風紋

もくじ / この前 / この後


2004年04月30日(金) デジカメを持ち歩く / 後頭部にぼーっと「ねむけ」 / 階段で転ぶ

「4月下旬から5月上旬をあらわすような風景の写真を撮りたい」というただそれだけの理由で、今日はデジカメを持ち歩いてみた。私としては珍しいことである。ちなみに私の携帯電話にはカメラはついていない。

いざ「4月下旬から5月上旬をあらわすような風景」と言っても難しいもので、躑躅?葉桜?新緑?などと考えながら歩いていた。「私の視点」「私が見たものだ」ということを大切にし、私なりに撮るものとじっくり向き合いながら撮りたいという思いがあった。しかし、何ということもないごく普通の場所(…とは一概に言い切れないと思うが)で、じっとデジカメを構えて佇んでいるということにもちょっと恥ずかしさを感じ、というわけで、…結局中途半端な写真が出来上がったような気もするけれど、それもまたそれかしら、と思う。

別に、見たものを全部撮ろうと思いながら歩いていたわけではない。そのために特別な場所に行ったわけでもない。いつも行く場所に普通に行って帰ってきただけで、いつもと違うのはデジカメを持っているかそうでないかということだけだった。しかし、いつもと違う目でいつもの行動範囲を見ることができたなぁと思う。ここにこんな草があるとか、ここをこう切り取ってみると面白いかもしれない、などと思っていた。

写真で全てを表現することはできないかもしれないけれど、それも、私自身の中にあるものをかたちにするための試みのひとつだと思う(文章を書くことも、その試みのひとつ)。

というわけで、突然だが、躑躅。





昨日と一昨日に休養を取ったとはいうものの、やはり金曜になるとどっと疲労が押し寄せるのか、後頭部のあたりに「眠気」と「だるさ」と「やる気のなさ」がふわぁんと漂っているような状態で1日を過ごしていた。人と話をしていても、口だけが動いている感じがした(今日は、あまり人と話をしなかったし、したとしても他愛のない日常の話しかしなかったが)。

季節のせいなのか何のせいなのか、疲れやすい。思うように体が動かないこと、行きたいところにぽーんと飛べないこと、したいことをぽーんとすることができないことに、もどかしさは、ある。


今日の夕方、自宅の階段を踏み外して転んだ。もう1段あるのに気がつかず、もう階段は終わったつもりで足を動かしたら、実は階段がもう1段あって、結果的に転んだ、と。今の家の階段で転んだのは初めてだ。

いたい…。と一瞬思ったが、今はそれほど痛くない。右腕に少しだけ擦った痕が残ったのと、あと足を打って色が変わったくらい。

しかし、この日記の最初の日も、転んだことの記述からはじまってるなぁ。単に私がおっちょこちょいなのか、転んだから珍しいと思って日記に書くことが多いのか。


2004年04月29日(木) 今日あの場所では / コンビニエンスストアでコピー / 飛行機雲(見えないが)

今日、恐らくはあの場所で、あの方々は、どうしていらっしゃるだろうか、どのような思いでいらっしゃるだろうか、と考えながら、1日を過ごしていた。

…こんな曖昧な書き方ではいけないな。具体的に書く。知人の法要が、今日行われたらしいのだ。親族の方のみで行われるとのことだった。私は、今日行われるということを伺っただけで、出席してはいないのだけれど。

「出席しなくてもよい状況であって良かった。周りの目を気にしないでひとりで存分に悲しめるから」と思う一方で、たったひとりで悲しむのも、それはそれで苦しいこともあると思ったりもしていた。


