風紋

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2004年06月25日(金) 雨の中出かける / あり? / 再掲

雨の中だったが、身体を必死に引き摺るようにして出かける。…が、出先に到着していろいろとしていると、だるさは薄れて、今日は割と効率よく作業ができ、ずいぶんはかどったような気がする。素直に喜ぼう。うん、よく頑張った。

いろいろな人の視点から、“その人がどんな人なのか”を完全にはわからないながらも少しずつわかろうとしながら、ひとつひとつの出来事を捉えていくことの大切さと難しさを痛感する。

例えば先日、私が「心を、鋭く長く伸ばした爪の数本で、思いっきり力を入れて、ぎーっとずーっと引っ掛かれたという感じ」を抱いた時、私の素直な感想はそうだったのだが、そのきっかけになったことに関わった人はどうだったのか? その人の中ではそのことはどのように受けとめられているのか?…ということを、落ち着いたら一歩引いて眺めてみることも大事だ、と。

もちろん、他の人に「振り回される」という意味ではなく、私は私なのだけれど、他の誰でもない「あなた」の視点に立とうとしてみて、そこからものを見ることの大切さ。


とはいえ、帰りは疲れたのでバスを使うことにする。

バスを待っている間、前の女の子の肩に大きな蟻(みたいなもの)がとまっていた。一瞬躊躇して、やっぱり言おうと思い、彼女の肩を軽くたたいて「あの、ちょっとすみません。肩に何か蟻みたいな…」と言って彼女が振り向いた途端、彼女が肩に提げていた鞄の中に蟻が入ってしまった。

2人で「あ…」と目を合わせ、「ごめんなさい、もう少し早く声をかけていれば」「いえいえ、でも入っちゃいましたね…このまま持って帰ります」という会話をして、妙に和んだひととき。

ほんとにもっと早く声をかければ良かった…。申し訳ない。

するっと鞄の中に蟻が入ったのを2人で見ていた瞬間、一瞬「あり?」という空気が流れた(←駄洒落)。


以上は、6月27日(日)の00:55に記述したもの。26日は…26日は、なぁ…疲れて頭痛でほぼ1日中横になっていたので、あまり記述することはない。今週はいろいろあったからな。今後2週間あたりの間、ちょっとばたばたとするかもしれない。はひはふはへ。


6月18日の日記の記述のこの部分を取りあげて下さってお便りを下さった方がいらっしゃるので、私の決意も込めて、再掲。

生きているのが好きだーと思い続けるために、壁を打ち破ることができる力を身につけるの。

と強気で言っているが、やっぱりつらいものはつらいのだ。苦しいものは苦しいのだ。いつもいつも強気で明るく通せるわけではない。時には沈んだり落ち込んだりするよ私だって。

ここで「つらいです」と文章を終わらせるか、「でも前を見続けます」と文章を終わらせるか、思案中。

でも、両方を両立させることもできなくはないと思うよ。


以前は、人前では強気に見せようと意地を張っていた。今も、割とそういうところがある。ただ、ここの日記の中でくらいは、強気と弱気の間をふらふらしながらも、そのままの素直な気持ちを残していきたいし、その中でも視線はすっと空を見ていようと思うのだ。

せめてねぇ。疲れたときは「疲れた」と素直に認められるようになりたい。


2004年06月22日(火) まぬけな朝 / すいっと / 不思議な夕方 / 一大決心

眠いな、と思いながら起き、出かけた朝。

いつものように、定期券を入れて自動改札を通ろうとすると警告音が鳴って止められた。え?なぜ?と、きょとんとして、よくよく定期券を眺めると、有効期限が数日前に既に切れていた。

…なんだか、私の中では「あっという間に6月になった」→「あっという間に6月の中旬になった」→「あっという間に6月も下旬を迎えた」という感じで、日付の感覚が全く失われているので、ほんとに全然気がつかなかった。ちなみに曜日の感覚はあるので(曜日で動いているようなものだ)、現在が何週目であるのかを、よく間違う。

