風紋

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2004年07月31日(土) あつは… / 「おばきゅう」 / ひゅっと書いてみよう / 私の道を / 日記増やしました(風向計)

やはり、あつはなつい。←2回目の駄洒落。

爪を切っていたら、扇風機の風に飛ばされて、切った爪が床に散ってしまったので、急遽掃除機登場。あああ。そんな昼下がり。

「今日くらいはお休みしてのんびりしててもいいよね」という日が毎日続いているような気がする。そろそろ本気で頑張らないといけない(でも、頑張り過ぎないことにする。暑いから)。


「そよ風」の方で少し触れたが、「おばけのように大きく育ったきゅうり」を「おばきゅう」と略して呼んだら素敵かもしれない…と、畑で取れた「おばけのように大きく育ったきゅうり」を眺めながら考えていた。

というわけで、「おばきゅう」の写真…う〜ん、ちょっと「おばきゅう」と呼ぶには小さいかもしれない(何かものさしになる指標を横に置けばよかった…)。ちなみに、その右は茄子(「おばなす」を含む?)。その右はゴーヤ(ニガウリ)。

ちなみに前回の日記(7月24日)のクイズの解答は「らっきょうの串揚げ」でした。




本当は、昨日、ここに何か書き残したいなという気持ちを強く持っていたが、かなり疲労していてパソコンに向かう体力がなかった。というわけで、今日。

しかしよく考えると、そんなに肩に力を入れて「きちんとした文章」をここに書き残そうと考えなくてもいいのかもしれない。どう頑張っても、私は私の力量以上のものは書けないし…。公開の場に書くものなので、一定の緊張感は保ちたいと思うのだが、もう少し、ひゅっと思ったことを書いてみる、書くことで考えが変われば、また変わったところをひゅっと書いてみる…という感じの気楽さで書いてもいいのかなと思うのだ。実際、ここをはじめた頃はそのくらいの気楽さで書いていたと思うし。


で、昨日書こうと思っていた話。

ある人と話す中で、やはり「私は私の道を私の方法で進んでいい」ということを再確認した。…というか、よく考えると、結局はそのように生きていくしかない。それが全て。

ただ、「私の道」を本当に進んでいけるのかどうか、そして「私の方法」で進んでいけるのかどうか、どうも自信がなくてふらふらとしているというのが今の私の現状である。「道」にしても「方法」にしても、その時々で柔軟に変えてもいいと思う…というか、変えないと発展しようがないだろう…。しかしその時々で、「私はこうしたい」「私はこうする」「そのために今の私はこうである」というのをきちんと主張し、それを裏付けるような自信を持てるだけの努力を重ねていきたいと思うのだ。

そうでないと、周りにふらふらと流されてしまう。それは、周りの人の意見を全く聴かないという意味ではない。周りの人との交流の中で、いろいろなものをつかみ、いろいろな考え方を知り、それが逆に私自身をしっかりさせる方向へ結び付くということがあると思うので、周りの人との交流は絶ちたくないし、絶たないように心がけていきたいと思う。事実、ここ1年ほどで、本当に私自身の生き方を変え、私の道をよりはっきりさせてくれる人との出逢いがたくさんあった。おひとりおひとりに感謝している。ただ、その中でも常に「私は?」という視点を落とさずにいたいと思うのだ。

ちなみに、その話の中で「私は私の道を私の方法で進んでいい」ということは明確になったが、それを実行するには、割と大きな(というか「厚い」というか「高い」というか)壁があるということも、同時に明確になってしまった。で、私が「壁をぶっ壊しても自分の道を行けばいいんですね」と念押しのつもりで言うと、「うん。…でもできれば『壁を溶かす』くらいの考え方がいいと思うけれどね。ぶっ壊すというと物騒だからね」と答えが返ってきた。…妙なところで妙に意地を張る私の悪いところがここでも明らかになったのであった…。


