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■ 長編エッセイ 人生波茶滅茶
【ぐうたら神と手に手を取って】 (前書きのようなもの)
今も私(アタシ)は、ぐうたら神に生かされている。 昨年の八月、私はついに五十歳の大台に乗ってしまった。 満五十歳と言うのは何か不思議な感覚だ。三十歳とか、四十歳の時の方が中途半端に年を食っちゃったような気がして嫌だったが、いざ五十歳になってみると返って小気味良い。 そして私に取ってこの五十歳こそが、何か人生の大きな節目になるような気がする。逆に言えばいくら何でも、もうそろそろ節目を作らなければ私は一生涯ダメなままで死んでしまう事になる・・・。そんなの絶対に嫌だ。 それにしても、この私が五十歳かぁ。もう人生の三分の二も生きちゃったんだよなぁ。 この五十年に至る人生、とてもじゃないが人様に自慢できる代物など何も無く、自分でも嫌気が差すほど波乱ずくめのダメ人生だった。 よくもまぁ、此処までずうずうしくも生きて来られたものだ。 実は、幼い頃の私に【ぐうたら神】という名の一人の神様が取り着いた。 ぐうたら神とは私が勝手に付けた彼へのあだ名だ。 ぐうたら神は、万年の貧乏神、時に疫病神、挙句は死に神にまで変身し、私を容赦なく痛め付ける事のみに快感を見出し、私をよほど憎んでいるのか愛しているのか、今尚私の傍らに寄り添ったまま一瞬たりとも離れてくれようとはしない。 でも、このぐうたら神、満更悪い事ばかりを起こす訳でもなく、諦め掛けた頃になってチョビットだけ嬉しい事なんかを送り込んでくれちゃったりする物だから始末に終えない。そこが憎み切れない訳で、又、曲者なのだ。 どうも私の人生は、束の間良い事が起こると、その数倍悪い事が起こると言うシステムになっているみたいだ。言い換えれば、辛く苦しい事があれでもかこれでもかと続き、マックスに達すると、チョトだけ御褒美を与えられるような仕組みになっているようだ。 もう、そんな人生に慣れ切ってしまい、良い事が少し続くと、その後のアクシデントがより大きくなるようで恐ろしくていけない。 五十歳になった今現在も、後ほんの一突きでトドメ? と言う場所で、喘ぎながら生きている。果たしてこの神は、何れは私にどんな人生結果を齎してくれるのだろうか? 今度こそダメだ、今度こそ終わりだ。そう言い続けながら、ついに私は五十歳になった。 でも、もしぐうたら神に何れは取り殺されるくらいなら、最後の最後くらいは自力で何かしてからじゃなければ悔しくて死ぬに死ねない。 彼と離別する最後のチャンスになればと思い、ある意味、捨て身でこの自虐手記を書く決心をした。 誰かがこれを読み【こんな生き様で良くもまぁ、今まで生きて来れたもんだ。私より(俺より)無様な人間も居るじゃないか。ならばもう少し私も(俺も)頑張って生きてみるか!】そう感じてくれたら本望なのだ。 きっと世の中の人々は、今現在成功している人はともかく、人の失態を知る事でより気楽になれるケースもアリではないかと思う。 私が僻みっぽいからかも知れないが、自分がダメで落ち込んでいる時、サクセスストーリーほど読むに耐えない物は無いもの・・・。 ただ、こんな私でも、人生の生き方や、成功法、哲学書やポジティブシンキングのノウハウ本など、図書館通いをしながら散々読み漁ってはみた。しかし私の人生は一向に上向きにも金持ちにもならなかった。それどころか自分の粗ばかり余計に思い知らされ、返って酷く落ち込む事の方が多かった。 あれは成功した人が書いた本だから成功本と呼ばれるのだ。別にそれを書いた後に成功したのではないと思う。ならば私は逆を行く。 私は人生の失敗本を書いて成功したい。 そんな私の【波乱万丈玉突き式踏んだり蹴ったりズタボロ人生】を、是非とも最後の最後まで読んでいただきたい。 そしてこんな最悪人間でも、結構楽しみながら生きては行ける物なんだという事を知って頂き、今が辛過ぎる人には少し、肩の荷を降ろして楽になって欲しいのだ。 これは勿論、サクセスストーリーなどではない。 未だ発展途上人間の赤裸々白書だ。 又、最たるダメ人間の私が、ダメ人間だと思い込んでいる人々に送るエールでも有り、私自身の遺言書のような物でもある。
平成一八年・十一月の晴れた日。
続く
2006年11月22日(水)
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