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みんみん



 新しい詐欺

最近は、「おれおれ詐欺」ではなくて、「振り込め詐欺」と言うそうです。
初めて接したのはラジオニュースでしたが、「振り込*み*詐欺」の間違いではないかと思いました。耳になじまない言い方のように思えたので。
でも「振り込め」と(犯人が)言う詐欺なのですから、「振り込*め*詐欺」で正しいのですね。

「振り込*み*詐欺」っていうのがあるとすれば、それは、勝手に振り込んでくれるというものでしょうか。何だか楽しそうです。
でもそれはわなで、残高が増えている〜わーい、と、よく確認もせずに使っていたら後で脅される、とか。
まさか。

さて、なぜ、耳に聞いてひっかかりを覚えたのかといえば、それはたぶん、「詐欺」にくっつく語が名詞あるいは活用語の連体形でなかったからだと思われます。連体形だと「振り込み詐欺」になるけれど、それでは詐欺の実態をあらわしていない。
試みにデスクトップ上の広辞苑(第四版)で「詐欺」を後方一致検索してみると、

おきや‐さぎ【置屋詐欺】
きず物または粗悪品を良品のように見せかけ、質屋に高値で質入れすること。また、その者。

かごぬけ‐さぎ【籠脱け詐欺】
金品をあずかったうえ、表口に人を待たせて建物の中に入り、裏口から抜け出して跡をくらます詐欺。

とりこみ‐さぎ【取込み詐欺】
初めから代金を支払う意思なしに物品を取りよせ、転売などしてしまう詐欺。

とあります。「置屋」は名詞、「抜け」(cf.「抜ける」下一段活用)「(取)込み」はいずれも動詞の連体形。他に思いつく例というと、「結婚詐欺」「寸借詐欺」あたりですが、いずれも名詞が前に来ています。

なんだか物騒な用例が並びました。

つまり、「振り込め詐欺」というのは、「振り込め! 詐欺」なのですね。連体形に接続しない「詐欺」。そう考えると腑に落ちます(私が)。
ほかに名詞あるいは連体形以外の語を伴う「詐欺」はあるでしょうか。もしないとすれば、この詐欺は、手法だけでなく語法までも新しく生み出したということになるのかな。

2004年12月13日(月)



 今日のニュース

曽我さん一家佐渡へ(よござんした)、というのもありますが、この件で。

<OECD>15歳の読解力低下が浮き彫り 処方せん見えず(毎日新聞)
<学力低下>「悲惨な結果」と専門家 OECD調査(同上)

そやろそやろ、んなもん当然、と言いたいところですし、実際言ってもいます。
また、ええっ、「若者世代」(と、あえてぼかして書きましょう)でもすごいと思うのに、10年下の世代はもっとすごくなるのか、うへー、とも思います(まあそれはどの世代も言われていたことだと思いますが)。本当のところは。
ただ、嘆いていても仕方がない。

かつて、中学生とか高校生くらいの頃、父が、「このまま(今の若者の状態)だと日本はダメになる」というようなことを言おうものなら、これからの世代を代表すべく(いや、そんな大げさなことでもないけれども)、そんなの、ただ嘆いたり文句言ったりするなんて生産的じゃない、そんな無責任な、と言い返したものです。
今は私も憤る。じゃあ一緒になって憤っているか、というとそうではなくて、父などはもう諦めているのか、そんなこと言うもんじゃない、と諫めるのです。お前だって大して変わらないかもしれないのに、と。
でもそんなおさまり方ってどうにもネガティブで、やはり無責任であることは変わらない。怒っているだけの私がいい気なものであるのと同じように。過ぎ去った都合の悪いこと(自分の愚かさにまつわるいろいろとか)は、皆、忘れるのです。

「学力低下はっきり認識すべき」・中山文科相
(日本経済新聞)


この記事の中で中山文科相は

子供が小さいころから、なぜ勉強しなければいけないかという動機付けをしなければならない

と述べている。その指摘はなるほど正しいでしょう。
しかしそもそもその答えは、大人の側に共通して了解されているだろうか。そこから考え直さなくてはいけないように思います。

これに関連して耳にしたニュース、

特区申請:世田谷区の日本語教育特区申請−−若井田正文教育長に聞く(毎日新聞・東京版、2004年10月15日付)

によれば、世田谷区は、従来までの、作品読解を中心とした「国語」の時間の他に、「日本語」の時間を設け(てい)るのだそうです。
「国語」が読解と鑑賞(あ、「鑑賞」はあんまりしているとは言えないか……)で、「日本語」が読み書き文法のスキル、ということなのでしょうか。国語も日本語も同じでしょ、と、とっても不思議ですが、とりあえず言葉を変えて新しい一歩が踏み出せますというのなら、何もしないよりははるかにまし、ということになりましょうか。
中学校では哲学や日本文化の授業なども行うそうです。現在、高等教育の場における文系基礎学の状況はまったく悲惨だとしかいいようがないのですが(まあそれもー、そこに至るまでにも様々な理由があったと思うのですが)、そんな閉塞した事態を打破するのは、初等・中等教育をめぐるいろいろしかないのかも。

