マキュキュのからくり日記
マキュキュ


 エッセイ  人生波茶滅茶


【笑顔のご対面】

 母は治療の為の入退院を何度か繰り返しながらも、長い年月、小康状態を保っていた。母の療養中、とても好都合な事に、店の有るビルのマンションに空きが出、私達は直ぐに引っ越した。
三階が自宅、一階が店なら、母の事も息子の事も少しは安心しながら働ける。
引越し代は借金の上乗せをする形になってしまったが、これで身体も気持ちも随分楽になれる。
母は退院時には孫の遊び相手になってくれ、体調の良い時は孫と連れ立ち店に降りて来、二人で食事をしたり、カラオケを楽しんでから又三階に上がって行く。
シルバー人材派遣のお婆さんは相変わらず私の家に居付き、格安の給料でお手伝いさんのような役割を果たしてくれていた。
母の誕生日には毎年叔母や従兄妹達が東京から来てくれ、店に集まり、盛大に誕生日を祝った。
夏には親類中が集まり、伯母の箱根の別荘などにも泊りがけで遊びに行った。
たった一度だけだが、母と息子と私との三人だけで、水入らずの一泊旅行にも行って来た。
そして医者から母の命が後半年ほどだと聞かされた時、私達にはちょっとした感動の、再会ドラマが有ったのだ。

実は母には私の他にもう一人だけ、自ら産んだ娘が居る。私と同じ父ではなく、前夫との間に産んだ子で、夫との離婚の際、強引に引き離されてしまった娘だそうだ。
しかし私から見れば父親は違っても、母が産んだ正真正銘の血の繋がった姉である。
彼女は私よりも五歳年上で、母はその子が三歳の頃に離れ離れになっている。
母は彼女の写真を何時も大切に財布に入れていた。私も見た事は有るので、姉の存在は子供の頃から知っていた。
熱海在住で、母とは子供時分からの親友が居り、彼女が松本に見舞いに来てくれた時、「アンタ、別れた娘に会いたくはないの?」と母に聞いたら、母が逢いたいとしみじみ答えたと言う。
それを聞いた母の友人が、熱海に帰った後、あちらこちらに手を尽くし、姉を捜し当ててくれたのだ。
 母は姉が幼稚園に上がるまでの事を知っていた。母の友人はその幼稚園から情報を辿り、姉を捜し当ててくれたそうだ。
私は母が亡くなってしまったら、自分の肉親はもう息子しか居ない。母のお腹から産まれた血の繋がった姉が居るなら、一目だけでも会っておきたかった。
そして奇跡は起こり、姉は見付かった。
 姉は東京の板橋に住んでおり、やはり離婚経験を経て、当時は育ての義母と二人の子供達との四人暮らしをしていた。
お父様、つまり母の前夫は既に何年か前に他界したと言う。
 母の友人に姉の連絡先を手渡され、私は恐る恐る姉に電話をし、母の病状と心情を話した。
すると姉は快く母に会ってくれる事を承諾してくれたのだ。むしろ彼女も母に会いたいと、以前から強く望んでいたと言う。
 後日、新宿のアルタ前で姉と待ち合わせをした時、私に思わず鳥肌が立った。
遠目からだが、私は一目で姉を見付ける事が出来た。何故なら姉は四十代の頃の母そのものだったのだ。余りにも母と瓜二つだった。
私は父親似だが、長年一緒に暮らして来た母と私よりも、母と永い間離れていた姉の方が全然親子だった。
 彼女は二人の子供を連れており、私も息子を彼女達に紹介した。姉の子供は長女が私の息子より一つ上で、長男はもう少し上だ。
TV番組のような涙のご対面とはならず、余りの母とのそっくりさ加減に「ウソォ〜!」を連発し、驚愕笑いの明るいご対面になった。
私達は喫茶店に入り、母の病気の経過を知らせ、姉は、母と別れてからの経歴や今の生活振りなど、詳しく話してくれた。      
 姉は酒が一滴も飲めぬそうで、コーヒー好きでタバコは吸っている。そんな所までが母とまるっきり同じである。そして声や話方までも母そっくりなのだ。
血と言うのは驚異だ・・・・・・。
三十五年間と言う空白が有りながら、こんなにも母に似ながら成長してきた姉を見て、改めて血縁の偉大さを知った気がした。
初対面なのに初対面という感じが無く、直ぐに敬語を排除し、私達は数年来の姉妹のように和気藹々と話をした。
 そしてその足で松本の自宅に行き、母と姉は実に約三十五年振りの再会を果たしたのだ。
この時ばかりは母も姉もうっすらと涙を見せていた。
 姉達はその後も幾度と無く松本を訪れ、息子達も仲良くなり、息子は突然出来た従兄妹達の存在をとても喜んでいた。
 夏休みや冬休みは息子を連れて東京の姉の家に遊びに行ったりもし、私達はごく普通の姉妹のような付き合いを交わすようになった。
 あの頃、後半年と余命を宣告された母だけれど、半年を過ぎた後も母はまだまだ元気だった。
しかし、約一年半が過ぎようとした頃から、やはり母は大分痩せ、食も細くなって来た。
若い頃から体重が四十二キロをオーバーした事が無いというスリムな母は、当時はもう、三十二キロを割っていただろう。
やがて薬の副作用か癌が脳に転移したのか、徐々に母に可笑しな言動が出始め、いよいよ家での静養は無理となった。
母は入院し、多分今回の入院で母は再びこの家に戻る事は無いだろう・・・。私はそんな予感がしていた。
 この頃、丁度バブルの崩壊があり、店を維持するが大変になって来ていた。
人気者だったアルバイトが結婚を期に辞めたりすると、客足にも左右した。店ももう開店してから四年が経過していた為、手直しをしなければならない所なども出始めていたが、そんな余裕はとても無かった。
仕方なくアルバイトの人数を減らしたり、仕入れを抑えたり、経費の節約をしてはみるのだが、それはそれで活気不足という事態を招き、客離れも起こり始めた。
 母の容態が悪化するに付け、私も店に出られぬ日などが増え、益々経営は苦しくなった。
 給料も遅配する事などが度々有ったが、内情を知っているアルバイト達は誰一人文句も言わず、一生懸命私の留守を守ってくれていた。
あの頃の危機を何とか乗り越えられたのは、優しい気持ちを持ったアルバイト達のお陰だ。
 そしてついに発病から四年半の歳月を経て、母は私を置いてきぼりにし、アカンベーをしながら、独りサッサとあの世に旅立ってしまった。
それは雪の舞う2月の寒い日だった。


続く


2006年12月08日(金)

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