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■ エッセイ 人生波茶滅茶
【母の最期】
母と私は良く親類から一卵性親子だと言われていた。顔ではなく、思考や生き様がとてもよく似た親子だそうだ。 互いに素直になれず反発し合いながらも、互いの事が好きで好きでしょうがない処などから、そう言われていた様だ。 私はそう言われるのが余り好きではなかった。母の全てを受け入れていた訳ではなかったからだ。 小さな頃、私は良く転んだ。すると母は駆け寄って抱き起こし「痛かった、痛かった、ヨチヨチ。可哀想(かわいちょう)ねぇ。チチンプイプイ♪」などと優しく膝小僧を撫でてくれるような母ではなく「何してるの。バッカじゃないの? アンタ身体の蝶番外、何処か外れてるのよ」などとゲラゲラ笑うタイプの母だった。 母方の家系はほぼそのタイプの毒舌家が多い。私自身もやがてそうなった。 別に腹黒い訳でも悪意な訳でもないのだが、ほぼ皆がシニカルな集団なのだ。 誰かがチョット間違った言葉など使おうものなら、直ぐに揚げ足を取られ、四方八方から突っつかれ、笑い者にされる。そりゃ容赦のない恐ろしい集団だ。(苦笑) 誰かが標的にされている時は私も腹を抱えて笑い転げているが、私ともう一人の従兄弟は、ちなみに九割方標的にされていた。 別段嫌なだけでもないのだが、偶に本気で傷付く事もあり、私はよく悔し泣きをした。 母と私もそんなやり取りが当たり前だった。喧嘩をすれば容赦なく相手をやり込め、ケチョンケチョンにコキ落とす。 女の子という物はある程度の年頃に成長すると、母親の嫌な部分ばかりが見えてくる。子供時代は母親命だったはずが、成長し、母の実態を知るようになり、母の欠点なども知るようになると、多かれ少なかれ母に嫌悪感を持つ物だ。 母親に女を感じ、行動や言動に矛盾を感じたりすると、無性に反発し、わざと逆らいたくなる。 母と私は若い頃、良く取っ組み合いの喧嘩もした。 そんな母と私だったが、反発は愛情の裏返しでもあり、相手が心底憎い訳や嫌いなだけでは無い。心の芯では大好きなのだろうが、やはりお互い今更素直になるのが恥ずかしいのだ。 そんな母の呪縛から解放され、もう二度と文句を言われる事も無くなり、母と喧嘩することも無いのだろう。 でも、そう思うと無性に寂しくて堪らないのだ・・・。 此処で母の最期の日の事を書いておこう。 余りにも立派な最期だったから、母を褒めてあげたいのだ・・・・・。
当日朝、担当医師から電話があり、 「今日辺りが生命力の限界だと思われますので、病院へお急ぎください。もしも知らせたい人が居たら呼んであげておくと良いでしょう」と言われた。 いよいよ来るべき時が来てしまった・・・! 私はこの時点で少しだけ泣いた。 親戚中に電話し、熱海の母の友人にも電話し、姉にもお義父さんにも連絡し、そして小学校に息子を迎えに行き、覚悟を決め、母の病室に向かった。 いつもの大部屋ではなく、母は個室に移されていた。それが何を意味するのか、私には解り過ぎるほど解っていた。 意を決して病室のドアを開けると、医者の言葉からは想像も付かぬほど母は元気そうに見えた。 母は右手の親指を上げ「オッス♪ 来てくれたんだぁ」と、おどけて言い、息子の頭を撫ぜ、にっこりと笑う。 「ありゃりゃ? 随分元気そうじゃん!」私がそう言うと、母は「そうでもないのよ」と顔をしかめ「アタシ、多分今日辺りダメみたいよ・・・。昨日なんか食欲旺盛で、カツ丼半分も食べられちゃったのにさぁ」と子供のように膨れっ面をし、口をへの字に曲げた。 下手なごまかしや慰めは無用な親子だ。 私は、表情をわざと変えず。 「そんな予感がするの?」と聞いてみた。 「うん、これが何となく判るんだなぁ〜。