月曜は休養、火曜は外出して予定以上によく仕事をし、水曜は起き上がれないくらい疲労していたので自主的に休養して、で、今日(木曜)。

今日も休養にあてるつもりだったが、予定以上に仕事ができた(少しずつで、しかも寝たり起きたりしながらだったけれど)。

夕方、近所のコンビニエンスストアまでコピーに行った。

少し枚数が多いので、とりあえず300円入れて、1枚目をコピーし始めたら、中学生くらいの女の子が2人連れで来て、小さい声で「あ」と言った。どうやらコピーを使うつもりらしいと気がついて、「私、コピーするのに少し時間がかかるかもしれないので、先に使いますか?」と声をかけてみた。「いえ、いいです。待っています…」とのことだったので、なるべく早めに終わらせようと思いつつ、先に使わせてもらうことにした。

よく考えると、確かに突然知らない大人から「先に使いますか?」と聞かれるとびっくりするかもしれないなぁ…と思いながらコピーをしていた。その間、女の子2人は、隣にある雑誌のコーナーでいろいろな本を見ていたようだった。

やっと終わったので、「終わりました。どうぞ」と声をかけると、「ありがとうございます」とのこと。で、私は退散して雑誌のコーナーへ。2人で「後であれもう1回見ようね!」と言っているのが聞こえたので、待っている間もそれなりに楽しんでいたのかもしれない。

面白い雑誌がないかなーと思いながら雑誌コーナーにいると、女の子のうちの1人が「あの、これ、1枚忘れてます」と声をかけてくれた。…サイズが半分のものを1番最初にコピーしたから忘れちゃったんだな。「ありがとう」と言って受け取った。助かった。どうもありがとうね。

そんなこんなで、コンビニエンスストアに入った時はまだ明るくて西の空が朱色だったが、出た時は薄暗くなっていた。


そんなこんなで、寝たり起きたり、家にいたり外出したり、仕事をしたりしなかったりしているが、とりあえず部屋が荒れ放題の現状を連休中に何とかしたいと思う。


突然だが、飛行機雲(見えるかなー。見えないなー。左下から右上(画面右端の中央部)にかけてすうっと…見えないか。やっぱり。とほほ)。



2004年04月26日(月) 郵便物を送る / バナナジュース / 花束

「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ旅立った友人」のご家族に、お手紙を書いた。そして、大きめの封筒に、お手紙と少々の書類と小さい冊子を入れて、郵便局からお送りした。

郵送料は390円でした。


お風呂に入っている時に、「バナナジュース作ったよ。できたよ」と家族が声をかけてくれた。色が変わるから早く飲もうよ、と。

…う〜ん。でも私はお風呂の中。

考えた挙句、湯船でのんびりと体をあたためながら、バナナジュースをのんびりと味わった。

…なぜか、ワイングラスで(なぜだ?)。


演奏会が終わった。

もともとかなり体力の必要な曲目構成だったうえに、数日来の体調不良も重なってぼろぼろだったので、「本番で最後まで倒れずに楽しめたら良いな」くらいの気持ちで臨んだ。耐えられずに、本番の2時間ほど前に頭痛薬を飲んだのだが、効いたのかどうかよくわからない。

全体としての出来はどうだったかよくわからない。私としては、ずっと演奏してみたかった曲を今回演奏できたので、嬉しかったのだけれど、反面、“こんな時に…”という後悔が残ったというか…もっと練習したかったけれど、今の私にはこれがいっぱいいっぱいだった…。

しかし、本番は精一杯の思いを込めて演奏したので、その意味では後悔はない。

アンコールで、お客様から自然と手拍子をもらえたのが一番嬉しかった。

下の写真は、大切な大切な友人からもらった花束。大切な友人なのに、彼女は何にも悪くないのに、なぜか私は“会えない”という気持ちになってしまって、長い間連絡を取れずにいた。最近、ふと“今なら会えるかもしれない”と思うようになった。1週間前という直前に案内を送ったのに、来てくれた…。嬉しかった。

音楽、大好きな人達、愛している街、愛しているあの海、そして「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ旅立った友人」への思い。それらが、少しずつつながりはじめているように思う。

