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■ エッセイ 人生波茶滅茶
【手術日の、とある事件】
二度目の入院では、約8ヶ月の治療スケジュールが組まれていた。かなりロングランの闘病生活になる。 再入院の日、私が婦人科病棟に戻ると、前回同室だったメンバー達が不思議そうな顔をして出迎えてくれた。 「あらあら? 折角退院したのに一体どうしちゃったって言うの?」 「カクカクシカジカドウコウで・・・、出戻ってまいりました。これでやっと皆と同じ立場になれるわ。又仲良くしてくださいね♪」 皆、嬉しいような、懐かしいような、かと言って再会を素直に喜んではいけないと言う、遠慮っぽい複雑な笑顔で迎えてくれたが、同じ工程をこれから歩で行くと言う仲間意識が生まれ、彼女達との友情や絆は以前より深まったような気がする。 共通の痛みと恐怖感を共有できる戦友のような間柄。一生涯の友人になり得る人々だ。 私の手術は一九九九年の七の月に行われる事になった。何とノストラダムスの大予言の月と同じだ。私は自分の手術日の事は一生忘れなくて済む事だろう・・・。 先ずは検査のみの日が数日続き、そしていよいよ大手術の日を迎える。その後、術後の経過を見て、抗がん剤治療へと移行する。 コバルト照射がない分、私は救われた。 抗がん剤を打った後は安静が必要で、二週間ほど入院し、その後検査をし、白血球やその他の数値が正常ならば、やはり二週間ほど家に帰れる。その工程を4〜5回繰り返すらしい。なので通算八ヵ月くらいの長い長い治療期間を要する訳だ。
信大病院は母が入院していた病院でもある。院内の構造は熟知していた。母の店にも私の店にも信大関係のお客は多く、医師・職員・学生等、顔見知りが一杯居る。 その中でも一際仲良しな、母の店からの大常連で、母を含め殆ど身内のような付き合いをしてきた(K)と言う男性職員が居る。 彼は私よりも一つ年下で、彼が母の店に来出したのはまだ彼が二十四〜五歳の頃だった。多分当時は大学の職員になったばかりだろう。彼は大変人懐っこくサバけた性格だ。 母も又、学生や若い常連客からは【松本の母ちゃん的存在】と慕われていたので、母の家に行くとチャッカリ彼等がご飯を食べているなどと言う場面にも良く出くわした。 私と(K)は母を通じて知り合い、互いに恋愛感情こそ一度も抱いた事は無かったが、扱下ろし合える従兄妹関係の様に接して来た。 二人が余りに親しげな毒舌会話を交わしているものだから、夫は真っ先に(K)との関係を疑ったほどだった。 私が入院していた頃には夫の誤解もすっかり解けた後だったので、夫も彼の存在をとても頼りに有難く思っていたのだが、夫と付き合い始めた当時は完璧に(K)との仲を疑っていた。 それは今でも笑い話として引っ張り出され、夫は未だ(K)にからかわれている。 彼は母の時も私の時も、常に病室に顔を覗かせてくれ、からかうような励ますような、愉しい憎まれ口を叩き、場を和ませては職場に戻って行く。色々な手続き等も懸命に手伝ってくれた。 揚げ足取りだけど憎めず、本当に気の良い人間なのだ。 病院内に彼のような知り合いが居てくれる事は、心細い入院患者の立場から見たら、大変心強く、嬉しい貴重な存在だ。
サテサテ、いよいよ私は手術の日を迎えた。 手術は結構大掛かりなものらしく、八時間ほど掛かると言う事だった。 この日、私が麻酔で夢うつつの頃、実は又々大変な事態が起きていたらしい。 私は手術前、夫と息子を呼び出し神妙な顔をしてこう告げておいたのだ。 「ドラマや何かで良く有る話なんだけど・・・。もしもお腹を開いて見て手の施しようもなく手遅れの状態だった場合、きっと手術から一時間ぐらいで家族が呼ばれ、このまま手術を続行しますか? それとも閉じるだけにしますか? と、聞かれると思うのよ・・・。そしたら迷わずそのまま閉じてくださいって言ってね。それなら無駄に弄繰り回されずに済むし、傷も浅く一週間ほどで退院出来るからね。間違っても『気休めでも構わないから手術を続行してください』何て事、絶対に言わないでよね」そう念を押しておいた。 そしていよいよ私は、息子・夫・(K)等に手を握られ、励まされ、ドラマさながら手術室へと入って行ったのだ。 夫達はこれからの八時間ほどの時間をどうやって過ごそうかと地下の喫茶室でお茶を飲みながら相談していたと言う。 そして私が手術室に入って丁度一時間あたりが経過した頃、全館放送で(○×△□様のご家族の方、○×△□様のご家族の方、いらっしゃいましたら婦人科ナースステーションまで至急おいでください)と言うアナウンスが流れたそうだ。 誰しも耳を疑がい、しかし、放送されたのは紛れも無く私の名前だったと言う。 時間的に見ても、状況から見ても、彼等の脳裏には瞬時に最悪の事態が浮んだみたいだ。 「やっぱ手遅れだったか!」 皆一様に互いの顔を凝視し合ったと言う。 夫と息子は生きた心地がせず、ナースステーションに向かう足が縺れたと言う。 そして恐る恐るナースステーションにたどり着くと、困惑顔の婦長からこう言われたそうだ。 「あのぉ・・・、他の承諾書は全て揃っているのですが、一番肝心な手術の承諾書だけが何故か提出されておらず、麻酔までは掛け終わっているのですが、手術藩がメスを握れずに困ってしまっているんです・・・。なので至急手術の承諾書に記入、捺印お願いします」 息子は思わず失禁しそうになり、(K)はコケ、夫などはワナワナと手が震え、承諾書の文字も書けぬほどの取り乱し振りだったようだ。 後に解ったのだが、手術の承諾書は私がハンドバックに仕舞い込んだまま忘れていた。 手術が再開され、無事に九時間が経過し、手術室からVサインで戻って来た私の顔を見るなり、皆に異口同音で文句を言われた。 「お前さんは本当にぃ・・・・・・。いつだって必ず、何かしら仕出かしてくれるわ!」 「ん? 何かあった?」 「何かあった? じゃなよ! まったくぅ」 その一連の出来事を聞いた途端、術後の痛みと可笑しさに、身を捩りながら笑い泣きした。 「皆どんなに心配したと思ってるんだよ!」泣きながら私の顔を覗き込む息子の顔を見て、私はとても嬉しかった・・・・・・。
続く
2006年12月20日(水)
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