風紋 もくじ / この前 / この後
私がこのスペースで書いている「風紋」というWeb日記は、書きたい時にこの場所に書けることを書く、Web上の日記だということも意識して書く内容と書き方はある程度節度を持つ、書けない時は書かない、書きたくない時も書かない、ということを心がけるようにはしている。 というわけで、今日は私にとって、書けないながらも、上記に記したような意味では記録に書き残したい1日であったので、書いてみた。 今日見たビデオ:以前から見ようと思いながらどうしても見る勇気がなかったビデオ。「見よう」といったん思って見ると、割とすんなり見ることができた。見終わって、改めて「私は何者か」「今まで私は何をしてきたのか」という問いが身に刺さるようだった。 今日届いた郵便物は2通。1通は21日か22日に届くと連絡を受けていたのが今日届いたもの。もう1通は、送ってくださいとお願いをしていたのが私の想像以上の早さで届いたもの。いずれも、これからじっくりと読みたい。読んで、その時々に思ったことを、どこかに残しておきたい。 今日届いたメールのうちの1通。昨夜に1度目を通してくださいとお願いのメールを送ったものの返信。返信を受けてじっくり考え直すことにする。 昨日くらいから困っていることは、ミニコンポの調子が悪くなって音楽が聴きにくいこと(かなり、だましだまし使っている。いろいろな角度から軽く叩いてみるとか←やめろ、と自分でつっこんでおこう←今は一時的に使えている)。 その他。その他。いろいろ。 今は何だか、いろいろ考えて、考えれば考えるほどうまく言葉で伝えたり行動することができなくなって、しかし、傍から見ると「行動していないという行動をとっている」という事実だけしか見えないのだろうとあせる気持ちがある。 私はそんなにアクティブにいろいろ動く方ではないと私自身について思っているのだけれど、そんな私だからこそ、の動き方はないだろうかと思う。
「肩肘張らずに書いています」とトップページに書いたのは私自身なのだけれど、どうも書くときには物凄いほどの緊張感がある。至って事務的な文書…も書くのがつらいときもあるけれど、まだ大丈夫なのだけれど、いまは「私自身が思っていることを書く」ということがWebに公開する・しないを問わず緊張感を伴って、割ときついことになっているように思う(Webに公開する時の方が緊張するのは確かだけれど)。 今朝は朝から頭痛がずっと続いていてつらかった。“寝ていいよ”と言われたらまず確実にすかーんと寝ているだろうなと思いながら電車に乗っていて、帰ってからすかーんと寝ていた。 街で、どうもそろそろ、木々に電飾をつける季節がやってきたようだ。いまの私にとっては、気がつくと11月ももう半ばを過ぎていたか!という感じである。 今まで、“木にぐるぐるコードを巻いたり電球をつけたりするのは、なんとなく木に申し訳ないな”という気がしていた。今も、そう思ってはいる。特に、電飾がつけられた木を昼間に見ると、その思いは増す。 ただ、神戸新聞「正平調」1999年1月17日(こちら)を読んで、少し違った考え方もするようになった。もちろん、この記事が書かれてから既に5年10ヶ月の時が経ち、その間に神戸の街も、神戸をめぐる人々の考え方も、その他のことも、5年10ヶ月という時の中で変わっているということを踏まえて読んだうえで、だけれども。5年10ヶ月の間には様々なことが起こったことも踏まえて、だけれど。 人は、光が欲しいのかなと思う。それは、この記事の中で取り上げられている「阪神・淡路大震災の被災者」に限らないと思う。単純に、暗闇は恐く、光が欲しい。暗闇がいつ明けるかわからないという状況では、なおさらのことかもしれない。 私も眠る時に電気を消す時、あるいは夜中にふと起きて暗かった時、ふっと不安になることがある。なぜだかよくわからない。 そしてそのうえで。「電飾が光っている」という物理的な事実から、どうすれば少しでもの、ひとの、まちの、安心につながる?と考える。 安心などないのかもしれない。それは私にはわからない。ただ、ひとときの安らぎがあればいいと私は思う。私はそう心から願う。 そのために、いろいろな人が、いろいろな想いで、そこにいることをそのまま大切にしたいと私は思う。