では、何をどう形にしよう? どう動こう? …少しずつ考えながら、動こう。




注:花瓶は、たまたま家にあったものです。


2004年04月10日(土) Turning Point

メモ程度に、どうしても書き残しておきたいという気持ちだけで書き残す。


今日という1日は、私自身にとって1つのターニングポイントになるだろうという覚悟をして家を出た。家を出ないという選択もあったが、私は家を出て目的地に向かうことを選んだ。かなりの覚悟。私にとって良い方にも悪い方にもどっちにも転ぶ可能性があった。大げさかもしれないが、生きて帰ることができるかどうかわからないけれど絶対に生きて帰るという覚悟を決めて家を出た。

目的地まで、最初はいつもの通りに、ほけほけと歩き、電車に乗っていた。目的地が近づくにつれて、だんだん緊張感が高まっていった。普通に歩いていると、何でもない風景が“心のアンテナ”に引っ掛かって涙が出そうになっていた。スーパーの風景。何気ない道路。だから、できるだけ頭を真っ白にして歩くように心がけたが、そうすると、“今日しか見られないもの、今日しか感じられないもの”を得るチャンスを自ら手放すことになってしまうし、…と思うと、本当にわけがわからず歩いていた。


ここが公開の場であるという関係から、そうなるに至った詳細はちょっと省略させていただく。まだ、私自身が“それ”を言葉にして発信できる段階にない、ということもある。

結果的には、良い方向に転んだ。

嬉しかった。こんなに私自身の素直な気持ちを話したのは初めてだったように思う。その証拠に、私、すごく大声で喋ってしまっていたから。うまく言葉にできなくて、黙り込んでしまって、もどかしくて、知らず知らずのうちに、右手で左腕を何度も叩くということを数秒続けたり(状況説明が難しいが、「包丁で野菜をすとすとすとと切るような感じで」)、喉元に右手を置いたまま数秒佇んだりといったこともしていた。それでも、皆、話を聴いてくれた。そして私も、皆の話を、それぞれの人の眼をまっすぐに見つめながら聴くことができた。

私は今までずっと泣けなかった。素直な気持ちを“気のせい”として押し込めてきたこともあった。けれど、泣きたい時に泣くことはとても大事だと思う。泣く理由が何であれ。

そして、外から見て「泣いている」という状態になくても、「心の中で泣いている」という状態があるということを、今日、気づかせてもらった。

「推測でしかないんですけれど、あなた、今、心の中ではすごく泣いているんだと思いますよ。これまで泣けなかった数年間分を、今、泣いているんだと思いますよ」という言葉をもらって、図星です…と思って、その時だけ、ちょっとだけ、じんわりとほんとに涙が浮かんだ。いろんな感情がないまぜになって。でも、一方ではとても穏やかな気持ちだった。

あくまで比喩なのだが、やっと、ここまで来ることができた。しかし、まだ先に行きたい。絶対に行くんだ。


2004年04月06日(火) そわそわ / 桜の終わりからはじまりが。

世の中は4月1日、あるいは今週の初っ端(つまり昨日)から本格的に始動という場合が多いのかもしれないけれど、私の場合は、どうやら来週あたりから本格始動という感じになりそうである。

しばらくの間、冬眠状態にあったので、果たして4月からの生活をうまく回していけるのか、全く自信がない。そして「冬眠状態」の間にしようと思っていたことも、結局は全部できなかったなぁ…と思うと、もう少し冬眠していたいと思ったり、残りわずかな冬眠期間(?)の間にできるだけのことをしてしまおうと焦っていろいろ動き回ってみたり…と、落ち着かない時間を過ごしている。そうこうしているうちに、ばたんと横にならざるを得ないほど疲労することもあり、“あぁこれじゃ、来週から絶対うまくやっていけないよぉ。身体が持たないよぉ”と嘆いたりもして。

