マキュキュのからくり日記
マキュキュ


 エッセイ  人生波茶滅茶


 【転校・愛人・又転校】

 やっと仲良しのお友達が周りに沢山出来たと言うのに、転校せざるを得なかった。
母が私を連れ、世田谷の家を出た為だ。
父が女の家に転がり込み、父不在の家にいつまでも母と二人で居る訳にも行かない。増してや母と祖母は犬猿の仲なのだ。
私は母と祖母の関係はどう有ろうが、祖母の事も大好きだったので、祖母との別れは辛かった。
別れの日、私を抱き締め、小ちゃいバアチャンが大泣きしていた姿を今も時々思い出す。
私達は今後の方針が決まるまで、幡ヶ谷の叔母の家にいったん身を寄せる事になった。
母は三人姉妹の真ん中で、叔母も、もう一人の伯母も都心に住んでいるので、親戚同士の交流は頻繁だった。常に互いの家を行き来はしていたので、まったく知らぬ環境に移り住む訳ではない。慣れ親しんだ家である。
その叔母は日舞の名取でもあり、私達の家系は親類一同、殆どが皆、日舞を習っていた。叔母は私と母の日舞の師匠でもあるのだ。
 叔母の家には年の近い従兄弟が二人居る。
一人っ子で寂しがり屋の私は急に兄弟が出来たみたいで嬉しかった。
転校手続きも済み、私は従兄弟達と同じ小学校に通うようになる。しかし、元々勉強嫌いだった私は、この頃から勉強に大きな遅れが出始め、付いて行けなくなった。
 私の家は端から家庭臭が無いと言うか不真面目一家と言うか、あまり教育熱心な両親ではなかったので、幸か不幸か学習に対しうるさく言われた事はあまり無い。テストの成績を見て驚愕した母が「偶には勉強ぐらいしなさいよ!」とは言うものの、大して期待している訳でも無さそうだし、母とて、それを言わなければ親らしくない・・・、位の気持ちで言って居たに過ぎないだろう。
なので一般家庭のように親が親身になり勉強や宿題を見てくれたり、本を読んでくれたり、机の中の片付け方や整理整頓の仕方など、丁寧に教えて貰ったという記憶はあまり無い。
増して離婚し母子家庭になったとあらば、母は無論働きに出ていたので、尚更放任主義になった。
母が出掛けてしまえばお茶の子サイサイ、私も勉強に怠慢になって行く。
TVは見放題、漫画は読み放題、自堕落人生まっしぐら。その頃から徐々に忘れ物や、宿題忘れも多くなり、ついにはクラス1〜2位を争う落ちこぼれとなって行く。
 もう、そうなってくると学校が全然つまらない。
 私は幼い頃から、あまり人と群れるのが好きではなかった。本当に心の通う仲良しの友達とだけ居たい方だった。どうも大人ばかりが周りに居たせいか、変な所が冷めていて、あまり子供らしい子供ではなかったと思う。
特に優等生で家が金持ちで、なに不自由の無い恵まれた子供を見ると、私とは別世界の子供だと思った。どうせ私なんか相手にされないのだと、自分から引いてしまう場合が多いのだ。
 転校をすると先ずは興味や好奇心から、必ず人々が寄って来る。根掘り葉掘り色々聞かれ、妙に親切にされ、一瞬的にはクラスの人気者みたいな気分にさせられる。しかし付き合いが始まり、私が勉強も出来ず、だらしなく、金持ちでもない母子家庭だと知られると、急に優等生面した生徒達からはそっぽを向かれてしまう。
 自分達から近づいておきながらそりゃぁ無かんべ、と言いたいが、それもまぁ、仕方が無いか・・・と、変に諦めが良いのも私なのだ。
人々なんて所詮冷酷な物なのだと、子供ながらに悟っていた気がする。
 大好きな人達との別れを何度か強いられて来ると、人との付き合い方も刹那的になって行く。人に対し期待するのが怖いのだ。本当は人恋しくて寂しがり屋の癖に、後々の事を考えると面倒くさくなってしまう。積み上げてもどうせいつか崩れると思えば、積むのも億劫になるものだ。本当はだらしない自分を見透かされ、嫌われるのが怖くもあった。
 この頃から、私は他人に対する姿勢を確立させて来たような気がする。
―来る物拒まず、去る物追わず― 
 どちらにせよ、幡ヶ谷時代は従兄弟達と遊べる事の方が楽しく、学校にはあまり興味も期待も無かった。
大して仲の良い友人も出来ぬまま、叔母の家で一年ほどを過ごす内、その頃から母に新たな男の影が見え隠れするようになる。
 実父は母よりも一つ年下だったのだが、今度の母の恋人は母より一回り以上も年上で、私から見るとかなり爺さんに見えた。
恰幅は良く、見た目は社長タイプで貫禄はあるのだが【全然私好みではない!】という感じ。若手お笑い芸人タイプだった父とはまるで正反対。なんだか歌舞伎役者みたいで私は気に入らなかった。
 その人は築地魚河岸の場内に在る、老舗のマグロ屋の長男坊だそうで、かなりの食道楽だった。母や私を連れ、しょっちゅう美味しい物を食べさせに連れて行ってくれた。
 年に二〜三度程の旅行などにも連れて行ってくれ、いつしか私は母の恋人を「お義父(とう)さん」と呼ばされるようになった。
私は本物の父が大好きだったので、母が父を裏切ったように感じ、一時期は母を憎んだりもした。
でも母に「旅行先でオジサンと呼ぶのはまずいでしょう、お父さんって呼んでちょうだい」と言われた時、抵抗は有ったのだが、私は単純な人間なので、目先の食べ物や旅行の楽しさ等に目がくらみ、それに釣られて自然に「お義父さん」と呼べるようになったのだ。
 お義父さんは妻子のある人だったので、所謂母とは不倫の関係だった。最初は母の気まぐれな付き合いだと思ったのだが、後に母が亡くなるまでの二十数年間、お義父さんと母はずっとその関係を保ち続けた。
ある意味、父の事よりも愛していたのだろう。
それが少し寂しい気もする。
 やがてお義父さんがスポンサーとなり、中野に店舗を探し出して来、母に店を持たせる事になった。そこは店の奥がちょっとした住まいになっている住居付店舗だった。
私達は叔母の家を出、中野に移り住んだ。
 学校は歩いて通えない事も無く、少し遠くはなったが、転校はもう嫌なのでそのまま幡ヶ谷の小学校に通っていた。
母の店は川島通りと言う賑やかな商店街の外れに位置し、店は結構流行り始めていた。料理人を二人雇い、昼間は洋食屋。夜は酒や軽食を出し、スナックと言われる形態の走りのような店で、若い客達でいつも賑わっていた。
しかし、私が五年生の時、再び中野を引っ越す事になったのだ。
今度は千代田区の九段に良い物件が見付かったとの事で、これも又、大層へんてこりんな話ではあるのだが、中野の店は別れた父と父の愛人に任せ、私達は九段に移り住む事になった。
【何で大人はこうして自分達の都合だけで、子供を振り回すのだろうか・・・】
半ば勝手にしてくれと言う心境でもあり、未知との遭遇と言う期待も多少はあり、大人に振り回されるのは私の宿命なのだと諦めの境地でもあった。
まぁ、とにもかくにも、私は再び転校をし、九段の小学校に入ったのだ。

続く


2006年11月27日(月)

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