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■ エッセイ 人生波茶滅茶
【膀胱訓練】
私は入院中、すこぶる優等生患者だった。 術後の翌日には歩行器を使い、もう院内をソロリソロリと歩く事も出来るようになった。 若い担当看護婦が自慢げに「この患者さん手術から、まだ二日目ですよ。凄いでしょう。皆さんも見習って頑張ってくださいね」と、行く人行く人に告げていた。 私の身体はフランケンシュタインの様に管だらけだ。オシッコを取る袋。ドレーン。心電図・点滴。その他の管で訳がわからない。そんな自分の姿を見、哀れっぽくて痛々しくて、ドラマチックだなぁ・・・・などと満更でもない気分だった。 子供の頃、人の関心を集めたく、目も悪く無いのに眼帯をしたり、チョットの擦り傷でも包帯をグルグル巻きにしていたような大げさな子供だった。なのでチョット嬉しい。 術後の経過は大変順調で、一週間ほどで大部屋に移されたのだが、暫く大部屋に居る内、私はやはり個室が良くなり、入院費が高くなるのを覚悟で個室に入れて貰い直したのだ。 私には見舞いに来る友人も多く、同室の人も落ち着かないだろうし、母が入院していた頃から大部屋の雰囲気は何となく苦手だった。 見舞い客などが、他のベッドの患者にも気を使い、お菓子やら饅頭やら、果ては自分が作ったと言う惣菜などまでを分けてくれるのだが、それが患者にとって結構苦痛でもあるのだ。いささかありがた迷惑なのである。 私は甘い物を殆ど好まない。引き出しには貰い物のお菓子や果物が溢れ、それを捨てに行くのも心苦しく気を使うのだ。食べたフリをし、適当な感想を言い、たまにはお返しもしなければならない。他の患者の見舞い客にお返しをする為、わざわざ自分が食べもしないお菓子を買いに行ったりもした。 お見舞いの品は花と果物とお菓子と大体相場は決まっているが、癌患者の中には抗がん剤が始まっていて、食べ物や花の僅かな臭いだけで吐き気が止まらなくなる人も居る。なので私の場合、テレフォンカードやTVのカード。読みたかった本やミニチュアのゲーム。お洒落なバンダナや下着などをお見舞いに持ってきてくれる人に出会うと、さすがぁ、入院患者の心理を良く判っている人だなぁ・・・などと嬉しくなった物だ。 サテサテ、一つ二つと、管も外され、完全に管から開放された後、術後の難関に膀胱訓練と言うものがある。 子宮の全摘手術の場合、膀胱近くの神経が刺激される為、神経が馬鹿になり、一時期尿意を感じられなくなってしまう現象が起こるのだ。 所謂あの「ああ、オシッコしたいよ。もれちゃうよ〜」的な、膀胱キュンキュンモジモジ感が全く無くなる時期がある。 膀胱にはかなりのオシッコが溜まっているはずなのに、今までオシッコってどうやって出してたんだっけ? と言う感じなのだ。 そのまま感覚が戻らなければ、やむなくオムツ生活になるか、自ら管を使った導尿生活になる。 あの頃、同じ時期に手術を受けた婦人科患者達の合言葉は「オシッコ出せた?」だった。 早い人で二ヶ月ほど、遅い人になると半年くらいは普通にオシッコが出せないみたいだ。その感覚を取り戻すため、膀胱訓練と言う体操や膣の凝縮訓練などをする。私は難関をクリアした先輩患者達からコツを教えてもらったりした。 トイレでやたら踏ん張ってもオシッコは全然出て来ない。水の流れる音などを聞きながら、膀胱から尿道へオシッコが通り抜ける感覚をイメージし、その時の感触を思い出すのだ。踏ん張ってみたり、膣を引っ込めて見たり、試行錯誤をしている内にその感覚が鮮明に蘇って来た。 一度自力で出せさえすれば、後はスムーズに出るようになる。私は一ヶ月足らずで、無事にその感覚を蘇らせたのだ。 そして術後三ヶ月ほどで、オシッコしたいモジモジ感も自然に蘇って来た。 その時の猛訓練のお陰で、私は膣の締りも大変良くなったみたいだ。(笑) サテサテ、膀胱訓練は難なくクリアしたのだが、今度は極度の便秘に長い間悩まされた。私は今まで便秘をした事は一度も無い。この時が生まれて初めての便秘経験だった。 便秘と言うものがこれ程苦しく、辛い物だったとは想像も出来なかった。 一時間もトイレから出られず「いい加減に出てよ〜。頼むから出てよ〜。お願いだから出てよ〜」と独り言を言い、やっと用を足し、トイレから出た時、あまり見知らぬ見舞い客が椅子に座って待っていた時は、どうしようかと思った。 人間の身体って、無駄な物は何一つ無いんだなぁ・・・。何かが抜けると、他の機能までが調子を狂わせる。神様って人間の体を作り上げる為、かなり緻密な設計をした物なんだと感心する。 病気になるとそんなありがたみを感じさせられ、病気も満更悪い事ばかりではない。 私は個室に居たので自由な時間が多かった。 自由に動き回れるようになると、抗がん剤治療が始まるまでは特に何もする事も無く、退屈だ。なので私は良く部屋を脱走した。 「アナタは殆ど部屋に居た事が無いんだから・・・」と担当看護婦に良く苦笑された物だ。 メモ帳にどこそこに居ますと言うメモだけを残し、病室を抜け出しちゃう。 こんな不良患者でも仲良しになってくれる看護婦が多く、何かとあれば私の病室に遊びに来、愚痴をこぼしたり恋人の話などの雑談をして帰る若い看護婦なども居た。 婦人科に、私が特別仲良しだった医師が居て、その先生などは暇さえあれば深夜と言えど、しょっちゅう顔を覗かせてくれる。 「此処に酒とカラオケ持ち込むか!」 「良いアイデアね。此処で商売しちゃったりして・・・。患者達だって退屈だろうし、本物の店より繁盛しちゃったりして♪」などとジョークを言っては笑い合っていたので、○×さんの病室は何時も夜中が賑やかね。などと他の患者に皮肉を言われた。 他の入院患者に比べ、知人が院内に多いと言う事は何て恵まれている事だろう・・・。 知人も居なく、話相手も居なく、見舞い客も少なく、孤独や病気への不安と一人で戦っている患者が多い中、私は自分の置かれた立場を心から感謝した。 私は幸せ者だ・・・。つくづくそう思った。 今は知らぬが、当時はまだ病棟にソーシャルワーカーなど居なかった。患者は医師や看護婦に聞きたい事や話したい事が山ほどあっても、事務的な応対などを受けると、次からは遠慮して聞けなくなる物なのだ。それらに対する愚痴もあるだろう。心の不安や病気の不安を、本音で思い切り話せる人が居たら、患者は随分と気が楽になり、入院生活の苦痛も減るのではないかと思う。 なのでその点、私には沢山のカウンセラー的存在が居てくれて本当に幸せ者だった。 サテサテ、不良患者の私は相変わらず病室には納まっておらず、地下の喫茶室・食堂・十階のラウンジレストラン・売店・喫煙所などに出没している事が多かった。 病院食はまずく(失礼!)食べたくない物も多く、その割に結構な値段なので、食事制限などが無い私は入院中の食事は取っていなかった。それに昔からの習慣で一日二食食べれば十分だった。 私は院内の食事処で好きな時間に好きな物を食べて居た。 もう直ぐ抗がん剤が始まる。そうなれば暫くは食べられない日が続くだろう。今の内に栄養を付けておかなきゃね。
続く
2006年12月21日(木)
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