…「『うまく』生活を回していこう」としなくてもよいのだろうとは思う。端から見ていて美しく颯爽としてきびきびとしていれば恰好いいし、可能であればそうできればいいんだろう。けれど、端から見てどうこう、というのが必ずしも重要とは限らなくて、大波小波(時には津波)、波瀾万丈、試行錯誤で迷走状態、七転八倒転んで倒れてを繰り返していても、要は息をするのをあきらめなければよくて、生きていればそれだけでいいのだと思う。

…思うのだがなぁ…。“なんとかなるさ”と必死で言い聞かせるのだが。

何はともあれ、身体をこわすと話にならないので、完全無欠を目指さなくても、周りの助けを借りたり、うまく手を抜いたり(悪い意味でではなくて)しながら、身体だけには気をつけようと思うけれど。

…そわそわ。今のうちにあれをしておいた方がいいのかな。それもしておいた方がいいのかな。そわそわ。

と、当面しなければならないことをリストアップしていると、どうしてもパソコンを使って作業する必要があることに気がつき、パソコンの電源を入れたまではよいものの、その後書類を整理しようとしたついでに、なぜかパソコンに一切手を触れずに大掃除に突入してしまったり。

…何というか、その…。

そんな1日だった。まぁ…言ってみれば、整理をした日だとも言えるけれど、…。とりあえず、大掃除レベルにまではならなくても、普段よく使う場所を使いやすく整理することはできたかな。

私にとって春は嬉しい季節であると同時に、つらくて怖い季節でもある。「つらくて怖い」のは現状の私から見てそうだというところもあるし、以前の春の記憶を思い出した時にそうだというところもあるけれど。それでも色あざやかに花が咲き始めるのを見たり、空気が少し穏やかになってきたのを感じたりするのは、好きだ。

そういえば、れんげ畑にいきたいな。

ということで、日記も書いたり書かなかったり、ぴとっと止まったりするかもしれないですが、たまに気にかけていただければ幸いです。…なんだかんだと言って、寂しがりなのだった…。


下の写真は、昨日のお散歩の時に撮った写真の1つ。散り落ちた桜の花。

咲いているのも桜なら、散り落ちたのも桜。いずれこの花はどこかへ飛ばされ、花の形もとどめずに花びらに分かれて、誰も知らないところに行くのだろう。そして花の盛りが過ぎれば、桜の木は、桜の木であるということを忘れられてしまうだろう。

それでも「終わり」ではないと思いたい。一見「終わり」と見えるものから「はじまり」もあると思いたい。

関係ないが、しゃがみこんで、ひたすら地面に向かってデジカメを近づけている私の姿は、通行人から見るとさぞ不審だっただろう。…まぁ、いいや。





写真の見やすさなどは今後試行錯誤します。


2004年04月05日(月) おさんぽ。

お昼過ぎ、郵便局に行く用事と文房具店に行く用事を兼ねて、少し近所を散歩してみた。

よいお天気。室内にいるよりも外の方が絶対に暖かい。暑いくらいだった。お財布と携帯電話とデジカメだけを小さい鞄に入れて、気の向くまま、ふらふらと歩いていた。

「小学生の時はよく来ていたけれど、今はほとんど行くことはなかった」という方面に足をのばしてみた。変わったような、変わっていないような。

昔、よく遊んだ公園がすっかり寂れた様子になっていたのには驚いた。もともと遊具の少ない公園ではあるものの、昼間なのにこんなに人がいないのにも驚いたし、恐らくそれは今日だけのことではなくて、以前からそうだったのだろうという感じがしたのにも驚いた(「以前」がどのくらい前なのかもわからないけれど)。

