くじら浜
 夢使い







夏の力   2002年07月22日(月)

そのパワーは
すべての生命の源









返し唄   2002年07月19日(金)

なんかなしゃうむいや
しおとぅなり
てぃだとぅなり
まくとぅとどきょり

あなたの島を想う愛しい恋しい気持ちは 潮となり熱い陽射しとなり
たしかに我が先祖にも未来の子たちにも届くでしょう



うたぐえはてぃきちむきゃい
ちぢんやうみちむきゃい
うどぅりばなみんたち
たちがみあてぃんうどぅりょぅり

唄声は月に向い チヂンの音色は海に溶け 
 みんなで踊れば沖の波が立ち 立神さえも踊るでしょう



なまみゅんぶるぶしや
いちゅうどぅたんかい
わきゃうじうばと
うどぅてぃたんかい

今見えるあの星達の舞は いつ頃踊ってたんでしょう
 私達のおじいやおばあと一緒に 踊ってたのでしょう



なまわきゃうどぅれぃば
てぃんつうじてぃ
うんうたあしびはとぅわに
なりょり

今わたしたちが踊れば この空をつうじて
 この唄遊びは過去から未来までずっと 続きます



かなしゃしま
かなしゃうた
かなしゃうじうば
いつまでんかわらんうむいや
いつまでんかわらんてぃんぬいりぉ

愛しい島 愛しい唄 愛しいおじいおばあ
 いちまでも変わらない想い いつまでも変わらない空の色












御風   2002年07月11日(木)

予想コースを少しずれて
東京には直撃しなかった台風6号。
それでも昨夜24時くらいは雨風とも結構強くなり、
嬉しくて外で濡れ吹かれました。

でも島の台風と比べるとやっぱりここの台風は軟弱で上品で、
荒れ狂うハイヌミカゼはここではまだ一度も体験してません。


神に選ばれし御風は
神に選ばれし人にしか吹きません










「今夜、ビートルズが街をうめつくして」・後編 /小山 薫堂    2002年07月07日(日)

奄美大島出身の彼は、とにかくいつもまっすぐに生きてきた。いい意味でヤツの人生は不器用すぎる。自分の思ったことを思った時にする。一度決めたらそこに向かって走り続ける。

あの夜、歌を聴かせてもらった僕は日大芸術学部に受かり、そして、歌を作って聴かせてくれた平田は落ちた。それでも平田は自分の落ちたことも忘れて、僕の合格を喜んでくれた。結局、平田は日大の工学部に入学。大学を卒業してからも、アルバイトをしながら自分の歌を作ってはそれを歌い続けた。プロデビューしたい、という意志は少しはあったのかもしれないが、僕から見れば『歌いたいから歌う』、、、そんな風に見えた。決して一発当ててビッグになってやる!、、、という野望に満ちたハングリーな男ではない。本当に純粋な気持で『いい歌を作りたい』と思い続けてきたんだと思う。


「ますますその歌を聴きたくなってきたね!」
モデルの女の子が言った。僕はみんなに平田の歌を聴かせることを約束して、その夜別れた。



それから、およそ1ケ月後。

1993年1月9日、東京に雪が降った。
僕はすぐに、あの夜に集まった仲間と馬場さんに電話を入れた。夜8時、新宿西口中央公園。結局、あの夜にいた10人のうち集まることができたのは7人。
たったの7人の観客は、雪の中傘をさして平田を待った。ゆっくりと舞い降りてくる粉雪が、都庁の照明に照らされてキラキラ光って見えた。

そして、少し遅刻して、アコースティックギターをかかえた平田がやってきた。
「途中で、道に迷っちゃって、、、」
と苦笑いする平田のギターケースには少し雪が積もっていた。寒さに震えている僕たちを見ると、平田はすぐにギターケースを開き、チューニングもせずに歌い始めた。白い雪をはきながら歌う平田のハードヴォイスが、真っ暗闇ではない東京の空に舞い降りてくる雪をかき分けながら突き進んでいく。


みんなの震えがピタリと止まるのがわかった。


歌が終わり、僕たちはドラマの1シーンのようなこの光景に酔いしれていた。
何も言わない。
拍手もしない。
雪が頭に落ちてくる微かな感触がよかった。
と、その時、、、
「風邪ひくから、デニーズでも行って、コーヒー飲みませんか?」
僕たちのドラマの主役は、自ら、そのシーンをぶち壊してくれた。本人は、何も分かっていない。
『らしい』と思った。