あ、やっぱり、すっと書くことで何となくまとまって次につながっていきそうじゃないか…というのはあくまで私の中での感想だけれど。

「ほんとうのもの」を掴む眼、耳、手…を持ちたいと思うのだ。


というわけで、「そんなに肩に力を入れて書かなくてもいいのではないか」ということに関連した話。

日記を増やしました。…いつものごとく、あんまり目的も明瞭でないままに…。

はてなダイアリーで「風向計」(この場所)という日記をはじめることにしました。まだ「はてなダイアリー」の書き方をよく理解していないので、使うのにかなり恐怖心がありますし、公開するのにはもっともっと恐怖心がありますが(こんなに全然理解していないのに公開に踏み切っていいんだろうか…良くないような気がするよ)。

これで、私は3つの日記を持ったことになります。ここ「風紋」と「そよ風」「風向計」(全部「風」で揃えてみた)。

基本的にはここ(「風紋」)を中心基地(?)にして、「そよ風」は一言気付いたことやメモなどを書き残す場所(「一言」だからこそ逆に見えてくることがあるのかもしれないと狙ってのこと)、「風向計」の使い道は…未定なのですが、趣味に関連した話などを書いていこうかな、と。少しまとまって思ったことや考えたこと、感じたことを書く用途では「風紋」をこれまで通りに使っていこうと思います。

…そのうちどこかが放ったらかしになる可能性もないでもない…。


2004年07月24日(土) 何の料理でしょう? / 残ったもの・なくなったもの / 不思議と支えはあらわれるのだ / 近況報告のしかた

「そよ風」の方でクイズとして出題(?)しているが、先日、スーパーマーケットか何かのチラシ広告の「料理の作り方」コーナーを見ていて、何となく違和感を感じた。

…よく見ると材料欄の「コショウ」が「コシュウ」となっていた。

しかも「作り方」欄には「コショウをする」と書いてあった。よく考えると「塩・コショウをする」と読むとそんなに違和感はないのだが、「コショウをする」と単独で読むと何となく違和感がないでもない(=ある)。

…さらに作り方の欄を見ていくと、「材料」のひとつとして「ピーマン2〜3個」と書いてあるのに、「作り方」欄で1度もピーマンという記述が登場しないのであった。


残った・残された・残ってしまったものと、なくなった・なくされた・なくなってしまったもの…あるいは、うしなった・うしなわれた・うしなってしまったもの、について考えさせられた。

「うしなう」に「失う」という字をあてても「喪う」という字をあててもよいような気がするので、一応どちらにも対応できるように、ひらがなの「うしなう」をあてておく。差し当たり、今日の日記の中では、考えやすいように、「なくなった」で統一する。また、「ない」というのは、今日の日記の中では、「物理的にはこの世に存在しない/しなくなったもの」と考える。

というわけで、本題。すごく抽象的な書き方になるけれど。

残ったものを残し続けようとするのは大切なことである、と私は考える。時間が経つにつれて変化あるいは風化することは避けられない。それをも含めて、その時々で何かを残し続けることは大切なことだと私は考える。例えば、子どもの時に大切にしていたおはじきやビー玉、…も、そうであるし、この日記についてもそうであるし、話を大きくすれば、ある風景や、ある災害の痕…崩れた建築物(の一部)など。

一方、なくなったものについては?と、今日は考えていた。なくなったものは、物理的には、もうこの世の中には存在しない(と、今日の日記の中では考えるというのは先述の通り)。なくなってしまってもう戻ってこないものについて考えることは、正直なところ、つらい。少なくとも私は、なくなったものについて考えることは、胸が本当に痛くなるほどに、あるいはどこかを刺されたかのように、つらい。考えるだけで、思いを巡らせるだけで、つらい。それを大切に思う気持ちが強ければ強かったほど、つらい。例えば、子どもの時に大切にしていたものさし、たった100円だったけれどお気に入りだったシャープペン、話を大きくすれば、私にとっては「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ見送った友人」、あるいは、この日記を書き始めて間もなくの頃に解体された自分の家。