コンビニエンスストアで缶コーヒーとフラン(お菓子)を買う。ここ、以前からコンビニエンスストアだったかな? …忘れた。

文房具屋さんには、普通の白い便箋を買いたくて行ったのだけれど、小さい文房具屋さんだったので、ほとんど1種類しかなかった。名前も知らないキャラクターのレターセットはたくさんあったのになぁ(しかも、何となく「一昔前のキャラクター」という感じの…)。主なターゲットが小学生なのかな。もちろん、普通の文房具の品揃えもそれなりだったものの…。お客さんは誰もおらず、おじいさんが1人で店番をしていたので、何となく居づらかった(ちなみに帰ってから家族に聞いてみると「あそこは大抵あんなものだよ」とのことだった)。便箋と、とあるキャラクターのシールを買った。ちなみにシールは半額だった…。

保育園の近くを通りかかった。保育園のすぐ隣で電話工事をしていた。何かしらの遊具にのぼっていた子どもが、「おじちゃん電話の工事してるの?」と、電柱にのぼっている作業員の方に話しかけていた。

幼稚園では子どもが駆け回っていた。小学校は静かだった。

…変わっていたような、変わっていなかったような。ただ、私がそのあたりを遊びまわっていた頃は、そのあたりは「新しい住宅」が立ち並んでいたという印象だったけれど、それなりの年月が経って、「新しい住宅街」という印象でなくて、もう少し落ち着いた感じになっていた、というところはあった。ちなみに「新しい住宅」が立ち並ぶ前は、ほとんど何もないに等しい土地だったのだと思う。

春を満喫したなぁ…と思った。たまには目的なく散歩してみるのもよいな。よい運動にもなるし(しかし、帰ってから缶コーヒーを飲んでいるので、ダイエットにはなっていないかもしれない)。

下の写真は、その時に撮った桜。他にも何枚か撮ったので、また載せるかもしれない。デジカメを持ち歩くという習慣はないのだが、たまにこういうのもよいのかな。



2004年04月04日(日) 音楽の楽しみ / 写真(画像アップロードのテストを兼ねて)

日中は、ほとんど何もせず、ひたすら横になっていた。

夜になってから、楽団の練習へ行く。

練習にぽーんと入ってしまって、音の中に居ると本当に楽しい。その音を私自身も発していて、私の音と皆の音が溶け合っていると実感するのも本当に心地良い。このままずっとこの時間が続けばいいのにという至福の時を過ごすのは本当のこと。

が、練習に行くまでは、なぜか“練習に参加するのが億劫だ”という気分が支配し、なかなか動くことができない。“練習に行かねばならない”という圧力が苦しくてならない。その圧力は周りからかけられているというよりも、もっぱら私が自らかけているものだろうけれど。

…行ってしまえば、本当に楽しんでいるんだけれどなぁ。

だから、なんだかんだと他の理由をつけて、とにかく出てしまうことにしようと今は思っている。例えば、自動車の中でCDを聴くのが楽しみだとか、桜並木を眺めるのが楽しみだとか(気をとられすぎると運転に支障をきたすので、ほどほどにしているけれど、本当に綺麗なのだ。今は)。

ただ、私の中で限界もきているので、次の一区切りがついたら、またもう1度休団の手続きを取って、実際に楽器を手にすることからは少し距離をおいてみようと思う。今度はいつ復帰できるかわからないから不安も大きいけれど、実際に楽器を手にしなくても、音楽を愛し続けることはできると思う。そう教えてくれた人がいるから、そう思えるようになったのだけれど。

音楽の愛し方や楽しみ方は、人それぞれでよいのだと思う。私の場合、小さい時から自身が演奏活動に携わってきたし(ピアノ、合唱、吹奏楽など)、今も幸運にもそのような場があるから、そのような楽しみ方をしているけれど、それが全てでもないだろう。私は演奏することによって、“いつもと違う私”と向き合うのを楽しんでいるようなところはある。それから、“いつもと違う私”を外に表現すること(私の場合、ステージに乗ることそのものがすごく好きだ)。それから、演奏のために私自身の身体を使うこと(合唱から離れてもう随分経つが、当時歌った曲の細かいニュアンスなどは頭でなく身体で覚えているところはある)。


