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みんみん



 (業務連絡)

映画「大停電の夜に」の試写会(15日19時〜、Fァボーレ@当然T山)入場券があるのですが、行けなくなってしまいました。
行ってもいいかもという方がいらっしゃいましたらお譲りします。ご連絡ください。

りー氏曰く、「デンキに大きくしてもらったのにそんな恐ろしいタイトルの映画観ていいの?」。
ごもっとも。
# 音楽目当てだったんですわ。

2005年11月13日(日)



 このごろ三題

こちらは久しぶりで、タイトル付けるに事欠いて。

まずはりー氏のこのごろとか。

2日(水)。
おたんじょうびをむかえる。おめでとう37さい。
この日はどうもお仕事関係でうげー、らしかったのだけれど、早めに帰ってきて、某ビストロで飲み食い。今日もうまかった。

4日(金)。
週末は越後妻有へお手伝いツアー、のはずが、思わぬ方角から火の粉が飛んできて、楽しみにしていたお手伝いはキャンセル、一転お仕事に。むーーーーーん。
せっかく買ったつなぎ(しかも嬉しくて1晩着て寝ていた)は次回へ持ち越し。
夜中、妻有ツアーのお客様をお泊めする。

5日(土)
りー氏の友人・Kさんも今回のツアーは直前断念組なのだが、そのKさん宅では洗濯機にトラブルがあったらしい。
で今朝洗濯機を回していたら、何を間違ったかいきなり排水ホースがあらぬ方向に外れ、台所(キッチンというよりこの謂いがふさわしい。一隅に洗濯機が置いてある)の床が水浸しになる。不本意な水回りの始末。これはこれはなんとも気の合った、というか合いすぎる2人というべきであろう。

電車に乗っていたら珍しくりー氏よりメール。
「ほぼシロ」というタイトルで、内容は、近所でしろそっくりな猫をみかけたというもの。柄といい寄り目具合といいシモの手術痕といい、たぶんしろではないかと推察するりー氏。鈴をつけていたそうだからどこかの家の猫のようだ。
みけこもしろもさびこも剛田も黒白もチビタも黒ちゃんも、幸せならそれでいいんだよ。
いなくなった日本の猫たちは、御嶽山に修行に出ているんだそうな。



来月の17日(土)に大貫(妙子)さんがまた富山(福野)にいらっしゃるそうなのだけれど、世間では全然告知されていないような気がする。いけません!
かくいう私も全然知らなくて、音楽といえば、のM氏より初めて知らされたのけれども(M氏もなじみのレコード屋さん経由らしいけれど)。こういう場合も対バンっていうんでしょうか、一緒にバンバンバザールも出るそうです。
何にせよ、早速チケットは確保済み。今回も最前列中央で観ます(すごすぎる富山のチケット事情)。今からうっとり。



▼林真理子『アッコちゃんの時代』(新潮社、2005)
町山広美の書評を先に読んで小説に取りかかった。町山広美とその友人である(あった)故・ナンシー関も、「アッコ」ちゃんあるいは「A子」さんが気になって気になって仕方なかったということだ。書評を読むと、どんな意地悪い小説なんだろうかと、げっそりというかそわそわというかしてしまうのだけれど、そんなでもない。書評のイジワルさ(笑)に比べれば。
林真理子の小説には詳しくないのだけれど、人の心の中の、どこか冷めたくすみのようなものもポイントのひとつなのだろう。しかしこの作品については、そういった観察の目もなるほど感じられるのだけれど、むしろ憧れにも近い感情の方を強く感じた。観察が行き過ぎると冷たさだけが残るものだが、それはなかった。小説はやはり、対象に愛情がないと書けないということだろう(批評だって本当はそうであるべきだと思うが。表現はいろいろであっても、少なくとも、自覚すべきだと思うが)。
町山氏(とネット上で書くと弟さんの方みたいですが)の書評からは、「アッコ」ちゃん、あるいは「A子」さんのことを先に書かれて悔しいという気持が伝わってくるけれど、書評のようなトーンだったら、たぶん、町山氏による「アッコちゃん伝」(仮)は、結局、いつまでも書かれることはなかったんじゃないか、とちらりと思う。

それで、本作を読むと、当然というかなんというか、対照として田中康夫の小説やら評論やらを思い出す。
(ある)時代をリアルに感じ、読む面白さ。しかし小説は単なる風俗資料とか文化資料ではないのだ。って、あれ、なんかどっかでやってるようなことだな。
そのような意味で面白かったので、野地秩嘉『キャンティ物語』(幻冬舎文庫)を読み直すことにする。これは小説ではありませんが(いつの間にか文庫本になっていたようだ)。

2005年11月11日(金)
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