ふっと思いにのぼるだけでもつらい時があるのだ。落ち着いて直面するにはしばらく時間がかかるのかもしれない。「しばらく」どころではないのかもしれない。5年や10年経ってもまだ無理なのかもしれない。そのあたりは、人によっても状況によっても異なるであろうけれど。

それでも、いつかは、なくなったものと心から直面する必要があるのかもしれないと、今日思った。時間はかかるかもしれないし、苦しいことでもあるだろうし。それでもやっぱり「それがない」という事実は変わらないのだ。直面する「その」時や方法がどのように訪れるのかは、私は、私の場合と私の知っている人の場合の一部しか知らないので、ここでは何とも言いようがないのだけれど。

しかし、なくなったものと心から直面して、自分なりの方法でなくなったということを自分の中に溶かしていったならば、「それ」そのものは物理的にはもう1度復活・再現することはないとしても、別の形で何かすごく大切なものが生まれるのではないだろうか、そう希望を持ってもいい場合もあるだろう、と、考えた。ものすごいエネルギーと時間が必要であろうけれど。

そう考えると、「なくなった・なくされた・なくなってしまったもの」に目を向けていくのも、苦しい場合もあるだろうけれど必要だと考える。「なくなった・なくされた・なくなってしまったもの」が形を変えて、存在し続けるということもあるだろうから。

そして私は、「なくなった」ということ自体を忘れてしまっているのではないかと時々不安になり、時々後ろを振り返る。振り返って考える。

ちなみに私は、喪失は乗り越えるものでも克服するものでもないと思っている。あくまで私見だけれど、どこまでいっても乗り越えたり克服したりはできないだろうと思う。むしろ、哀しみが自分の中に溶けていくような感じだろうと思うので、あえて「乗り越える」という言葉は使わなかった。

「ある」ということと「ない」ということについては、当分、私が考えるべき宿題になりそうだ。


今日、耳にしたいい言葉。

「自分が何かをしたいって強く思って、手さぐりでも不安でもその方向に向かって進んでみると、不思議とそれを支えてくれる人やものがあらわれたり、それを手助けしてくれるような状況になったりするものだ」

私の幸せは私が決めて、私が作る。私が一歩一歩踏み出す。それで何か不利益が起こったとしても、私はその責任を全て負うし、不利益を逆に利益に変えてみせるんだ…と、最近思っている。ただ、最初の一歩が踏み出せずにいるところだ(というか、なんだかあっちこっち混線してわけがわからなくなって糸がこんがらがっている感じ)。そんな今の私を勇気付けてくれるような言葉だった。


帰りに、所属している楽団の練習場に楽器を持たずに寄って、手続きや事務連絡の受け継ぎや申し込みを済ませてきた。ついでに近況報告もしてきた。「夏バテまっさかりなんです。夏は体質改善につとめます」と、今日1日で何回言ったことだろう。…ほんとに、体質改善すればいいなぁ。してほしい。するんだ。何とか体調が回復してほしい…。


2004年07月19日(月) ゆらゆらゆら / ものも人も大切にしたい / さるすべり

なんだかんだで、体調が夏バテ全開という今日この頃である。起き上がっていてもつらいし、横になっていてもなんだか落ち着かずにつらいという感じで、結局横になっている時間の方が恐らくは長い。疲れすぎていて起き上がれないことも多い。我ながら、どうしようか…と思っている(今は少し楽なので日記を書いている)。

涼しい場所で、「現在、お疲れ中」という看板をたてて、布団1枚分くらいのスペースを確保して横になったり座ったりしたい気分である。しかし、コミュニケーションを絶ちたいというわけではなく、むしろ人と話はしたい気持ちはとてもあるのだけれど、呼びかけていく元気がない感じ。呼びかけられてもきちんと応答できるか自信がない感じ。