全然気がつかなかった私自身を「ほんとに間抜けだ…」と思いつつ、朝から脱力しつつ、切符を買って改札を抜けた…ら、結果的に1本電車を遅らせてしまった…のだが、乗り継ぎの関係で、結果、行き先にはいつもと同じ時間に着いたというなんだか不思議な現象。

…定期券の有効期限はいつも気にかけているのだけれどなぁ。あぁ、ほんとに、なんだか、なんだかなぁ…と思った。


朝は多少弱っていたが、昼に少し元気になったので、あちこちぱたぱたと用事を済ませた。

しなくてはいけないこと、したいこと、たくさんあるけれど、あまり気負いすぎずに、ふわりとこなせるようになりたい。要領よく片づけようというのではなくて、丁寧に取り組みたいのだけれど…何と言うか、“何かをしよう。しなくてはならない”と思う時に感じるハードルを、私はとても高く感じているように思うのだ。そんなに怖がらなくても、すいっと飛び越えられるかもしれないし、飛び越えられなくてもいいじゃない。意外と、転んだところから意外なものが得られるかもしれないし。

とは言うものの、やっぱり“何かをしよう。しなくてはならない”と思う時にとてもとても緊張してしまうのだ。


夕方から夜にかけて帰る。いや、「夕方」と言っていいのか「夜」と言っていいのか、わからないのだ。

この季節は遅くまで随分明るくて、午後7時くらいでも周りを見通すことができるほど十分明るい。でも街や人の醸し出す雰囲気は、あくまで「午後7時」のものだ。でも明るさは全然「午後7時」のものではなくて、そのギャップがとても不思議な雰囲気を感じさせる。あぁ、私はこの季節のこの時間帯の空気が好きだったんだと思い出す。

西の空をふと見てみる。不思議で、でも心を和ませるような形を描いている雲。いろいろな色の混じり合った空。昨年、一昨年、その前…と、いろいろなことを感じ、考えながら、この季節の空を見たなぁと思い出す。もちろん、そっくりそのまま同じ空ではないけれど。

私、ちょっとは成長したのかな、と思いかけて、やっぱり考えるのやめよ、と思った。

私の友人には「ハーゲンダッツのアイスクリームがすごく好きだ!」という友人がいる。ふと思い出して、そういえば私の好きなものや好きなことって、何だったかなと思った。好きなことを好きだと自信を持って思い、それを発信していければいいなと思う。「好きなものがない」のではなくて「今は見失っている」あるいは「既に気がついていて意識していない」のかもしれない。

空と海と植物は好き。生きているのが好き、とは、ぼーっと思うこと。


一大決心をしてみる。いい方向に転ぶか悪い方向に転ぶかわからない。こわい。でも、実際にやってみないと、わからないから、動いてみる。すいっと。


2004年06月21日(月) 昨日の夜明け / 身も蓋もない日記だが、くたばっています。

2004年6月20日(日)

現在、午前6時少し前。実は5時少し前から起きていて、いろいろごちゃごちゃとしたりしなかったりしている。

目覚めた時に見た空は、なんだか「奇妙に明るい」という感じであった。ただ「あー明るいな。良い天気だな」というだけではなく、少し不気味な感じもした。今は普通に明るくすがすがしい空に見える。夜がまだ去りたくないと主張しているような、朝が早く現れたいと主張しているような、そんな時間。その微妙な暗さというか明るさが、実は私はとても好きだ。

台風が近づきつつあるという。不気味に見えたのはそのせいかもしれない。

いずれにしても、夜明けの時間が随分早い。それはそうだろう。そろそろ夏至だ(というより、今年の場合は明日が夏至になるのか)。


…とだけ、昨日(6月20日)の早朝に「日記に書こう」と思ってメモ程度に書いた後、昨日は1日中くたばっていた。いや、厳密には昨日だけではなく、2〜3日前からくたばっていて、今も、どの程度くたばっているのか、そもそも私はくたばっているのかどうか、もはやわからないほどくたばっている。ちなみに「くたばる」というのは「ひどく弱る。動けなくなるほどひどく疲れる」の意味で用いている。

