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■ エッセイ 人生波茶滅茶
【ぐうたら神よ、いい加減にしろ!】
私の店が開店して僅か一ヶ月目という時、ぐうたら神は又しても私達に大きな試練を齎した。 何と母が進行性の子宮頸癌に掛かっている事が判明したのだ。医者嫌いだった母を強引に説得し、大学病院で診てもらった時には、もう、かなり母の癌は進んでいた。 やっと悲惨な形での離婚から立ち直り、息子も引き取れ、私に念願だった店が持て、母もようやく仕事を引退させ、これからやっと私達の暮らしが良くなって行けると言う希望が見え始めた段階なのに何故! 一体私達が何の悪い事をしたと言うのだ! ぐうたら神よ、アンタは今迄何度も何度も私に容赦のない意地悪をして来た。私の人生は常に玉突き式踏んだり蹴ったりの連続だった。でも、私なりにその時々、不器用ながらも精一杯頑張って来たじゃないか! 何故この期に及んで母を癌にした! 何故この時期じゃなきゃいけない? 何故私達に安息の時を与えてはくれない! いい加減にしろよ!! 私は心の底からぐうたら神を罵倒した。 息子はまだ小学校に上がったばかり。店と家とは同じ通りのすぐ近所とは言え、夜、幼い息子を一人だけにさせておく訳には行かない。 店は開店したばかりで大変忙しく、料理を作れるのは私だけなのだ。私の存在は店に取ってまだまだ必要不可欠だった。 お義父さんも私達が松本に住んでからは、来る回数もめっきり減り、数ヶ月に一度くらいの割合でしか来られなくなっている。私には誰一人松本に身内も居ない。 こんな状態の中で、一体私にどうしろって言うんだよっ! どうしたら良い! どうしたら良い! どうしたら良い! 私はパニックだった。 私はず保険会社を辞め、シルバー人材派遣センターから住み込みのお婆さんを雇い、夜は彼女に息子を見て貰う事にした。 そして母を入院させ、手術を受けさせ、店の管理・息子の世話・食道楽だった母への料理の差し入れ・母の借金も含めた支払いのやりくりと、私がやらなければならない事が急に増え、私は四苦八苦だった。 折角息子も他人の手を借りずに育てられていたのに、又しても数時間とは言え、他人の手に委ねなければならなくなった。 それよりも何よりも一番厳しかったのは、いくら売り上げが良くても、自分の返済分だけでもやっとだったのに、母の分の返済や、母の店の家賃、入院費、住み込みのお手伝いに支払う給料等が増えてしまった事で、少しも生活に余裕が持てなかった事だ。 店の仕入れや従業員への給料等全て含めれば、月に出て行くお金は膨大だった。 母はそれでも無事に手術を終え、人口膀胱を着ける身体となったが、元気で退院する事が出来た。 その年の夏の終わり、母の生還祝いと、私の誕生日と、店の一周年記念を兼ね、私自身が歌うと言うライブパーティーを企画した。 駅前のホテルのラウンジでピアノを弾いていた女性ピアニストの腕前に聴き惚れ、私は必死に彼女を口説き落とし、伴奏を受け持ってもらった。そしてそのご主人にはベースを担当して貰った。 余談だが、彼女は後にジャズ狂の私の従兄弟の口利きで東京に進出し、Jazzのライブハウスでピアノを弾くようになり、やがては外国の有名アーティストに認められ、Jazzピアニストとしてメジャーデビューを果たしている。 私のライブパーティーは、お客様には五千円でチケットを買って貰い、ワインの飲み放題とビーフシチューのディナーを付け、一日二回と言う入れ替制で執り行われた。 チケットは一枚残らず完売し、私はシャンソンをメインに1ステージ十二曲ほどの歌を歌い、とても盛況で感動的なパーティーになった。 ステージの終わりに飛び入り参加をした母は「皆様、一度は三途の川を彷徨って来た私ですが、皆様のお陰で無事に生還してまいりましたぁ〜」と、挨拶をし、母の得意な【ろくでなし】を皆の前で熱唱した。 客達は一様に涙を流し母の生還を喜んでくれ、母は私以上の絶大な拍手を浴びていた。 どうやら母に主役を取られてしまったようだ・・・・・・。 あの時の素晴らしいパーティーを、私は生涯忘れる事は無いだろう・・・・・・。 あの日こそ、私が十三年間経営して来た【エポック】での、一番素晴らしい想い出の日となったのだから・・・・・・。
続く
2006年12月07日(木)
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