…う〜ん。やはり「やや心配して下さい」という形になるのだろうか。ポイントは「やや」である。「やや」心配してほしいのである。わがままなのかもしれないけれど。

ということを、公開の場でいろいろな人が読んでくださっているこの場所に書くのもどうかな…とも思うけれど、正直な気持ちではある。

ゆらゆらゆら。


今日、NHKで世界遺産特集を放映していた…らしい。「らしい」としか言えないのは、ほとんど見ていないからだ。ただ、遅い夕食を食べながら、総合テレビで番組の一番最後、20時30分過ぎからは見るともなく見ていた、聞くともなく聞いていた、という感じであった。

番組の終盤に差し掛かるところで、「遠い未来の財産になる…」という意味の言葉が出てきた。「遠い未来の財産」という言葉で、私の中の何かがぴっと引っかかった。その前後の文脈をほとんど理解していないので、あまり突っ込んで書けないのだけれど、恐らくは世界遺産を大切に守り続けることが必要だと言っているのかな、と理解した。

その理解が正しいならば、それはその通りだと思う。でも、世界遺産に指定されたものそのものを守ることが全てなのかな…とも思うのだ。正確にはそこに重点を置きすぎていていいのかな…と。

私は生きている。「あなた」も生きている。他にもたくさんの人が生きていて、それぞれの場所でそれぞれに生きている。ひとりひとりはちっぽけな存在かもしれないけれど、ひとりひとりの生も、未来の大切な財産になるのだろうとも思う。極端に言えば、私の生も未来には何らかの財産…になるかもしれない(そんなに大したことはしていないけれど)。

だから、世界遺産として指定されたものや、他に重要文化財などの名のもとに守られているものそのものを大切に守り続けると同時に、その背後には、何らかのかたちで、様々な人の様々な生き方があることを忘れないでいたいと思う。そこで生きている人、そこを守る人、そこにかつていた人、それを引き継いできた人…。名も知れぬたくさんの人がそこに介在していたことを。


今日は気力体力不足であんまり十分に書けなかったけれど、それでも何か書いておきたかったのだ。

また、微妙にパソコンを疲れさせるような操作をやらかしてしまったような気がする。あああ。あ。

というわけで(?)、さるすべり。くすぐりの樹、とも言うらしいとどこかで聞いた。幹を触るとくすぐったがっているように花が揺れる…ってこれ昨年も書いたような…。



2004年07月16日(金) あつはなつい / 桜・紫陽花・過去・現在 / 向日葵のように / 追記(7月17日) / 追記2(7月18日、戻ってきた)

「あつはなついですね」という駄洒落を飛ばせるくらいの気力はぎりぎり残っているかなぁという感じ。ちなみにこの駄洒落を、親しい人の前で口に出すと、たいていの人が「つまらん!」と言って2〜3m離れていくが、どうやらこれが私の元気を測定する指標(?)であるらしく、たまに駄洒落を言わない時があると心配されたりする。久しぶりに会って駄洒落を飛ばすと、懐かしがられたりする。…たぶん(でもやっぱり「つまらん!」と思われていると思う)。

そうだ。あつはなついのだ…ではなくて、なつはあついのだ。


先日、「そよ風」の方で、「桜と紫陽花に対して人はずるいということと、過去が現在に位置づくこと」とだけメモ程度に走り書きをした(現在はだいぶ下の方に下がってしまっているけれど…)。その続きというか、補足。

私は、時々、人間は桜や紫陽花に対して随分とずるい態度を取っているのではないかしらと思い、桜や紫陽花に申し訳なく思うことがある。もっとも「人間」と言ってもいろいろな人間がいるので、「人間」とひとくくりにするのは随分と乱暴なのだけれど、私も含めて、大多数の人間は。

度々この日記でも書いていることのように思うけれど、例えば桜。春になって、桜の開花予報が出ると、そろそろ桜の季節だと思う。桜が咲くと、あぁ美しいと思って桜を味わう。お花見に行く。散ると寂しく思う。…で、それ以外の季節は? 桜がそこにあるということにすら気がつかないのではないの? もしかすると、春になって桜が咲いて、はじめて「ここにも桜の木があった」ということに気がついて、春が過ぎるとまた忘れて…。

紫陽花もそうだ。6月にさしかかって、紫陽花が咲いて、梅雨と夏のはじまりを感じる。紫陽花の美しさに心惹かれる。花が終わると、そこに紫陽花があるということにすら気がつかないのではないの? 忘れてしまうのではないの?

