マキュキュのからくり日記
マキュキュ


 エッセイ 人生波茶滅茶


   第一章 ぐうたら神との出遭い
   【こんな私が出来上がった要因】     

 私は昭和三十年八月、記録的な猛暑の日、東京の世田谷区の生家で産婆の手により取り上げられたと言う。
父は全く売れない喜劇役者兼フリーター。母も全く売れない女優兼、銀座のクラブの雇われマダム。その他の家族は、父の実母である祖母と、祖母の姑である曾祖母の5人家族。
 読者は、そもそもこの時点で、私がまともな人間に育つ訳が無いと言う兆候を感じやしないだろうか?
 父は、日本で指折り有名な喜劇王と言われるまでになった母方の親類である伯父の口利きもあり、時には伯父の芝居の端役やTVの脇役で使ってもらったりもしていたようだが、芸風が古いのか、勉強努力が足りないのか、そこから一向に這い上がれずじまいで、いつまで経ってもパッとしなかった。
私の幼少時、父はストリップ劇場の前座のコントや司会などの仕事をしたり、時には仲間達と劇団を作り、小劇場などでアングラ掛かった現代劇などもしていたようだ。そして役者としての仕事が無い時は、得意な料理を活かしたフリーターなどもしていた。
 父は寂しがり屋でお調子者。ユニークで不謹慎でノンベェで、女好き―と、3拍子も4拍子も5拍子も揃った不真面目亭主&ダメ親父。
貧乏なくせにギャラを貰うと殆ど家には入れず、仲間内に奢りまくってしまうような、後先考えぬ楽しい事好きの人間だった。
そんな性格の父だから、各ストリッパーのオネエチャン達にも仕事仲間からも結構可愛がられてはいたと言う。
しかしこんな父でも以外に子煩悩だった。私の事はとても可愛かったらしく、都内での仕事の時などは、例えストリップ劇場だろうが、いかがわしい芝居小屋だろうが、打ち上げ会場のキャバレーだろうが、場所も構わず幼い私を連れ回した。
ただ、地方の仕事などが続くと、父は暫く家に帰って来ない事も多かった。
でも私は、優しくて可笑しくて、いつもふざけては皆を笑わせてくれる父が大好きだった。
 一方私の母は、私が産まれて暫くは子育てに専念していたらしいが、父に生活費を委ねるにはあまりに頼りないので、私が一歳の誕生日を迎えた辺りから、共稼ぎを再開したようだ。祖母と曾祖母に私を預け、再び夜の銀座へと復帰した。
 母は中々の美人だ。そして基本は優しく温厚で、物分りの良い話せる人間だった。
ただ、少々チャランポランな所や、ぶっ飛んでいる面も持つ一方、プライドが高く偶にヒステリックな面なども見せたりで、子供ながらに母の事を複雑な人間だと思っていた。
私に対しての接し方も、とても優しかったり冷たかったり、さっぱりしていたり暗かったりと、その時の母の気分や感情で左右されるような所が有った。
しかし、美人でお洒落で、何処か他の母親とは違うセンスを沢山持つ母は、私の最大の自慢だった。
父が家に居る事が少ない分、私はかなりのママっ子だったと思う。
父と母は仲が良い時と悪い時の差が激しかった。楽天家で事なかれ主義の父はその日が愉しければ良いというお気楽人間。
そんな父に呆れながらも、自分がしっかりしなきゃと、一家を支えていた母。
一家五人の生活費を埋めていたのは、ほぼ母の稼ぎからだろう。そんな事でよく父と母は、口喧嘩をしていた。
変わって、小さいバアチャン(祖母)は当時、まだ五十代の後半くらいだったのだろうか、確か、何処かの大学の売店か何かでパートをしていたと思う。
私の面倒を見てくれていたのはもっぱらこの祖母で、小さな頃はよく多摩川の河原に近所の仲良しと一緒に、遊びに連れて行って貰った記憶が有る。
祖母もかなり勝気な人で、母と祖母の間には始終小さな衝突があった。原因は私を廻っての喧嘩、父の事での喧嘩、互いの事での喧嘩と様々だったようだが、私は両方とも大好きで立場上二人に恩義がある。母の味方も祖母の味方もする訳には行かず、幼心に板ばさみにされ随分困ったものだ。
互いの言い分は幼い私にも良く解るのだが、どちらかの味方をしたら、どちらかが可哀想だと思い、何時もどっち着かずだった。
私に、言いたい事が余りストレートに言えず、平和主義的お調子者の性格が身に付いてしまったのは、どうもこの頃からのようだ。