というわけで、ここ3日間くらいはベッドと机を往復する時間がほとんどだった。いや、そもそも「ベッドと机を往復」しているのがあんまりよくない。「私はくたばっているんだ!」と認めて、すぱっと休めばよいものを、どうしても作業をしなくてはと思い、パソコンの電源をつけっぱなしでくたばっていたりする。

それに加えて今日は、台風にそなえて雨戸を全部閉め切っているので、外の様子がほとんどわからないので、身も蓋もない日記だが、これにておしまい。またゆっくり書ける時も来るかな。

身も蓋もない日記なのに、なぜ更新したのかというと、昨日の夜明けの記述を残しておきたかったので…。

ちなみに「空がきれい」というのは、夜空に対しても使えるのだということを知った。


追記

いつのまにかカウンタが8000を超えていますね。いつも読んで下さっている方、時々読んで下さっている方、1度でも読んで下さった方、「風紋」という検索ワードでいらっしゃった方(肝心の風紋の情報がなくてすみません)、みなさまに「ありがとうございます」と伝えたいです。


また追記

仲の良かった友人が、遠く離れた土地に移り住むことになった。もう少し先の話だけれど、「もう少し先だ」なんて思っていたら、その時はすぐ来るもので。

頼りにしてきた。尊敬もしてきた。「これから」を生きるために選んだ友人の選択も間違っていないと思う。だから笑顔で。

と思いながら、やっぱりかなり寂しい。

生きていれば絶対会える。1回1回会える時間を大切にしよう。いつもそう思ってきたのに、肝心な時にいつもあせってしまって。


2004年06月18日(金) ほけほけ生きる / 精神的ダメージと治し方 / 手のひらを意識して生きる / ふらりふらり

あぁ、あれもしなくてはいけないなぁ、これもしなくてはいけないなぁ、そういえばあれもしたかったんだった…と、ほけほけと考えているうちに時間が経ってしまっている。

ほけほけとしている時間も生きている時間なのだ。


昨日、「心を鋭い爪のようなもの数本で、力を入れてびーっと引っ掛かれたような痛みを感じたことがあった」と書いた。それが具体的にどんなことだったのかはひとまずおいておくとして(そもそも、自分自身がなぜそんなに衝撃を受けたのかわからない)、ふと、思ったこと。

これまで、いろいろなことがあった(当たり前だ)。その中には、精神的にプラスのエネルギーを得たこともあったし、精神的にかなりのダメージを受けたこともあった。時間の経過とともに、感じ方も考え方も変わるので、それがその時々の私にとってプラスにはたらくのかマイナスにはたらくのかはわからない。ちなみに、私自身は「どんなことも最終的には私にとってプラスとなるようにはたらくのだろうし、そういうふうに生きていこう」と思っている。「最終的には」がポイント。だから、今はマイナスになっているということがあってもいい。いつか、ふわりと受け容れられる日が来るならば。ついでに「プラス」の意味は、ぼかしておく。どのように「プラス」になるのかは、それぞれだから。

…話が当初進めたかった方向からそれてきはじめている。このあたりのことについても、いずれじっくりと書きたいものだけれど、とりあえず今は当初進めたかった方向に軌道修正。よいしょっと。

というわけで、時間の経過とともに感じ方も考え方も変わるものだけれど、そのことが起こった瞬間に「あ、精神的にかなりのダメージを受けた…」と思うことはある。意識してそう思わなくても、気が動転して泣いたり座り込んだり寝込んだり眠れなかったり仕事がストップしたりという現象が実際に起こる(←動転しすぎ?)。

しかし、一口に「そのことが起こった瞬間に“あ、精神的にかなりのダメージを受けた…”と思う」と言っても、様々な種類があるんだなと思った、というのが、本当に書きたかったこと。

先日は、心を、鋭く長く伸ばした爪の数本で、思いっきり力を入れて、ぎーっとずーっと引っ掛かれたという感じだった。

その前には、突然、後ろから頭を特大の鉄のフライパンか鉄鍋で思いっきりごつんと殴られたという感じのこともあった。

いつかには、全身からすべての力が抜けて、心が、串の抜けた串団子のようにばらばらになった感じのこともあった。串にささっていれば串カツでもやきとりでもよいが…。

いつかには、高鉄棒にぶらさがっていた状態から手が離れてしまって、底なしのところまで落ちるんだと思ったら深いところに底があって、心が全身打撲といった感じのこともあった。

