツ打つ。それが私の毎日の日課になった。
 夫も偶に痛風の発作には悩まされていた物の、肉屋では真面目に働いてくれていた。
 私は公募誌を毎月買うようになり、短いエッセイやポエムなどの募集を見付ては応募するという日々が続く。
 そして書き始めて3ヶ月が経った頃、ついに私は生まれて初めてエッセイで入賞し、佳作だったが、賞金五千円と言う現金を手にしたのだ。
文字数規定は原稿用紙僅か一枚分と言う短い物だったが、応募要項は桜にちなんだエピソードの手紙文を大切な人に贈ると言う物だった。そこで私は、花見の大好きだった亡き母に宛て、その短い手紙文を書いたのだ。それが初入選した。
この時は涙が出たほど嬉しかった・・・。
今でもその時の五千円は大切にアルバムに貼ってある。
その他には私のポエムが一度ラジオで紹介されたらしい。しかし放送地域が違うので残念ながら聞く事は出来なかった。
 後は泣かず飛ばずで、こんな生活が一年半ほど続き、何とかギリギリの状態で暮らしていたのだが、ぐうたら神はとても底意地が悪く、又崖っぷちから突き落とされた。
 丁度日本に初めて国内で狂牛病が見付かり、日本中が震撼させられていた頃だ。狂牛病騒ぎでの業績赤字を理由に、突然夫は肉屋をリストラされてしまったのだ。しかもバイト扱いのままだったので退職金も何の保証も無かった。
痛風が起きようが、何時までも正社員にして貰えなかろうが、お金にならぬ残業ばかりさせられていようが、経営者の質が悪かろうが、ずっとずっと我慢をさせ、二年間も辛抱させて来たのに・・・・・・。
結局夫は安い賃金で良いように使われただけである。
 この辺りから私達は再び多重債務に追われる生活が始まった。
 私のパートだけでは家賃と光熱費で精一杯だ。食費や生活費や返済金まではとても出ない。
夫の次の仕事が見付かるまでの生活費や返済金は、再びサラ金から工面するしかなかった。
土地も家も何の財産も持たぬ二人には、安い利息の銀行では生活費も借りられないのだ。
 ある日私は行きつけのスーパーで昔とても親しかった友人にバッタリ行き会った。母が店を始めた時代からの友達で、昔は互いの家に泊り合ったり、旅行に出掛けたり、一緒に教習所に通ったりと、親友のような付き合いをしていた友達だ。でもその後、ある出来事で失望し、私は彼女とは十数年も疎遠のままになっていた。しかし、久振りで会う彼女は仲良しの頃と変わらぬ親しみ感で話しかけてき、懐かしく、一連の出来事は私の中から瞬時に消滅した。
そして彼女に誘われ、後日二人で改めて食事に行ったのだ。
彼女は駅前でスナックを経営しているらしく、人手が足りないのだと言う。そして私に彼女の店を手伝ってくれないか? と言うのだ。
昼間働いている事を言うと、昼間の仕事をしながら、週に三日でも四日でも良いから来て欲しいと言われた。
私が料理好きな事も知っているし、長年店を経営していたので、多少の客は呼べるだろうという目論見も有ったのだろう。なので自分が留守の時でも、安心して任せられるチーママ的な存在が必要なので、是が非でも私に手伝って欲しいと言う。
私も何とか今よりも収入を増やしたいと思っていたので、私に取って見れば願ってもいない事だった。そして私は二つ返事でOKし、夜のバイトも始めたのだ。
しかし、この辺りから私達の人生は再び歯車が狂い初め、惨憺たる物になっていく。


続く


2006年12月27日(水)

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