 大きいバアチャン(曾祖母)は当時八十歳近かっただろうか、あだ名のようにかなりふくよかな体系で、何時もどっしりしていた。
祖母と曾祖母は嫁姑の関係にあり、殊の外仲が悪く、始終私の取り合いをしていたらしい。大きいバアチャンとの記憶で鮮明に覚えているのは、家には白黒の飼い猫が居り、その猫を膝に乗せ、毎日縁側で日向ぼっこをしていた姿と、ホウサン水に真綿を湿らせ、始終目の消毒をしていた姿だ。
曾祖母はモスグリーンと白の水玉のスカーフがお気に入りで、三枚同じ物を用意し、常にトレードマークのようにそれを首に巻いていた。後の曾祖母の葬儀の遺影の首にも確かそれが巻かれていたと思う。
曾祖母が脳溢血で倒れ寝たきり状態になった時、言葉を失い、時々何とも言えぬ唸り声を上げていた。今考えれば大変申し訳ないのだが、当時の私にはそれがとても恐ろしかった。近くを通るたび曾祖母は私を求め、唸りながらおいでおいでと手を伸ばすのだが、どうしても怖くて近付けなかった。
曾祖母は健康時から祖母とは仲が悪かったのだが、母の事は好きで頼っていたみたいだ。
倒れてからの曾祖母は益々祖母に対し疑心暗鬼になり、祖母には一切手を触れさせなくなったと言う。
祖母が食事の世話をしても「毒! 毒!」と、あらぬ妄想を抱き、母が調理した物しか口にしなかったらしい。
そんな事が尚更祖母の機嫌をそこね、母と祖母の関係は益々険悪になった。
当時の母は、仕事、曾祖母の世話、私の世話、父の世話と大変だった。なので私は幼い頃から母に甘える事が中々出来ず、何処か遠慮がちな子供だった。常に母の顔色を伺い、母の機嫌を伺い、機嫌の良い時にだけ、この時とばかり甘え貯めしていたような気がする。
そして、私が幼稚園に上がるか上がらないかの頃、曾祖母が他界した。
この通り、我が家は私の外は大人ばかりで、しかも両親が不規則な仕事を持っていたため、おおよそ生活臭の無い家庭だった。
父も母も揃って家に居る時には、父母どちらかの友人達が家に押し寄せ、明け方までドンチャン騒ぎをしていたり、母も含めマージャンだのポーカーだののゲームで盛り上がっている事も多く、父の悪友の一人は必ず寝ている私を起こすのだ。要はマージャンの順番待ちの間、私は彼の遊び相手にさせられる。
でも、普段寂しい思いをしている私はそんな時間が楽しく、大人に混じりポーカーやコイコイなどをして遊んでもらうと言う、教育上最悪な環境の家だった。
父や母も黙認していて、決して彼を咎めようとはしないから笑っちゃう。
やがて私が小学校に上がるようになっても、父は相変わらず安定した収入を掴めなかった。
役者としての仕事は殆ど金にはならず、フリーターの仕事で凌いでいたようだ。
生活の苦労や日頃の父の浪費などが母の不満となり、私が小学校に上がった頃になると頻繁に父と母はやり合っていた。時には祖母を含め三つ巴で遣り合っている事も有る。
私はそんな場面に出くわすのが嫌で、友達が帰った後も、又公園に一人戻り、暗くなるまでブランコを漕いでいた事が良く有った。
 大人って、何であんなに喧嘩ばかりするのだろうか・・・。子供心に不思議だった。
個性が強い大人達にもみくちゃにされながらも、それでも世田谷の生家は楽しかった。人が沢山居た家が楽しかった。夜中に遊んでくれる大人が集まる家が嬉しかった。
 健全な家庭には程遠いが、その分どこかユニークな魅力に溢れている家だった。
こんな家に生れ落ちたお陰で、私の感性は何処か人とは違う方向性を持つようになる。だから複雑怪奇な家庭に産み落とされた事に対し、決して後悔は無い。
ただ、この辺りから、どうやら宇宙の総神様が私を放っておけなくなり、私の傍らに【ぐうたら神】を派遣させたようだ。
きっとこの神は、神様の中では一番新米でペイペイの神様なのだろう。私の人間レベルに見合う神様は他には誰も居なかったのかも知れない。
ぐうたら神は私の手をしっかりと握り締め、それから後の私の人生の良きパートナーとして大活躍してくれる事になる。
時に私と大喧嘩をし、時に私を絶望の淵へと沈め込み、時に仲良く寄り添い、時に親身に叱ってくれ、親代わりとして私に様々な人生ドラマを体験させてくれるのだ。

次回に続く


2006年11月23日(木)

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