「私もだけど、私達はずるいよ。春も夏も秋も冬もずっと桜は桜としてそこにあるのに、春だけしか桜を見ないだなんて、桜に失礼だよ」と大声で怒る私に対して、静かに「でも1年に1度、晴れ舞台があるだけいいじゃないですか。1年中日の目を見ない草花もあるのですから」と優しく諭すように言ってくださった方がいらっしゃる。

話はここでがらりと変わる。

過去、いろいろなことがあった…と書くと、とても大雑把な言い方になってしまうが、過去には様々な災害や戦争、事件や事故もあった。

例えば、8月。過去、広島と長崎に原爆が投下され、戦争が終わった月。その頃になると、戦争にまつわる報道が増える。8月6日、9日、15日には、式典の様子が報道される。その時期だけでも、過去に思いを馳せ、現在とつなげて考えをめぐらせることは重要なことだと私は考える。しかし、本当は8月だけ思い出せばよいものではないのではないか? ずっとずっと考え、見つめ直す必要があるのではないか? 私はその必要があると考える。

1月。1995年1月17日午前5時46分。阪神・淡路大震災が発生した。1月になると「震災から〜年」という報道が増える。1月17日には各地の追悼の様子がテレビに映し出される。しかし、1月だけ思い出せばよいものではない。ずっと続いているのに。特に阪神・淡路大震災については、来年1月で発生から10年を迎える。10年で一気に「終わった。復興した」という方向に向かうのではないかと、私は気が気でない(ちなみに、私自身は震災の直接の被害はほとんど無いに等しい立場だが、「終わった。復興した」とは思わない)。

まだまだたくさんあるが、書ききれないのでこのあたりでひとまず止めておく。

私は、似たようなものを感じるのだ。春にしか桜に目をとめないこと、6月にしか紫陽花に目をとめないこと、8月にしか戦争を振り返らないこと、1月にしか震災に目を向けないことに、似たような「何か」を感じる。本当はその時期だけではない。ずっと続いていて、終わらない。

ただ、その方がおっしゃったことを思い出すと「日の目を見ない草花がある」のと同様に、「日の目を見ない過去の出来事」も、たくさんあるかもしれない。その方が、もしかするとこわいのかもしれない。

私自身、過去の全てを知っているわけでない。私自身が生まれてから起こった出来事についても、私なりの視点でしか捉えられない。過去のある出来事について、忘れてしまいたいという人もいるだろう。何か伝えたいとか残したいという思いはあっても、語れないという人もいるだろう(私にも語れないことがあるが、伝えたいのだが、語るのがつらすぎるのだ)。ただ、私は、私なりの視点でしっかりと世界を見て、聞いて、身体を総動員して感じ、考え続けたいと思うのだ。私など、ちっぽけな存在ではあるが。

それでも、春も夏も秋も冬も桜は桜としてそこに在り、紫陽花は紫陽花として、ただそこに在る。すごいと思う。花を咲かせるのは一時期だけだけれど、私は四季を通じてずっと見守っていきたいと思う。

この日がはじまりでも、終わりでもない。“いつもと同じようで、少しだけ違う日々”が続いており、朝になれば太陽が昇り夜になれば太陽が沈んで暗くなり夜空に星が見えるというのも変わらない時の流れが続いていって、その中で1年に1度この日がある。2004年1月17日の日記より)。


そんな毎日を重ねて、今日、ひとつ歳が増えました。ここまで生きることができたのが不思議で、でもありがたいと思っています…と昨年と同じことを書いてしまいますが、本当にそう思います。

これからの目標は、私は他の誰でもない私になること。私の人生の主人公は私であること。私の幸せは私が決めて、それを手に入れられるだけのパワーを身につけること。それと、体調管理に気をつけて、もうちょっと元気になること。