時には「違うよ」と言いたくなることもあるかもしれない。でも、いつかはそう言うとしても、1度は「そうなんだね」とありのままを。それは私にとっては正直なところ少し厳しいことでもあるけれど、私はそうしたいと思うから、そうしていくのだろうと思う。 「目指す場所が違ったとしても、何か、こう、明るいイメージのようなものは分かち合えると思います」との言葉を頂いた方のことを思い出す。 それと、木に申し訳ないという気持ちは、同じようで、違うようで、なんだかよくわからない。 所用で寄り道をして、私がかつて通っていた小学校の周りを自転車でくるっと回って帰るという道筋になった。 運動場を見て、あれ?と思った。私が通っていた頃には水色に塗られていたはずのジャングルジムが、緑色(少しやわらかめの)になっている。朝礼台も水色だったはずが、同じ緑色になっている。そしてブランコの色が、何だか違う。 私が好きだったジャングルジムとは違ってしまったのかなぁ、何だか寂しいなぁ、でも、ものは同じなのだからいいのかなぁ…と思いながら帰ってきた(“いいのかなぁ…”とは、何が“いい”のか私自身にもさっぱりわからないが)。 その前に、ジャングルジムでは遊べない身体の大きさになってしまったことの方が、少し寂しいかもしれない。嬉しいことでもあるけれど。 季節はずれに咲いている朝顔の花を見ながらくるっと一周してきた。 私にとっては、だけれど、自分にとって大きな出来事を受け止めるには時間がかかる。というか、正直なところ、受け止め切れていないよな…と思うこともしばしばある。 受け止め切れていない状態で、いろいろなことをいろいろな人に話すこともある。聴いてくれるのをありがたいことと思う。そのまま、その状態で、待っていてじっくりと聴いてくれていたのだということに気がついて、心からありがたいと思う。 私も、そうあることができれば、いいのだけれど。 今日買った本:「パタンの空より ネパール滞在日記」(佐野由美著、2001年、シーズプランニング)。 詳しくは「風向計」に書いた(この場所)。 今日はあまりうまく書けなかったような気がする。いつも、そうかもしれない。
私は、比喩的にいうならば「眼」である必要がある時があるのかな、と思うことがある。別に「見る」に特化するのでなく,聴くこと,匂いを嗅ぐこと,肌で感じること,全身を使って、今、私のいる場に佇むこと。そして私なりに、わかること。 朝日新聞「天声人語」2004年11月10日。 (こちら。ただし、時間が経つとリンク切れになると思われる) 「墓場は、忘れられない人と忘れられた人を抱いて、時を重ねている。」と書かれている。どきり、としながら読み進むと、「忘れられるどころか、触られたりこすられたりして光を放つ墓が、パリのペールラシェーズ墓地にあるという。」と続く。以下、いろいろな墓の説明があった後、「墓地そのものが、歴史を刻む墓碑になっている。」と、文章は閉じられていた。 忘れられないという想いを抱いて、忘れないために建てるのがお墓だと私は思っていた。それはその通りなのだが、そのようにして建てられた「お墓」もまた、未来の見知らぬ人の想いを受けて変化するのだという視点は、私自身にとっては、初めて持つものだった。その「未来の見知らぬ人の想い」はいろいろで、それに触れる、触れない、そういうことを積み重ねて墓碑はそこにあるのか、と。 それは、いわゆる「希望」へとつながるものではないかもしれない。崩れたりということもあるかもしれない。それもまた、「歴史」であるのか、と思い、心にとめておこうと思った。 神戸新聞「正平調」1999年1月17日 (こちら) 「「いま、阪神・淡路大震災に遭った街はどうなっている?こちらじゃ、もう話題にもならないけど」。四度目の一月十七日を前に、そんな便りを、東京の人からもらう。」という文章から始まる。これは、今からおよそ5年10ヶ月前の記事である。「4度目の1月17日」であってさえ、こうであったのかと思う。しかし、私自身が、もっと考えねばならないことは、つい最近まで、このようなことにも心をとめずに生きてきた私自身のあり方だ。 ずれ、温度差、ということを考える。