 |
 |
■■■
■■
■ エッセイ 人生波茶滅茶
【父の死、そして結婚】
ある日突然、父の愛人から半狂乱な声で私宛に電話が入り「パパが大変! 今すぐ○△病院まで来て頂戴!」と告げられた。 その瞬間、胃の辺りに鈍い圧迫感を感じ、私はとても嫌な予感がした。 父の体調が優れぬ事は度々愛人に聞かされ知っていた。 私は取る物も取らず、慌てて病院に駆け付けたのだが、もうその時には既に父の息は無かった。 あんなに大好きだった父が、あんなに優しかった父が、こんなにもあっけなく死んでしまったのだ! 当時私には婚約者が居り、結婚を目前に控えていた。父の死は、彼の事を父にも近々紹介しようとしていたその矢先の出来事だった。 父の死因は肝硬変。享年僅か四十五歳。 酒の飲み過ぎが原因だった。 いかにも父らしいドジな死に方だった・・・。 その日、大量吐血をした父は、そのまま意識が混濁し、救急車で病院に運ばれたと言う。 以前にも一度、微量だったが吐血をしたと言うので、お酒は控えるようにと散々注意をしていたのに・・・・・・。 病院で昏睡状態の中、愛人の名ではなく私の名を四度呼んだと言う。そして大して苦しむ事は無く、父は息絶えたそうだ・・・・・・。 父の顔は片方だけうっすらと目を開き、唇は少し歪み、私には少し微笑んでさえ居るように見えた。 「ハチ(私のあだ名)婚約おめでとう。絶対に幸せになるんだぞ! パパは先に行くけど、いつもでもお前を見守っているからね!」 父の死に顔はまるでそう言いながら、私にウインクをしているようだった。 私は父の頭を撫でながら、思い切り泣いた。今でもその死に顔は、私の記憶のアルバムの中に、しっかりと焼き付いている。 どうしようもないけど何故か憎めない、チャップリンのようなペーソスを持つ父が、私は大大大大大好きだった・・・・・・。 優しくて、寂しがり屋で、可笑しくて、不謹慎で、情けなくて、面白い事を言って人を笑わせてばかりいた父・・・。 もう二度と父に会えないのだ・・・。 今度こそ永遠のお別れなのだ・・・・・・。 私の結婚式には、私の正式な父として堂々と出席して貰うつもりでいたのに・・・・・・。 私は父の死から数ヵ月後、まだまだ大きな喪失感を抱えたまま、信濃町の教会で結婚式を挙げた。
私の夫は五歳年上で、広告代理店の営業マンだった。 夫が私の友人に連れられ、中野の母の店に飲みに来たのが彼との出会いだ。 私は自分で言うのもなんだが、中々歌が得意だ。歌う事が三度の飯より大好きなのだ。 それを知っている友人が「今度ギターの上手い友人を連れてくるよ」と言い、彼を連れて来た。 私は彼に先ず一目惚れをした。私の大好きだった映画俳優のピーター・オトゥールに良く似ていたからだ。 彼は人懐っこく、気取らず、ユーモラスで、楽しくて、第一印象も悪くは無かった。 当時はまだカラオケなどは無く、少しお洒落なレストランパブなどに行くと、ギターやピアノの弾き語りが居て、客もその演奏で歌えたりしていた。私は何度か母にそういう店に連れて行ってもらい、いつかは自分でもそんな店が持ちたいと憧れていた。 彼のギターは確かに上手で、彼の伴奏で母や私がジャズやポップスを歌い、満席だった店内は大いに盛りあがり、とても楽しいひと時を過ごした。 聞くところに寄れば彼も母子家庭で育ったらしく、共感できる部分が多く、音楽的な好みも似通っていた。私達は直ぐに意気投合し、強く魅かれ合い、結婚を意識しながら付き合い出したのだ。 何れは二人で小さなステージを構えたお店を持とうと言う夢も語り合った。 ふとした瞬間、彼に多面性が有るのでは?と感じる部分も有ったが、あばたも笑窪で、恋の勢いに乗っている内は短所さえも魅力の一部に思えてしまうものだ。彼に神経質な部分や翳りが有るのは、幼い頃の愛情飢餓から来る物なのだ。等と、母性本能までを駆り立てられる。 