そういえば先日、若者と、高校の現代文で、答えがひとつしかない、というのがいかに恣意的であるかということを思った、という話題になりました。ええ本当に。
でもいい先生だと、「あるべき答え」と違っていても、それなり面白がって尊重して下さったように思います。その上で、それらしいのを見つけて*やる*っていうのも。
あーでもないこーでもない、とあれこれ考え、あらわす。授業という場において堂々とそれが出来るのは、中等教育の場であれば、現代文か数学の授業なんじゃないかと思うのですが(注・他の授業は考えなくてもできる、という意味ではない)、どうでしょうか。

「先生」と呼ばれる業種の中で、最も重要で難しい(それゆえやりがいがあるとも言えそうな)のが、小学校の先生ではないでしょうか。何がいいって、授業中だけじゃなくて、それ以外のいろいろをトータルに見られるというところが。
たとえ国語が/算数が/体育が/図工が苦手でも、学校にいる時間は長いのです。

なんて、中学高校生の時には、全然、思いもしなかったのだけれど。というか「小学校の先生になりたい」なんて人を、フーン、という目で見ていたほう。どこかから(例、ふとんの中から)「やなやつー」という声が聞こえてきそうです。はいいやですわ。反省します。



昨日の補足。
私が ん? と感じていたのは、母性肯定に至る過程に他者は存在するのか、ということです。つまり、時に、存在していないようにも見えていた(いる)ということです。

2004年12月07日(火)



 

フェミニズムやジェンダーに関するいろいろをぱらぱらとめくっている。
それは、リプロダクティブ・ヘルス/ライツという語を知るきっかけとなった場に出かけていったこと(cf.11月18日)や、その関連で、

▼山口智美「『ジェンダー・フリー』をめぐる混乱の根源(1)」(『くらしと教育をつなぐWe』2004年11月号)
http://home.uchicago.edu/%7Etomomiy/articlesj/gfree1.htm

のような一文に出会ったからであり、また、久しぶりに会った友人(同業の男性なのだけれど、年数回会った時の雑談が楽しみ)と、最近読んだ本について話していて、フェミニズムをめぐる言葉や論考いろいろについて意見感想を求められたからでもある。さらに、おじゃましている日記や掲示板で話題になったりもしていた。
その中で必然的に自分自身のジェンダー感覚についても考えることになった。


▼大塚英志「『彼女たち』の連合赤軍−−サブカルチャーと戦後民主主義−−」(文藝春秋、1996)

漫画家が描く「育児本」をめぐる一節。

そもそも彼女たちがなぜ、自分たちの「母性」を受容する気持ちになったのか、その点をめぐっての記述が忌避されている点である。

いきなり全面的自己(あるいは母性の)肯定から始まる、その根拠は何なのか、と大塚氏は述べている。
……んー、書いても面白くない、(と思われている)から?(笑)。

漫画家に限らずともよい。

その疑問は、私の、妊娠して母になっていった友人知人たち(もちろん全ての、ではない)と接する中で感じていた違和感とどこか相通ずる。大塚氏の意図は、もう少し広く、母性(あるいは妊娠・出産)をめぐる、ある時代的変容を問題としており、そして最終的にはたぶん、戦後の歴史というものを描こうとする試みでもある。私の感想はたぶん、非常に恣意的というか、個人的な実感に即しすぎているのだろう。
もちろん、「母」である友人知人の、誰に対しても、常に、ん? と思っていた、というわけではなく、もちろん、よい風にいろいろと考えさせられ、励まされる時もある(あった)。
「励まされたこともある(あった)」と書くことがexcuseであるように捉えられかねない気もする。ん? と思うこと自体がけしからんことのようにも思われて、書くこともはばかられていたのだけれども、書いているわけだ。

結局、私が「問いつめたい」のは、個々人が獲得した母性についてではなく、母云々以前の人間性についてであり、当然「転向」することがあってもいいと思うけれど(私も前言翻しっぱなしだし)、それにあたっての自省はないのか、と思ってしまうのは、たぶん、かなり潔癖すぎるのだろう。


▼同「江藤淳と少女フェミニズム的戦後−−サブカルチャー文学論序章−−」(筑摩書房、2001)

序章「犬猫に根差した思想」に膝を打つ(そのまんま)。
直感的に問題の所在を掴むことがうまい人だと思う。ただ、それを論じてゆく中での理論づけがやや弱く、気がつけば行を進まされていたというか、ちょっと強引なんじゃないの、と思わせる点もあるか。それは論ずる場においてはまずいが、大づかみする魅力というのも確かにある。
そんなに多く読んでいるわけではないので慎重にならざるを得ないけれども、もしかしたらパターンが鼻につきかねない書き方なのかも(なんて書くとけなしているようだけれど、ここで挙げた2冊、特に前者は面白かった)。
江藤淳を扱った節での田中康夫批判(『なんとなく、クリスタル』の主人公が、恋人にひかれていくのは結局セックス(大塚氏はもっと直接的に書いているが)じゃないか、というような内容は、なんというかあまりにもありがちというか、雑なような。微細な(価値の)グラデーションを描こうとするところに田中康夫の小説の魅力(と、嫌いな人にはいやらしさとしか見えない何か)があると思うので。

かなりいい線いってるかも、な視座はあったとしても(それはあると思う)、これで全部オッケー、なんていう、小説の「読み解き方」みたいなのはありえない。近現代以降の作品だと、書かれている言葉を「わかる」と錯覚しがちなだけに、なお。
恣意に陥らずして読む。でも書くのも読むのはそれぞれにある個人。

カッコが多いですね。

2004年12月06日(月)
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