「私は花が咲くと文章を書きたくなるらしい」というわけで、画像アップロードのテストも兼ねて、写真を掲載してみる。

文章を綴ることだけでなく、写真も面白いなぁ…と思うのは、写真1枚見ても、その人がどのような視点からどのような思いで撮影したかがわかるから、その人が何を伝えたいかが文章とは違う形でわかるなぁ、ということ。撮り手が意識しているかどうかわからないけれど、その人の“世界の切り取り方”が、わかるのではないかしら…と。

(2004年4月4日,13:10記)




お、ちゃんとアップロードされている。すごいすごい!
(2004年4月4日,その後試行錯誤を重ねて13:20記)


2004年04月02日(金) 桜にごめんなさい / 桜・残す・伝える / 鳩の足 /お茶忘れた

どうも私は、花が咲くと文章を書きたくなるらしい。

ここ数日で、ずいぶん桜が美しく咲く姿を見ることができるようになった。

「桜の木は桜の木として、年中変わらずそこにいて、桜の木なりに日々を過ごしているのに、どうしても桜の木に注目するのはこの季節だけになって、桜の木がそこにあるのを普段は忘れている」ということを、私自身が桜に対してごめんなさいと思っているのは、先日書いた通りだが、今日はもうひとつ、桜に対してごめんなさいと思った。

それは、あの桜とこの桜とその桜は「桜」という名称で呼ばれていても、それぞれ違う桜なのに、ひとくくりに「桜が咲いている」とみなしてしまうこと。ごめんなさい、と思う。

それは、例えば、私たちは「人間」という名称で呼ばれていても、それぞれの人は全く違う人で、AさんはAさんの生が、BさんはBさんの生が、CさんはCさんの生があり、どの人の生も大切だというのと似たような話で。

それでも、桜は桜として淡々とそれぞれの日々を生き、この季節にはそれぞれの木がそれぞれの花を咲かせるのは、すごいと思う。


桜について、もう1つ。

今日、携帯電話のカメラで、いろいろな角度から桜の花を撮影している人を見た。女性で、1人で。その姿を見て、いろいろと考えた。

この人の眼には、この桜はどう映っているのだろうか?

この人は、携帯電話のカメラで桜の花を撮ることで、何をどのように残したかったのか?

私の眼には、この桜はどう映っているのだろうか?

私が、この桜のことを何らかの形で残すとしたら、どのように残すだろうか? 写真で?言葉で?身ぶり手振りで?あるいはもっと違う形がある? そこから、私がこの桜のことをどのように思っているのかが浮かびあがるような気がするけれど。

そのようにして「私」が残した桜の姿を通じて、誰に何をどのように伝えることができるのだろうか?

伝えたいことは、伝わるのか?

…私によってしか残せないこと、私によってしか伝えられないことがあるということと、それは別に私に限った話ではなくて、それぞれの人が、その人によってしか残せないこと、その人によってしか伝えられないことがあるということは、それはそう思うのだけれど。


鳩の足は、健気で可愛らしくて面白い足をしている。

鳩は飛んでいることもあるけれど、歩くこともあるのだなと、当たり前のことを思った。


今日、ミーティングの時に部屋にペットボトルのお茶を持って入ったのだけれど、その部屋にお茶を忘れてきてしまった…と、思う。ちょっととんでもない場所に置いていたのと、ばたばたと退出したこともあって。

残ったお茶に未練はないが、誰か気がついて処理してくれていたらいいな…と思う。家に帰り着いてから忘れたことに気付いたんだよ…。


その時々で残しておきたいことは、ぽつりぽつりとあるものの、断片的な言葉にしかならなかったり、残す体力がなかったりして、こぼれ落ちているものがたくさんあるようにも思う、今日このごろ。

明日残してもいいんだよと頭では思いながらも、どうしても今、と思うのに、体がだるくて動けなかったり。


もくじ / この前 / この後
浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)