向日葵のように生きたい。いつも日の方向を見続ける。転んでも倒れても、私は私の向日葵を咲かせたい。また、恥ずかしい言い回しをしてしまった…。ちなみに「日の目を見ない草花にも目を向けたいと書いているのに向日葵という有名な花の写真を…」というのは、今回は勘弁してください。私自身の決意表明も兼ねているので。




絶対に今日は日記を更新したいと思っていたのに、パソコンの不具合で手間取りこんな時間に…(2004/07/17,1:15記)


追記:私自身のパソコンの調子が少しおかしいので、数日間預けて様子を調べてもらっています。別のパソコンがあるので、メールのチェックなどはできますが、日記の更新は難しいかも。と言いつつ、現時点で7月は3回しか日記を書いていないことが判明し、“宣言するほどのことでもないなぁ”と思っては、いる。


追記2:
日付を変えようかどうか悩んだが、話の流れでこちらに続ける。

…と追記を更新したのが確か昨日の午後(2004年7月17日の15時30分頃)であったのだが、なんとさっき(7月18日正午)にはパソコンを最適の状態にしてもらってきて、さらにメモリも増やしてもらって、無事戻ってきました。

…さすが餅は餅屋、魚は魚屋、果物は果物屋、パソコンはパソコン屋だ。早っ。ついでに対応も親切っ。ありがとうありがとうパソコン屋のお兄さん本当にありがとう。

しかし、「そろそろ新しいものを買うことも視野に入れた方がいいかもしれませんね。もって今年中…くらいですね」とは言われた(これ、使い始めて4年になる。Windows98)。…うーむ。私のハードコンタクトレンズの買いかえ時と重なるかな(←いや、コンタクトレンズの方が早かったはず。だましだまし使っているが)。というわけで、違う電器屋さんをぷらっと覗いて「そろそろ買いかえ考えてるんですけど、別に今日というわけでもないんですけど…」と言いつつ、おじさんとお話してアドバイスをいただき、いくつかパンフレットをもらってきた。

とりあえずパソコンを少しでも楽にしてあげるために、メールの中で不要なメールや不要な文書などを消していってあげよう…と思いつつ(捨て下手の私はメールデータもほぼ4年分捨てずに蓄積しているのであった…)、今は「寝てもつらい。起き上がっているのもつらい」というくらい気力体力を消耗しているので、また少しずつすることにしよう。

(2004/07/18,14:15記)


2004年07月11日(日) 人に会えてすっっっごく幸せ! / 「お別れ」だが「お別れ」ではない / 今は亡き恩師の話

昨日の「そよ風」で、「すっっっごく、幸せな日だった!!」とだけ書き残して、何がどのように幸せだったのかを詳しく書く体力がないまま、ぱったりと寝入ってしまったので、少しだけ書き残す。ちょうど、「そよ風」の方からこちらの方に転記しておきたいこともあったので、それも合わせて書く。

基本的には前回(7月6日)の続き。


昨日、何をしたかというと、一言でいえば「人に会った」ということだった。

昼間には、大好きな場所に出向いて、今の私にとって大好きでとても大切な人々にお会いした。最近ちょくちょく出向いているのだが(2週間に1回の時もあれば、1ヶ月に1回の時もあり、さらに1週間に1回の時もあるが)、行くたびに“来て良かった。会えて良かった”と思う場所であり、人々である。同時に、毎回行くたびに心を動かされることがあるし、ひとりひとりに対して「あなたが好き!」という気持ちが大きくなるし、同時に大切で大きな宿題を抱えて帰っている。