…な、なんだか物騒な比喩ばかりになってしまった。あくまで比喩なので。実際に身体がこのような傷を負ったわけではないけれど、私はこんなふうに感じてしまったのだ。

そのあたりの感じ方は人それぞれなのだろうと思うけれど、そうなれば、どんな場合でもとりあえずは応急処置が必要だろうなと思う。消毒、湿布を貼るなど。このあたりで他の人の助けを借りることもあるかもしれない。うまく助けを借りられるようになりたい。

その後は、自然治癒力というか、自己治癒力というか、で、自然にゆっくり治ることもあるかなと思う。完治しなくても、それなりになるかな、と思う。


いま、私がどういうイメージで生きているかということを、ほけっと考えていた。

手のひらを上に向けて、手をまっすぐ伸ばしているという感じに近いかなと思う。思いっきり届くところまで高く高く。

両手の手のひらは、お碗のような形にしておく。何でも受け止められるように。水一滴もこぼさないように。

あ、でも、お碗のような形にした両手の手のひらは胸の前にそっと置いておいてもよい。遠いところにも近いところにも届くように、ひじを曲げ伸ばしできるようにして。

なんだか、そんな感じだ。


生きているのが好きだーと思い続けるために、壁を打ち破ることができる力を身につけるの。

と強気で言っているが、やっぱりつらいものはつらいのだ。苦しいものは苦しいのだ。いつもいつも強気で明るく通せるわけではない。時には沈んだり落ち込んだりするよ私だって。

ここで「つらいです」と文章を終わらせるか、「でも前を見続けます」と文章を終わらせるか、思案中。

でも、両方を両立させることもできなくはないと思うよ。


2004年06月17日(木) おっちょこちょいな1日 / 寂しいと伝えたい / 電話の変化 / 祭り / 生きているのが好き / 夜更かし…

今日は、いろいろと、おっちょこちょいな1日だった。

出かけた先の門を入った時に手に持っていた荷物は3つ。メインバッグ(財布や筆箱、携帯電話などが入っている)と、サブバッグ(資料類が入っている)と、お昼ごはん(パンとお茶)の入ったビニール袋。そのまま、事務部、控室、本当に用事のある部屋、と移動。

はたと気がついた時、私の手もとにあったのは、サブバッグと、筆箱類だけであった。探しに行きたかったが時間がなかった。差し当たりそれだけあれば困らなかったので、続行。

1度目の休憩時間に、控室に寄ってみると、メインバッグは見つかった。事務の方がきちんと保管して下さっていた(あまりにも無防備な場所に置き忘れていたので、安全な場所に避難させてくださっていた)。しかし、パンとお茶がない。

2度目の空き時間に、もしやと思って事務部に寄ってみると、…あった。お昼ごはん。

それにしても、事務部の方々に「あの、このビニール袋、私のものなんですけれども取っていってよいでしょうか。中身、お昼ごはんなんですけれど」と声をかけた時の恥ずかしさは何とも言えぬものであった。その前に控室の方にも「あの、鞄と一緒にビニール袋なかったでしょうか…中身は大したものではないんですけれど。お昼ごはんなんです」と声をかけていたのだが、その時は、もっと恥ずかしかった。

ちなみに、お腹が減っているとパワーダウンするので、見つかった後は控室で堂々とパンを食べた。


数日前に、いろいろとあって、心を鋭い爪のようなもの数本で、力を入れてびーっと引っ掛かれたような痛みを感じてしまったことがあった。念のため注釈を入れておくが、そのこと自体は、この日記や、この日記を読んで下さっているであろう方には一切関係がない。また、冷静に考えてみると、誰が悪いと特定できることでもない。ただ、私自身が、「心を鋭い爪のようなもの数本で、力を入れてびーっと引っ掛かれたような痛み」を感じてしまったというのは本当のことで、敢えて言うならば、そのように感じてしまった私が悪いのかなとも思うけれど、感じてしまったこと自体は本当のことなのでどうしようもないし、そう感じてしまうのが今の私なのだ。