デニーズでコーヒーを飲みながら話し込んでいるうちに、「今日来れなかった3人、残念だったね!」という話になった。すると、誰かが「CD作らない?プライベートCD」平田は最初渋っていたが、僕たち10人分だけということで納得してくれた。レコーディングは仲間のディレクターがこっそり準備したあるラジオ局のスタジオで行われた。平田があらかじめ作ってきたカラオケを使って一発録りするという素人的なレコーディングだった。


それから1ケ月後、
たった10枚の『今夜、ビートルズが街をうめつくして』が完成した。もちろん、それは馬場夫妻も含める10人の手に渡り、この小さなドラマは終わった。、、、、かのように見えた。


しかし、実はこれが終わりではなく、始まりだったことに気がつくまでそう時間はかからなかった。それぞれがそれぞれの友達にそのCDを聴かせているうちに「是非、わたしも一枚欲しい、、、」という声があがりはじめたのである。急遽僕たちは平田を呼び、あと20枚だけ作らせて欲しいとお願いした。それが、30枚、40枚、、、と増え、とうとう100枚も作ってしまう結果となった。その一枚を偶然手にしたのが、音楽事務所をもつ三上さんという人である。三上さんは平田に会ってみたいと友人の友人を介して訪ねてきた。
そして、実にあっさり、平田は三上さんに自分の大切にしていた歌を預けた。僕は少し三上さんに嫉妬を覚えたが、「三上さんなんて、モロにビートルズ世代でさ、、、その世代の人が、涙流してくれたんだよ」と嬉しそうに言う平田の顔を見るとその気持も吹き飛んだ。


まっすぐに、そして自分に素直に音楽をやってきた平田がこれからどうなるかは分からない。飾らない美しさをどれだけの人が美しいと認めてくれるのか、僕はそっと見守ることしかできない。


≪ おわり ≫



この作品はAKIRALAND.COMよりの転載です。
著作権は小山薫堂氏及びAKIRALAND.COMにありますので、無断複写、転載を禁じます。


【 後説 】

あの「料理の鉄人」「ハンマープライス」「進め!電波少年」等で知られる放送作家、小山 薫堂(こやまくんどう)のオリジナル短編ストーリーです。このストーリーは実話をもとに創作され、93年12月にタイトルを原題どおり「今夜、ビートルズが街をうめつくして」でにっぽん放送でラジオドラマ化された物語でもあります。

また、ここにでてくる楽曲も93年12月に東芝EMI-TMファクトリーから同名のタイトルで発売されています。

平田アキラは現在『ネリヤ☆カナヤ』で活動中です。












「今夜、ビートルズが街をうめつくして」・前編 /小山 薫堂   2002年07月05日(金)

全ては一つの小さなエピソードから始まった、、、

それは去年12月8日のこと。いつも集まる7人の仲間と、
ホイチョイプロダクションズの馬場康夫さんの自宅で酒を酌み交わしていた。いつも集まる7人、僕を含めて8人の仲間は馬場さんを介して知り合った。職業は全員バラバラ。雑誌編集者、コピーライター、ディレクター、
マーケッター、モデル、放送作家など。ただ、世代だけは同じ20代後半だった。

夜も深まってきた頃、その日がジョンレノンの命日であることに僕たちは気づいた。馬場さんが学生時代に買ったという「アビーロード」のLPにわざわざ針を落とし、馬場さんのビートルズ談義が始まった。有名なジャケット写真の噂に始まり、馬場さんはいつもの早口でビートルズ観を喋りまくった。

馬場さんの話を聞いているうちに、僕はある一人の古い友達のことを思い出した。
「そう言えば、高校時代の同級生に、ビートルズって言葉を記号にして歌を作ったヤツがいるんですけど、その歌がめちゃくちゃいいんですよ」
すると、すぐに馬場さんが切り返してきた。
「記号ってどういうこと?」


正直なところ、僕たちはそれほどビートルズを知らない。ビートルズが日本に来日した頃に僕たちは生まれ、ジョンレノンが撃たれた時、まだ高校生か中学生。ジョンレノンの死が僕たちのビートルズの始まりだった。

「そいつも、ジョンレノンが死んだ時、ビートルズのLPなんて一枚も持ってなかったんです。ジョンレノンが死んだというニュースより、その死をたくさんの大人たちが悲しんでいる、という事実にショックを受けてそいつは曲を作ったんです。」