夜には、大切な仲間と会った。5人で。久しぶりに会う人もいれば、いつも会っている人もいるという感じだったが、5人全員が揃ったのは2〜3年ぶりのことだ。5人ともかなり話した話した話した。食事の後にカラオケに行ったのだけれど、最初数曲歌っただけで、あとはほとんど3時間くらい部屋の中で話をしていた。全然遠慮もなく、言いたいことを言って、聞きたいことを聞いて、聞かれたくないことを聞かれたら真剣に答えたり適当にめちゃくちゃな方向にそらしたりして、結果的に話の流れがわけがわからなくなるとかいうことを延々繰り返して、ということを全員がして、いや〜楽しかった。ちなみに私は「ぼくドラえもん」を1回歌った。歌詞を暗記するまでには至りませんが、3番まできちんと歌えますよ。はい。

以前は「大切な人が突然私の前から二度と会えないところに行ってしまったら…」という不安を感じるだけだったが、今はそれに加えて「私自身も、いつまで生きていられるかわからないんだ」ということを感じるようになった。いや、私は別に大病を抱えているとかいうわけではないけれど、いつどうなるかわからないものだし。

本当に、生きていくということは、大変なようで簡単、簡単なようで大変なのかもしれない。今の私は、生きていくということを「大変であること」「決して当たり前のことではないこと」と思っている。前回の日記にも書いたけれど、人に支えられることもあるし、人に傷つけられることもあるし、いろいろ悩むこともあるし。

それでも何とか生きているのがすごいと思う。それは、いろんな人やものに支えられているからだろう(というところで、前回の日記とちょっと関連する)。そうしてひとつひとつ乗り越えたり、乗り越えられなくても、自分の中で少しずつ消化しようとしながら、ちょっとずつ成長していって、ある時にふっと、成長を実感できるからかな、と。

でも、心と心を通い合わすって簡単なようで難しいようで。たとえ仲の良い親密な人とでも、時と場合や方法が少しすれ違ってしまうと、傷つけたり傷つけられたりということが起こってしまう。「仲の良い親密な人」であるからこそ、つけた傷やつけられた傷を深く感じたりもする。場合によっては傷が長期にわたって痛み続ける。でもやはり、衝突もしながらもそうやってコミュニケーションを諦めずに繰り返すことを通じて、さらに「あなたが大切!」という気持ちが深まると思う…というか、多少の衝突はあるだろう。その時にどうするかも、人それぞれで、場合にもよるだろう。今は私は、1回1回1人1人の出会いを私の中で大切にしたいと思うのだ。


長崎県佐世保市の小6女児殺害事件で、亡くなった女子児童のお父様である御手洗恭二さんが、お別れの会を開くことを決められたそうだ。そして、2004年7月10日の日付で発表された手記を読ませていただいた。

「名称は「お別れの会」ですが、私自身は「お別れ」とは思っていません。私の中ではこれからもずっと怜美が生き続けます。」
という最後の言葉が、ずしんと心に響いた。そうだろうな、と思った。私もそうだから。

私には「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ見送った友人」がいる。形式的には「もう会えない」し「お別れ」もしたが、私自身は「お別れ」したとは思っていない。だったら何だ?と問われると答えに詰まるけれど。“いつも一緒にいる感じ”でもないしなぁ…何だろ。


昨日、自転車をこいでいる時に、不意に小学校時代の恩師の言葉が聞こえたような気がした。その先生にも、今はもう二度と会うことはできないし、「お別れ」もした。「『そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時』よりも、もう少し時間の経った時」に、「お別れ」した。

先生が、私の学校に転任してきて1番最初に受け持ったクラスが私の在籍するクラスだった。私は小学校4年生だった。慣れない中で先生も随分苦労されただろうと今となっては思うが、ご自身の思うことを精一杯伝えようとされる先生だった。ゆえに、先生を嫌っていた生徒も多かったのだが、私はとても好きだった。先生は、なぜか当初から私に「他の人にはない何か」を見つけて下さったようで(それが何かは未だにわからないが)、随分と私を可愛がってくださった…というと語弊があるかもしれないが、あたたかく見守って励ましてくださった。それは卒業後も変わらなかった。また、縁があって私の妹も数年後に先生に担任していただき、姉妹ともに随分あたたかく見守ってくださった。