話がそれた。

ということもあってか、最近、妙なところで妙に寂しがりになっているような気がする。もっとも、今までは、「寂しいような気がするけれど気のせい。寂しくないはずだ」と思ってきたので、「寂しい」という気持ちを認められるようになったなぁと考えると、何となく進歩しているような気がするが。

大勢の中で明るく話している時は寂しくないとは言い切れない。が、いつもいつも寂しいと思いながら時間を過ごしているわけでもない。

例えば、凌霄花の花が咲きかけていて嬉しいとか(例年に比べると随分早いような気がする)。
例えば、紫陽花の花が咲いていて、青い紫陽花が私はとても好きなんだとか。
例えば、夕方の西の空が優しさを孕みつつ、とても強い美しさをもって見えたとか。
例えば、通りがかりのペットショップで金魚が3匹100円だったとか。
例えば、雨の日の匂いは懐かしくて、どこか夏休みの匂いと似ているとか。
例えば、海開きの日が近づいているということとか。

そんな他愛もないこと、些細もないことが、とても愛しく思えることがある。それを、他の誰でもない「あなた」に、とても伝えたいと思うことがある(場合によって、その「あなた」は、Aさんだったり、Bさんだったり、Cさんだったり、…(以下同様に続く)…するけれど)。

ただ、伝えようとするその行為自体が、相手にとって重荷になりはしないだろうか。なってしまったら、それは私の本意ではない。

そう思うと、伝えようという思いを必死で噛み殺す。内に閉じ込めて出てこないようにする。

そうしていると、ますます寂しさがつのって、寂しさと闘い、携帯電話とにらめっこしながら、眠りにつくという日も、時々あるのだ。

誰にでもあるのかな。そういう時が。

そういう時があるから、いま、こうやってこの場で日記を書いているのかもしれないと思った。


そう言えば、電話という道具は不思議なものだと思う。

公衆電話、自宅にひいている電話、留守番電話、携帯電話。使おうとする状況によって、使おうとする種類によって、心の動きが違う。かけようとする時の心の動きも、待つ時の心の動きも。特に、携帯電話が普及してからは、そのバリエーションも増えたような気がする。

「自動車電話って、最近もう見ませんよね」という話を、先日していた。


こちら(現時点で何とお呼びすればよいのかわからないので、とりあえず「こちら」と書いておく)が再開された記念に、こちらもお祭りを開催して、タイトルを「ふうもんー」としようと思いかけたが、気がついたらお祭りが終わりに差し掛かっているようだ。一時的に「ふうもんー」にしたらどうだろう。少し印象が変わるかもしれない。

ちなみに、いつぞやの日記に(かなり前なのでいつなのか忘れた…今年の初めくらい)、「この春の夢はお祭りに行くことで、この夏の夢は海を見ること」と書いたが、とりあえず「お祭りに行く」方は実現させた。1人でふらふらとお店を見て回り、「ままごとセット」を買った。長さ5cmの「おたま」、高さ7cmの「カクテルグラス」、どちらも50円。


寂しさを感じる一方で、私は生きているのが好きだー、と思う。いっぱい、つらいこと悲しいこと疲れること苦しいことがある。それでも、生きているのが好きだなーと。

ありがとうございます、と伝えたい。


ここまでをさっき書いていた。ここから、追記。

家族の使っているパソコンの調子がおかしくなってしまっている。1週間ほど前から。家族で最もパソコンの操作ができるのは私なので(そしてその私も、そんなに大したことができるわけでもない)、私が対処するしかない。

そこで、メーカーのメールサポートに状況を詳しく書いて説明し、回答をいただき、さっき、上の日記を書きながらもう1台のパソコンを横に置いて、その通りに実行してみたのだが、メールに書いていない現象が発生してしまった。この先、どう進めば適切で、かつパソコンにダメージを与えない操作ができるのか、さっぱりわからなくなってしまった。