「ずれ」があると実感して、打ちのめされて、どうしようもなく落ち込む。でもそこから、何かうまれないかと思うのは、私はあまりにも希望的に過ぎるだろうか。 つい最近になって、毎月17日は月命日なのだと私は思うようになった。ある意味で忘れられない日付であるとも思うようになった。特に17日だけではないだろうということにも思いを馳せる。11日も月命日、1日も月命日、12日も月命日、…まだまだあるだろうと思う。 「月命日」という表現に抵抗がある方もいらっしゃるかもしれない。私自身も迷いながらこの言葉を用いている。 私もまた、私の月命日を持つ者である。それが、何になるのか、だからと言って何なのか、よくわからないけれど、今はひたすらに、心を寄せようとして、できずにいる。 神戸新聞「正平調」2003年1月25日 (こちら) 「人は「痛み」を通じてこそ、本当にやさしくなれる。」という、こちらもどきりとする文章から始まる。内容は、画家である中島潔氏についてである。私は、小学生の時から中島潔氏の絵が大好きで(きっかけは、児童文学の絵を描いていたのが中島潔氏であったということ→「十二歳の合い言葉」(こちら)からはじまる、薫くみこ氏著の「十二歳シリーズ」の絵を描かれた)、今も時折展覧会を見に行ったり、画集を買ったり、手帳にイラストを入れたりしているのだけれど、このようなことに思いが至るようになったのは、ごく最近のことだ。 だから、やさしく見えたのか、と思う。 中島潔氏は絵を描いている。私はどのように旅に出ようか。 神戸新聞「正平調」2004年10月30日より。 (こちら) これは、私からは「このような記事があったのだ」という記述にとどめたい。 そして、新潟日報。こちら。 一方で、兵庫県でも、台風23号の被害はまだ終わっていない。そしてもちろん、阪神・淡路大震災も終わってはいない。 と、いうことと、ゆきさんの記述された「羊飼いの唄だった」(諦念ブシガンガ)の2004年11月9日(こちら)、11月11日の記述(こちら)、そして、まさひこさんの「胡桃の中の世界」の2004年11月12日の記述(今はこちらかな)を、なんとなく結びつけながら、考えていた。 まさひこさんの「ふとすれ違う言葉や詩に、あ、この孤独感は僕のものでもあるのだな。とか、この人とは同じ孤独感を共有しているのだなとか思ったりはする。」という記述に、はたと気付かされた。まったく同じということはあり得ないのかもしれない(あり得ないと私は思う)のだけれど、「少し似ているかもしれない」「そういえば、わかる」という部分が少しでもあることで、少しあたたかい気持ちになることがある。 先ほど、私は、いくつかの新聞記事について書いた。その新聞記事がどうあれ、今日挙げた新聞記事(の、他にも実はもっとたくさんあるのだけれど)に、「私は、ひとりなのだけれど、ひとりではないのだ」という気持ちになったということを記しておく。その気持ちが何になるのか、今の私にはわからない。わからないのだけれど、こうして、公開の場に書きたくなった。 ひとりではあるのだけれど、そのように、ひとりである人は、ひとりならずたくさんいるということ、かもしれない。 予定していたよりもたくさん書いてしまったように思う。 私なりに納得のいく「眼」であるために、体調をよりよい状態に保ちたいと思う。よく食べて(かつ、栄養のバランスに気をつけて)、よく休む。 最近、どうにもこうにも体調がいまひとつ良くなくて、苦しくてつらい。悔しいという気持ちも少しある。 この私の苦しさやつらさは、私が何とかするしかないのだけれど、ずいぶんたくさんの人に見守っていただいていると思う(実生活でも、Web上でも)。
「風向計」とほぼ同一内容になるけれど。 書くべきこと、書かなければならないこと、書きたいことがたくさんあるけれど、ひとまずこのあたりで。 これはまた後日に書くことになるかと思うけれど、私は「眼」でありたいと思う。比喩的な意味でよく見てよく聴いて、触れて、嗅いで。感覚器官をベストの状態に保つためにも、休む必要があるから。 自分自身を大切に。周りの人のことも大切に。それを実際にしていくこと。
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