そんな部分は時々チラリと顔を覗かせる程度で、どちらかと言えば普段はユーモラスで楽しく三枚目の人間だ。ダメ人間でコンプレックスの多過ぎる私には、勿体無いほどの素敵な相手に思えた。 そして私達は結婚した。 互いの家庭は貧乏だったが、愛さえ有ればなんのその・・・みたいなノリの結婚だった。 当時の私はまだ二十一歳・・・・・・。 しかし、若気の至りの勢い結婚は、直ぐに大きな不具合ばかりを呼びおこす。 二人とも母親思いの母子家庭育ちという事で、どちらかの親を立てると、どちらかの親が立たずのような悩みも有った。 どちらの親も分け隔てなく大切にすると言う約束での結婚だったのだが、それが中々上手くは行かないのだ。 彼の家は横浜で、私の家は中野。そして彼の仕事先は新宿で私の仕事場は読売ランドだ。 最初は横浜に住み、二人とも横浜から仕事に通っていたのだが、双方の仕事の都合上、中野からの方がずっと便利なのだ。なので私達は週の半分以上を中野、週末は横浜と言うような二重生活を送っていた。しかしそれでは先方の母が可愛そうだと言う事になる。 その頃、お義父さんは一時期、何かの事情で来られないような状態が続いていた為、母の機嫌が不安定な状態が続いていた。なので私は私で母の事が気掛かりだった。 母は中々エキセントリックな人で、お義父さんとの間で何か大きな不安が有ると、安定剤を多量に飲み眠り込んでしまうような怖い癖が有り、当時目が離せなかったのだ。 そして夫自身の性格も、一緒に暮らし始めたら思ったよりもずっと重く、性格の不一致に悩む事が増え始め、この結婚が本当に正しかったのか? という疑問も抱え始めていた。 親思いだと感心させられていた部分は、驚異な迄の母親依存に見え、私を愛してくれて居ると喜んでいた部分には、陰湿な嫉妬深さが裏打ちされていたり、魅力にまで思えた翳りの部分は演技過剰なナルシストとして映り、結婚後僅か一年で、私は彼との将来に自信を無くし掛けていた。 ただ、根本はとても優しく純粋な人間で、学生時代も全然ワルでは無かったし、ある意味繊細過ぎるくらいに脆い人間だった。 気になる部分さえ直してくれれば、結婚生活を続ける事が苦痛なほど嫌ではなかったのだ。 やがて私が妊娠し、夫もそれを大変喜び、専業主婦になり子供でも生まれれば、もっと二人の気持ちが安定するかも知れない。そう思い、それを期に私は、かなりの未練は有ったのだが、水中バレエを退団した。 だが私は妊娠四ヵ月目でかなりの不正出血が有り、私は考えあぐねた末、やはり中絶を決意した。 もしも五体満足な子供で無かったら? そんな恐怖感と、やはり夫を愛し切れては居ないような不安感が、私にそう決断させたのだ。 この中絶が私達の結婚生活を更にギクシャクさせる原因となった。彼も納得した上での中絶だったにも関らず、彼は酔うと「俺の子供を返せ!」と激しく私をなじり、時には暴力にまで及ぶ事が有った。 当時母の店に良く通っていた常連客に、私よりも五歳年上の女性客が居た。 彼女は東京の大学に通う傍ら、司法書士の勉強をしていた。 兄弟の無い私は彼女を姉のように慕い、夫の愚痴や母の事での悩みなどを相談していたのだ。 何度か夫婦喧嘩の仲裁をしてくれた事も有る。 私が今後どうするべきか彼女に相談すると、近くに居れば情にほだされてしまい、冷静な結論が下せないだろうから、少し離れ離れになって考えてみたら? と提案をしてくれた。 丁度彼女が卒業を期に田舎の松本に帰る事になり、空気の違う松本にでも来て、暫く彼と離れてじっくり考えてみたら? という事になり、私は母と数人の友人だけに居場所を知らせ、彼女に連れられ松本に来たのである。 ほんの一ヶ月ほどで結論を出し、東京に帰るつもりでいた私が、まさかこんなにも長く松本に居座り続けるとは・・・・・・。
続く
2006年12月02日(土)
|
|
 |