年賀状のやり取りはしていた。ある時、先生が私の学校のある自治体から少し離れた自治体に転任されたと知った。それでも変わらず見守ってくださり、私が大学に入学した時にも妹が大学に入学した時にも、とても喜んでくださって、可愛いお人形を贈ってくださった。

「『そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時』よりも、もう少し時間の経った時」に、不意に先生が亡くなられたとの知らせを受け取った。癌だったとのことだった。まだ亡くなるには早すぎる年齢であった。知らせを受け取った経緯も、すごくややこしい手続きを踏んだ覚えがある。先生が生前伝えておられたらしく、先生が在籍しておられた学校から、私の在籍していた学校に通知があり(2つの学校は決して「近くの学校」ではない)、私の在籍していた学校から私の自宅に連絡があった、と。

父・母・私・妹で、お通夜に伺った。先生の奥様と少しお話もさせていただいた。奥様によると、旅立つ数日前まで私たち姉妹のことを気にかけてくださっていたという。2人ともこれからどんどん活躍するんだろうなぁ、元気で頑張ってほしいなぁ…と。

なぜ、そんなにも私達のことを…。そして、なぜそんなに私達のことを気にかけてくださっていたのに、なぜ私は1度も先生に会いに行こうとしなかったのだろう。

だめだ。思い出すと泣ける。そして、本当は大切な人なのに、いま会おうとしていない人、いま思い出せない人がどれだけいるかを思い出す。同時に、先生に恥ずかしくないような生き方をしているだろうかと思う。


なんだかどう締めくくればよいのかわからなくなったが、ひとまず今日はここまで…。


2004年07月06日(火) ひとりだけれどひとりではなくてありがとう

メモ程度に。
(いや。前回の更新からけっこう日が経っているので、「気付いたら7月になっていた」とか「そう言えば明日は七夕だ」とか、しみじみと思いをめぐらせたいものだが、いかんせん気力と体力が減退気味)。

人は、ひとりで、自分で生きていくしかないけれど、反面、ひとりでは生きていけないのだ、と、しみじみと思った。そう思うだけで、暖かな気分になって、もう少し生きていてもいいかなという気持ちになった。

念のために注記。別に生きるのをやめたいとは思わないし、生きているのが好きだけれど、時々、生きているのが疲れたなと思うことがある。

確かに、人によって傷つけられたり嫌な思いをしたりすることもある。そういう時は、泣きたくなってしまう。

でも、人を救うのもまた人だ。
…と言うとありきたりな言い方になってしまうけれど。「救う」とか「助ける」とか、そんな大仰なことでなくてもいい。ただ、“あなたがいてくれて、良かった”と思ったことが、今まで本当にたくさんあった。そして恐らく、私が自覚していないところでも、目に見えないところで私はきっとたくさんの人に支えられている。その人にとっては、私を助けたり、支えたりしているという意識(考え?)はないのかもしれないけれど、結果的に私はとてもたくさんの人にとてもとても支えられていて、それで何とかかんとかこうやって幸せに生きて、いろいろなことができる。“疲れたなぁもう絶対駄目だもう嫌だー”と思う時もあるけれど、不思議とふっと気持ちが楽になったり、のびやかに生きることができそうに思って幸せに思ったり、もうちょっと先まで進もうかなと思ったり。

「あなた」がどこかにいると思うだけで私にとってはすごい勇気になる。ありがとう、大好き、と思う。

私も、思いっきり思うように生きて、強く優しくありたいと思う。


「私は元気にやっていますので、どうぞ心配しないで下さいね」というのが社会的に見て望ましいのだろうなと思うが、私の実情はそうでもなく、実は夏バテなのか心身ともに弱ってしまっている。…と、こんなふうに書いてもよいのかどうかわからないけれど。

そういうわけで、「心配しないで下さい」と言い切るにはあまりにも心細く、かと言って「心配して下さい」というのも申し訳なく…。うーむ。「やや心配して下さい」(「やや」がポイント)。


こんな中でも私の日々の生活の中の何かを、何らかの形で残すことができればと思う。


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