自分の命が終わる時って・・・」 母は人事のようにあっけらかんと言う。 「ねぇ? 死ぬってどんな気分なの? 死ぬのって怖い?」私は涙ぐみそうになるのを必死で堪えながら母に聞いた。 「ううん、ぜぇ〜んぜん怖くなんか無い。ただ、痛かったり苦しかったりするのは嫌だよねぇ。もしもアタシが唸っていて痛がってるんだと感じたら、薬(モルヒネ)を足してもらってね」 「うん・・・、解った・・・。そうする・・・・・・」 私は泣いてはいけないと、欠伸の真似をした。 すると母は少し眠ると言い眠りに入った。 私は息子に「御祖母ちゃんの顔をしっかりと覚えておきなさい。御祖母ちゃん、もう直ぐ会えなくなっちゃうんだからね・・・」そう耳打ちした。 息子ももう四年生だ。祖母の病気に付いて理解はしている。息子も必死で涙を堪えている。 私達は母の眠る間、母の寝顔をずっと胸に焼き付けながら、個々に思いを廻らせていた。 二時間ほど眠っていた母が唐突に目を覚まし、私に手招きをした。 「ん? 何?」母の脇に跪(ひざまず)くと、いきなり母は枯れ木のような細い手で私の頭や頬を撫で繰り回しながら、とても柔らかい声でこう言ったのだ。 「アンタ、大変な時期だったのに本当に良くやってくれたよね。ありがとうね・・・。アンタにはとっても感謝してるのよ。アンタは本当に優しくて良い子だ。今まで口うるさい事ばかり言って来てごめんね、でもアンタ生き方が下手糞だから心配で仕方無かったのよ。だからこそ口うるさく言って来たんだから、解ってよね?」 母は一気にそう言うと、静かに泣いた。 此処で我慢していた糸が一気に切れ、爆発し、私は母の頬に自分の頬を寄せ、思い切り泣きじゃくった。 まるで母の子宮に戻り、私は胎児になり、産声を上げているかのように、私はひたすら大声を上げて泣き喚いた。 もしかしたらこれは本当の私の産声なのかも知れない。私は泣きながらそう感じていた。 生まれて初めて何の抵抗も照れも無く、母に思い切り甘えすがり、泣いている。 そうだ、これが私の産声なんだ! 母のその言葉で、私は母の全てが許せ、母が堪らなく愛しく思え、母に愛されていたと言う事を純粋な魂で受け止められた。 次に母は息子を呼び寄せ、やはり息子の頭を撫で「お母さんに心配掛けないように言う事を聞いて優しい子に育つのよ。アンタのお母さんは弱虫のダメ人間なんだから、アンタがちゃんと守ってあげなくちゃね」そう言った。そしてしゃくりあげる息子と、指切りげんまんをしていた。 こうして母は私にも孫にもちゃんとお別れを言い、又少し眠くなって来ちゃったと言い、再び眠りに付いた。 この辺りから母は昏睡と覚醒を繰り返し始めるようになった。 午後になり、続々と病院に駆けつけてくれた親族其々に、母はお別れの挨拶を交わし、医師の言う通り夕刻過ぎになると母は完全な昏睡状態に陥った。 そして、母はさして苦しむ事も無く、皆が見守る中、穏やかな顔で眠るように息を引き取った。 ある意味自由奔放に生き、勝手に病気になり、勝手に死んでしまった我侭な母。 大好きな人々に周りを囲まれ、大好きな事のみを選び、思いのままに突き進んできた母。 最後まで贅沢な暮らしをさせる事も親孝行も出来なかったが、きっと母の人生は、あれはあれで充分幸せだったのではなかっただろうか? そう思える。 彼女は言っていた。 「アンタ達の側で常に見守っているからね。だから幽霊になって出ても怖がらないで」と・・・。 昌子、今まで育ててくれてありがとう。 貴女はやはり、大好きでステキな母親でした。 どうか安らかに永眠してください。 母昌子死去、享年六十二歳。
続く
2006年12月09日(土)
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