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■ エッセイ 人生波茶滅茶
【家庭崩壊】
夫との年月を費やせば費やすほど、月々の支払いは苦しくなって行くばかりだった。貧乏な処へ、尚更貧乏神のような男が転がり込んだのだ。雪だるま式に暮らしは荒んで行った。 店や家の家賃の滞納が増え、支払いも溜まり出し、もうニッチもサッチも行かない状態になって行った。その時点での借金総額は六百万を超えて居たと思う。一箇所に纏めれば返済不可能な金額ではないのだろうが、あちらこちらと細かい支払いが嵩んでしまうので月々の支払額が膨大なのだ。しまいには何処かの返済のために何処かから借りると言う自転車操業になっていた。 月々、生活費や人件費を含んだ全ての支払い合計が百万以上は要ると言うのに、店の売り上げが七十万を割る事も有った。するとその三十万余りの不足分が又借金になるのだ。 私は夫に、安定収入を得られる仕事を探すようにと毎日口うるさく言い続けた。 夫には時々ユニットバスの仕事が人づてに舞い込んでは来ていたが、毎日有る訳じゃなく、たまの仕事では焼け石に水なのだ。しかし、短時間で高収入を得られる手馴れたその仕事から、夫は足を洗おうとはしてくれない。それでも限界を感じたのかやっと他の仕事を見付けはしたが、長く続かず夫は仕事を転々とする事になる。 彼は若い頃から痛風と言う持病を持っていて、特にこの時期、彼は頻繁に痛風の発作に悩まされていた。 折角雇ってくれた会社も、やっと仕事に慣れた時期になって来ると、図ったようにその発作が出る。発作が出れば十日は動けない。なので会社にも迷惑が掛かり、居辛くなるのか、結局はそのまま給料も貰わず辞めてしまうと言う悪循環が続いた。 せめて働いた日数分だけでも給料を貰って来てくれれば良い物を、それさえ言うのが嫌なほどの格好付けたがり屋なのだ。物欲しげに見られる事が嫌なのだと、こんな所で虚勢を張る。 痛風は食生活を改善すればある程度防げる病気だ。自業自得な病で有り、同情の余地などない怠慢病だ。 その事でも私達は良く大喧嘩をした。 何とかしなければいけない。何とかこの状態から脱け出さなければ・・・・・・。気持ちばかり焦り、店を売ろうにも世の中が不況に喘ぎ始めた時代でやり手の無い店は沢山余っていた。借金額に見合う買い手など付く筈も無い。 それでも何か出来る事は無いかと思い、昼間は昼間でランチなどを始めて見たりもした。しかし近くに会社が無い事などで昼間の売り上げは殆ど望めなかった。 息子が中学に通っていた頃が一番苦しかった。給食費が払えぬ事もあり、家に居ても電話に出るのも怯え、チャイムが鳴れば息を潜めると言う、犯罪者のような気持で暮らした。支払いの事ばかりが重く圧し掛かり、何をする気力にもなれなかった。 ある日、そんな状況下の中、それでも店だけは開けなければと店に下りて行くと、店の電気が止められており、冷凍庫の中身が溶け出し、懐中電灯を照らしてみると、店の厨房が大変な様になっていた。 私は真っ暗闇の異臭を放つ厨房にペタリと座り込み、人生の破綻と、得体の知れぬ脅迫感に襲われ、狂ったように泣き喚いた。 全て自分が招いた結果だった。 もう生きている事が無意味で、これ以上生きて居てはいけないような気持ちになった。 何故私の人生は何時もこんな風になってしまうのだろう・・・・・・。私の何がいけないと言うのだろう・・・・・・。 もう彼を殺し、私も死ぬしかない・・・。 頭の中にはそんな最悪のシナリオばかりが浮かんで居た。保険金で全ての債務を清算するより他に何の術が有るのだろう。 そんな最悪の状況下の中、息子は中学を卒業し、調理科を目指し受験していた私立の高校に合格した。折角希望校に合格したというのに、合格祝いをしてやる事も出来ず、それよりも何よりも、入学金さえ作れない状態だった。 我慢の限界を感じ、私は夫に叱られる覚悟で、木曾の夫の実家に友達を伴い、彼の両親に相談しに行ったのだ。 彼の実家には過去何度か連れて行って貰った事が有る。彼の両親はとても温厚で優しく、田舎特有の素朴な善人だった。私の事は結構気に入り信頼してくれており、事情を話せばきっと夫に意見してくれると思ったのだ。 初めて実家に連れて行ってもらったのは、確か彼の祖父の十三回忌だった。その時も、あの子はガッタ坊主(ワルガキ)だから、人生経験や苦労を積んだ年上くらいの人の方が良いのだと、二人の事をとても喜んでくれたのだ。 夫は二男二女の四人兄弟の下から二番目。 姉も妹も嫁いでおり、兄も家庭を築いていた。兄弟達との交流は何か大きな行事が有る時くらいだったが、彼は中々の親思いで、実家には年に数回私と息子を伴い、顔は出していた。 しかし夫は、自分達の状況がそんなであれ、親に対しても兄弟達に対しても、忠告されるのが嫌なのか何なのか「ちゃんとやっているから大丈夫だよ」と、何食わぬ顔をしている。 家族に心配されたく無いと言う虚勢は解るが、それなら私や息子に苦労を掛けるのは良いのかと言う、理不尽な矛盾にいつも憤りを感じていた。 私は、彼の実家に行く度、いつも皆の前で「本当は違うの! 苦しくて仕方ないの!」そう叫び出したくなるのを必死で堪えて来た。 夫は人に頭を下げ、人に弱みを見せる事を極端に嫌う。 どんなに自分達が困り果てて居ても、それが例え自分に原因が有るとしても、自分から何とかしようとは絶対にしてくれなかった。 私だって年老いた夫の両親にそんな事を言付けなければならないのは嫌だった。でも、もう他に、誰に言えると言うのか・・・。 私に親は居ないし、彼との暮らしを反対し続けてきた親類になど言える訳も無かった。既に一人の従姉妹や、私の友人からはお金を借りてしまっていた。それもまだ返せていないのだ。 人に頭を下げ、お金の都合を付けて来るのは何時だって私の役目だった。支払の言い訳をするのも、いつもいつも私の役目だった。夫は小遣いなど一切強請らない代わりに、タバコ一つ買いに行こうとはしない人間なのだ。全て私任せだ。 私は彼の両親に包み隠さず現状を話した。 彼が安定した仕事を探してくれない事、息子の入学金も無い事、腹を立てると手に負えない事、経済的に行き詰っている事等、あるがままの現状を言い付けた。 両親は驚き、夫に憤慨してくれ、息子の入学金を貸してくれたのだ。 しかし息子は一学年の終わり、とある事件に巻き込まれ、高校を中退せざるを得なくなってしまった。この件に関しては数人の息子の学友も絡んでいる事なので書き控えるが、息子はもう松本に居るのは嫌だと言い、憔悴し、当時付き合っていた諏訪に住むガールフレンドの家族に救いを求めたのだ。
続く
2006年12月14日(木)
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