心の支えを失った時人はどこに向かえばいいのか、、、、それがその曲のテーマであり、そのきっかけがたまたまビートルズだった。

馬場さんはすこし憤慨した様子だったが
「どんな歌?歌ってみて?」
と、一番若いモデルの女の子が言ってきた。が、、、、そう言われて僕は困った。何しろ聴いたのは11年も昔。しかも一度きり。


大学受験のため東京に出てきた時だった。そいつと僕は同じ日大芸術学部を受験するために、新宿の同じホテルに泊まっていた。試験の前日、大雪が降った。窓の外にある都会の風景が真っ白に雪化粧されていく。さっきまであれだけうるさかった街が、まるで眠ってしまったかのようにおとなしくなった。確かに九州出身の僕にとって東京の雪化粧は感動的だったが、その時はそれどころではなかった。試験は明日に迫っている。そんな風景にみとれている暇はない。

それから数時間後、窓がすっかり曇り外が何も見えなくなった頃、鉛筆のコツコツという音だけが響く僕の部屋にノックの音がした。ドアを開けるとそいつが立っていた。
「歌を聴いて欲しいんだけど、、、」
2ケ月前に書いてずっと大切にしていたという詞に、この雪を見てたった今曲をつけたというのである。驚いた、というかあきれた。大学受験の前夜にもかかわらず雪を見た感動のあまり、作曲をしていたというのだから。

そいつは、僕の部屋に入ってくると曇った窓をセーターの袖で拭いた。その向こうにしんしんと降り続ける雪が見える。そして、そいつは、、、、鳥肌がたつほど、感動した。時々かすれる声が東京の雪の夜にとにかく似合った。



「やっぱり聴かしてよ、その歌」
今度は馬場さんが言ってきた。しかし僕はその期待に応えられなかった。その曲に感動したが、肝心のメロディーをほとんど覚えていないのである。むしろ僕の方がもう一度聴きたいくらいだった。
「今からその友達呼ぼうよ」
誰かが言った。けれどもそれはむりな注文だった。いや、正確に言えばそいつを呼んできたとしても、その歌を聴くことはできなかった。

「それ、どういうこと?」
今度はさっきまでキッチンにいた馬場夫人が尋ねてきた。
そいつは、その曲を雪の降る夜にしか歌わない、と決めたのである。あの夜に。雪の鍵がないと聴けないオルゴール、、、みたいなものだった。

「そいつの名前なんていうの?」
「平田アキラ」






みんなは、平田のことを笑った。そして、平田が11年前に口走ったことを今でも信じ続けている僕のことも。ドラマじゃあるまいし、そんな決意を守り続けているヤツなんていないと言うのである。その場で僕は数年ぶりに、平田に電話をかけた。
「...というわけなんだけど、あのビートルズの歌、今からこっちに来て、歌ってくれない?」
僕が誘うと、平田は笑いながら、
「だからあん時、言わなかったっけ?アレ、雪の日しか歌わないって」
と、サラリと言った。みんなは驚き、そして僕は嬉しかった。

そんなヤツである、平田アキラは。


≪ つづく ≫




この作品はAKIRALAND.COMよりの転載です。著作権は小山薫堂氏及びAKIRALAND.COMにありますので、無断複写、転載を禁じます。











夢使い的千鳥浜   2002年07月02日(火)

千鳥よ 千鳥よ
夕暮れの浜辺にいつまでもたたずむ千鳥よ
おまえの鳴き声はどうしてそんなに哀しいのだろう
潮が満ちたから鳴いているのですか
沈む陽に故郷の母の面影を見て鳴いているのですか

いつまでも鳴いている千鳥よ
潮が干いたらおまえは鳴きやむのですか
また陽が昇ったらおまえは鳴きやむのですか
海は母であり
太陽は父であり
母と父があるかぎり潮は満ち干きするのですよ

故郷の太陽はこの浜にも降っているよ
故郷の魂もこの浜に降っているよ

さあ 
千鳥よ 飛立ちなさい



千鳥よ 千鳥よ
おまえの後ろのあのアダンの丘に昇ってごらん
そこから母を眺めてごらん
そこで父を浴びてごらん

おまえの涙は潮となってこの砂浜を伝り
母と混ざるだろう
おまえの汗は潮となってこの海を伝り
父と混ざるだろう

だから
故郷の太陽はこの浜にも降っているよ
故郷の魂もこの浜に降っているよ


さあ
千鳥よ 飛立ちなさい









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