ならば電話でリアルタイムで状況を説明して助けを求めようとサポートセンターに電話したものの、混雑していてつながらない状態が2〜3時間。やっとつながったと思ったら「30分以上お待ちいただきます」というアナウンス。ここまで来たら30分以上待ってやろうではないかと、電話機を横において待っていた。とは言っても時間的にも状況的にも何をしていいのかわからないので、「しばらくお待ちください」のアナウンスがかすかに聞こえる状況で知人に手紙を書いていた(メールではない。紙の)。

結局50分後につながり、状況を把握し、対処法を聞き、納得し、適切に終了してみたら、こんな時間になってしまった。ちなみに現在午前4時30分。

以前はけっこうこのような無茶な生活もしていたのだが、最近は午前1時頃には眠るようにしていたのだが、…えっと、あのぅ…、意図的に夜更かししたわけではないので、この後、どうしようか途方に暮れている。

とりあえず、机の上を片づけて、手紙も終盤に差し掛かっていたので、書き上げて、明日(もう「今日」だな)郵送することにして、…素直に寝よう。

夜更かしするつもりじゃなかったんだってばー。ただ、その問題を起こしたパソコンを放っておけなかったから何とかしたかったというだけ…。

(2004/06/18,AM4:30 追記)


2004年06月09日(水) 陽のさす方向

つい最近、「つらさや苦しさを心に抱えながらでも、(中略)同時に陽のさす方向を見続ける人であることを願います」との言葉を私に下さった方がいる。ありがたいと思う。

私は、どうしようもなく落ち込んだり、どすんと闇の中に落ち込んだりすることもある。特に私は感情の振れ幅が割と大きいという気がする(何となく、だが)。けれど、つらさを抱えていても陽のさす方向を見続けていることは可能かなと思ってはいる。たとえるならば、ぶっ倒れて一歩も動けなくなって寝転がっているしかない状態でも、視線はいつも空に向かっていて、いつかあの空に向かって飛び立とう、という感じに近い(我ながら、何だか、こんなたとえは、あまりにもドラマチックで照れるが…)。

同時に、あくまで私自身のために陽のさす方向を見続けていたいものだと思った。

つまり、「陽のさす方向を見続けている人である」と、他の人に思われたいから、そのような心持ちになって、そのような生き方をするのでないということ。私が、私自身のために、私の陽のさす方向を見続けていたいということ。

そのためには、他の人の生き方もじっくり見て、聴いて、触れて、全身で受けとめたいと思うのだ。気の利いた言葉ひとつなくてもよい。そういうかたちもあるね、と。それでこそ、私の太陽もより明確になってくるであろうし、私が私の太陽に向かって一歩を踏み出せると思うのだ。そういう一歩を積み重ねることができたなら、今はそれでいい。

明朗活発な人に見られなくてもいい。時には人前で泣いたり怒ったりすることもあってよい(子どもの頃から「明朗活発」とは程遠い人と見られがちだったので、明朗活発で愛想がよくていつも笑顔でよく気の利く人だと見られたかったのだ←ちょっと欲張りすぎ)。ただ、私の目指す方向へと、歩んでいきたい。周りを気にせず、しかし大切に見ながら。

「私の太陽」という言葉も、使っていて、すごくすごく恥ずかしい…。


2004年06月06日(日) まとめて3日分。

とりあえず書きたかった3日分のことを自由に書こう。


6月4日(金)

いつも疲れ果てて動けなくなってしまう金曜日だが、意外に元気であったので、お昼少し前に美容院に行き、髪を切ってもらい、ほとんど落ちていたパーマをあてなおしてもらった。私はあまり、細かいこだわりがないので、「あまりこだわりがないので、よくわからないので、手入れが楽で、それなりに見えて、今のイメージをあまり崩さない髪型にしてください」と、思っていることを思っているまま伝えてみた。結果、あまりイメージは変えないままで、夏なのでちょっと軽めにしてもらった。

