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■ エッセイ 人生波茶滅茶
【夫に復縁迫られる!】
松本に来たのは生まれて初めてだった。 四方を山々に囲まれた素晴らしく美しい街で、空気が澄んでいてとても美味しい。 友人の実家はクラシカルな純喫茶を経営していた。私は先ずはそこへご挨拶に行った。 この時にとても面白いエピソードが有ったので、それを一つ書く事にしよう。 店でコーヒーを飲んだ後、店の裏口の玄関に回り、私は玄関先でお父様にご挨拶をしたのだが、持っていた手土産を渡そうとすると、お父様が掌(てのひら)を上下にヒラヒラ動かしながら「まぁ、まぁ、おきましょう」と言うのだ。 「・・・・・・?」 おきましょうって、どういう意味だろうか? まさか玄関に置けと言うことでは無いだろうが、それでももしかしたら松本特有の変わった風習なのかも・・・そう思い、私は首を傾げながらも手土産やらハンドバッグ等を直に玄関に置いたのだ。 そう、匂いを微かに放つ靴と靴の間に・・・。 そうしたら今度はお父様が「・・・?」と首を傾げなすった。 私達は数秒間、互いの視線を絡ませた。 そうしたらお父様がゲラゲラと腹を抱え笑い出したではないか。 どうやらおきましょうと言うのは、物を置く事ではなく「そんなお気遣いはいいのに」と言う遠慮を表す方言だったらしい。 そうとは知らず、玄関の靴類の間にケーキを置いた私は何なのだ! 松本には訳の解らない方言が多すぎる。(笑) 南松本にアパートを借りた友人宅に居候し、私は彼女の伯父さんが教官を勤める自動車教習所に免許を取るべく通いながら、夫との事を考えていた。 そして私の結論は離婚する方向に傾きかけていた。しかしどう切り出して良いのか悩みだった。私は彼を心底嫌っていた訳ではない。面と向かってそれが言えるかどうかだ。 当時、教習所に掛かるお金や食費等は、彼女のお母さんが紹介してくれた市内の古ぼけた小さなクラブで、ホステス兼歌のアルバイトをしながら稼いでいた。 そんなある日の事。早朝、彼女のアパートのチャイムが鳴ったのだ。時間が時間なので彼女の親類に何かが遭ったのかと彼女が血相を変えて出て見れば、何とそこには私の夫が立っているではないか! 夫はいきなりその場に土下座をし、私に戻ってくるよう哀願したのだ。 こうなると意思の薄弱な私は、ついつい情に絆だされてしまうのだ・・・・・・。 こんなに遠くまで追いかけて来たこと自体で許せてしまう。 二日間ほど話し合った結果、双方共親元を一度離れ、二人だけで結婚の再スタートを切るなら復縁しても良いという条件を私は出した。そして彼もそれを納得し、新たな生活を松本で始めたのだ。 彼女の家にいつまでも夫婦者がお世話になる訳にも行かず、教習所も途中だったので、私は店から前借をし、私達は小さなアパートを借りた。 そして行きがかり上、そのまま松本で第二の人生を歩む事になってしまった。 私は相変わらずクラブで働き、夫は宝石店に勤め、夜はレストランの臨時ボーイとして働いた。新婚時代は二人だけになれる事があまり無かったので、共稼ぎとは言えど、夫婦水入らずの生活はとても新鮮だった。 新婚気分を満喫し、生活も安定し出し、そんな暮らしが数年続いた。 しかし時が経つにつれ、やはり東京と横浜に置いて来た双方の母達の事が気に掛かる。 横浜の家も中野の家も借家なので、その場に固執する理由も無く、母達はどこに住んでも同じ事だった。それならいっそ二人共、空気の良い松本に呼んであげちゃうか、という事になり、私達は大きめの一軒家を借り直し、互いの母達を松本に呼び寄せたのだ。 お義父さんも母の事ばかりに気を掛けている訳にも行かず、心の何処かでは微かにそれを望んでいた節も有った。なので母の松本行きには大した反対は無かった。 夫の母と私の母は、親子ほど年齢が違うし、性格も真反対なので、もしかしたら一緒に暮らしても結構上手くやって行けるのかも知れないと言う思いが有った。 実は彼の母親は彼の実母ではなく、長い間子宝に恵まれなかった初老の夫婦が教会を通じ、ある夫婦の子供を養子縁組し、まだ赤ん坊だった彼を引き取り育てたのだそうだ。夫は本当の両親の顔は写真でしか見た事が無いと言う。 彼の養父は既に亡くなっており、それからは、義母一人の手で苦労をしながら彼を育て上げたのだそうだ。だからこそ、義母に対する彼の愛情や恩義は、一方ならぬ物があった。 彼の母は私達の祖母くらいの年齢で、性格は大人しく、つつましく控えめな人である。 一方私の母は行動的で社交的で現代的な感覚の持ち主だ。なまじ似通った性格でない方が上手く行く場合が多い。 どちらにしてもずっと離れた事の無い母子同士なので、皆で仲良く一緒に暮らすのが一番良い事なのだと考えたのだ。 二人の母を迎え、私の母はスナックの厨房でパートをし、彼の母には家事を手伝って貰いながら四人の新たな生活が始まった。 それと同時に私は少し上ランクのクラブに勤め先を変え、後に夫も、その店のボーイとして時々アルバイトをする事になった。 後に夫はその店の常連客から引抜があり、給料の安かった宝石店を辞め、その客の経営する内装会社の営業マンとして勤め始めたのだ。 彼の母を除く三人が働いていたので、経済的にも余裕が出来、まずまずの生活振りだった。 丁度その頃、私達夫婦に大手建設会社の部長である常連客から、いっその事頑張って家を建てて見たらどうか? という話が持ち上がったのだ。 松本はとても家賃の高い地域で、当時の一軒家の家賃も十万を越えていた。 それに四〜五万足せば、自分達の持ち家が新築出来ると言うのだ。 松本駅から車で十分ほどの場所に良い土地が見付かり、私達の夢は一気に膨らんだ。 家を新築する話はとんとん拍子に進み、そして私達は共同名義で家を建て、二十歳代にして一家の主となったのだ。
続く
2006年12月04日(月)
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