マキュキュのからくり日記
マキュキュ
■■■
■■
■ エッセイ  人生波茶滅茶


 【子育ての憂鬱】

 母の店はいつも様々な客で賑わっていた。
客層は信大生を始め、医者・画家・漫画家・近所の同業者・カメラマン・TV局のスタッフなど、都会的な雰囲気を持つ母は、何処か毛色の変わった客を集めていた。
 私には辛口だけれど、他人には殊の外理解力の有る母は、新宿の母ならぬ、松本の母よろしく、客達の愚痴や悩み事などにも良く耳を傾けていた。母にこき下ろされたり叱られに来るのが楽しみだという学生なども大勢居た。
母の歌のファンも多く、母の歌を聴きながら涙を浮かべている年配の女性客なども何度か見掛けた事が有る。
母は若い頃、進駐軍の慰問などでジャズを歌っており、ソシアルダンスなども得意だ。彼女の持ち歌はサザンオールスターズのレパートリーから始まり、Jazz・シャンソン・時にド演歌等も出没する。母には独特の感性があり、学生達にも若手の客にも慕われ、母はちょっとしたアイドル母ちゃんだった。
 一方私が勤め始めた店も、大きなステージを構えた大型のパブ店で、船内を模った内装に、水兵さんのようなパンツスーツを着た店員達が接客をするというそのユニークさが受け、かなり連日流行っていた。
そのパブは食事も出来、飲んで食べて歌えると言うリーズナブルなパブだ。なので若い女性のグループ客にも人気だった。
母同様、私も歌は得意とし、店では良くお客のリクエストを受け歌っていた。その頃の私は年齢的には二十七〜八の女盛り。まぁまぁスタイルも良かったし、性格的には毒舌で色気は無いのだが、これでも結構モテた方だ。
 そのパブに勤めて二年が過ぎ、借金も大分減り、いよいよ私は二歳に成長した息子を乳児院から引き取る事になったのだ。
どれほどこの日を待ち望んだ事だろうか。
が、しかしだ、いざ「ハイよろしくね」と息子を手渡された物の、嬉しい反面、正直多くの戸惑いが有った。
乳児院にいる間、週に三度ほど面会には行っていたのだが、息子と寝起きを共にしたのは生後二ヶ月までだけだ。二年も離れ離れになっていると、親子と言う感情が希薄になる。
この先、私の手だけで立派に育てて行かなければならないと思うと、不安だらけだった。
 先ずは経済的にまだ余裕が無かった事。私自身が愛情欠落のハチャメチャ家庭で育ったので、自分が受け取っていない体験をどう息子に与えたら良いのか全く解らないという戸惑い。今日から母として生きなければならない事への強いプレッシャー。自由な時間が削られる事への戸惑い、この子に心からの愛情を注いでやり続けられるだろうかと言う漠然とした怯え・・・、等など。
それらが頭を渦巻き、やっと子供を引き取れたと言う喜びとは裏腹に、その責任に重さを感じた。
 母も子育ては決して上手くなかったので母のアドバイスは余り参考には出来ない。
彼女自身も産みの母とは多感な時期に引き離されており、十分な実母の愛情は受けていない。母もきっと、自分が貰っていない物を私にどう与えて良いのか解らないで来たのだろう。
代々がそんな母性愛に希薄な家系なので、もしかしたら私も母も、母性本能その物が無い訳ではないのだろうが、子供との向き合い方がとても下手糞なのだ。
自分達の中に(何をさて置いても先ずは子供が優先!)などと言い切ることが出来ぬ何かがある。
 病気になったらどうしよう、働いている時間はどこに預けたら良い、どうやって育てて行けば良いだろう、何もかもが手探りだった。
 私は取り合えず、引き取った息子を夜は社長宅で見て貰い、昼の勤めの間は母や友人達の手を借り、息子との生活をスタートさせたのだ。
 色々な人の手(愛情)を借り、様々な人間の感性と接しながら育って行く息子は、とてもチャーミングでユニークな息子として成長して行った。
息子は親馬鹿ながら、とても可愛い顔をしている。そして人見知りもしない。なので多くの人に可愛がられた。でもやはり、一番大切な時期に私が傍に居てやることが出来なかった為か、多少情緒に不安定な所も有った。
 一体息子を幼稚園に上がらせるまでに、何人の手を借りた事だろう・・・。
 やがて息子が幼稚園の年長の頃、母の店は数人の大学生に任せ、母を店から引退させ、私と母は一軒家を借り直し、一緒に暮らすようになったのだ。
 母に息子を見て貰い、私は昼夜努めに出る。そして幼稚園への送り迎えも母が担当してくれていた。
ようやく息子も他人の手を借りずに我が家だけで育てられるようになった。
 そして息子が一年生に上がった頃、私にも店を開くチャンスが訪れた。
母の店から徒歩三分。自宅からは徒歩一分という正に好都合な場所に、良い物件が見つかった。不動産屋の案内で見に行くと、そこは和風の造りのスナックだったが、一八坪ほどの広さも有り、家賃は十三万とそう高くはない。
立派な保証人が二人付き、私は銀行から九百万ほどのお金を借り、その店の権利を買い、内装を洋風に変え、兼ねてからの念願だったピアノを備えた洋風居酒屋のオーナーとして、人生の再々スタートを切ったのだ。
店名は母の店と同じ【エポック�供曚箸靴拭�
店内は和風の骨組みを活かし、色彩をモノトーンに統一し、奥の壁際にはピアノを置き、大正ロマンを匂わせるようなアンティークで、それでいてどこか新鮮で温かみがあるような素晴らしい内装の店に仕上がった。
男女のアルバイトも五〜六人揃え、ジーンズに店のロゴの入りのTシャツをユニフォームにし、私もそれと同じ物を着、店は好調なスタートを切った。
店には八畳ほどの厨房もあり、料理の得意だった私は、多種の手作りフーズメニューを店の売り物にした。
客単価二千円〜三千円で楽しく飲んで食べて歌える店として、エポックは人気を集めた。
比較的若い客層が多かったが、フレンドリーでアットホームな雰囲気が買われ、店は連日満席と言う順調さだった。
 この時も、そのすぐ直後に訪れる壮絶な出来事など、私は想像すらしていなかった。

続く


2006年12月06日(水)

My追加
☆優しいあなたは両方 クリック してくれると思うな〜☆ 人気投票ランキング
≪ ≫ 初日 最新 目次 MAIL