その後、100円ショップで文具類をばたばたと買い、電気屋さんで必要物をばたばたと買い、出先へ。と言っても、本来出席すべき用事はすべて終わっていたけれど。

信頼できる人に現在の状況を伝えると、「無茶な行動で伝えようとする前に、まず、思っていることをどんな言葉でもいいから言葉で伝えてみよう」とのこと。その他いろいろ。

その後、先生のもとへ。あまりにも直接顔を見せない時期が続いていたので(メールでのやり取りは必要に応じて時折ある)、直接顔を見せておける時にお会いしておくのがよいだろうと考えての判断。あなたなりのペースでやっていってかまわない、とのアドバイスをいただく。そして、私がこの道をゆっくりとでも歩み続けていていいのだとの安心感を得ることができた。そのための手がかりも折りにふれていただいている。本当に感謝という言葉では足りないくらい感謝している。

信頼できる先輩にもお会いする。いろいろお話する。私には、まだやりたいこと、私の方法を使って成し遂げて伝えたいことがたくさんあるのだった…と確認させていただく。「恐らく、また、机をがっと引っくり返しそうな勢いでお話することがたくさんあると思います」とお伝えする。

同僚たちの前で「虫歯予防デーだね」と言うと、一人の同僚から「それ、さっきから3回くらい聞きました」と言われ、あれ?と思う(う〜ん。ぼけてる)。


6月5日(土)

虫歯予防デー翌日。歯は大切に。

手入れをしないと、前日かけたパーマは鳥の巣のような頭になってしまうことが判明。

特に何をしたわけでもなく、休み休みながら、もっぱら提出物採点にいそしむ。書き込みをしながらなので、赤ペンのインクがものすごい勢いで減っていく。次に買い物に行った時にもう少し替え芯を買っておかなければならない。

「告知 −外科医自ら実践した妻へのガン告知と末期医療」(熊沢健一著、2004年、PHP研究所)(詳細)を読んだ。というより、1度読み出したら止まらなくなってしまって、結局最後まで読んでしまったという感じで、最近はこんな感じで読んだ本は少ない。

「ねえ 世の中にある かたちあるものに 永遠なんてないよね。
あるとしたら もしかしたら かたちのない「思い」だけなのかも しれないよね」

(「Golden child (2) 」(碧也ぴんく、1996年、新書館(Wings comics))(詳細)より)

なんだか、そんなことも考えながら、読んでいた。

落ち込んだりどん底になったりしても、毅然としていようと思う。今の私には、伝えたいことがたくさんある。やりたいこともたくさんある。どういうふうに?というのはひとまずおいておいて、その思いだけは絶やすまいと思う。それに加えて、少しずつそれを周りの人に伝えていくのも大事だと教えてくれたあなた、どうもありがとう。 ←実はすごく私信です。ありがとうね。


6月6日(日)

昼寝中、すさまじい夢を見た。以下夢の内容。

仲間数人と、遊びに行こうと、いつも私が普段乗っている電車に乗った(これは、現実でも私が普段乗っている電車)。各駅停車ではない電車だったが、その途中に、A駅とB駅があって、そこは10〜15分くらい停車しない区間である(これも現実と同じ)。その区間内で、途中、何だか妙な音がした。しばらくしてみると、なんと、電車がこれまで進んでいた方向とは全く逆の方向に走っていたのだ(ここからはさすがに現実にはあり得ない)。と言っても、割と自然の多い区域なので、本当に逆走しているかどうかわからない。というか、そんなことあり得ないはず。仲間と「これ、逆走してる?」と恐怖心に駆られながら言い合うのが精一杯だった。

B駅に向かっていたはずの電車は、逆走して結局A駅に戻った。駅長らしき人が「ごめんなさい。でもこれでも運が良かったんですよ。前に進むと前の電車と衝突しますし、逆走してもかなりスピードを上げないと別の電車と衝突しますし、運転手さんはよく頑張りましたよ」という意味のことを言った(あのぅ…現実にはあり得ることかどうか、なんて考えないで下さい。夢の中のことですから)。

私は逆上した。「確かに身体的にも物的にも被害はこうむっていませんけど、すごい恐怖があったんですよ、あの電車の中では。それに一歩間違えば大事故じゃないですか。そんな言葉でごまかさないで下さい! それなりの責任は取ってもらいますから」と叫んだ。仲間たちもそう言った。

…はぁ。夢は夢とはいえ、疲れたわ…。

今日の分は、続くかも、続かないかも。
(2004/06/06,17:10)


2004年06月01日(火) 6月に / 買い物リスト(写真つき) / メモ(ずれ、気持ちの伝え方)

6月になった。紫陽花と雨と蛙と水色の季節になったなぁと思う(なんだ、そりゃ…)。


ふらふらと彷徨っていて、いつの間にか買い物をしていた。

右:まんが4冊。上2冊は古本屋さんで買ったもの(以前持っていたのだが、引っ越しの時にどこかにしまって行方知れずになったので買い直した)。下の2冊は本屋さんで正規の値段で買ったもの。あと、文庫本も1冊買ったが、写真には撮っていない。

真ん中:「たれぱんだ」の「メールガード」。つまり、携帯電話のメールを横から覗き見られるのを防止する役割を果たす。それから、画面の傷や汚れも防ぐ。ただ、私の携帯電話は古い型なので(「メールガード」の下、まんが本と葉書の間に少しだけ見えているのが私の携帯電話)、実は買っても意味がない。買った理由は「それがたれぱんだだったから」。携帯電話の機種を変更するつもりはない。愛着があって、絶対手離したくないのだ。というわけで「当分使い道はない」。

左:白紙の葉書100枚。表も裏も自由に使えるもの。というか、実は100枚も要らないのだけれど…。

左上:「ミニチュアワールド キャラアロマ ラベンダーの香り たれぱんだ」の外箱と本体(上が外箱で下が本体)。これも、別に芳香剤が欲しかったわけではない。買った理由は「それがたれぱんだだったから」。

上:「おーいお茶」のペットボトル(これは喉が渇くので…)。




「そよ風」に書いたことを忘れないうちにこちらにも移動させておく。

ずれ、あるいは違和感、あるいは食い違い、を感じることは何かへの第一歩ではなかろうか。「何か違う」「何か齟齬がある」と感じることから、新しい方向へ進むことができることもあるだろう。

もちろん、「似ている」「こんな部分は同じだ」と感じることから、新しい方向へ進むことができることもある。

いずれにしても、「ずれている」「何か違う」という感じも大切にしてやりたいと思うのだ。

それからもう1点。

最近、私は私自身の素直な気持ちを少しずつ周りに伝えようとしているが、方法を誤りがちでしばしば衝突している。どうしても周りが見えなくなってしまっていて、「私が」「私が」の一方的な主張になりがちになっているかもしれないということに気がついた。伝える時もその方法が適切でなくて、一方的になったり、分かって欲しいという気持ちの押し付けだったり、つっけんどんになってしまったり。

もっとも、今までは私は自分の素直な気持ちに真正面から向かいあうことすら避けてきたから、それに比べるとちょっとは進歩したかなとは思う。思うけれど、次には、それをどのように周りに伝えていくか。周りのことも見ること、周りのことも聴くことがどれだけ大切なことか。常にそれを忘れずにいたい。

「やっとここまで来た。でもまだもっと先へ行きたい」という気持ちを、最近強く持っている。今日、ある人にそのように伝えると、「欲が出てきましたね」と笑って言われた。「そうかもしれないですね」と笑って答えた。そう伝える前は落ち込んでぼろぼろだったのに、もう限界だって思っていたのに、話し終わった後は、明日か明後日くらいまでは生きていられるかなと思った。明後日になったら、また、明日か明後日くらいまでは生きていられるかなと思えるように周りを見たり、話したりということを繰り返せばいいんだ。その繰り返しの中で、それでも落ち込んでどうしようもなくなったら、眠ってしまおうそうしよう。

今は、明日明後日くらいは、生きていられると思う。体調が悪くて起き上がれなかったりもするけれど、そういう状態だからこそ見えることもあるし、今は、そう思っているという事実があるだけで私は十分に幸せだ。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)